57話: 争いの兆し、湯治始動
雪は夜明け前の冷気を抱えたまま降り続き、会津の谷を淡い灰色に沈めていた。
湧き場へ向かう山道を、湊はひとり進んでいた。足を踏み出すたびに、雪がきしりと鳴る。その細い音が、まるで冬の息遣いのように耳へ触れた。
前田慶次と向き合った昨夜の余韻が、まだ胸の奥に微かな熱となって残っている。
(……試された。あの男は、本気で俺を見てきた。湯を巡る争いを“面白くする価値があるか”確かめるように)
胸の奥の熱は、迷いではなく、覚悟の形をしていた。
一歩、また一歩、湯気の立つ方へと歩みを速める。冬の静寂の中、湯気が見える地点まで近づくと、地形の影が柔らかく揺らいでいた。
湯気は白く、雪は淡く、その境界で世界がぼんやりと滲んでいた。
湊は足を止め、雪面に残る足跡に目を落とした。
昨日とは違う――。
寺の僧が踏むような重心の軽さでもない。武士の足取りでもない。雪の沈み方には妙な癖があり、足先の向きも揃っていない。
(……誰だ?)
まるで“湧き場に近づいた者が、わざと足跡を残したかのような違和感”。
その時――。
後方で雪を弾く音がした。
振り返ると、曽根が肩や袖に積もった雪を払いながら近づいてきた。足音が規則正しく、曲がり角を抜けて現れた時の気配は、冬の空気を切り裂くように鋭い。
「湊、いたのか。……やはりここに来ると思ってた」
「曽根殿。南側の見回りはどうだった?」
曽根は喉の奥で短く息を吐き、湊の隣に立って湧き場の方向へ目を向けた。視線は深く、沈んだ雪面の流れを読むように。
「地侍の動きが早すぎる。昨日の段階で“道を押さえる”と言い出していた連中が、どうやら寺を味方につけようとしてる」
「寺か……やはり動いたか」
曽根は強く頷いた。
「寺は民心を取るのが早い。『湯は民のもの』と吹聴すれば、地侍どころか村の衆も揺れるだろう。湊、お前の動き次第で一気に形勢が変わる」
湊は湧き場から立ち上る湯気を見つめた。白い蒸気が空へと細く伸び、雪空に溶けていく。
(寺、外の者、そして地侍……。すべてが湯に集まってくる)
「曽根殿、寺と地侍の接触は深まりそうか?」
「ああ。寺の僧が何人か、地侍の屋敷に夜分訪れていた。妙な動きだ。寺が『湯の守護』を名乗り出て、地侍を使うつもりかもしれん」
湊は低く息を吐いた。
「……民心を取りに来てるな」
「間違いない。寺が湯を“争いではなく守る場”と広めれば、地侍はそっちにつく。お前が湧き場を抑えてても、形勢が一気に変わる」
湊は雪面に視線を落とし、小さな足跡を指でなぞった。
「だが、寺だけじゃねぇ。ほら、この足跡」
曽根がかがみ込み、湊が指し示した跡をじっと見つめた。
「……こいつは?」
「軽い足取りだ。昨日の火薬の素を置いた奴と似てるが、違う。まるで“外の者”だ。歩き方に地侍の癖がねぇ」
曽根はわずかに眉を寄せた。
「本当に来始めたな、外の影が」
「玄朔が言っていた。『湯は争いを呼ぶ』と。あれは脅しじゃねぇ。外の奴らが、もうこの湯に気づいてる」
曽根は、静かに湊の横顔を見つめた。
「湊、お前……顔つきが変わったな」
「そうか?」
「覚悟が固まった奴の顔だ。寺がどう動こうと、外がどう押し寄せようと、お前は退かねぇつもりだろ」
湊はわずかに笑った。
「退く道がねぇ。湯を守るってのは、そういうことだ」
曽根は湧き場を見渡しながら言った。
「なら、南側は任せろ。地侍が動けば俺が押さえる」
「頼りにしてる。地侍は厄介だ。寺と外の影をつなぐ窓口になる可能性がある」
曽根は腰の太刀に手を置き、静かに雪の中へ踏み出した。
「湊、後で一つ伝えたい話がある。八代の耳にも入っていない。……外の連中が、もう一人会津に入ってるかもしれん」
湊は目を細めた。
「誰だ?」
「まだ名は掴めてない。ただ……戦の匂いをまとった“旅人”らしい」
風が吹き、湯気が淡く揺れた。
(……玄朔の背後? それとも佐竹か? いや、別筋の可能性もある)
曽根は湧き場の外縁へと消えていき、湊は再び雪面へ視線を落とした。
