5話:初めての反発―会津の影
城下巡察を命じられてから三日目。
湊は弥藤に案内され、会津城下でもとりわけ人の往来が激しい“材木町”へ向かっていた。
「清原、今日は気をつけろよ」
「……気をつける?」
「ここは越後の者と会津古参の衝突が起きやすい場所だ。
お前のような若者が紙束抱えて歩くと、いい顔をしない連中もいる」
昨日までとは違う警告だった。
それは湊の胸の奥で、静かなざわめきを生んだ。
(順調にいくはずがない。この世界は……現実なんだ)
材木町に入ると、すぐに空気が変わった。
荷を下ろす声、刃物を調える音、木を割る重い衝撃音。
そのすべてが、昨日まで歩いた城下より荒々しく、尖っていた。
湊が周囲を見回していると、不意に鋭い声が飛んだ。
「おい、何者だ?」
振り返ると、腕を太くした古参の木挽きが、湊を睨みつけていた。
「越後衆の回し者か? それとも役目持ちか?」
「い、いえ。上杉家の巡察として――」
「巡察? 若造がか?」
木挽きは鼻で笑った。
「紙の上で物事を語る奴が、現場をわかるかよ」
その言葉は鋭い刃のようだった。
湊は言い返せず、一瞬だけ視線を落とした。
(……これが、“好意的ではない現実”か)
すると、隣にいた弥藤が一歩前へ出た。
「清原は直江様の命で巡察している。文句があるなら俺に言え」
「はっ、与力ひとり連れて偉そうに。
上杉が越後から連れてきた者が偉ぶるから、町が乱れるんだ」
湊の胸が締め付けられた。
(僕に向いているのではなく、“越後”そのものに対する反発なんだ)
木挽きは続ける。
「言っておくがな、会津は越後の土地じゃねぇ。
ここで暮らしてきたのは俺たちだ。
越後のやり方を押し付けられてたまるかよ」
湊は深く息を吸い、頭を下げた。
「……お話を聞かせてください。
僕は押し付けるために来たのではありません。
困っていること、苦しんでいることを知りたいんです」
木挽きは湊をじっと見た。
その目にはまだ警戒が残っている。
「聞いたところで、どうせ何も変わらねぇよ」
「それでも、聞かせてください」
湊の声は震えていたが、逃げる気配はなかった。
木挽きは舌打ちをし、しかし完全には拒まなかった。
「……好きにしろ。ただし、俺は越後に媚びる気はねぇぞ」
「ええ、必要ありません」
そこから湊は、彼らの苦悩を聞き続けた。
・越後と会津で材木の扱い方が違う
・税が変わり、収支が読みづらくなった
・越後衆が新しい制度を押し付けてくる
・古参の言葉を上に届ける者がいない
木挽きたちは、とにかく“声が届かない”苦しさを抱えていた。
(会津は……越後と融合していない。
制度も、心も、まだ別々のままだ)
「清原」
弥藤が小声で言った。
「これが会津の“影”だ。
お前が見てきた優しい声だけでは作れない建白がある」
湊は唇を噛み、木挽きに深く頭を下げた。
「話してくださって……本当にありがとうございました」
「ふん。書くだけ書け。
俺たちの声なんざ、どうせ誰も拾っちゃくれねぇ」
そう吐き捨てて木挽きは仕事へ戻った。
その背中は、昨日湊が見たどの職人よりも重く、孤独だった。
◆
材木町を離れて歩くと、湊の心は静かに沈み込んだ。
(僕は……まだ“現場”を何も分かっていなかった)
好意的な声ばかり拾っていたのは自分。
そこに“偏り”があったことに気づけなかった。
弥藤が言う。
「清原、清原なりに頑張っているのは分かる。
だが巡察は、耳に優しい声を聞く役目じゃない。
本当に苦しんでいる者を見つける仕事だ」
その言葉は厳しくも、湊の背中を押す鋭さがあった。
「……はい。もっと、見ます。もっと、聞きます」
湊の声は弱くなかった。
◆
城下を歩き続けると、雲が低く垂れ込めてきた。
ゆっくりと流れる鉛色の雲――
重く、静かで、どこか圧力のような気配を帯びている。
(今日の空は……“停滞と圧力”)
会津という土地が抱えるものそのものだ、と湊は感じた。
材木町を離れ、城下の北へ向かう道のり。
湊の頭は重かった。
古参職人の怒りは、湊個人ではなく“越後”全体へ向けられた感情――その深さは想像以上だった。
(僕は……浅かった。
誠実に耳を傾ければ誰とでも分かり合えるなんて、そんな甘い考えだった)
弥藤は何も言わず歩いていた。
だが、その沈黙は湊を責めているのではなく、「気づけ」という無言の促しのように感じられた。
◆
道を曲がったところで、武装した三人の武士が立ちふさがった。
腰の位置が低く、歩き方も鋭い。
湊の直感が“危険だ”と告げる。
「……何か御用でしょうか?」
湊が問うと、ひとりの武士が冷たい目で湊を見下ろした。
「お前が清原湊か」
「はい」
「聞いているぞ。越後贔屓の巡察役。
直江殿の後ろ盾で歩き回り、好き勝手に記録を残しているそうだな」
湊は息を呑む。
(これが……“好意的ではない存在”)
武士は続けた。
「会津古参の声を聞いたか?
