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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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58話: 湯、冬を破る

 夜明け前の会津は、白い息そのものだった。


 雪は風に乗らず、ただ静かに降り続き、城下を覆う。


 湧き場から立ちのぼる湯気だけが、白の中でわずかな動きを見せている。


 湊は朝の薄闇の中、御膳番小屋を出た。


 昨日からの疲れが、肩に少しだけ残っている。


 だが胸の奥には、熱があった。迷いの熱ではない。腹の底に沈んだ、硬いものだ。


 (……動く。寺より先に動く。湯で結果を出す)


 そう決めただけで、心は澄んでいた。


 足元の雪を踏みしめながら、城下の外へ向かって歩いていると、背後から声がかかった。


 「湊様!」


 振り向くと、八代が駆けてくる。


 帳面を抱え、呼気を白く散らしながら。


 「どうした、こんな早くに」


 「寺と地侍のことで……少し、動きがありました」


 湊の足が止まった。


 「昨夜からか?」


 「はい。……湯のことで、寺は本気で民心を取るつもりです」


 八代は周囲を見回し、声を落とす。


 「『湯は会津の祈りの場である』……寺の僧がそう言って回り始めています」


 「祈りの場、か。上手ぇじゃねぇか」


 「地侍にも同じことを言っているとか。『湯は国衆が争う場ではない。中立の寺が預かるべきだ』と」


 湊は低く息を吐いた。


 (理屈で押し込む気か。寺らしい)


 だが理屈で押されるほど、湊の腹は柔らかくなかった。


 「八代、例の浪人はどうだ?」


 「まだ名は掴めません。ですが、昨夜も寺の裏で目撃されました。僧のひとりと、長く話していたようです」


 「長く?」


 「はい。まるで寺の内情を聞いているような……そんな雰囲気だったと」


 湊は目を細める。


 寺、地侍、外からの旅人——三つの影が湯の周りに重なっていた。


 そのすべてに、湯の価値を読んでいる者がいる。


 (……寺は”祈り”で民を縛り、地侍は”領地”で縛る。外の者は”形勢”を見る。なら俺は——“算盤”だ)


 湊は歩き出しながら言った。


 「八代、報告は分かった。……で、お前はどう見る?」


 八代は苦い表情をした。


 「寺は金がありません。だから”理”で民心を取るしかない。地侍も同じ。冬の備蓄で手一杯で、湯の奪り合いをする余裕は……」


 「無ぇな」


 八代は頷いた。


 「湊様、地侍が五十人の兵を動かすには、どれほどの金が要るかご存じですか?」


 湊は少し笑った。


 「言ってみろ」


 八代は帳面をめくり、寒さでかじかむ手で数字を指した。


 「兵卒ひとり、一ヶ月あたり三貫文……米代・衣類・手当すべて含めて、最低です。五十人なら百五十貫文。村一つが一年かけて蓄える蓄えに匹敵します」


 「寺には無理だな」


 「ええ。地侍にも無理です」


 八代はさらに続けた。


 「具足一式が四・六貫文。馬は三貫文。鉄砲は八貫文。どれも、農家なら一年の収穫を丸ごと注がねば買えない代物です。戦をするには、とにかく金がいる。湯を巡る争いを”寺が仕掛ける”のは、実際には難しいんです」


 湊は小さく息を吸った。


 (なら、寺は”理”で押してくる。地侍は”寺の影”に乗ろうとする。民は、雪に苦しんで揺れている。……全部読める)