わずかに削れた雪、浅い足跡、湯気の向き。
それらの小さな違和感が一つに繋がる。
(寺、地侍、外の者……三つ巴。湯を巡る争いは、もう内部の問題じゃねぇ)
湊は立ち上がり、空を見た。
薄い鱗雲の端が、風にかすかに裂かれている。
空の変化は、争いの気配そのものだった。
城下へ戻ると、夕刻の薄闇が漂い始めていた。雪は細かく舞い、町家の屋根瓦の上を淡く染めている。
湊が御膳番小屋へ向かう途中、ふいに裏道から足音がした。
「湊!」
雪煙を蹴り上げながら、八代が駆けてきた。肩に積もった雪はそのままで、息は荒い。
「どうした?」
「城下に……妙な動きがありました」
湊は歩みを止め、八代を見た。
「昨日も妙な動き、今日も妙な動き。……何があった?」
八代は周囲を確認してから声を落とした。
「地侍の連中が、寺の僧と”市中の外れ”で密談していました。人目を避けるようにして」
湊は深く息を吸った。
(寺と地侍、繋がるつもりだ……)
「内容は分かるか?」
八代は帳面を開き、記録を指でなぞりながら言った。
「“湯の守護は寺が担うべきである”……そう書かれていました。『国衆が湧き場に口を出せば混乱する。一時、寺に任せよ』と」
湊の目が鋭く光った。
(……寺が、湯を”中立の場”と見せたいのか)
八代は続けた。
「寺は、湊様が湧き場を押さえていることを”力による横取り”だと吹聴しています」
湊は小さく息を吐いた。
「……やはりそうきたか」
寺は湯を奪うつもりではなく、“湯を守る者”として民心を取ろうとしている。
湊のやり方――湧き場を五人で押さえるやり方は、寺からすれば都合がいい。“武で奪われた湯”と噂を流せば、寺の正義が光る。
八代が低く言った。
「湊様。このままでは民の心が寺へ流れます」
「……そうだな」
湊は空を仰いだ。鱗雲が流れ、細い隙間から弱い光が降りていた。
(湯を守る覚悟はある。だが”守り方”を間違えれば、会津は割れる)
湧き場を抑えるだけでは足りない。
寺が民心を取るなら――湊は”結果”で示すしかない。
湯の力を。
湯の意味を。
会津の冬の厳しさを、変えるという覚悟を。
湊は八代の肩を軽く叩いた。
「寺が何を言っていようと、構わねぇ。俺たちのやることは一つだ」
「……湯で”結果”を出す、ですね」
「そうだ」
◆
その時、八代がふと思い出したように声を落とした。
「湊様、もう一つ。気になることがあります」
「何だ?」
「寺に出入りしている浪人がいます」
湊の眉が動いた。
「浪人? 慶次とは別か?」
「はい。前田慶次とは違います。もっと……影の薄い男です」
八代は帳面をめくり、書き留めた内容を読み上げた。
「城下の者が見かけたそうです。寺の裏口から出入りしている。身なりは粗末だが、目つきが鋭い。腰には刀を差しているが、派手さはない」
「名は?」
「分かりません。ただ、寺の僧と親しげに話していたと」
湊は顎に手を当てた。
(寺に出入りする浪人……慶次とは別の動き)
慶次は派手で、人目を引く。だがこの浪人は逆だ。影に潜み、寺と繋がっている。
「八代、その浪人の動きを追えるか?」
「はい。城下に顔の利く者がいます。そちらに頼んでみます」
「頼む。寺との接触が深まるようなら、すぐに知らせてくれ」
八代が頷いた。
湊の胸に、新たな影が落ちた。
(前田慶次、寺、地侍……そして、寺に出入りする浪人。線が増えてきた)
だが、今は動くしかない。
寺が民心を取る前に、湯で結果を出す。
それだけだ。
◆
裏路地の方から雪を踏み潰す音がした。
重い。
だが、武士ではない。
その足音に慣れがある。
湊が振り向くと、三雲が現れた。腰に雪をつけ、息が白い。
「湊!」
「三雲、外縁はどうだ?」
三雲は一枚の板片を差し出した。湊は受け取り、匂いを嗅いだ。
……焦げた草の匂い。
昨日の”火薬の素”と相似している。
「またか……」
三雲は苦笑に似た表情を浮かべた。
