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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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53話: 湧き場に立つ覚悟と、影の医の歩む道

湧き場へ通じる山道は、白い雪に覆われ、昼か夜かも曖昧になるほど静かだった。

 その中を、湊は先頭に立って歩いていた。名古屋の“先客”の報せが、胸の内を鋭く冷やし続けている。


(寺か……いや、それにしては動きが早い。地侍か? いや、それとも——)


 判断材料は少ない。

 だが、湯を押さえるという目的だけは揺るがない。

 この湯は会津の冬を支える。湊はすでに、その覚悟を内側に固めていた。


「湊殿、もう少しで湧き場の尾根に出ます」


 先を行く八代が声を掛ける。灯りが雪の粒を照らし、静寂の中に明かりの道をつくっていた。


「寺筋が真っ先に来れば、面倒な理屈を並べて湯を“寺領の一部”に引き込もうとします。あの辺りは昔、参詣道があったと聞きますから」


「わかっている。だからこそ急ぐ」


 湊は即答した。

 八代はその声にわずかに目を見張り、頷く。


「……覚悟が、固まっておられるようで」


「湯は国に使う。人を働かせ、癒し、冬を越すための力だ。それを、形だけの権威で奪われてたまるか」


 言い切った湊の声は、雪の森に吸い込まれていく。

 名古屋と曽根も、無言でその背を追った。


 


 湊の脳裏には、寺・地侍・町人……さまざまな顔が浮かんでいた。

 だがそのどれでもなく、胸のどこかにひっかかっている存在がある。


(“湯に詳しい旅の医者が近くにいる”という噂……。名古屋の言う旅装の男……。まさかとは思うが)


 思考は途中で断ち切られた。


 前方の木陰がサラ、と揺れた。


「……三雲か?」


 曽根が刀に手を添えた直後——


「湊殿!」


 雪を蹴り上げて、三雲成持が姿を現した。

 息を弾ませ、額には雪が張りついている。


「先客が湧き場へ向かっております!」


「どれほど前に?」


「この道を通って、つい先ほど。武士とも薬師ともつかぬ……しかし湯に慣れた目つきでした」


「湯に慣れた……?」


 八代が言葉を飲む。


 湯に慣れている人間など限られている。

 医者、薬師、あるいは温泉地を抱える大名家に仕える者。だが、この地にそんな者が来る理由はない。


(となると……寺が呼んだ者か? いや、地侍が独自に雇った山伏かもしれぬ)


 湊は雪を踏みしめた。


「三雲、その男は湧き場のどの側から入った?」


「北側の崖沿いです。普通は通らない細道ですが……場所を知っている者の足つきでした」


「……わざわざ険しい側から?」


 名古屋が唸る。


「湯の匂いを読むように進んでいたそうです」


「湯を読む……?」


 曽根が眉をひそめる。


「医者筋か薬師筋であれば、湯気の色や匂いで効能を探る者もいますな。だとすれば……」


「面倒なことになる前に、押さえるべきだな」


 湊は短く言った。


「名古屋、周辺の村々に“湯は藩府の管理とする”という口上を流せ。寺への伝わりが遅れるように、道筋を選べ」


「承知」


「八代殿は、湯の用途を文にまとめてくれ。軍馬の疲労、農具作りの人夫、冬の怪我人の療養……公的な理由を多く並べる」


「すぐに書き起こします」


「曽根殿、三雲。地侍の動きが出る前に、湧き場周辺の道を押さえろ。人の出入りを不審なく見張るのだ」


「任せろ」


「了解」


 雪が降りしきる中、指示が次々と飛び交い、湊の小勢が動き始めた。


 


 湯気が風に流れ、わずかに香りが届く。

 湊はその気配に目を細めた。


(湯は、争いを呼ぶ……だが、それでも使う。国を支える柱にするために)


 胸の奥に、静かな熱が灯り続けている。

 その熱は、恐れからではなく、覚悟から生まれたものだった。


(逃げる気はない。湯を誰が握るか——その選択が、会津の未来を決める)


 湊は歩を進めた。


 白い湯気が視界を満たし、その奥に、誰かの影が揺れた気がした。


(あれは……先客か?)


 影は湯気と雪の境界に立っていた。

 姿は見えない。剣気も殺気も感じない。

 ただ、湯を“読む”者だけが持つ静かな気配——。


(……何者だ)


