55話: 雪原に集う影、鍋の香りの向こう側
雪は夜明けとともに静かに積もり、会津の谷を乳白の底へ沈めていった。
湊は湧き場の縁に立ち、立ち上る湯気の揺らぎを黙って見つめていた。つい数刻前に別れた曲直瀬玄朔の言葉が、胸の奥でまだ熱を帯びている。
『湯は争いを呼ぶ。誰が握るかで国の形は変わる』
あの言葉には、医者という枠では括れない鋭い”外の風”があった。佐竹、真田、伊達──そのどこかと繋がる匂い。
玄朔は、ただの旅医者ではない。
湊は白い息を吐き、湯気に混ざっていくのを見ながら指先で冷えた岩肌をなぞった。
(逃げる道なんてねぇ。逃げれば湯は奪われる。会津の冬は、誰も助けちゃくれねぇ)
そのとき、背後で足音がした。
名古屋が雪を肩に積もらせたまま歩いてくる。
「湊、もう来てたか。……寝てねぇな?」
「この静けさで寝られたら大したもんだ」
軽く笑いながらも、湊の目は冴えていた。昨夜、湧き場の外縁に残されていた”見慣れない足跡”──あれが頭から離れない。
名古屋も湯気を見下ろしながら言った。
「三雲の話だと、寺の裏にまで足跡が続いてたらしいな」
「ああ。寺が怪しいのは前からだ。だが、昨日動いたのは寺だけじゃねぇ。……外の者だ」
湊はしゃがみ込み、湯気が流れた瞬間に露わになる雪の削れ方を観察した。
「足跡、軽いな。昨日の”荷を引いてた足跡”とは違う」
名古屋もしゃがみ込み、雪面を指で払った。
「重心が前。武士の足だな。だが……」
湊が続ける。
「湧き場に向かって、ここで足跡が消えてる」
「湯気の隙に雪をかぶせたんだ。慣れた手だ」
湊は小さく息を呑んだ。
(玄朔の言葉は、脅しじゃなかった。“外の目”がもう入ってる)
そのとき──。
「湊!」
三雲が雪煙を蹴り上げ、駆けてきた。息は白く荒いが、その目は研ぎ澄まされている。
「湧き場の外縁をもう一度回ってきた。寺の裏で、また妙なのを見つけた」
「足跡か?」
「これだ」
三雲は布包みを取り出した。
湊は受け取り、近づけて匂いを嗅いだ。
……硫黄と、焦げた草の匂い。
「火薬の素だな」
名古屋が息を呑む。
「昨日のと別物か?」
「昨日のは”本調合の初手”。今日のは”匂いだけ残す混ぜ”だ。素人の手じゃねぇ」
三雲が静かに言う。
「誰かに見つけさせたい置き方だった」
湊は目を細めた。
(隠す気がねぇ……試してるのか?)
