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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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52話: 湯煙の兆し、争いの幕開け

湯の流れる音が、雪に吸い込まれるように静かだった。

 湊が湧き場へついた頃、周囲の雰囲気はすでにただの自然ではなかった。冷たい空気の奥に、人の気配が混じっている。


「……三雲は?」


 湊が問うと、八代が視線を南へ向けた。


「湯の下流を追っているはずです。名古屋殿も寺筋側の動きを探っております」


「なら、急がねばならぬな」


 湊は湯煙の向こうを見つめた。

 白い蒸気が揺れ、その隙間にほんの一瞬、人影のようなものが見えた。


(……誰だ?)


 名古屋の報せ——

 “湯の側で見慣れぬ旅装の男”

 その言葉が、湊の背筋に冷たい緊張を走らせる。


 湯は利権だ。

 一度寺が握れば、藩府の意図も動きも制される。

 湧き場の政治的価値を知る者が外から入り込めば、争いは必ず拡大する。


 湊は深く息を吸った。


(ここを押さえられねば、冬の産業も普請も、何一つ動かない)


 その覚悟が胸を熱くした。


     ◇


 曽根が湧き場の周囲を一巡し、戻ってきた。

 顔は冷え切っているが、目だけは冴えていた。


「湊殿……やはり“人の足跡”がある。寺の下働きじゃねぇな。こんな山道を越えて来るような奴じゃねぇ」


「旅人と見て間違いありませんか」


「間違いねぇ。しかも軽い足取りだ。戦場を歩き慣れてる足の運びだ」


 戦働きのある者。

 そう曽根が言うなら、ほぼ確かだ。


 八代が帳簿を抱えたまま、湧き場を見下ろした。


「湯が争いになると、寺は必ず“古来からの権利”を持ち出します。今ここに他国の者がいれば、寺筋はその男を抱き込み、湯の所有を主張する口実を得るでしょう」


「つまり、“外の目”に先に触れられたら終わり……か」


「はい。湊殿の案はすべて、その瞬間崩れます」


 湊は湯気の向こうに視線を投げた。


(寺筋、旅の男、そして噂されている医者……動く影はすでに三つ)


 それでも、湊の足は止まらなかった。


「曽根。湧き場の周囲を広く抑えろ。警戒は布だが、過剰な威圧は避けてくれ」


「承知した。けどよ、湊殿……本当にやるんだな?」


「やらねば、会津は冬に負ける」


 その一言で、曽根は何も言えなくなった。

 八代ですら、驚きと決意の混ざった表情で湊を見つめていた。


     ◇


 やや遅れて、名古屋が駆け寄ってきた。

 雪を蹴り上げ、息を白く吐きながら。


「湊殿! 三雲殿から報せ!」


「言え」


「旅の男、寺社の裏道を抜けて北へ向かった。湧き場の上手だ。三雲殿は追跡中とのこと」


「寺社の裏道……」


 湊は短く息をついた。


「あれは、外者を案内する道じゃない。寺筋“側”の誰かが、道を知らせたか……」


「ええ。そうでなければ通れぬはず」


 八代の声が低く冷えた。


「つまり、“寺が先んじて動いた”ということです」


 湊は視界の奥で、湧き場の白い蒸気が揺れるのを見た。


(寺筋が男と接触した。湯の争いはもう始まった)


 ならば、湊に残された道はただ一つだった。


「名古屋。湧き場の入口を固めろ。“調査のため藩府が暫定管理する”と言え」


「了解!」


「八代、湯の記録をすべて書き上げてくれ。“藩府の公文書”として残す。寺が何を言おうと、先に書いてあればこちらが正義だ」


「御意」


「曽根、三雲を追え。他国の者が湯の上流に入り込むようなら、言葉で止めろ。手荒はするな。ただし、こちらの意図は通せ」


「任せろ」


 三人が散っていく。


 湯気の白さ、雪の白さ、そして争いの気配。

 そのすべてが、湊の中の“決意の火”を強くする。


(来るがいい。争うなら、正面から受けて立つ)


 湊は湧き場の縁に立ち、蒸気の向こうの山を見つめた。


 その時、遠くから三雲の合図が聞こえた。

 短く、鋭く、そして警戒を含んだ音。


 敵ではない。

 しかし“見過ごせない相手”——精密な意味を持つ三雲特有の合図。


「……見つけたか」


 湊は雪を踏みしめ、歩き出した。


 争いは形を取り始めた。

 冬の産業も湯治場の構想も、上杉の未来も——

 その第一歩は、この湯の白い霧の中から始まる。


 湊は拳を強く握った。


(ここを押さえる。

 ここから会津の未来を作る。

 湯を、力に変える——)


 白い湯煙は、まるでその覚悟を映すように揺れ続けていた。

三雲の合図が響いた方向へ、湊は雪を踏みしめて進んだ。

 林の木々は冬の重さを宿し、枝の一本一本が沈むように垂れている。

 冷たい空気の中で、湯の蒸気だけが異質な温かさを帯びて揺れていた。


 木々を抜けた先に、三雲の姿があった。

 膝をつき、地面の雪を払って何かを見ている。


「三雲」


 三雲は顔を上げる。

 その眼には、戦場で敵の痕跡を探す時と同じ鋭さがあった。


「湊殿……旅の男の足跡です」


「ここで、止まったのか?」


「いいえ。止まったのではなく、“何かを捨てた”様子です」


 三雲は湊に手招きした。

 雪を払った土の上に、黒い草包みがあった。


「……薬草?」


「おそらく。匂いを嗅げば分かりますが——」


 三雲は包みを開き、ほんの少しだけ湊の方へ寄せた。


 ふわりと、乾いた草の香りが鼻に残る。


「これは、会津の山には自生しない草です」


「なら……持ち主は他国か」


「間違いありません。旅の医者か、薬売りか……。ですが普通の者なら、自分の草を“ここで捨てる”理由はありません」


 三雲の声が、いつもの穏やかさを失い、警戒を帯びたものになる。


「湯の熱で効能が変わる草です。扱いに慣れていない者なら、ただの荷物になる。しかし……」


「慣れていれば?」


「湯を見にきた時、“役に立つ”と判断したはずです」


 湊は息を呑んだ。


(……湯と薬。冬の産業、湯治、軍馬、兵の疲労……すべてが一本の線につながる)