 湊は一歩だけ前に出た。


 影はふっと消えた。


 まるで、湯の奥へ溶けるように。


「湊殿?」


「……いや、行くぞ。湯を押さえるのが先だ」


 湊は歩を続けた。

 湧き場の白い世界が、音もなく迎え入れる。


 雪の冷たさと、湯気の温もりの狭間で——

 湊の覚悟だけが、鋼のようにまっすぐに伸びていた。

湯気が、夜の冷えた空気に広がっていた。

 月は薄い雲の奥に隠れ、辺りは青白い雪明りだけが地面を照らしている。

 湧き場の蒸気がゆらぎ、その向こうに――ひとつの影が立っていた。


 玄朔だった。

 湊は、胸の奥が冷たく締まるのを感じた。


 この男は、ただの旅の医者ではない。

 最初に会ったときから、それは分かっていた。

 言葉の端々、指の動き、土を見る眼の深さ。

 どれも“現場を知らぬ者の動きではない”。


 玄朔は湧き場の湯をすくい、しばらく掌に乗せていた。

 その手つきが妙に丁寧で、同時に厳しかった。


「……思ったより、良い湯だ」


 背を向けたまま、玄朔が呟いた。

 湊は少し近づき、静かに言葉を落とした。


「湯を見に来たのですか」


「湊殿。そなたは、なぜ湯を押さえに来た?」


 問いが返ってくる速さに、湊の胸の奥で何かが跳ねた。

 追及というより、覚悟を測る声音だった。


「湯は……冬を越える力になる。兵の疲れも、民の身体も救える。

 この地に根を張る以上、湯は避けて通れぬ資源です。」


 玄朔はゆっくりと振り向いた。

 雪の光が頬に反射し、その表情に深い陰が落ちる。


「――では、湊殿。問おう。」


 玄朔の視線は強かったが、激情ではなく“見極め”だった。


「湯を得て、そなたは、何を変えようというのだ?」


 湊は一歩踏み出した。

 呼吸が白く散る。

 この問いは避けられない。

 逃げれば、玄朔に“浅い男”と判じられる。


「会津の冬を、弱点から武器に変える。

 普請、人夫、兵士、寺社、町――すべてを繋ぐ“流れ”にしたい。」


「流れ……?」


「はい。湯が流れ、金が流れ、人が流れれば、国は動きます。

 いまは細い糸でも、束ねれば道になる。」


 玄朔の表情は変わらない。

 湊は続けた。


「上杉は戦に強くとも、冬に弱い。

 しかし、弱みを克服できるのなら、徳川に怯える必要はない。」


 その瞬間――

 玄朔の眼の奥に、ひどく冷たい光が灯った。


「徳川、か。」


 言葉は静かだが、底に硬い刃があった。

 湊は気づいた。

 この男は、東国の勢力図を熟知している。

 ただの医者が出す反応ではない。


「湊殿。」

 玄朔がゆっくりと歩み寄ってくる。

 雪の上の足音がやけに鮮明だった。


「そなたの言葉に、嘘はない。だが――。」


 玄朔は湊のすぐ目の前で足を止めた。


「覚悟が見えぬ。」


 湊の胸がわずかに震えた。

 しかし、逃げる道はなかった。


「……覚悟、ですか。」


「湯は地を動かす。

 地を動かせば、寺が動き、村が動き、地侍が動き、戦が動く。

 湯を握るとは、血を握ることと同じだ。」


 玄朔の声は、雪解けのように静かで、冷たく深かった。


「湯を国の力に変える覚悟――。

 そなたには、それがあるか?」


 湊は拳を握った。

 白い息が大きく広がる。


「……あります。」


「言葉では、誰でも言える。」


「覚悟があります。」


「その証は、どこにある?」


 湊は息をずらさず、玄朔の目を見て言った。


「私は、この地を捨てません。

 誰に笑われようとも、誰が奪いに来ようとも、湯を守り抜く。

 この湧き場が、人々の命をつなぐ“冬の道”になるまで。」


 玄朔は目を細めた。


「……冬の道、か。」


 その言葉を反芻するように呟いたあと、ふっと息を吐いた。


「湊殿。そなたの覚悟、確かに聞いた。」


 玄朔は視線を湯へ戻した。


「そなたが本気で湯を守るなら――。」


 そこで玄朔は言葉を切った。

 そして、湊だけに聞こえる声で低く続けた。


「佐竹には、決して気を抜くな。」


 湊の目がわずかに揺れた。


「……佐竹が、湯を?」


「狙わぬ理由がどこにある。」


 玄朔は湧き場を一瞥し、続けた。


「湯は戦だ。

 戦は……誰もが欲しがる。」


 その声音にだけ、わずかな疲れが混じっていた。

 湊は直感した。


(この男……佐竹の内情を、深く知っている)


 玄朔は湊に背を向け、歩き出した。

 雪を踏む音が月に吸い込まれていく。


「湊殿。そなたが国を動かすつもりなら、湯の周りを“整えろ”。

 寺、村、地侍、人夫、町方。

 誰も文句を言えぬ理を作るのだ。」


 湊は深く息を吸った。


「……承知しました。」


 玄朔の背が遠ざかる。

 闇に溶ける寸前、湊は声をかけた。


「あなたは……何者なのですか。」


 雪明りが揺れた。

 玄朔は振り返らない。


「ただの旅の医よ。」


 そう言って、湯気の向こうへ消えていった。


 湊はしばらく、湧き場の蒸気を見つめて立ち尽くした。

 風が吹き、湯気が形を変え、夜の空へ消える。


(玄朔……旅の医者。だが――。)


 湊の胸に、燃えるような確信が生まれていた。


(あの男は、ただの医者ではない。)


 覚悟を問われた。

 試された。

 見られた。


 そして、まだ評価は下されていない。


 湊は湧き場の湯に手を伸ばした。

 熱が、冷えた指に染みる。


「……負けるものか。」


 夜の湧き場で誓ったその言葉は、雪の闇に吸い込まれていった。

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