玄朔の声が胸の奥でよみがえる。
『覚悟があるか』
(試してくる奴がいる。玄朔だけじゃねぇ。別の”外”が動いてる)
名古屋が木片を拾い上げ、雪を払う。
「湊、見ろ。薬箱の蓋の破片だ」
湊は受け取った。
昨日の火薬の素。
今日の火薬の素。
そして薬箱の破片。
(三つの影がある……いや、“三つあるように見せてる”可能性もある)
湊は立ち上がり、湧き場を見渡した。
「三雲、名古屋。湧き場の警戒を続けてくれ。俺は一度城下に戻る」
「八代のところか?」
「ああ。城下の動きを直接聞きたい」
名古屋が頷いた。
「気をつけろよ。雪の中、妙な奴がうろついてるかもしれねぇ」
「分かってる」
湊は湧き場を後にし、雪道を城下へ向かった。
◆
城下へ向かう途中、曽根と出くわした。
曽根は湧き場の南側を巡回していたらしく、肩に雪を積もらせたまま湊の前に立った。
「湊、ちょうどよかった」
「曽根殿。何かあったか?」
「湧き場の南側、地侍の連中が動き始めてる」
湊の眉が上がった。
「地侍が?」
「ああ。湯の噂を聞きつけたんだろう。“道を押さえたい”と言い出してる連中がいる」
湊は足を止め、曽根の顔を見た。
「どの程度の動きだ?」
「まだ様子見だ。だが、寺と繋がろうとしてる奴がいるかもしれねぇ。寺が”湯を守る”と言い出せば、地侍はそっちにつく可能性がある」
湊は低く息を吐いた。
(寺、外の者、そして地侍……三つの線が重なり始めてる)
「曽根殿、地侍の動きを見張っていてくれ。寺との接触があれば、すぐに知らせてほしい」
「任せろ。俺は南側を押さえる」
曽根が去っていく。
湊は雪道を再び歩き始めた。
(湯を巡る争いは、思った以上に広がってる。寺だけじゃねぇ。地侍も動き出した)
足元の雪がきしむ。
冬の会津は、音すら凍らせるような静けさを持っている。その静けさの中で、湊の思考だけが熱く動いていた。
◆
城下に着くと、薄い夕靄が降りていた。雪はまだ細かく舞い、民家の屋根を柔らかく覆っている。
湊は城下の外れにある”御膳番小屋”へ向かった。八代と合流する前に、少しだけ腹に入れておきたかった。
扉を開けると、湯気がふわりとこぼれた。
「おう、戻ったか湊様」
鍋の前で腕を組んでいたのは、料理番の老人・権兵衛だった。白い眉毛の下で瞳が細く、だが湊を見ると柔らかく緩んだ。
「腹に入れねぇと動けねぇぞ。雪は体力を吸う」
「助かる。何を作ってる?」
「……たんぽぽの天ぷらと、イナゴの佃煮、それとカエルの汁だ」
湊は一瞬まばたきをした。
だがすぐに鼻をくすぐる”土と草の混じり合った温い匂い”が、幼い日の記憶を呼び起こした。
「懐かしい匂いだな」
権兵衛が鼻を鳴らした。
「会津じゃ昔からの食いもんだ。雪ん中で生きるためにゃ、獣も虫も草も、食えるもんは何でも食う。……冬は特にな」
鍋の中では、薄い皮を剥いだカエルの身がほろりと煮崩れ、出汁に溶けている。驚くほど澄んだ香りが漂い、湊は自然と喉が鳴った。
「……いい匂いだ」
「だろうよ。カエルは湧き場の近くで捕ったやつだ。湧き場の湯気で草が早く伸びるから、虫もカエルも集まる」
湊は座敷に腰を下ろし、温まっていく手のひらを見た。
ここにだけ、戦いの匂いがなかった。
権兵衛が皿を運んできた。
「ほれ」
たんぽぽの天ぷらは、花の部分がほのかに黄金を帯び、油が雪の中の灯のように揺れた。
イナゴの佃煮は甘辛い香りが鼻をくすぐる。
カエルの汁は、白濁した出汁の表面がゆらゆらと揺れ、身はほろりと柔らかい。
湊は箸を取った。
「……いただく」
まずは天ぷらをひと口。
ふわりと軽く、噛めばほのかな苦味と春のような香りが広がる。
(……うまい)
次にイナゴ。