「寺の裏で拾った。昨日のやつと同じ臭いだ。だが細工が違う。昨日は”よそ者”の手。今日は”慣れた者”の手だ」
「寺の中に、火薬に詳しい者がいるのか……?」
湊の声は低く静かだった。
八代が横から言う。
「寺の僧全員が火薬に詳しいわけではありません。ただ、裏で動く者がいる可能性は高い」
湊は板片を懐にしまった。
(寺。地侍。外の者。……三つあると思っていた線が、もっと複雑に絡んでる)
「三雲、他に変わったことは?」
三雲は一瞬だけ言葉を選んだ。
「……妙なのが一人いた」
湊は目を細めた。
「妙なの?」
「ああ。足取りは軽くねぇ。武士でもない。けど、雪を踏む音が妙に静かでな……湧き場の周りを、ただ歩いてた」
湊は思わず息を止めた。
「顔は?」
「半分、笠で隠してた。着物も薄汚れてたが……背中がまっすぐだった。“武の芯”だけは隠せねぇ背中だった」
湊の胸に、冷たいものが走った。
(曽根殿が言っていた”戦の匂いをまとった旅人”……あれか)
「どんな動きをしてた?」
「湧き場の周りを、ゆっくり歩いてた。地形を見てるような、探ってるような……。俺が近づいたら、すっと消えた」
「消えた?」
「雪の中に溶けるみたいにな。足跡も残さねぇ。慣れてる。……相当、慣れてる」
湊は眉をひそめた。
(足跡を残さない。背中がまっすぐ。武の芯がある……)
その描写から、湊は幾つかの名を思い浮かべた。
だが、決めつけるには早い。
「三雲、その男……何か言ってたか?」
三雲の報告が続く。
「そいつ、湧き場を見て、ただ一言だけ呟いた。『……ここは争いになる』と」
湊は息を呑んだ。
「聞こえたのか?」
「ああ。あいつは隠れてるつもりでも、声は隠せてなかった」
“ここは争いになる”
玄朔と同じ言葉。
(外の者の動きが、寺の裏よりも速い……?)
湊は空を見上げた。
雲が流れ、細い隙間から夕暮れの光が差し込んでいる。
(玄朔が言った”外の気配”……あれは、この男のことか。それとも、また別の者か)
分からない。
だが、確かなことが一つある。
湧き場に集まる影は、増え続けている。
◆
三雲が背伸びをし、雪を払った。
「で、湊。どう動く?」
湊は三雲と八代を交互に見た。
そして、静かに言った。
「……動く。寺が民心を取る前に、湯治を始める」
三雲が目を丸くした。
「村に分湯するってやつか?」
「ああ。湧き場の小川を少し掘り下げて、村まで短い分流を作る。どれほど雪が降っても、湯が動けば村は助かる。民は湧き場の価値を知る」
八代が頷いた。
「寺より早く動けば、寺の”正義”は揺らぎますね」
「揺らすだけじゃねぇ。俺がやるんだ。会津の冬を変えるってことを、結果で示す」
湊の声には、静かな熱があった。
三雲が腕を組んだ。
「分湯ってのは、具体的にどうやる?」
「湧き場から流れ出る小川がある。あれを少し広げて、村の方へ引き込む。深く掘らなくていい。湯が流れる溝を作るだけだ」
「人手は?」
「最初は俺たち五人で始める。村の者が効果を見れば、手伝いに来る奴も出てくるはずだ」
八代が言った。
「寺が邪魔に入る可能性は?」
「入るだろうな。だが、寺が邪魔をすればするほど、寺の本音が見える。“湯を守る”と言いながら、民のための分湯を邪魔する。それは矛盾だ」
三雲が笑った。
「なるほど。寺の化けの皮を剥がすってわけか」
「そういうことだ」
湊は雪を踏みしめた。
「湯は会津のものだ。寺のものでも、地侍のものでも、外の者のものでもねぇ。会津の民が冬を越せるようにする。それが俺のやることだ」
◆
その時、北の空が不意に裂けたように風が吹いた。
雲がちぎれ、そこから伸びる細い青が、雪の白と混じり合い、冬の空に激しい対比を生んだ。
八代が呟いた。
「……風が変わりましたね」
湊は空を見上げた。
(ああ。争いの前触れだ)
「三雲、名古屋に伝えてくれ。明日から動く。湧き場の周囲を掘り下げて、分流を作る」
「了解」
「八代、城下の動きを見張り続けてくれ。寺と地侍の接触、それと……寺に出入りしてる浪人の動きだ」
