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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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51話:白湯に燃える志

湊は雪の道を踏みしめながら、湧き場へ向かって歩みを速めた。白い息が荒くなる。しかし足は止まらない。

 寺筋、村落、名古屋が拾ってきた噂。

 そして、三雲が見た“旅の男”。

 湊の胸の奥で、ひっそりと積み上げてきた覚悟が、ついに形になる時が来たのだ。


(湧き場を押さえる。それができなければ、会津の冬は越えられない)


 城下を出て南の林へ踏み入ると、雪を踏む音が吸い込まれるように静まった。

 やがて細い獣道に入ると、前方に人影が見えた。


「……湊殿!」


 三雲が風に白髪を揺らしながら駆け寄ってくる。


「いたか?」


「ええ。湧き場の近くです。妙な男でしてな。寺の裏手をすり抜けてきたようで……目つきが鋭い。医者のような匂いを感じました」


「医者……」


 やはり、と湊の胸が熱を増す。


「三雲。案内を頼む」


「心得ました」


 二人は木々の合間を進み、やがて湯気がうっすらと漂い始める場所へ出た。雪の白さと湯気の白さが混ざり、世界がぼやける。

 湊は無意識に息を整えた。


 湧き場には、ひとりの男が立っていた。


 粗末な旅装。

 腰の袋は薬種で膨れ、足元には雪を避けるように敷いた木板。

 長い旅の痕跡をいくつも背負っている男だった。

 湯の蒸気を掌で受けながら、静かに観察している。


 三雲が小声で言う。


「あれです。寺筋の者でも、地侍でもありません。旅の売薬なら湯など見向きもしない」


「湊殿、どうします?」


「……行く」


 湊は足を踏み出した。

 湧き場の縁で湯気をまとった男が、こちらに気づく。目が鋭く細められた。


「この湧き場を見に来たのは、おぬしらか」


 声は低いが、どこか確信めいた響きがあった。


「私は上杉家差配・清原湊。そなたは何者だ」


 湊が名乗ると、男はわずかに驚き、視線を湯の奥へ向けてから言った。


「名乗るほどの者ではない。ただ……この湯が気になってな」


「気になって? 寺でも地侍でもない者が、なぜ湧き場へ?」


 男は湯気をもう一度手に受けた。


「温い湯は、土地の“血脈”みたいなものだ。強い土地には強い湯が湧く。冬でも人を癒し、馬の脚を保つ。……この湯、会津の冬に似合う」


 湊の背筋に冷たい風が走った。

 この男は、ただの旅人ではない。


 男は続ける。


「湯は人を呼ぶ。集まれば、そこに道ができ、町ができる。戦で荒れた地を蘇らせるのも湯だ」


 湊は息を呑んだ。


(——わかっている。まったく、その通りだ)


 目の前の男の言葉は、湊が自分の胸にしまっていた構想と、まったく同じ線を描いていた。


 三雲が警戒して問いかける。


「お主。湯に詳しいな。いったい何者だ」


 男は少しだけ苦笑し、視線を湊へ戻した。


「……名は、いずれ名乗る機会があろう。いまはただの旅の医者だ」


 その言い回しが、逆に“名を隠している”と告げていた。


 湊は男の横を通り、湧き場の中心へ歩み寄る。湯気はまだ薄いが、土の温かさは確かだ。湊はそっと掌を土に当てた。


「……温い。冬の底でも人を救える熱だ」


 男がわずかに口元を緩めた。


「気づいているらしいな。この湯の価値に」


「当然だ。会津の冬を越える鍵になる。人夫も兵も、馬も救える」


「ならば——どう扱うつもりだ」


 男が問う。


 湊は静かに目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。


(ここが、覚悟を示す場だ)


 湯気の向こうで、風に雪が舞う。

 湊は顔を上げ、真っ直ぐに男を見た。


「——この湯は、会津が抱える弱点を覆す“力”にする。冬に沈む国ではなく、冬を糧にする国にする。そのために、私はここを押さえる」


 三雲がわずかに目を見開く。

 男も、湧き場の湯気の中でじっと湊を見たまま、動かない。


 湊は続けた。


「寺にも、地侍にも、他国の者にも渡さない。これは会津のものだ。会津の未来を変えるための湯だ。……もし争いが起こるなら、その責はすべて私が負う」


 湯気が揺れた。

 男の瞳が、少しだけ揺らいだ。


 三雲が低く呟いた。


「湊殿……」


 湊は一歩踏み出し、湯の縁をぐっと踏みしめた。


「私は上杉家の差配として、この湯を守り抜く。湧き場を整備し、道を繋ぎ、人を呼び、冬の産業として動かす。軍馬の湯治場も作る。寺とは利で説き、地侍には筋を通す。……この湯で、会津を強くする」


