59話: 法、剣を越える日
冬の会津は、夕刻になると山影が街を呑み込むように迫ってくる。
湊は政庁の一角──直江兼続の執務室の前に立った。
戸の隙間から漏れる灯りは柔らかいが、その奥に漂う緊張は鋭く張り詰めていた。
戸を叩くと、すぐに兼続の声が返る。
「入れ。……清原、来たか」
湊が静かに入ると、兼続の前には木簡や紙束が山のように積まれていた。
軍役、知行割、寺社の訴訟、宿場や道普請──上杉家の抱える問題が、紙の重みとなって迫ってくる。
「殿も今宵は執務中だ。お前の意見を聞きたい、と仰せだ」
「はい。法度案の下書きができました」
兼続は筆を置き、湊をじっと見た。
興味と、わずかな警戒が混じった目だ。
「“法”か。……清原、そなたは本気でこれを進めるつもりか?」
「やらねば国はもちません」
湊の声は穏やかだが、芯に迷いがなかった。
「いま会津は、武勇だけで動いています。武で土地を守ることはできますが……仕組みで人を納めねば、国は続きません。殿の御威光だけで治まる規模では、もはやないのです」
兼続の表情が変わる。
責任を知る者ほど、湊の言葉がもつ”危険さ”と”正しさ”の両方を理解する。
「……殿を呼ぶ。これは二人で抱える話ではない」
やがて、上杉景勝が入室した。
無言で座につき、湊を顎で促す。
「聞こう。湊、法度案とは何だ」
湊は深く息を吸い、紙束を差し出した。
「会津御法度です。軍務、寺社、宿場、治安、財……すべて曖昧なままでは争いの種となります。上杉家の弱みを突かれる前に、整えるべきです」
「弱み、か」
景勝の眉がわずかに動いた。
湊は一歩も引かず告げた。
「殿。上杉家は誠実で、戦えば強い。ですが──制度は遅れています。織豊の世が築いた手法を取り入れぬままでは、いずれ国が歪みます」
兼続が息をのむ。
だが景勝は叱責せず、短く言う。
「……続けよ」
湊は紙束の一枚を取り上げた。
◆
■第一条《軍務の明文化》
「軍役を石高ごとに明らかにします。何を備え、何日動くかを記し、家中が迷わぬようにします。これにより、遅れや不足を防ぎます」
兼続が目を細めた。
「軍令を”形”にするのか。前例は少ないぞ」
「前例がなければ、こちらが作るべきです」
◆
■第二条《寺社勢力の武装制限》
「寺社は信仰の場であって、兵を抱える場ではありません。武具保有を制限し、領民への裁断も一定の枠で行わせます」
「寺社の反発は大きいぞ」と兼続。
「承知です。ですが治外法権のように振る舞えば、必ず争いが起こります」
◆
■第三条《街道と宿場の定式化》
「街道は軍勢を動かす”命の筋”です。人夫の負担、馬の継ぎ場、荷の量──一定の定めを置きます。道が整えば兵も荷も滞りません」
景勝がわずかに口を動かした。
「……物が流れねば、軍も動かぬということか」
「はい。兵の強さより、“道が息をしているか”が勝敗を決めます」
◆
■第四条《借財と金利の規制》
「商人との貸し借りに上限を設け、利の大きさも決めます。利息の膨れ上がりで国が崩れた例は数知れません。財は兵より先に守るべきです」
兼続が深く頷く。
「……神指城の普請でも、費用は悩みの種であったな」
◆
景勝はしばし紙束を見つめた。
部屋は凍てついたように静かだ。
湊の背に冷たい汗が伝う。
そして。
「……湊。そなたは何者だ」
湊は逃げず、真正面から答えた。
「法を学んだ者です。剣も政も未熟ですが──争いを避け、人を守る仕組みなら心得があります。戦で国は広がりますが、制度がなければ続きません」
景勝の目が静かに揺れた。
「……兼続」
「はっ」
「湊を政務に加える。軍でも、寺社でもない。“仕組みを整える役”が必要だ」
兼続は驚きつつ頭を下げた。
「畏まりました。……湊、良いな?」
湊は深く頭を下げる。
「身に余りますが、お受けいたします」
景勝は紙を手にし、言った。
「法は縛る。しかし法は守る。湊、そなたの言は、わしの”武”にはない力を持つ」
そして静かに告げた。
「上杉の国づくり──任せる」
湊の胸が震えた。
異世界で、自分の学んだ知識が初めて”武より強い武器”として通じた瞬間だった。
だが、敵は必ず生まれる。
法は剣より鋭く、恨みも買う。
湊は拳を握った。
「殿。必ず、この国を守る仕組みを作ります」
景勝は短く頷く。
「ならばまずは家中を説得せよ。……そなたの最初の戦だ」
湊は静かに息を吐いた。
剣も槍もいらない、ただ”言葉”だけの戦い。
逃げる気などなかった。
──法は、人を導く。
その夜、湊の机では蝋燭の灯が揺れていた。
武家、寺社、商人、農民……
すべての者を守るための条文が、ひとつ、またひとつと積み重ねられていく。