甘みのあとに、雪国の香りがくる。噛むと小さく砕け、冬の命を噛み締めるようだった。
そして──カエルの汁。
舌にのせた瞬間、湧き場の湯気を吸った草の匂いが広がり、薄い塩味の奥に温かい旨味があった。
気づけば湊は目を細めていた。
「湊様、どうだ?」
「……生き返る。戦の前の飯ってのは、こんなにも染みるものか」
権兵衛は静かに笑った。
「戦じゃねぇ。湯の”争い”だ。命を奪われるのは戦場だけじゃねぇからな」
湊は箸を置き、静かに息を吐いた。
「分かってる。湯を守るには、腹も座ってねぇといけねぇ」
権兵衛が茶を注いだ。
「湊様、一つ聞いてもいいか?」
「何だ?」
「湯を守るってのは、誰のためだ?」
湊は茶碗を受け取り、湯気を見つめた。
「……会津のためだ。冬を越せる国にするためだ」
「そうか」
権兵衛は頷いた。
「なら、腹をくくれ。湯を守るってのは、敵を作るってことだ。寺も、地侍も、外の連中も、みんな湯が欲しい。それを押さえるってのは、恨みを買うってことだ」
湊は黙って茶を啜った。
「……分かってる」
「分かってるなら、いい。俺は飯を作ることしかできねぇが、湊様が腹をくくるなら、旨い飯を作り続ける」
湊は小さく笑った。
「頼りにしてる」
食事を終え、湊が立ち上がろうとしたそのとき──
扉が開いた。
八代が雪を払いながら入ってくる。
「湊様、ここにおられましたか」
「八代。城下の様子はどうだ?」
八代は権兵衛に軽く頭を下げてから、湊の前に座った。
「報告があります」
「言え」
八代は帳面を取り出し、書き留めた内容を確認しながら話し始めた。
「城下に逗留している”風変わりな浪人”の正体が、ほぼ確定しました」
湊の目が鋭くなる。
「誰だ?」
「前田慶次です」
湊は息を呑んだ。
前田慶次。
加賀前田家に縁を持ちながら、奔放に諸国を渡り歩く傾奇者。
武勇に優れ、風流を愛し、“面白いもの”に目がない男。
「……確かか?」
「城下の者が覚えていました。派手な身なり、人目を引く振る舞い、そして……茶屋で言った言葉です」
「何と言った?」
八代は声を落とした。
「“面白いものがあると聞いた。雪と湯気が同時に立つ場所だろう?“と」
湊の胸に冷たいものが走った。
(湯の噂を聞きつけて、わざわざ会津まで来たのか)
前田慶次は、ただの浪人ではない。
腕が立つ。人脈も広い。そして、“面白い方”につく男だ。
「八代、慶次はどこに泊まってる?」
「城下の旅籠です。雪見を楽しんでいると嘯いていますが……」
「嘯いてるだけだな」
「はい。湯の噂に異常な興味を持っています」
湊は腕を組んだ。
(慶次が湯に興味を持てば、何かが動く。あの男は”面白くする”のが好きだ)
「八代、もう一つ聞きたい。慶次と寺の接触はあったか?」
八代の表情が曇った。
「……ありました」
「何だと?」
「慶次が寺の僧と言葉を交わしているのを、城下の者が見ています。内容は分かりませんが……」
湊の目が細くなった。
(寺と慶次が繋がったら、厄介なことになる)
寺は湯の利権を主張している。
慶次は”面白い方”につく。
もし寺が慶次を取り込めば、湯を巡る争いは一気に複雑になる。
「八代、慶次の動きを追い続けてくれ。寺との接触が深まるようなら、すぐに知らせろ」
「承知しました」
湊は立ち上がり、窓の外を見た。
雪が降り続いている。城下の屋根は白く覆われ、夕暮れの光が薄く反射していた。
(前田慶次……あの男が何を考えてるか、まだ分からねぇ)
だが、一つだけ確かなことがある。
慶次は”見に来た”のだ。
湯を巡る争いが、どれだけ面白くなるか。
湊がどこまで動けるか。
(試されてる。玄朔だけじゃねぇ。慶次も、俺を見てる)
湊は拳を握った。
