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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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54話: 湯煙の影、覚悟の火

 雪は朝になるほど静かに積もり、会津の谷を白く沈めていた。


 湊は山道を歩いていた。つい数刻前に旅の医者——曲直瀬玄朔——を見送ったばかりだ。その残した言葉が、雪の冷気とは逆に胸の奥を熱くしていた。


 『この湯は、国の流れを変える。誰が握るかで、会津の未来は変わる』


 本心か、試すための言葉か、湊にはまだ判断できない。だが玄朔の眼差しには、冗談の色など一つもなかった。


 (あの男……“外”を知っている)


 確信にも似た直感が、湊の中に刻まれていた。


 湯を巡る争いは避けられない。そして外——佐竹、真田、伊達——が静かに動き出している。その気配を、玄朔は確かに背負っていた。


 玄朔が去った後も、湊の足は湧き場から離れられなかった。湯気の立つ岩場を見つめながら、頭の中では幾つもの線が交差していた。


 寺は湯を欲しがる。薬湯という名目で、利権を握りたがる。


 地侍は湯を巡る道を押さえたがる。通行と警護の名目で、権益を主張する。


 村は湯の恩恵を受けたがる。冬の暮らしを支える熱として、分配を求める。


 そして外——佐竹、真田、伊達——は、会津の動きそのものを見ている。


 (全部が湯に集まってくる)


 それは玄朔の言葉通りだった。湯は争いを呼ぶ。だからこそ、誰が握るかで国の形が変わる。


 湊は白い息を吐いた。


 足元の雪がきしむ。冬の会津は、音すら凍らせるような静けさを持っている。その静けさの中で、湊の思考だけが熱く動いていた。


 (逃げられねぇ。もう、この流れからは)


 覚悟という言葉が、胸の奥で形を成していく。


 その時だった。


 「湊!」


 駆けてくる足音。名古屋だった。雪を蹴り上げながら、肩で息をしている。だが目は真っすぐ湊を捉えていた。


 「三雲から知らせだ。湯の近くで、見慣れない足跡を見つけたそうだ」


 「……いつだ?」


 「昨夜から今朝にかけて。寺の裏手を回って、湧き場へ向かってる」


 湊の背筋が静かに伸びた。


 玄朔とは別の者が動いている。


 「特徴は?」


 「三雲が言うには、武士の足運びじゃない。かといって僧でもない。荷を引いてる跡があったそうだ」


 「荷……」


 名古屋は息を整えながら続けた。


 「それと、足跡の間隔が妙だと。普通に歩いてる時と、立ち止まって何かを見てる時が交互にある。地形を探ってる動きだ、と三雲は言ってた」


 湊は眉をひそめた。


 玄朔の言葉が脳裏をかすめる。


 『湯は薬にもなる。扱いを誤れば争いの種になる』


 (薬か、道具か……あるいは、もっと厄介なものか)


 「三雲は今どこだ?」


 「湧き場の外縁を回ってる。足跡を追いながら、周囲の様子を見てる」


 「八代は?」


 「城下で寺筋の動きを探ってる。昼過ぎには戻るはずだ」


 湊は頷いた。


 名古屋が湊の顔をじっと見た。その視線に、何かを確かめるような色がある。


 「……決めた顔してんな」


 「何がだ?」


 「腹をくくった時の顔だよ。周りが何を言おうが、もう止められねぇ時の顔だ」


 湊は答えなかった。ただ、雪の中で深く息を吸い込んだ。


 冷たい空気が肺を満たす。その冷たさが、逆に頭を澄ませてくれる。


 「名古屋、三雲と合流してくれ。俺も行く」


 「了解」


 名古屋が先に駆け出す。湊はその背を追いながら、空を見上げた。


 灰色の雲が低く垂れ込めていた。雪はまだ止む気配を見せない。会津の冬は、これからが本番だ。


 (会津の湯を、誰が握るか。決めるのは俺だ)