「承知しました」
「曽根殿には、地侍の動きを押さえてもらう。地侍が口を出す前に”既成事実”を作る」
三雲が頷いた。
「湊、戦だな」
「戦だ。湯を守るためのな」
湊は三雲と八代を見渡した。
「今夜、全員に伝える。明日から動く」
◆
三雲と八代が散った後、湊は一人で城下を歩いた。
雪が舞い、足元がきしむ。
夕暮れの光が薄く、町家の影が長く伸びている。
湊は御膳番小屋へ向かいながら、頭の中で状況を整理した。
寺は民心を取ろうとしている。
地侍は寺と繋がろうとしている。
前田慶次は”面白い方”につく。
寺に出入りする浪人がいる。
そして、湧き場の周りを歩いていた”背中がまっすぐな男”。
(線が多すぎる……だが、全部が湯に繋がってる)
湯は争いを呼ぶ。
玄朔が言った通りだ。
だからこそ、誰が握るかで国の形が変わる。
湊は足を止め、空を見上げた。
雲が流れ、細い隙間から星が見え始めていた。
(俺は湯を握る。会津の冬を変えるために)
その覚悟は、もう揺らがなかった。
◆
御膳番小屋に着くと、権兵衛が鍋の火を落としているところだった。
「おう、湊様。戻ったか」
「ああ。遅くなった」
権兵衛は湯気の立つ椀を差し出した。
「残りもんだが、温かいうちに食え」
湊は椀を受け取り、腰を下ろした。
汁は白濁していて、根菜と干し肉の香りがした。一口啜ると、腹の底から温まる。
「……うまい」
「そうか。よかった」
権兵衛は火の始末をしながら言った。
「湊様、顔が険しいな。何かあったか?」
湊は椀を見つめた。
「……色々ある。寺が動いてる。地侍も動いてる。外の者も動いてる」
「湯のことか」
「ああ」
権兵衛は頷いた。
「湯は金になる。金になるものには、人が集まる。昔からそうだ」
「分かってる」
「分かってるなら、腹を据えるしかねぇな」
湊は汁を啜り、息を吐いた。
「据えてる。明日から動く」
「何をする?」
「分湯だ。湧き場から村へ、湯を引く。民が冬を越せるようにする」
権兵衛の目が少し大きくなった。
「……そりゃ、大仕事だな」
「大仕事だ。だが、やらなきゃ寺に民心を取られる」
権兵衛は火箸を置き、湊を見た。
「湊様、一つだけ言っていいか?」
「何だ?」
「分湯ってのは、湯を分けるってことだ。湯を分ければ、恩を売れる。だが同時に、“湯が俺のもんじゃなくなる”ってことでもある」
湊は黙って権兵衛を見た。
「湯を握るってのは、独り占めすることじゃねぇ。分けて、使わせて、それでも”俺が握ってる”と思わせること。……それができるか?」
湊は椀を置いた。
「……できる」
「根拠は?」
「根拠はねぇ。ただ、やるしかねぇんだ。寺に民心を取られたら、湯は終わりだ。会津の冬を変える夢も、終わりだ」
権兵衛は静かに笑った。
「そうか。なら、やれ。俺は飯を作ることしかできねぇが、腹が減ったらいつでも来い」
「……ありがとう」
湊は立ち上がり、御膳番小屋を出た。
◆
外に出ると、雪が止んでいた。
空には薄い雲が流れ、その隙間から月の光が差し込んでいる。
湊は深く息を吸い、白い息を吐いた。
(明日から動く。分湯を始める)
寺が邪魔をしても、地侍が口を出しても、外の者が動いても。
湯を会津のものにする。
民が冬を越せるようにする。
それが湊の覚悟だった。
湊は湧き場の方角を見た。
遠くで薄い湯気が立ち上っている。
その白い流れが、月の光に照らされて淡く光っていた。
(玄朔が言った。湯は争いを呼ぶ。だからこそ、誰が握るかで国の形が変わる)
湊は歩き始めた。
雪の上に、足跡が一つずつ刻まれていく。
(前田慶次、寺、地侍、寺に出入りする浪人、背中がまっすぐな男……)
全てが湯に集まってくる。
だが、握るのは湊だ。
「会津の湯は、俺が守る」
湊は呟いた。
月の光が雪を照らし、その白さが淡く輝いていた。
争いの予兆を背負いながら。
覚悟の熱を胸に抱きながら。
湊は湧き場へ向かって歩き続けた。
会津の冬は、まだ始まったばかりだった。




