60話: 湯道の戦─法が最初の敵を斬る
会津の朝は、沈黙から始まる。
雪深い国の冬は風が弱く、音が吸われる。
人の気配すら、雪の下へ沈んでいくように消えていく。
湊は政庁脇の回廊を歩きながら、昨日の“あの足音”を思い返していた。
深夜、家の前に立ち止まり、何もせず帰っていった影──あれは偶然ではない。
(俺を見に来た……様子を探りに来たか、それとも)
思考はそこで切れた。
前方から、静かに足音が寄ってきたからだ。
「……湊殿」
曽根昌世だった。
雪の冷たさをそのまま背にまとったような武将で、表情はいつも沈着。
武田流の育ちゆえか、周囲を一瞬で見渡し、危険の匂いを嗅ぎ分ける。
だが今朝は、その目がわずかに鋭かった。
「昨夜、政庁脇の裏通りに不審な影がありました。……どなたかが、湊殿の家の方角に向かっていた」
「……見ていたのか?」
「ええ。雪に残った足跡が二筋。ひとつは街道へ戻る足跡。もうひとつは、寺の裏手へ続いていた」
湊は息を吸った。
(確定じゃないか……寺の筋が動いている)
「曽根、寺の裏手の足跡は……」
「武士の歩き方です。僧ではない」
「浪人か」
「可能性は高い。しかし、ただの浪人にはない“癖”がありました」
曽根は自分の足元へ視線を落とした。
「足が深く沈まない。重心の置き方が武田流に似ている。……恐らく、武家で体系的な兵法を学んだ者です」
「武家……」
「もうひとつ。湊殿の家の前まで来たほうの足跡は、やけに軽い。雪を踏み込む力が弱い。若いか、小柄か……もしくは“忍び筋”」
その言葉に、湊は背筋が冷たくなった。
武家と忍び。
その二筋が、自分の周りを回っている。
「寺の裏の浪人たち……昨日三雲が言っていた“複数の火薬職人”とも繋がるな」
「はい。火薬を扱う手の癖は、一朝一夕で身につくものではございません。……裏に“教えている者”がいる」
「つまり、寺に出入りする浪人は──ただの流れ者じゃない」
「はい。武田の古参、北条の旧臣、あるいは……会津の外から来た“目利き”」
曽根は一歩、湊に近づいた。
「湊殿、敵はあなたを“殺りに来た”のではありません。まだ“測っている”段階です。油断すれば、すぐに牙を剝く」
湊はわずかに目を伏せた。
「……分かっている。だからこそ、先に仕掛ける」
「分湯の工事か」
「ああ。寺より先に湯を動かす。それが、この国の“最初の線引き”になる」
曽根の口元に、微かに戦場の匂いが走る。
「ならば、私も動きます。三雲殿と名古屋殿だけでは足りません。寺が妨害に出る可能性が高い。……警護が必要です」
「曽根、お前に頼んだわけじゃ──」
「頼まれておらずとも、私は動きます」
曽根の語気は静かだが、その中に確固たる“武士の意志”があった。
「湊殿。あなたは“制度の武器”を持つ者。あなたが倒れれば、上杉の未来は途切れる。……殿も兼続様も、それを分かっている」
「……!」
「武士が守るべきものは主だけではない。
“次の時代”を作る人間もまた、守るべき存在です」
その言葉は、湊の胸に深く刺さった。
戦国で生きる武将の価値観。その核心だった。
「曽根……頼む」
「はっ。お任せを」
曽根が一礼しようとした瞬間、番屋のほうから足早の音が近づいてきた。
三雲だ。
「湊、曽根! ……妙なもんを見たぞ!」
「妙なもの?」
三雲は息を荒げながら、懐から“布切れ”を取り出した。
小さな布。だが、端に焦げ跡と黒い粉。
火薬の匂いが微かに漂う。
「寺の井戸の脇に落ちていた。……これは、昨日の木片と同じ匂いだ」
「また火薬か」
「しかも“武州の火薬”だ。奥州の火薬じゃねぇ。細工がきれいすぎる」
曽根が布を指でつまみ、じっと見つめた。
「三雲殿、あなたの目は確かだ。……確かにこれは、奥州の手ではない」
湊の心臓が跳ねた。
「武州……北条筋か?」
「あるいは――もっと南の、違う筋かもしれねぇ」
三雲の声が低くなる。
「湊。寺の裏にいる浪人たち……あれは、単なる流れ者じゃねぇ。“金で動く戦の専門家”だ」
「……傭兵か」
「傭兵。それに近ぇ連中だな。火薬を扱い、忍びと繋がり、寺に付く……妙な組み合わせだ」
曽根が静かに告げた。
「湊殿。これは“湯の争い”では終わりません。
寺の背にいる者は、会津の“武”を探っている可能性がある」
「俺を見に来た影。寺の火薬。外の者の流入……」
「全部つながっていく」と三雲が言う。
湊は深く息を吸った。
(寺は湯を奪いに来たのではない……会津そのものを探っている?