 「八代、湯を巡る争いは金の争いだ。金がない奴ほど、声を張り上げる。寺と地侍のやり方はその典型だ」


 八代は言葉なく頷いた。


 湊は歩を止め、静かに空を見上げた。


 雪雲の向こうで朝日が薄く光り始め、白と灰の境界でぼんやりとした金色が揺れている。


 「……だからこそ、俺は湯で結果を出す。寺より先に、民に湯を届ける。湯が動けば、寺の理屈なんざ吹き飛ぶ」


 八代は思わず息を呑んだ表情をした。


 「分湯……本当にやるんですね」


 「ああ。やる。今日からだ」


 八代は帳面を閉じ、深く頷いた。


 「村人たちは、湯が動いたら必ず湊様に感謝します。湯の恩は、米百俵にも勝る。……冬の会津では特に」


 湊は振り返らず、歩きながら言った。


 「寺は祈りで民心を縛る。なら俺は、“温もり”で縛る。湯で民を助ける。それが一番、早くて確実な手だ」


     ◆


 湧き場へ向かう山道に入ると、雪は一段と深くなっていた。


 湊が足を踏み入れるたびに、雪がきゅ、と乾いた音を立てて締まる。


 その音が山の静寂を乱す唯一の音だった。


 歩くうちに、山肌を流れる細い川が見え始めた。


 湯気を含んだ流れが白く揺れ、雪面に淡く映っている。


 湊は川縁にしゃがみ込み、手を伸ばして温度を確かめた。


 「……村まで引くには、ここの溝を広げればいいな」


 人の背丈ほど掘る必要はない。


 湯が動く浅い筋を作るだけで充分だった。


 (三雲なら、この幅を見た瞬間に分かる。名古屋なら、雪で土砂を固める算段もつく。五人なら、一日の仕事だ)


 川面の揺れを見つめながら、湊は声を落とした。


 「……五貫文くらいで済むな」


 八代が背後で息をのむ。


 「湊様、五貫文も……湧き場だけで?」


 「ああ。材木と縄、道具の修繕。人夫を十人呼んで三日働かせても、一貫文ちょっと。総計で五貫文。商家でも気軽には出せない額だが、寺よりはずっと軽い。“冬を越せる家が一つ建つ”くらいの金だ」


 八代は驚愕の表情で湊を見た。


 「寺側は、そんな金は出せません……!」


 「だから、先に動くんだ」


 湊は雪を払い立ち上がる。


 その時、山道の奥から足音が聞こえた。


 雪を押しのける足音だが、足の運びは乱れていない。


 ——三雲だ。


 「湊!」


 雪煙を巻き上げながら駆け寄ってきた。


 肩には雪が乗り、息は白く太い。


 「外縁の見回り、終わりました。けど……やっぱり妙だわ」


 「妙?」


 三雲は腰から木片を取り出し、湊に渡した。


 焦げた草の匂いがした。


 昨日の火薬の素と同じ、だが細工が違う。


 「寺の裏手で拾った。昨日のとは細工の癖が違う。……一人の手じゃねぇ。別々の流儀で触っている奴がいる」


 湊は静かに息を吸った。


 寺に出入りする浪人。


 背中のまっすぐな旅人。


 火薬に詳しい者。


 三つの影が一つの場所に集まり、湯気の向こうで交錯している。


 (……寺は”理”で押す寺のやり口にしては、影が多すぎる。どこかで線が繋がっている……そんな臭いがする)


 三雲が言う。


 「湊。お前が動くなら、今日がいい。寺はまだ気づいてねぇ」


 湊は頷いた。


 「今日やる。三雲、名古屋に伝えろ。昼前には山に入る」


 「了解!」


 雪を払うように三雲が駆けていった。


 湊は八代の方へ向き直った。


 「八代、お前は城下を見張れ。寺と地侍の動きを一つ残らず拾うんだ」


 八代は強く頷いた。


 「湊様。……必ず」


     ◆


 湧き場の蒸気が朝日に淡く照り、銀色の薄膜のように揺れていた。


 湊はその光の揺らぎを見つめ、静かに拳を握った。


 (寺がどれだけ言葉を重ねても——湯が動けばすべて変わる)


 雪の匂い。


 湯気のぬるい湿り気。


 朝の冷気と混じり合う感覚。


 それは、湊にひとつの確信を与えていた。


 ——会津の冬は、変えられる。


 湯を動かせば。


 民が温まるなら。


 雪深い国の形さえ変えられる。


 湊は山道を振り返り、低く呟いた。


 「……会津の湯は、俺が握る」


 そして峠の向こうへ続く雪道へ一歩踏み出した。

昼に差しかかる頃、山の斜面には湊の指示で集まった人夫たちが雪を踏みしめていた。


 名古屋が手を挙げ、声を張る。


 「道具は全部そろった! 並べろ、急げ!」


 木槌、鍬、縄、角材、掘削用の鉄棒。雪の上に並べられたそれらは、冬の会津ではどれも貴重な“財”だ。だが湊は惜しみなく使った。湯を動かすためなら、それで良かった。


 名古屋が湊の方へ振り返り、小さくうなずく。


 「湊様。……この人数なら、今日で筋は作れます」


 「頼む。今日中に“形”さえ出来ればいい。湯が流れ始めりゃ、寺の理屈なんざ全部吹き飛ぶ」


 人夫たちは湧き場の音を聞きながら、静かに鍬を構えた。冷え切った空気の中で、ただ湯の蒸気だけが柔らかい匂いを運んでくる。その匂いは、彼らの足を自然と前へ進めた。


 (湯が動けば……村は冬を越せる。湯は、米とも、薪とも違う。生きたまま届く温もりだ)


