表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/105

61話: 雪影、剣は言葉を選ぶ

冬の会津は、朝になると空気が刃物のように冷たくなる。

 湊は政庁の一室──帳簿庫の前に立ち、吐き出した息が白く消えるのを見つめていた。


 昨日、八代から託された小さな紙束。

 その裏に書かれた一言が、湊の胸の奥にずっと引っかかっていた。


 ──『兼続様三十万石、“内六万石”』


 その意味を確かめる必要があった。


 湊は鍵を借り、帳簿庫の扉を開く。

 重い木戸が軋む音が響き、ひんやりした空気が頬に触れた。


(この違和感……ずっと気になっていた)


 “直江兼続 30万石”。

 それは上杉家中で誰もが知る常識のように扱われている数字だ。


 だが──

 湊のいた世界なら、その数字は“実際の支配高”であるはずがない。


 法学部で学んだ“権限と実権の乖離”の原則が、ずっと頭を離れなかった。


 湊は帳簿を開き、数字を追い始める。


 


 ──六万三千石。

 ──一万五千石。

 ──八千石。

 ──三千石。

 ──千三百石。


 


 視線が動くたび、湊の胸の奥が静かに熱を帯びていく。


(……やはり、おかしい)


 兼続の“30万石”とされる部分が、細かな数字に分割されている。

 そしてその大半が“与騎”“寄騎”“家臣家の知行”として割り振られていた。


(“兼続領”とされているのは……名義だけだ)


 すぐに結論に辿り着いた。


(兼続様が直接支配しているのは──実質六万石前後)


 湊は小さく息をのみ、指先を握りしめた。


(つまり……“兼続30万石”というのは、

 兼続様に集められた家臣団全体の名目であって、

 兼続様が自由に使える石高ではない……)


 この構造は、現代で言えば──


(課長の名義で部下の予算を全部まとめているようなものじゃないか……)


 名ばかり“30万石”。

 実際は、六万石で30万石の責任を背負わされている。


 この歪みは、湊が想像していたより深かった。


(これでは……会津に来てから財政が回らないのも当然だ)


 そして、もう一つ。

 ずっと胸に刺さっていた疑問が、答えに変わる。


(越後からの年貢“無断持ち出し”……

 あれは、横流しではない。

 兼続様が“堀家へ渡るのを嫌がった”という話ではない……)


 帳簿を閉じ、湊は静かに呟いた。


「……越後に、未練があったからじゃない。

 会津の財政が、本当に危なかったんだ……」


 そのとき。


「湊。……いたのか」


 背後から声がした。


 振り向くと、八代が立っていた。

 寒さで頬が赤く染まっている。


「調べていたのですね。兼続様の“30万石”を」


「八代……やはり君も気づいていたのか」


 八代は頷いた。


「気づいている者は少ない。

 しかし、帳簿を扱う私のような者には、どうしても目につきます」


 湊は深く息を吸った。


「兼続様は……“六万石で三十万石を守っていた”。

 だから越後の年貢に手をつけた。

 会津の負担に耐えきれなかったんだ」


 八代の目が静かに揺れた。


「湊殿。……それを殿にどう伝えるつもりですか?」


「正面から話すしかない。

 でもそれでは──兼続様の立場が危うくなる」


「はい。家中は混乱します。“兼続の失策”と見なされれば……」


 八代は言葉を切り、低く続けた。


「湊殿。

 あなたは、“事実を言えば正しく伝わる”と思っていますか?」


 湊は一瞬、息を止めた。


 八代は穏やかに微笑んだ。


「兼続様は、越後九十一万石への未練もある。

 家臣団の半分は越後出身。

 会津は狭く、寒く、金がかかる。

 “左遷”と陰で言う者も少なくない」


 八代の声は静かだが、雪解け水のように冷たかった。


「その中で、六万石で三十万石を支え続けた男です。

 会津財政の歪みを、一人で受け止めてきた。

 私は……責められるべきではないと思う」


(……八代)


 湊は胸の奥が熱くなった。


「だからこそ、湊殿。“あなたが言うしかない”」


「俺が……?」


「はい。

 あなたは武断派でもなく、越後衆でもなく、会津衆でもない。

 どこの派閥にも属さない。

 だからこそ、言えることがある」


 湊は拳を握った。


(俺だけが……言える)