 湧き場へ、湊は歩みを速めた。


     ◆


 湧き場に戻ると、三雲が雪の上に膝をつき、足跡を読み取っていた。


 白い湯気が風に流され、三雲の姿を半ば隠している。だがその目だけは鋭く、雪の上の痕跡を追っていた。


 「三雲」


 声をかけると、三雲は顔を上げた。


 「湊、来たか。見てくれ」


 三雲は指で雪を払い、足跡の形を示した。


 「この足跡、ここ最近の者じゃねぇ」


 「玄朔か?」


 「いや、違う。玄朔の足跡は覚えてる。あの男は足の置き方が独特だ。重心が安定してて、雪を踏む音が小さい」


 「この足跡は?」


 「重さが揺れてる。荷を引いてるか、担いでる。しかも湧き場の周りを半円状に回ってる」


 三雲は立ち上がり、湧き場の外縁を指差した。


 「あそこから入って、こっちを回って、寺の裏手へ抜けてる。地形を探りながら歩いてる動きだ」


 「寺の僧か?」


 「僧ならこんな歩き方はしねぇ。寺の連中は、自分の縄張りだと思ってる場所じゃ堂々と歩く。この足跡は違う。慎重で、用心深い」


 湊は足跡を見つめた。


 雪の上に残る痕跡は、確かに三雲の言う通りだった。一定の間隔で足が止まり、周囲を見回した形跡がある。


 (……外の者だ)


 湊の胸に、じわじわと緊張が高まる。


 「三雲、他に気づいたことは?」


 三雲は少し間を置いてから、懐から小さな包みを取り出した。


 「これだ。寺の裏手の雪の窪みに落ちてた」


 乾いた草と灰を混ぜた、小さな包み。手のひらに乗るほどの大きさで、布に包まれている。


 湊は眉をひそめた。


 「……薬草か?」


 「最初は俺もそう思った。だが匂いを嗅いでみろ」


 湊は包みを受け取り、鼻を近づけた。


 かすかに硫黄の匂いがする。それと、何か焦げたような、乾いた匂い。


 「これは……」


 「火薬の素だ」


 三雲の声が低くなった。


 「硝石と硫黄を混ぜた、初歩的な調合だ。このままじゃ火はつかねぇが、木炭と配合すれば爆ぜる」


 湊は息を呑んだ。


 (火薬で湧き場を……?)


 その危険性が一瞬で浮かぶ。源泉を吹き飛ばせば、会津の湯そのものが失われる。


 「三雲、この火薬の素、いつ置かれた?」


 「雪の上に薄く積もってる感じだ。昨夜のうちだろう」


 「……もう来てるのか」


 三雲は頷いた。


 「ただ、妙な点がある」


 「妙?」


 「この火薬の素、隠す気がねぇように見える」


 湊は三雲を見た。


 「どういう意味だ?」


 「普通、火薬を持ち込むなら隠す。雪の下に埋めるか、岩の隙間に入れるか。だがこいつは、雪の窪みに”置いてあった”」


 三雲は包みを指差した。


 「まるで、誰かに見つけてほしいみたいにな」


 湊の背筋に冷たいものが走った。


 (……試されてる)


 玄朔が言った言葉が蘇る。


 『覚悟があるか』


 (この火薬の素は、俺への問いかけだ。どう動くか、見てる奴がいる)


 湊は包みを握りしめた。


 「三雲、この火薬の素は回収しろ。証拠として押さえる」


 「あいよ。それと、寺の裏手には見張りを増やした方がいい。俺一人じゃ目が足りねぇ」


 「分かった。名古屋に頼む」


 名古屋が頷いた。


 「俺が回る。三雲は湧き場の外縁を押さえてくれ」


 「了解」


 三人が動き出す。


 湊は湧き場の湯気を見つめた。白い蒸気が風に揺れ、冬の空へ消えていく。


 (寺と繋がった者か。あるいは、寺の動きに乗じた外の者か)


 どちらにせよ、放ってはおけない。


 湯を守る。その覚悟が、湊の中で固まりつつあった。


     ◆


 昼を過ぎた頃、八代が雪を払いながら戻ってきた。


 息は白く、頬は冷気で赤らんでいる。だが目は澄んでいて、情報を整理した後の落ち着きがあった。


 「湊様、城下の様子を見てきました」


 「どうだった?」


 「少し妙です」


 八代は帳面を取り出し、書き留めた内容を確認しながら話し始めた。


 「旅装の男を見たという噂が、湯の周囲だけでなく城下にも広がっています」


 「情報が漏れている?」


 「はい。ただ、自然に漏れたのではありません。誰かが意図的に広めた気配があります」


 湊の目が鋭くなる。


 「誰が?」


 「城下の者が言うには、寺の僧が吹聴して回っているようだと」


 「……寺か」


 それは想定内だった。寺は湯の利権を手放したくない。先に噂を流して混乱させるのは常套手段だ。


 だが八代の表情には、まだ続きがあることを示す影があった。


 「それと……もう一つ、妙な噂があります」


 「言え」


 「城下に、風変わりな浪人が逗留しているそうです」


 湊は眉を上げた。


 「浪人?」


 「はい。雪見の風流を楽しんでいると嘯いているとか。派手な身なりで、人目を引く振る舞いをしているそうです」


 「名は?」


 「分かりません。ただ、湯の話を聞いて興味を示しているようだと。城下の茶屋で、“会津に面白い湯があるらしいな”と話していたと聞きました」


 湊は腕を組んだ。


 (風変わりな浪人……雪見の風流……派手な身なり……)