 湊は雪を踏みしめた。


     ◆


「掘れぇッ!」


 名古屋の雷のような号令が響き、人夫たちが一斉に鍬を振り下ろした。雪が弾け、下から凍りついた地表が顔を出す。硬い土が鉄とぶつかるたびに、乾いた火花のような音が散った。


 湊は名古屋と並んで土の状態を見た。


 「硬いが……ここなら五尺も掘らずに筋は作れるな」


 「ええ。地熱が入ってます。湯が近ぇ証拠ですよ」


 湊は指で土を崩し、温度を確かめる。冷たさの奥に、ほんのわずかな“湿り”がある。


 「……よし。ここだ」


 決まった瞬間、名古屋が声を張る。


 「溝を広げろ! 湯の道になる幅を確保するんだ!」


 鍬が連続で雪と土を切り裂く音が山中にこだました。その音は決して大きくないが、確かな勢いがあった。


 人夫のひとりが息を弾ませ、湊に訊ねる。


 「湊様……ほんとに、この溝だけで湯が流れるんですかい?」


 「流れる。山はな、筋を作れば自分で動く。雪国は“流れ”が命だ」


 人夫は目を丸くし、再び鍬を握った。


     ◆


 作業が進み、湯の源へ近づくほど、空気は変わった。吹雪の冷たい匂いの中に、湯気の甘い香りが混じる。


 三雲が湊へ駆け寄った。


 「湊! 見てみろ、湧き場の脇が自然と崩れ始めてやがる!」


 湊は湧き場に寄り、雪を払いのけて地面を見た。氷が割れ、そこから力強く湯が吹き出そうとしている。


 (……動きたがってる。この湯は、元から村へ流れる道を求めてやがったんだ)


 湊は低く呟いた。


 「湯は嘘をつかねぇな」


 三雲がにやりと笑う。


 「寺より先に湧き場が動くなんざ、いい気分だろ?」


 「まぁな。だが油断すんなよ、三雲。寺は今日だけで動きを変えるとは限らねぇ」


 三雲が顎で山道の方を示す。


 「ほら、湊。遠目だが……あれ」


 湊がそちらを見ると、山道の影に男がひとり立っていた。旅人らしい姿だが、動きが妙に静かだ。物見にしては姿勢が良すぎる。


 (昨日の旅人か……? いや、あの背筋の張り方、ただの旅人じゃねぇ)


 湊は視線を逸らさず、ぼそりと呟く。


 「……寺側の“影”かもしれねぇな」


 三雲が手を腰に伸ばしそうになった瞬間、湊は手で制した。


 「放っとけ。こっちが湯を動かしてるのが分かれば、それでいい」


 三雲が目を細めて言う。


 「湊……お前、本当にでけぇ賭けに出たな」


 湊は微笑した。


 「賭けじゃねぇよ。理屈で押されたら、温もりで返す。それだけだ」


     ◆


 午後に入ると、掘削は佳境へ向かっていた。


 人夫たちは額に汗を浮かべ、時折雪をかぶりながらも鍬を止めない。その背中を見ながら、湊は胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。


 (民は動く。湯があれば、人は、冬は越えられる)


 名古屋が声を上げる。


 「湊様! あと一尺で繋がります!」


 湊は頷いた。


 「焦るなよ。……最後の一打ちは俺がやる」


 人夫たちの視線が湊に集まった。


 鍬を受け取った湊は、一歩踏み出し、硬い地面へ刃を当てる。

 深く吸った息を、ゆっくり吐きながら——振り下ろした。


 ――ガンッ。


 瞬間、土の下から音が返った。氷が割れたような、芯のある音。


 次の一撃で、土がぐずりと崩れた。

 その裂け目から、ぬるい湯が細く、細く、溢れ始めた。


 「……ッ!」


 人夫たちの息が一斉に漏れた。


 三雲が叫ぶ。


 「湊! 来たぞッ!」


 湊は鍬を置き、崩れた土へ素手で触れた。湯が指を伝い、白い湯気がふわりと立ちのぼる。


 (この温もりを……村へ)