 ここで医術に通じた者が湧き場に目をつけたなら——

 その価値は、寺も他国も放っておくはずがない。


     ◇


「寺筋の者は?」


 湊は質問を切り替えた。

 三雲は森の奥を指差す。


「湧き場の裏手へ向かった僧が一名。追いかけるように、旅の男が通った形跡があります。寺筋が案内したか、あるいは湯の価値を見せたか……」


 八代が険しい顔で続ける。


「寺が外者と結びつくのは最悪です。“湯の所有権”を主張する材料になってしまう」


「湯は寺のものだ、古くから薬湯として——と言い始めるわけか」


「はい。利権としての湯は、それほど強いのです」


 曽根が舌打ちした。


「外者を入れさせねぇように見張ってたが……寺の裏道までは俺らも把握しきれてねぇ。先に動かれたか」


 湊は静かに首を振った。


「いや……まだ間に合う。

 寺が湧き場を主張する前に、“藩府の調査が先”という形を作ればいい」


「そのために、名古屋に“入り口押さえ”を命じたんだな」


「そうだ。ここからは、筋の通し方が肝になる」


 湊の声に、三雲と八代、曽根の三人が息を呑んだ。

 普段の湊より、声に覚悟があったからだ。


     ◇


「三雲、旅の男の特徴は?」


 三雲は少し目を伏せた。


「僧服ではありませんでした。武士とも違う。……ただ、“山を歩き慣れた医者”と見た方が近いでしょう。足捌きが綺麗です」


「医者か」


「はい。僧に連れられていたとは思えない。むしろ……僧が男に興味を示した形跡があります」


「興味?」


 三雲は雪に残る足跡を指し示した。


「僧だけの足跡なら等間隔で歩きます。しかし、この足跡……途中で向きを変え、男の足跡を追うようになっている」


「つまり……寺筋の僧は、旅の男の“何か”に気づいた」


「そういうことです」


 八代は息を呑んだ。


「湯×医者×寺——最悪の組み合わせです。

 寺が“医者が湯を褒めた”と言い張れば、所有権を主張できます」


 湊の胸に冷たいものが広がった。


 だが、その中で静かに燃える熱もあった。


(——それでも湯を押さえる。この流れは絶対に譲れない)


     ◇


 その時——

 遠くから名古屋が駆けてきた。


「湊殿! 寺の坊主三名が湧き場へ向かっています! 入口封鎖を見て、理由を問いただす気のようです!」


 三雲が低くつぶやく。


「……来たな。やはり寺は動いた」


 曽根が槍の柄を軽く肩に担いだ。


「どうすんだ、湊殿。押し戻すか?」


「いや、それでは争いになる。

 ここは俺が行く。寺との最初の会合は、俺が筋を通す」


「湊殿一人で?」


 八代が思わず声を上げた。


「相手は外者の存在を盾に、“湯は寺の権利”と言ってくるでしょう。ならば理で返すしかない。寺の前で俺が動けば、藩府が湯を正式に扱う口実になる」


 曽根が湊の肩に手を置いた。


「覚悟はできてんだな」


「もちろんだ。

 これは、会津の冬を変える最初の戦いだ」


     ◇


 湊は湧き場へ戻った。

 名古屋の部下が入口を押さえ、寺の僧三名が険しい顔で立っている。


 一人の僧が湊に声をぶつけてきた。


「この湯は古来より寺が見守ってきたもの。勝手に封じるとは何事か!」


「封じたのではない。“調査”だ」


「調査? 聞いたことのない話だ!」


「聞いたことがないからこそ、俺が作った」


 湊の声は低く、しかしよく通った。


「ここは藩府の領内であり、湯は治療にも労働にも影響する。今後の普請にも冬の産業にも関わる。寺だけで判断する領分ではない」


 僧たちは一瞬黙った。

 湊の言葉に“筋”があると理解したからだ。


「さらに言う。寺が先に外者を湧き場に入れたのは、誰の許しによるものだ?」


 僧が息をのんだ。


「な……何の話だ」


「山道に足跡があった。寺の足跡と並んでいた。外者と会ったな?」


「そ、それは……!」


 僧たちの視線が揺れる。

 嘘はつけない。三雲の足跡の読みは絶対だ。


「外者を入れたのは寺側だ。ならば“寺が湯の管理を独占していない”証拠になる。つまり、寺が言う古来の権利は、この場では成立しない」


 湊は一歩踏み出した。


「湯は藩府が調べる。

 寺の意見も聞くが、最後に決めるのは“藩府”だ」


 白い湯気が風に流れ、湊の背を押すように揺れた。


 湊の声は、はっきりと響いた。


「ここを国のために使う。その覚悟はできている」


 僧たちは互いに視線を交わし、言葉を失った。


 争いはまだ始まったばかり。

旅の男の正体も、寺の動きも、湯が呼ぶ未来も——すべてがまだ白い霧の先にある。


 それでも湊は揺らがなかった。


(湯を押さえる。ここから、会津の未来を作る)


 湧き場の熱が、湊の決意と同じ温度で静かに燃えていた。

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