 何者かは分からない。だが、湯の争いに首を突っ込もうとする者がいる。


 「その浪人、寺との接触は?」


 「今のところ確認できていません。ただ、城下をうろついているのは確かです」


 「動きを探れるか?」


 「はい。城下に顔の利く者がいます。そちらに頼んでみます」


 湊は頷いた。


 八代は帳面を閉じ、少し声を落とした。


 「湊様、もう一つ気になることがあります」


 「何だ?」


 「寺の動きですが……単に湯の利権を主張しているだけではないように見えます」


 「どういう意味だ?」


 「噂の流し方が、計算されています。まず”旅装の男が来た”という話を広め、次に”湯が狙われている”という不安を煽り、最後に”寺が守る”という流れを作ろうとしている」


 湊は息を呑んだ。


 (……寺は、湯を”守る側”として立とうとしている)


 それは単なる利権争いではない。民心を掴むための、周到な動きだ。


 「八代、寺の動きを詳しく追ってくれ。誰が噂を流しているか、どこまで広がっているか」


 「承知しました」


 八代が去った後、湊は湧き場の方を見つめた。


 湯気が風に揺れている。その白さが、まるで霧のように湧き場を包んでいた。


 (寺は動いている。外の者も来ている。そして、風変わりな浪人まで……)


 すべてが湯に集まってくる。玄朔の言葉通りだった。


 湊は拳を握った。


 (だったら、俺が先に動く)


     ◆


 夕刻近くになって、名古屋が戻ってきた。


 雪を払いながら、湊の前に立つ。その表情には、何か掴んだ者の色があった。


 「湊、足跡を追った」


 「どこまで行けた?」


 「寺の裏手で消えてた。雪で隠したんだろう。だが、その手前で妙なものを見つけた」


 名古屋が懐から、小さな木片を取り出した。


 「これだ」


 湊は木片を受け取った。掌に乗るほどの大きさで、表面は滑らかに削られている。


 「……何だ、これは?」


 「薬を保存する箱の破片だ。俺も昔、似たようなものを見たことがある」


 「薬の箱……」


 湊は木片を見つめた。


 三雲が見つけた火薬の素。名古屋が見つけた薬箱の破片。そして、荷を引いていた足跡。


 すべてが繋がり始めている。


 「名古屋、この木片、わざと落としたように見えるか?」


 名古屋は少し考えてから答えた。


 「……言われてみりゃ、そうだな。雪の窪みにきれいに置いてあった。落としたっていうより、置いたって感じだ」


 (やはり……試されてる)


 湊は木片を握りしめた。


 火薬の素も、薬箱の破片も、偶然ではない。誰かが意図的に残している。


 (俺がどう動くか、見てる奴がいる)


 玄朔か。それとも、玄朔と繋がる別の者か。


 あるいは、まったく別の勢力か。


 湊には分からなかった。だが一つだけ確かなことがある。


 (湯を巡る争いは、もう始まっている)


 「名古屋、三雲を呼んでくれ。八代も戻ったら、全員で話がしたい」


 「分かった」


 名古屋が駆けていく。


 湊は湧き場の縁に立ち、湯気を見つめた。


 白い蒸気が風に揺れ、冬の空へ消えていく。その向こうに、まだ見えない何かがある。


 (この湯は、国の流れを変える)