 湊は振り返り、名古屋に指示を出した。


 「名古屋! 流れを広げろ! 浅い筋でいい、湯を村の方角へ向けろ!」


 名古屋が声を張りあげる。


 「おうよ! お前ら、聞いたな! 一気に広げるぞ!」


 鍬が雪を裂き、土を削る音が山中に広がる。


 湯の流れは初め細かったが、筋が広がるにつれ、確かな“道”となっていった。

 細い流れは次第に太くなり、雪を溶かし、湯気を上げながら村へ向かって滑るように進んでいく。


     ◆


 その様子を、遠くからひとりの影が見ていた。

 あの旅人らしき男だ。


 雪の上に足跡は残さず、ただじっと、湯の筋を見ていた。


 (……こいつ、やはり寺側ではねぇな。目線の鋭さが違う。兵の匂い……でも僧ではない)


 だが今優先すべきは、湯を村へ届けることだった。


 湊は影へ背を向け、山を降り始めた湯の流れへ寄り添う。


 湯は雪を溶かしながら、細い川のように村へ伸びていく。


 その温かさは、冬の曇天の下でもはっきりと感じられた。


 湊の胸の奥に、静かな熱が灯る。


 (これでいい。湯が村へ届けば、寺は声を上げられねぇ。地侍も、動きようがねぇ。民は……動いた者についてくる)


     ◆


 村に近づくにつれ、子供たちの声が聞こえ始めた。


 「なんだあれ……! 湯だ! 湯が流れてきた!」


 子供たちは雪の斜面を駆け降り、湯の流れの脇にひざまずいた。手を浸すと、驚きと歓喜の混じった声が上がる。


 「あったけぇ!!」


 雪の中、嬉しさが弾けるような声だった。


 その声を聞いた村の女たちが、雪かきをしていた手を止め、湯の流れへ歩き寄る。白い湯気が顔にかかると、表情がほぐれた。


 「……嘘みたいだ。冬に、こんなに温かいものが」


 湊はゆっくり村へ歩き入り、彼らの前に立つ。


 村のおかみが湯の流れを見つめながら言った。


 「湊様……これは……?」


 「湯だ。湧き場から引いた。これで湯殿を作りゃ、冬でも体を温められる」


 女たちの目が潤んだ。


 「……助かります。本当に……」


 子供たちは湯を手で跳ねて遊び、老人たちは震える指で湯気をなでるように掴んだ。


 湊はただ静かに言った。


 「湯の恩は、俺に返す必要はねぇ。冬を越す力にしてくれ」


     ◆


 村の騒ぎを聞きつけ、寺の使いが駆け込んできた。


 「湊殿! この湯は寺が預かるもの——」


 湊は振り向かず、言葉を切った。


 「民が先だ」


 使いは凍りついた表情で立ち尽くす。


 「寺は祈りを預かる。湯は預からねぇ。湯は、冬を越すためにある。……寺が止める権利はねぇよ」


 村人たちが、湊の背を見つめた。


 その瞬間、使いの顔が真っ赤になった。


 「し、しかし! 湯は古来より——」


 「古来より? いい言葉だな」


 湊は振り返り、静かに言った。


 「古来、湯は民が使ってきた。祈りより、祭りより、寺よりも前だ」


 使いは口を開けたまま何も言えなくなった。


 湊は視線を村へ戻し、最後にひとことだけ告げた。


 「寺に言っとけ。——湯は動いた。もう止まらねぇってな」


     ◆


 夕刻。


 山裾から立ちのぼる湯気は、薄橙の橙光に照らされ、まるで“冬そのものが温まっていく”ように見えた。


 湊は雪の上に立ち、ゆっくり息を吐く。


 (今日で、会津の冬は一つ変わった)


 三雲が隣に立って言う。


 「湊。……寺も地侍も、明日から騒ぐぞ」


 「騒がせとけ。民が湯で動いている限り、やつらの声は響かねぇ」


 名古屋が肩に雪を乗せたまま歩いてくる。


 「湯の筋、明日も補強しましょう。雪崩れが起きりゃ、せっかくの筋が塞がる」


 湊は頷いた。


 (明日からが本番だ。湯殿を作る。湯の恩を村に定着させる。民が湯に集まれば——寺の“祈り”は薄くなる)


 そして静かに思う。


 (この国の形は、温もりひとつで変えられる)


 湊は湯気の立ちのぼる山を見上げ、低く呟いた。


 「……会津の湯は、俺が守る。誰にも、渡さねぇ」


 その声は、湯気に溶け、雪へ吸い込まれていった。

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