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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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56話: 湧き場を巡る影、外と内の境界

雪は昼を越えても止む気配を見せず、細かな粉が城下の屋根と道を静かに埋めていく。踏みしめるたび、ぎしりと音が鳴る。その白い世界の中で、妙なざわめきがひとところに集まっていた。


 湊はその気配に気づき、足を止めた。城下の茶屋──そこに、異様なほど場違いな色が揺れていた。


 黒地に紅を差した派手な羽織。雪国には似つかわしくない金糸の飾り。腰に下げた太刀には細工が施され、柄巻が風に揺れるたび、雪の白が返り光を放った。男は雪を払うでもなく、堂々と茶を啜っている。


 (……前田慶次)


 八代の報告と寸分違わぬ姿だった。派手だ。目立つ。だがその立ち姿には隙がなく、ただの傾奇者ではない空気がにじむ。


 周囲の城下の者たちは、距離を取って目を向けながら、近づくことも離れることもできずにいるようだった。


 湊が近づくと、慶次は茶碗を口元に運んだまま、口角だけで笑った。


 「ほう……雪国の若造のくせに、なかなか骨のある目をしてやがる」


 その声は軽いが、奥に鉄の芯があった。無邪気な笑みの裏に、相手の腹の底を探るような鋭さが潜んでいる。


 湊が真正面に立つと、慶次はゆったりと体を起こした。


 「お前さんが、例の“湯”を押さえてる若造か」


 「……誰に聞いた?」


 「そこの坊主よ」


 茶屋の柱の陰に、気まずそうに縮こまる寺の僧が見えた。湯気の向こうから、ぎこちなく目をそらしている。


 (寺が……慶次に情報を漏らしたか)


 湊の胸に、冷えた雪よりも重いものが沈む。


 慶次は湊を斜めから眺め、気に入った玩具を見つけた子供のような笑い方をした。


 「湧き場を見にきたんだ。ここらの噂は面白ぇ。“雪の中から蒸気が立ち上る不思議な場所がある”ってな。だが真に面白ぇのは──」


 男は一歩近づき、低い声で囁いた。


 「“誰がその湯を握るか”だ」


 玄朔の言葉が脳裏に蘇る。


 『湯は争いを呼ぶ。誰が握るかで国の形は変わる』


 敵か味方か測れないこの傾奇者も、やはりそこに注目している。


 湊は静かに言った。


 「湯は会津のために使う。外の者には渡さねぇ」


 慶次は笑みを深め、鼻で息を鳴らした。


 「言い切りやがるとは思わなかったな。よし、一つ試してやろうじゃねぇか」


 「……試す?」


 慶次は太刀の柄を軽く叩いた。その仕草だけで、ただの飾りではなく“使える武器”だと分かる。


 「湯ってのは国も村も動かす力を持つ。そのぶん血も流れやすい。寺は“仏の湯だ”と騒ぎ、地侍は“道を押さえる”と喚き、外の兵は──湧き場を火薬に使えるかどうか、なんて阿呆みてぇな話をしてる」


 湊の背筋がうっすらと粟立つ。


 (火薬の話……どこまで知ってる?)


 「火薬の噂、どこで聞いた?」


 湊が探ると、慶次は肩を竦めた。


 「湯の争いがある土地には必ず漂う匂いだ。湧き場を吹っ飛ばして利権を奪う阿呆なんざ、戦国には掃いて捨てるほどいる」


 男は湊の胸元を指先で軽くつつく。


 「で、お前さんはどうしたい? 寺でも地侍でも外の兵でも、“湯を奪う奴”をよ」


 湊は迷わず答えた。


 「敵なら斬る。湯を奪うなら容赦しねぇ」


 慶次の目がぎらりと光り、口端がゆっくりと吊り上がった。


 「そう来ねぇと面白くねぇ!」


 笑ったその顔は、まるで戦場の風に当てられて育った野生の獣のようだった。


 (この男……“見極め”に来ている)


 敵でも味方でもなく、ただ“価値あるもの”に惹かれ、面白い流れに飛び込む。扱いを誤れば敵にもなり得るが、上手く使えば、これほど頼もしい戦力もいない。


 慶次は茶屋の縁から飛び降り、雪をざくりと踏みしめた。


 「湧き場はあとで行く。その前に──」


 くるりと振り返り、雪景色の中で鮮やかな紅の袖を揺らした。


 「“寺の出方”を見ときてぇんだわ。坊主ども、お前のことをよほど気に入らねぇらしい」


 湊の眉がぴくりと動く。


 「どういう意味だ?」


 「湧き場を押さえてる若造が、仏の湯に手を出してるとよ。『仏罰が下る』『湯を荒らす』って、小娘みてぇに喚いてやがる」


 (……寺はもう俺を敵として扱っている)