「八代、三雲と名古屋に伝えてくれ。湧き場と城下の警戒を一段上げる」
「承知」
八代が立ち上がり、扉へ向かった。
その背中に、湊は声をかけた。
「八代」
「はい?」
「曽根殿にも伝えてくれ。地侍の動きと、寺の動きを両方見張ってほしい、と」
「分かりました」
八代が出ていった。
権兵衛が鍋の火を落としながら言った。
「湊様、敵が増えたな」
「ああ。だが、敵が増えても、やることは変わらねぇ」
「何をする?」
湊は振り返り、静かに答えた。
「湯を守る。会津の冬を変えるために」
権兵衛は頷いた。
「なら、明日も旨い飯を作っておく。腹が減っちゃ戦はできねぇからな」
「頼む」
湊は御膳番小屋を出た。
◆
外に出ると、雪の夜気が頬を刺した。
湊は深く息を吸い込み、白い息を吐いた。
(前田慶次、か……)
あの男が何を考えているか、まだ分からない。
湯を奪いに来たのか。
ただ面白がりに来たのか。
それとも、別の目的があるのか。
(どっちにせよ、会津は舐められねぇ)
湊は城下を歩き始めた。
雪が舞い、足元がきしむ。
寺の動き。
地侍の動き。
外の者の動き。
そして、前田慶次。
すべてが湯に集まってくる。
(来るなら来い。会津の湯は渡さねぇ)
湊は湧き場の方角を見た。
遠くで薄い湯気が立ち上っている。
その白い流れが、冬の空へ消えていく。
(玄朔が言った。湯は争いを呼ぶ。だからこそ、誰が握るかで国の形が変わる)
湊は歩みを速めた。
雪の中、湧き場へ向かって。
◆
湧き場に戻ると、三雲と名古屋が待っていた。
二人は湯気の立つ岩場の近くで、雪を払いながら立っている。
「湊、戻ったか」
名古屋が声をかけた。
「ああ。城下の様子を聞いてきた」
「どうだった?」
湊は二人の前に立ち、静かに言った。
「“風変わりな浪人”の正体が分かった。前田慶次だ」
三雲の眉が上がった。
「……前田慶次? あの傾奇者か」
「ああ。湯の噂を聞きつけて、わざわざ会津まで来たらしい」
名古屋が腕を組んだ。
「厄介だな。あの男は”面白い方”につく。寺と繋がったら、話がややこしくなる」
「すでに寺の僧と言葉を交わしてるそうだ」
三雲と名古屋の表情が硬くなった。
「……まずいな」
「ああ。だから警戒を一段上げる。湧き場と城下、両方だ」
三雲が頷いた。
「俺は外縁を回る。怪しい動きがあれば、すぐに知らせる」
名古屋も続いた。
「俺は寺の裏を見張る。慶次と寺の接触が深まるようなら、すぐに報告する」
湊は二人を見渡した。
「頼む。曽根殿には地侍の動きを見張ってもらってる。八代は城下だ」
「五人で回すか」
「ああ。湯を守るには、これしかねぇ」
風が湧き場を抜け、湯気が揺れた。
三雲が言った。
「湊、覚悟は決まってるな」
「決まってる」
「なら、俺たちも動く。会津の湯は渡さねぇ」
名古屋が肩をすくめた。
「腹をくくった男の後ろは、走りやすいもんだ」
湊は小さく笑った。
「頼りにしてる」
三人は散っていった。
湊は一人、湧き場の縁に立った。
湯気が風に揺れている。
白い蒸気が、冬の空へ消えていく。
(前田慶次、寺、地侍、そして玄朔の背後にある佐竹の影……)
すべてが湯に集まってくる。
湊は深く息を吸った。
冷たい空気が肺を満たす。
その冷たさが、覚悟の形を鮮明にしてくれる。
「会津の湯を、誰が握るか」
湊は呟いた。
「決めるのは、俺だ」
空の端で、鱗雲が崩れ始めていた。
小さな乱れが、やがて大きな変化を呼ぶ。
その予兆が、雲の形に表れているようだった。
湧き場の白い世界の中で、湊の影がゆっくりと伸びていった。
争いの予兆を背負いながら。
覚悟の熱を胸に抱きながら。
会津の冬は、まだ始まったばかりだった。