越後からやってきた新参どもが城下を乱し、
俺たちの土地を勝手に触っているという噂だ」
「噂……? いえ、僕はそんな――」
「黙れ」
静かな一言に、湊の身体が固まる。
「我らは会津を守ってきた者だ。
越後の者がどれほど大義を語ろうと、
長年の土地勘と慣習なくして治められるものではない」
「それは……分かります」
「分かるなら越後の代弁者をやめることだ。
紙の上の理屈で会津を語るな」
胸に重い鉄の塊が落ちていくような感覚だった。
(紙の理屈……
僕の武器は“武士の心構え”と“文章力”。
それを否定されたら、僕は――)
湊の迷いを見透かしたように、武士はさらに追い打ちをかけた。
「直江殿に取り入ったのも、上手く世を渡るためだと聞いた。
越後の若造が、図に乗るな」
「……!」
湊の拳が震えた。
悔しさか、怒りか、それとも怖さか。
自分でも判別できない。
その時――
「言いすぎだな」
弥藤が一歩前へ出た。
「清原は越後の者ではない。
たったひとりで流れ着いた若者だ。
その眼で会津を見ようとしている」
「立場を忘れるな、弥藤。
お前もまた越後の与力。
こちらに逆らうということは――」
「逆らわぬ。だが、言うべきことは言う」
激しい空気に、湊はただ耐えることしかできなかった。
やがて武士たちは吐き捨てるように言った。
「――会津は簡単に心を開かん。
忘れるな。ここの空気は、お前に味方をせぬ」
そう言い残し、三人は去っていった。
◆
湊はその場に立ち尽くした。
(……僕は、嫌われているんだ)
胸の奥で、ゆっくりと痛みが広がっていく。
「清原」
弥藤が言った。
「今日のことは覚えておけ。
会津はまだ、上杉を“真の主”とは認めていない」
「……はい」
「だからこそ、お前のような者が必要なんだ。
越後でも会津でもない視点で歩く者がな」
その言葉は湊の心に、静かに灯をつけた。
(僕は……そのためにここにいるのかもしれない)
◆
夕刻、湊と弥藤は城へ戻った。
書院へ向かうと、兼続が静かに待っていた。
「清原。巡察はどうだった?」
「……はい。学ぶことが多すぎて……うまく言葉が見つかりません」
「言葉が見つからぬ、か。
それは悪いことではない。
“言葉にできない現実”に触れた証だ」
兼続の目は鋭かった。
「清原。
今日、お前は初めて“敵意”を受けたな?」
「……はい」
「会津は越後のものではない。
古参は誇りを持ち、越後の者は大義を持つ。
その両方が正しい。故に、衝突する。」
湊は息を呑んだ。
「巡察とは“耳に優しい声”ではなく、
“届いていない声”を拾う役目だ。
お前はそれを理解し始めた」
「……僕は、今日、何もできませんでした」
「できるはずがない。
だが、逃げなかった。それが価値だ」
兼続の声には静かだが確かな熱があった。
「清原――」
ゆっくりと湊に近づく。
「お前を、本格的に鍛える。
会津の空気を読み、人の声を正しく聞き、
敵意を恐れず進む“士”として。」
「士……?」
「武士は刀で戦うのではない。
“逃げぬ心”こそが士道だ」
湊の胸に、熱いものが灯った。
(これが……武士の心構え……)
「明日から、負担は大きくなる。
だが――やれるか?」
返事は、一切の迷いなく口をついて出た。
「……はい。逃げません」
兼続は満足げに頷いた。
「よかろう。
ではまず、会津古参の重臣――
宮森主膳のもとへ行け。
今のお前なら、きっと“何か”を掴める」
「……宮森、主膳……」
その名は、今日出会った武士たちの“背後の影”でもあった。
(次は……そこに踏み込むのか)
湊は拳を静かに握った。
窓の外では、鉛雲の隙間にわずかな光が差し込んでいた。
停滞の底に、小さな変化の兆し――
巻く雲が高空に伸び、細い縁が光っていた。
(逃げない。
僕は――僕の心構えで、この戦国を歩く)
その決意とともに、湊は書院を後にした。