 慶次は最後に一本指を立てた。


 「若ぇの、覚悟しとけ。湯を握るってのは、“面白がる連中の心”まで握るってことだ。そいつが一番厄介だぜ?」


 慶次の姿は雪の向こうに薄れていく。その背中から、“風に乗って生きている男の匂い”がした。


 湊は湧き場の方向を見た。


 (風変わりな浪人……前田慶次。敵でも味方でもない。だが、俺を試す気でいる)


 今は、こちらから動くべきではない。相手に動かせ、その動きを読む。それが玄朔も言っていた“争いの初手”だ。


 湊は雪を踏みしめ、湧き場へ戻る道を進み始めた。


 (寺、地侍、外の者……そして慶次。ここが戦場に変わるのは、そう遠くねぇ)


 白い息が、静かに空へ消えていった。

湊が湧き場へ戻る頃には、雪はさらに細かくなり、風に乗って白い砂のように舞っていた。遠くに見える湯気が揺らぎ、ぼんやりと光のように浮かんでいる。


 その前で、三雲と名古屋が並んで立っていた。


 湊が近づくと、二人はすぐに姿勢を正す。


 「どうだった、城下は」


 名古屋が肩を竦めて言った。


 「寺の動きが速い。ここ数日のうちに手を打ってくる気配がある」


 湊は頷き、三雲に視線を向けた。


 「こっちは?」


 「……足跡が増えてた」


 三雲の声はいつもより低かった。


 「昨日より多い。三つ……いや、四つ。だが全部、意図的に消されてる」


 湊は額に雪が落ちるのも忘れ、三雲に詰め寄った。


 「全部、消されてる?」


 「ああ。昨日の奴らとは違う足取りだ。軽いのと重いのと、二つずつだな」


 「二人組が二組か……?」


 名古屋が腕を組んだ。


 「寺の動き、地侍の動き、外の動き……それぞれ別の連中が湧き場を探ってるとすると、説明がつく」


 湊は湯気の向こうに目を細めた。


 (玄朔が言った“湯は争いを呼ぶ”って言葉……ここまで早く形になるとはな)


 三雲は続けた。


 「昨日見つけた火薬の素……あれの残り香が、微かにだが湧き場の北側にも漂っていた」


 「北側……寺とは逆だな」


 「そうだ。だから余計に気味が悪い」


 北側は雪深く、馬も人も近寄りにくい谷間だ。そんな場所に“火薬の匂いだけ残す”ような真似をするのは、ただの脅しではない。


 湊の胸の中で、不安が静かに形を成していく。


 (火薬だけじゃねぇ……“目的の違う奴ら”が、この湯に群がり始めてる)


 名古屋が湯気越しに湊を見た。


 「……慶次とは会えたのか?」


 「会った」


 二人はわずかに息を呑んだ。


 「どうだった?」


 湊は、慶次が見せた笑み──相手を愉しみ、試し、戦う前の獣の気配を思い返した。


 「……俺を値踏みしてた。寺の話も外の話も知ってる。火薬の匂いのことまでだ」


 三雲の眉が跳ね上がった。


 「慶次って男……只者じゃねぇな」


 「そう簡単には敵にも味方にもならねぇ。だが、あの男が“動く理由”は分かった」


 湊は小さく息を吐いた。


 「“面白い方につく”……それが慶次だ」


 名古屋は苦笑した。


 「面白い方、か。湯の争いなんざ、あの男からすれば遊びなのかもしれねぇな」


 「遊びに付き合う気はないが……利用できれば強い」


 湊の声に、二人の顔つきが変わった。


 「……利用、か」


 「必要ならな」


 雪の白に反射した湧き場の蒸気が、三人の間を淡く照らした。


     ◆


 そのとき──木々を揺らす足音が微かに聞こえた。


 三人が同時に振り向く。


 湯気の先、白い霞の中から八代が姿を現した。息を切らし、着物に雪をびっしり貼りつけている。


 「湊様……! 来ました……!」


 「どうした?」


 八代は雪を払いながら急ぎ足で近づいた。


 「寺の動きが……本格化しました」


 湊の目が鋭くなる。


 「具体的には?」


 八代は帳面を開き、震える指で数箇所を示した。


 「まず──寺の僧が城下での噂を倍以上に広めています。“湯は仏のものだ”“若造が湯を汚した”など、民の不安を煽る言動が目立ちます」


 名古屋が舌打ちした。


 「坊主ども、やりやがったな……!」


 八代はさらに続けた。


 「それだけではありません。寺の若い僧たちが、地侍と接触しているのを確認しました。」


 三雲が食い気味に言う。


「やっぱり繋がるのか……!」


 八代は頷いた。


 「寺は“湯を守る側”だと民に印象づけ、地侍には“道を押さえて湯を守れば利がある”と吹き込んでいます」


 湊は唇を強く結んだ。


 (寺は……湯そのものより“民心”を取りにきてる)