なら、分湯は“会津の武力”を測る踏み台にしかならない)
「曽根、三雲。……明日の工事は予定通りだ。だが、警戒を三倍に増やす。名古屋にも伝えろ」
「了解だ」
「承知した」
薄闇の中、三人はそれぞれ別方向へ散った。
だが、湊の胸中にはひとつの確信があった。
――明日の分湯工事で、必ず“敵”が動く。
寺か、浪人か、それとも背後の“誰か”か。
いずれにせよ、雪の下で動く影たちは、静かに湊の喉元へ迫っていた。
(来いよ。逃げねぇから)
湊は雪を踏みしめ、政庁の奥へと歩き出した。
翌朝。
まだ夜と朝の境のような、淡い青が雪に沈む時刻。
湊が番屋に姿を見せると、すでに四人が待っていた。
「……遅いぞ、清原」
腕を組んでいた曽根昌世が、じろりと湊を見た。
その隣で八代が苦笑している。
「曽根殿、湊はまだ若い。雪で足が取られたのでしょう」
「戦では“遅れ”が死を招く。理由は関係ない」
湊は頭を下げた。
「申し訳ありません。準備に少し手間取りました」
「謝るな。……で、寺は動いたのか?」
「ああ、すでに」
湊は地図を広げ、灯火の下で確認した昨夜の情報を示した。
「寺の僧が村の入り口で“湯道工事は神仏を軽んじるものだ”と説いています。浪人が三人。その背後に別の目があります」
八代が続ける。
「昨夜、地侍が寺に呼ばれました。“祈りの湯を守れ”と吹き込まれているようです」
三雲の表情が険しくなる。
「寺が本気で争う気だな。湯を押さえれば民心を握れる」
名古屋が薄く笑った。
「湯は祈りより強い、だっけ? 湊の読みどおりだ」
曽根が短く言った。
「では工事を急ぐ。民心を寺に奪われる前にな」
「はい。寺の理屈が根づく前に民の身体を温める。
これが勝負です」
曽根は頷き、手袋を締め直した。
「現場の指揮は俺が執る。地形を見るのは慣れている」
「人夫の交渉は私が。冬は賃金で心が動きますので」
八代が言うと、三雲と名古屋は笑う。
「湊、お前は言葉で戦え。
殴る必要がないのが一番いい」
「そのために俺らが護る」
湊は四人を見渡し、静かに言った。
「寺が邪魔してきても、まずは言葉で退けます。
血を流せば、寺の思うつぼです。……頼みます」
全員が頷いた。
まだ日の昇らぬ街道へ、五人は雪を踏んで向かった。
現場に着くと、人夫たちがすでに集まっていた。
だが、空気が重い。
理由はすぐに見えた。
黒い法衣の僧が三人。
その背に浪人二人。
名古屋が低く言う。
「来てるな、“祈りの湯”の連中」
湊は前へ進む。
「工事に何か問題がありますか?」
中心の僧が、いかにも口達者な笑みを浮かべて言った。
「清原殿。湯は神仏の恵み。政が利用するのは天道に背きますぞ」
「湯は民を救うものだ」と湊は静かに返す。「冬の会津で湯がなければ、どれだけ苦しむか」
「だからこそ寺が預かるのです。政が湯を奪えば争いが生まれる」
背後の浪人が柄に手をかけた。
威圧のつもりらしい。
その瞬間。
「やめておけ。浅はかだ」
曽根が一歩出た。
低い声だが、雪ごと空気を押しつぶす圧があった。
「浪人に守られた僧の説教が、そんなに重いと思うか?」
僧の顔が歪む。
「曽根……昌世。武田の残り火が、徳の話をするとは」
浪人が動こうとしたが、曽根の一言で凍りつく。
「下がれ」
刀に触れることなく敵意を無力化する──
“信玄の両眼”の異名が、言葉だけで証明された瞬間だった。
湊はその隙に、人夫全員へ聞こえる声で言った。
「湯は民のものだ。
寺ではなく──家族のために働くあなた達のものです!」
人夫たちの目が湊へ向いた。
「寺に聞きます。
湯道の工事費五貫文──寺は出せますか?」
僧は沈黙。
「三日間、湯が届くまで民を暖められますか?
食を与えられますか? 病を癒せますか?」
沈黙。
湊は言い切った。
「祈りには祈りの役割がある。
政には、湯を“運ぶ”力がある。
……どちらが民を救えるかは明らかです」
八代が静かに人夫へ告げる。
「始めましょう。湯はあなた達の家族を救う」
抗いようのない“現実の言葉”だった。
僧は歯噛みし、浪人を連れて退いた。
工事が始まると、空気は一気に変わった。
三雲と名古屋は警戒し、八代は人夫を調整し、
曽根は地形を読みながら的確に指示を出す。
(……これが、国を動かす第一歩だ)
湊は胸の奥で小さく呟いた。
夜。
湊が条文を書いていると、雪を踏む音。
一歩。
また一歩。
昨夜より近い。
昨夜より深い。
(来たか……)
湊は蝋燭を吹き消した。
闇が落ちる。
戸の前で足音が止まり──
静かなノック。
「湊殿。……八代です。入っても?」
「どうぞ」
八代が滑り込み、戸を閉めた。
「寺が動きます、“別筋”です。
金で動く……もっと陰湿な手です」
(ようやく本性を見せたか)
湊は灯りを戻し、静かに言った。
「八代。頼みがあります」
「何でも申し付けを」
「法を作るだけでは足りません。
“法を守る仕組み”も必要です」
八代は深く頷く。
「湊殿。これは政務ではない。
……新しい国の形を作る戦ですね」
湊は苦笑した。
「剣も槍も使えませんが……条文なら武器になります」
「湊殿の言葉は、武断派の私でも心が動く。
共に戦いましょう」
湊は確信した。
この雪国で、少しずつ──
“法が人を動かす時代”が始まろうとしている。