湊の戦いは、ここから始まった。
政庁を辞した頃には、外はすでに薄闇が満ちていた。山影が迫るように街を覆い、雪は音もなく降り積もっていく。湊は肩に積もった雪を払って歩きながら、自分の胸の底に静かに燃えるものを感じていた。
(……ここからが本当の戦いだ)
法を作るだけなら机の上で済む。だが、法を施すには必ず“敵”が生まれる。武断派の家臣、寺社勢力、地侍、そして外から忍び寄る者たち。湯の分湯だけでも反発を招いた。ましてや彼らの権益を縛る法度を整えるとなれば──その抵抗は必ず形になる。
(敵は動く。だが先に動くのは俺だ)
湊は政庁の裏手にある番屋へ急いだ。扉を開けると、三雲と名古屋に加え、曽根昌世が火鉢のそばに座り、地図を広げて待っていた。
曽根が最初に顔を上げた。信玄から“両眼”と呼ばれた男の眼差しは、雪夜でも研ぎ澄まされている。
「戻ったか、湊。……殿の反応はどうだ?」
「裁可は得た。兼続様も味方だ」
三雲が口笛を鳴らし、名古屋が肩をすくめた。
だが曽根だけは、わずかに目を細める。
「景勝公が法を許したか。……なら本格的に動けるな」
湊は頷き、紙束を置いた。
「喜ぶのはまだ早い。家中の説得が必要だ。“寺社勢力の武装制限”はとくに敵を作る。寺は必ず反発する」
「反発どころか、もう動いているぞ」
静かに言ったのは曽根だった。
「さっき政庁に向かう僧を見た。“湯は祈りの場”と触れ回るつもりだろう。寺は理ではなく“声”で取ろうとしている」
「察しが早いな、曽根」
「戦でも政でも変わらん。先に声を上げた者が有利になる」
名古屋が腕を組んだ。
「湯は権威の象徴……寺はそれを押さえたいんだな?」
「押さえたいのは湯だけじゃねぇよ」
三雲が低く唸った。
「寺の裏にいた浪人。あの火薬の扱い方、素人じゃない。昨日の木片と今日の木片、細工の癖が違った。複数いる」
曽根が木片を手にとり、指で撫でた。
「……この削り方、確かに“違う手”だ。火薬を触ったことのある者が二人──いや、三人はいる」
「寺の背後に誰がいる?」
名古屋が問うと、曽根は短く息を吐いた。
「南でも北でも、どちらでも説明はつく。だが湊……“湯を押さえた者が冬国を動かす”。そこまで読んで寺が動いているなら、ただの宗教勢力じゃねぇ」
湊は頷く。
「だから急ぐんだ。寺の理屈が広がる前に、湯を動かす」
「分湯工事か」
曽根が地図に手を伸ばす。
「……この溝を広げれば湯は村まで届く。土質から見て、人夫十人で三日。費用は五貫文。寺には出せん額だな」
「五貫文で済むのか?」
三雲が目を丸くした。
「武田で山城の道普請を散々やった。こういう斜面は得意だ。それに湯の流れは“作りやすい”。湊の目利きは正しい」
曽根の言葉に湊は小さく頷いた。
「寺より先に動けば、民心は湯に付く」
「湯は祈りより強い。冬の民には特にな」
曽根の声には、雪国で戦を経験した者の重さがあった。
「寺は声を使う。……なら俺たちは“温もり”で返す」
曽根が微かに笑った。
その笑みは、戦で敵を見極めた者のそれだった。
「湊。お前の法度は、殴らずに勝つための武器だ。俺の槍よりも、よほど強い」
名古屋と三雲が、それを聞いて息をのんだ。
「明日の昼前に工事を始める。三雲、名古屋、人夫を集めてくれ」
「ああ、任せろ」
「寺は邪魔してくる。浪人も動くだろう。地侍も乗る可能性がある」
曽根が湊の言葉を引き継いだ。
「だが血は流させるな。民心が最優先だ。……その点では、俺も武田式を捨てよう」
湊は苦笑した。
「頼りにしている」
四人の視線が静かに交差した。
その空気は、湯気のように熱く、それでいて戦場より冷静だった。
番屋を出ると、雪はさらに深くなっていた。空気の中に白い塵が絶えず舞っている。湊は部屋へ戻り、机に広げた条文を前に再び筆を取った。
武家を守る理由。
農民を守る理由。
商人を守る理由。
寺を縛る理由。
寺を守る理由。
そして──景勝を守る理由。
一つ一つの条文に短い注釈を書き添えていく。
(俺は剣も槍も振るえない。
けれど──条文なら振るえる)
筆の音だけが部屋に響く。
ふいに、部屋の外で雪を踏む音がした。
一歩。
また一歩。
湊は筆を置き、蝋燭の火を吹き消した。
闇が訪れる。
足音は家の前で止まったまま、しばらく動かなかった。
息を呑むような沈黙が続き、やがて雪の上を遠ざかっていく。
湊は静かに蝋燭へ火を戻した。
(……寺は動き始めた。ここからが本番だ)
雪国の夜は深い。だが、湊の灯す火は揺らがない。
法は剣より鋭い。
だからこそ、自分が振るうのだ。
この国を、守るために。