 湧き場を直接奪う前に、世論を味方につける。争いを起こしても自分たちが正義でいられるように。


 名古屋が言った。


 「つまり、寺は湯を握る準備が出来てる。あとは……」


 「外の者の動き次第だな」


 湊の声は低かった。


     ◆


 沈黙が湧き場を包み込む。


 雪は絶え間なく降り続け、湯気がその白をほんのり橙に染めながら立ち上っている。いつもの湧き場の音ですら、今はどこか不穏に聞こえる。


 三雲が湧き場の外縁を指差し、声を落とした。


 「湯の周りに……“気配”が増えた。足跡の消し方、匂いの残し方、全部違う。まるで……」


 湊が続きを言った。


 「“複数の勢力が、互いに探り合っている”ってことか」


 三雲は頷いた。


 「そうとしか見えねぇ」


 湊は空を見上げた。


 厚く垂れ込めていた雲の端が、少しずつ形を崩していく。鱗雲が割れ、細い風が通る。


 (風が変わる……)


 玄朔が言った言葉が蘇る。


 『湯は争いを呼ぶ。だからこそ、誰が握るかで国の形が変わる』


 湊は拳を握った。


 (やるしかねぇ。俺たちが動かなきゃ、誰が湯を守る)


 名古屋が問いかけた。


 「湊、どう動く?」


 湊は答えた。


 「まずは──寺より先に、民の信を取る」


 名古屋と三雲が驚いた顔をする。


 「民……?」


 「ああ。寺が“湯を汚した”と噂を広めるなら、その逆を証明すりゃいい。会津の者にとって湯が必要だと示す。俺たちが守る理由をだ」


 三雲が腕を組む。


「湯治か? それとも村への分湯か?」


 「どっちもだ」


 湊は雪を踏みしめた。


 「湯は会津の冬を救う。村々に温かい湯を届けられる仕組みを作る。“湯があれば冬を越せる”ってことを、寺より先に見せる」


 名古屋が目を見開いた。


 「……攻めに出るのか?」


 「寺が動く前に、民心を取る。寺が“湯を守る”と言い張れなくなるくらいにな」


 三雲が唸った。


 「坊主どもが黙ってるとは思えねぇが……」


 「黙らせる理由を作るんだ。湯が“会津のもの”だと示すために」


 雪が風に揺れ、湯気がその中で白い幕のようにたなびく。


 八代が静かに問いかける。


 「……湊様。外の者は、どう扱いますか?」


 湊は迷わず答えた。


 「敵でも味方でもいい。だが──“湯を奪う気があるなら”容赦はしねぇ」


 名古屋はにやりと笑った。


 「そうこなくちゃな」


 三雲が鞘に手を添えた。


 「湯の周りは俺が押さえる。来るなら来いって気分だ」


 八代も静かに頷いた。


 「城下の噂は私が押さえます」


 湊は三人を見渡し、深く頷いた。


 「頼んだ」


     ◆


 その後、三人はそれぞれの持ち場へ散っていった。


 湧き場には湊だけが残り、白い湯気が揺れる岩場の縁に立った。


 風が変わる音がした。


 空の隙間から、淡い夕光が雪を照らし、その白を黄金色に染めていく。湯気もまた橙に揺れ、まるで息づいているように見えた。


 湊は懐から、昨日と今日で拾った“火薬の素の包み”を取り出した。


 小さな布包み二つ。


 匂いは似ているが、調合が微妙に違う。


 (これは──“同じ勢力じゃない”)


 寺の僧の動き、地侍の動き、外の兵の気配、そして……慶次。


 どれも繋がっていないようで、どこかで絡みあう。


 争いの匂いが、確実に濃くなっている。


 湊は湧き場の湯気に向かって、静かに目を閉じた。


 (この湯は会津を変える。だからこそ、俺が握る)


 風が、雪を巻き上げた。


 その中で湧き場の湯気が揺れ、まるで生き物のように形を変えていく。


 湊は薄く目を開け、呟いた。


 「……来るなら来い。寺でも地侍でも、外でも、慶次でも」


 雪が舞い、白い世界が静かに沈んでいく。


 「会津の湯は、俺が守る」


 湯気が風に乗って高く昇り、冬の空へ溶け込んでいった。


 戦いの予兆は、すでに湧き場を包んでいた。

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