 玄朔の言葉が、胸の奥で響いていた。


     ◆


 日が傾き始めた頃、四人が湧き場の近くに集まった。


 湊、名古屋、三雲、八代。


 雪が降り続く中、四人は輪になって立っていた。吐く息が白く、互いの顔を霞ませる。


 湊が口を開いた。


 「状況を整理する」


 三人が頷く。


 「まず、三雲が見つけた足跡。昨夜から今朝にかけて、湧き場の周囲を探っていた者がいる。武士でも僧でもない。荷を引いていた」


 三雲が続けた。


 「火薬の素も見つけた。硝石と硫黄の調合だ。ただ、隠す気がねぇように置いてあった」


 名古屋が付け加えた。


 「俺が見つけた薬箱の破片も同じだ。わざと残したように見える」


 八代が帳面を見ながら言った。


 「城下では、寺の僧が噂を流しています。旅装の男が来たという話と、湯が狙われているという不安を煽っています」


 湊は頷いた。


 「そして、城下に風変わりな浪人が逗留している。湯に興味を示しているらしい」


 四人の間に、静かな緊張が流れた。


 三雲が呟いた。


 「……敵が多いな」


 「ああ。だが、敵の正体はまだ分からない」


 湊は湧き場を見つめた。


 「分かっているのは、湯を巡って複数の動きがあるということだ。寺、外の者、そして……俺たちを試している誰か」


 八代が眉をひそめた。


 「試している……?」


 「火薬の素も、薬箱の破片も、わざと残されていた。俺たちがどう動くか、見ている奴がいる」


 名古屋が腕を組んだ。


 「玄朔か?」


 「分からない。玄朔かもしれないし、玄朔と繋がる別の者かもしれない。あるいは、まったく別の勢力か」


 湊は深く息を吸った。


 「だが、一つだけ確かなことがある」


 三人が湊を見た。


 「湯を守るのは、俺たちだ」


 その言葉に、三人の表情が変わった。


 三雲が口元を緩めた。


 「ようやく言ったな。それでこそ湊だ」


 名古屋が肩をすくめた。


 「腹をくくったか。なら、俺たちも動きやすい」


 八代が静かに頷いた。


 「湊様の覚悟、確かに受け取りました」


 湊は三人を見渡した。


 「湯の周囲すべてに、二重の目をつける。寺側、外側、村側。全部を押さえる」


 「了解」


 「三雲は湧き場の外縁。名古屋は寺の裏手。八代は城下の動きを追ってくれ」


 三人が頷く。


 湊は最後に、声を落として言った。


 「異変があれば、遠慮はいらない。俺の名で動け」


 八代の目が見開かれた。


 「湊様、それは……」


 「覚悟を決めた。湯を守るためなら、敵は誰でもいい」


 湊の声は静かだった。だが、その静けさに三人は確かな重みを感じた。


 風が吹いた。


 空の端で、鱗雲が崩れ始めていた。小さな乱れが、やがて大きな変化を呼ぶ。その予兆が、雲の形に表れているようだった。


 三雲が言った。


 「寺が来ても、外が来ても、この湯は渡さねぇ」


 名古屋が続けた。


 「湊が前に立つなら、俺たちは後ろで流れを作るさ」


 八代が静かに締めくくった。


 「会津の湯を、会津のために。それが湊様の覚悟なら、私たちも従います」


 湊は三人を見つめ、小さく頷いた。


 「頼りにしてる」


     ◆


 三人が散った後、湊は一人で湧き場の縁に立っていた。


 湯気が風に揺れている。白い蒸気が、冬の空へ消えていく。


 雪は止む気配を見せない。会津の冬は、これからが本番だ。


 湊は懐から、三雲が見つけた火薬の素の包みを取り出した。


 布に包まれた、小さな塊。これが湧き場を吹き飛ばす力を持っている。


 (誰が残した? 何のために?)


 答えは出ない。だが、湊の中で一つの確信が固まっていた。


 (この火薬の素は、俺への問いかけだ)


 玄朔が言った。


 『覚悟があるか』


 この火薬の素を残した者も、同じことを問うている。


 湊が湯を守る覚悟があるかどうか。


 湊がどこまで動けるか。


 湊が何を捨てられるか。


 (……試されてる。だが、試されるのは悪いことじゃない)


 湊は火薬の素を懐に戻し、湧き場を見つめた。


 湯気の向こうに、まだ見えない未来がある。


 会津の冬を変える湯。


 国の流れを変える資源。


 争いを呼ぶ熱。


 そのすべてが、この湧き場に集まっている。


 (玄朔が言った。湯は争いを呼ぶ。だからこそ、誰が握るかで国の形が変わる)


 湊は深く息を吸った。


 冷たい空気が肺を満たす。その冷たさが、覚悟の形を鮮明にしてくれる。


 「会津の湯を、誰が握るか」


 湊は呟いた。


 「決めるのは、俺だ」


 風が吹いた。


 雪が舞い、湯気が揺れた。


 湧き場の白い世界の中で、湊の影がゆっくりと伸びていった。


 (外の影は、もう間近にある)


 寺の動き。


 火薬を残した者。


 風変わりな浪人。


 そして、玄朔の背後にある佐竹の影。


 すべてが湯に集まってくる。


 (来るなら来い。会津の湯は渡さない)


 湊は拳を強く握った。


 夕暮れの光が雪に反射し、湧き場を淡く照らしていた。


 湯気は変わらず立ち上り、冬の空へ消えていく。


 その白い流れの中で、湊は静かに立ち続けていた。


 争いの予兆を背負いながら。


 覚悟の熱を胸に抱きながら。


 会津の冬は、まだ始まったばかりだった。

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