 法を作ると宣言した者。

 景勝から“政”を任された者。

 そして、歴史を遠くから見てきた者──湊。


八代は続けた。


「ただし湊殿、これは“兼続様の失策”として伝えてはなりません。

 “制度の問題”として伝えるのです」


 湊の目に光が宿る。


「……制度の問題、か」


「そうです。

 兼続様個人ではなく、“会津120万石という巨大領国の構造”。

 制度が未整備のまま領地が広がりすぎた──

 そう伝えれば、兼続様を傷つけずにすむ」


(制度で説明する……それなら、俺にできる)


 そのとき。


「湊。八代。……揃って何をしている?」


 背後から低い声が響いた。


 二人が振り向くと、そこには──


 曽根昌世が立っていた。


「湊。お前の顔つきが変わったな。

 何か“見つけた”顔だ」


 曽根は湊の手元の帳簿に目を落とす。


「ほう……兼続の三十万石か。

 あれは“名目でしかない”ことに気づいたか」


 湊は目を見開いた。


「曽根殿……あなたも?」


「もちろんだ。軍略家は兵糧を読む。

 兵糧が読めぬ者に、軍は預けられん」


 曽根の声は低いが、どこか優しかった。


「兼続様は、六万石で三十万石の責任を背負っていた。

 あの御仁が越後の年貢を動かしたのは……

 “領国を守るためだ”」


(……やはり)


 曽根は湊の肩に手を置いた。


「湊。この事実を正しく扱えるのは、お前しかおらん。

 お前は剣ではなく“条文で戦う者”だ。

 だからこそ、この歪みを正せ」


 湊は強く頷いた。


「……やります。

 兼続様を守り、領国を守るために。

 そして──この会津を、次の時代につなぐために」


 曽根と八代は静かに頷いた。


「ならば行くぞ、湊。まずは兼続様の元へ……」


 曽根が言いかけた瞬間──


 政庁の外から、慌ただしい足音が響いた。


「湊殿! 三雲です!

 大変です──“寺の別筋”、動きました!」


(……来たか)


 湊は帳簿を閉じ、三雲を見据えた。


「行くぞ。

 数字の歪みも、寺の影も──

 すべて、俺が正さなければならない」


 雪国に、朝の冷たい光が差し始めていた。


 湊の戦いは、さらに深い地点へ踏み込んでいく。

工事の二日目。山沿いを吹き下ろす風は鋭く、雪は細かく舞っていた。湯道の掘削は順調だったが、湊の胸には落ち着かない影が張り付いていた。八代から聞かされた「別筋」の存在。その気配は、雪に紛れて確実に近づいている。


(……今日、必ず何か起こる)


 そう感じながら現場を歩いていたとき、ふと視界の端に奇妙な跡が映った。


 雪の上に残された一対の足跡。

 歩幅は一定、深さも揃っている。重心が前に流れず、左右のぶれもない。

 湊は息を呑む。


(……昨夜の足音と違う)


 そこへ曽根昌世が近づき、湊の視線を追って跡を見た。その瞬間、曽根の眼が鋭く細められた。


「……湊。これは寺の浪人どもの歩き方ではない」


「違いが分かるんですか?」


「分かるさ。武田で散々、足軽から侍大将まで歩法を叩きこまれた。これは――長年鍛えた“剣の足”だ」


 曽根はしゃがみ込み、雪を払いながら低く続けた。


「深すぎず、浅すぎず。重心がぶれん。北条か、上野か……いずれにせよ相当の遣い手だ。寺が雇える類ではない」


 湊の脳裏に、一つの影がよみがえる。


(……背筋のまっすぐな浪人)


 分湯で民家を回っていたとき、通りすぎた人物。雪の中でも異様に姿勢が美しかった男。あのときは深く考えなかったが──今なら分かる。


(あれも、“剣の足”だった)


 曽根が立ち上がる。


「湊、気を引き締めろ。寺の背後に、別の“力”がある。武田の兵でも、北条の遺臣でもおかしくない」


「……狙いは、湯道ではない可能性もありますね」


「そうだ。お前を狙っても不思議はない」


 自分を、か。

 湊は一瞬だけ息を飲んだが、すぐに胸の内の不安を押し殺した。


(大丈夫。俺は一人じゃない)


 そう呟いたときだった。


 風の向こうから、足音がひとつだけ響いてきた。雪を踏む音は異様に静かで、近づけば近づくほど周囲の気配が明瞭になる。

 三雲と名古屋が同時に腰の刀に手を添えた。


 やがて雪煙の中から、ひとりの男が姿を現した。


 背筋は真っすぐ。


 肩の線も美しい。


 歩きは遅いのに、一歩ごとに距離が縮まるような圧がある。


 その目は、剣に生きた者が持つ鋭さを秘めていたが、それ以上に「知性」の光があった。


 湊は確信する。


(……この人だ)


 男は湊の前で静かに立ち止まり、深く礼を取った。


「初めてお目にかかります。上泉──泰綱と申す」


 名乗りの瞬間、曽根が息を呑んだ。


「上泉だと……? 信綱殿の家か」


 湊は名を知っていた。

 会津一刀流の開祖。北条の遺臣であり、剣豪中の剣豪として名が残る人物。


 その本人が、湯道の現場に現れた。


「……寺に雇われて来たのですか?」


 湊が問うと、上泉は首を静かに振った。


「いや。寺から声はかかった。だが、あれは戦でも祈りでもない。汚れた金で雇われる戦は、武士の道を外れる」


 声は柔らかいが、芯があった。


 そして湊をまっすぐ見つめる。


「私が興味を持っているのは、あなたです。

 政を行い、“法”で人を守ろうとする若者が会津に現れたと──聞いた」


「……誰から?」


 上泉は薄く笑った。


「寺の僧が噂していました。『天下にも聞こえる若造が出た』と」


「悪口じゃないですか!」


 名古屋が苦笑したが、上泉は静かに続けた。


「だが私は違う印象を受けました。

 湯を分け、民を救い、寺にも屈せず……剣ではなく“言葉”で戦う者がいる。

 そのような人物に仕える機会は、二度とないと思ったのです」


 湊は息を呑む。


「……仕える?」


「はい。私はあなたの“剣”となりたい」


 三雲が驚愕したように目を剥いた。


「お、おい……会津一刀流の上泉が、湊に仕えるってのか?」


 上泉は湊の目を見たまま言う。


「戦国は終わろうとしている。

 これからは“治める者”が強い。

 その時代に必要なのは、武よりも法。

 あなたは──その先頭を歩いている」


 湊は言葉を失った。


 剣豪に褒められるような人間ではないと思っていた。

 ただ、できることをしているだけだと。


「……僕は剣を振るえません」


「だからこそ支えたいのです。

 剣しか持たぬ者の最後の務めは──

 “次の時代を開く者を守ること”。」


 その静かな宣言に、曽根でさえ深く頷いていた。


「泰綱殿。湊は、まだ若いが……信じるに足る男だ」


「ええ。歩みを見たとき、そう感じました」


「歩み、ですか?」


「はい。昨日の工事場を見ていて、気づいたのです。

 誰の後ろ姿より、あなたの歩きが一番“迷いがない”。

 人を率いる者の歩き方でした」


 湊は顔が熱くなるのを感じた。


 そんなことを言われたのは初めてだった。


「ただ……仕官する前に一つだけ、伝えておきたいことがあります」


 上泉の顔がわずかに曇り、声が低くなる。


「越後が揺らいでいます。

 年貢の出し手が変わったことを不満に思う者がいる。

 そして──“堀家に年貢が行っていない”という噂も」


 湊の心臓が大きく跳ねた。


(……ついに表に出たか)


 越後の年貢無断持ち出し。

 兼続の越後未練。

 一揆の火種。


 すべてが、ゆっくりとだが確実に動き出している。


「湊殿。あなたが動かなければ、越後は燃えます」


 上泉の言葉は、雪より冷たかった。


「……分かっています。止めなければいけない」


「そのために、私の剣を使ってください」


 その言葉は、決意の刃だった。


 湊は深く息を吸い、静かに頷いた。


「ありがとうございます。……力を貸してください」


 上泉泰綱は、満足そうに微笑んだ。


「承知しました。今日より、あなたの家臣の端くれです」


 雪の中で、ひとりの剣豪がひざまずいた。

 その姿を見て、曽根も八代も、そして三雲や名古屋も胸を打たれた。


 湊は思った。


(この人を得られたのなら……越後も、寺も、すべて乗り越えられる)


 だが同時に、胸騒ぎもあった。


 こんな人物が、簡単に会津へ来られるはずがない。

 その背後には、きっと何かがある。


(北条の亡霊か……それとも歴史のうねりか)


 湊は空を見上げた。

 雪は止む気配を見せない。


 この雪の向こうにあるのは、

 越後の不穏か、寺の闇か、あるいは──

 もっと大きな波乱なのか。


 湊の戦いは、いま確実に広がり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