 その言葉に、男の表情が変わった。

 まるで、“見つけた”と言わんばかりに。


「……覚悟があるな。おぬし。口先ではない」


「覚悟が無ければ来ていない」


「ふむ。では——」


 男は懐から何かを取り出した。薄い木札、旅人が携える簡素な物だ。

 そこには一文字だけ、墨がかすかに滲んでいた。


「“医”……?」


「これを。湯を扱う者が、医を無視するわけにはいかぬ。いずれ必要になる」


「これは……?」


「名代と思っておけ。私はまだ名乗れぬ。だが、おぬしが湯を握る覚悟を持つなら……いずれ会う日も来よう」


 男は湯気の中を背にして、林の奥へ歩きだした。


「待て! 名は——」


「いずれ。その時だ」


 男は湯気と雪の間に消えた。


 三雲が眉をひそめる。


「湊殿。あの男……」


「ただの旅医者ではない」


「やはり?」


「湯と薬、冬の国の戦、地形の読み……すべてに明るい。そして佐竹筋とも縁があるような素振りを見せた」


 三雲が頷く。


「湧き場の扱いを知る医者といえば……限られますな」


「名を言われずとも、いずれわかる。だが今は追うな。湧き場の周囲を押さえる方が先だ」


「承知!」


 湊は湧き場を見渡しながら言った。


「三雲。名古屋を呼んでこい。寺筋の動きを先に封じる。八代には湯治の帳付けを出させる。……今日は、すべての始まりだ」


「湊殿、湯をどう整えるおつもりで?」


「まずは“藩府直轄”の名を付ける。寺には薬湯の分を渡し、代わりに反対しない約束を取る。湯治場は冬の働き手の休息に。軍馬は別に囲いを作る。人夫には報酬を増し、村落には湯の配分を示す」


「もうそこまで……」


「考えていた」


 湊は淡く笑った。


「湯を見つけた瞬間から、全てが繋がって見えた」


 雪が強くなり、湯気に当たって白い霞となる。


(この湯が、国を変える。

 そして——あの男との縁も、必ずどこかで繋がる)


 湊は静かに拳を握った。


「会津の冬を……変えるぞ」


 その言葉が、白い湯気と雪の中へ吸い込まれていった。

八代と名古屋、そして三雲がそれぞれ走り出したあと、湊は湧き場の上に残った。

 冷たさよりも、地面から昇ってくる微かな熱の方が強い。


(……これが会津を変える。

 いや、会津だけではない)


 湯気の白さの向こうに、湊はぼんやりと未来の景色を見ようとしていた。

 冬でも人が倒れない国。

 雪でも戦える軍。

 そして——湯の“医療効果”を読み解く医者がいれば、さらにその先に踏み込める。


(あの旅医者。やはり只者ではない。

 医……そして湯に詳しい。佐竹筋に縁があり、旅をしながら各地の湯を見ている)


 名乗らなかったのは理由がある。

 名を出せば政治が動くほどの人物——そうでなければあの視線や言葉に重さは出ない。


「しかし……」


 湊は湯を見下ろし、そっと手を土に触れた。

 ほんのりと暖かい。

 この温度が、命を繋ぐ。


「湯は、戦よりも人を救う力だ」


 湊の声が、白い湯気に溶けて消える。


「この湯があれば、冬に人夫が倒れぬ。兵の凍傷も減る。馬も長く走れる。……国が、強くなる」


 だがそのためには“奪われない”ことが先だ。

 湧き場を巡る争いは、寺、村落、地侍の三つが絡む。


・寺——薬湯、祈祷、湯治

・村落——水利、山の管理、薪の権利

・地侍——土地支配、利権、防衛


(これを全てまとめる。寺と地侍を敵に回すわけにはいかないが、妥協して譲る場所でもない)


「利で動く者には利で。筋で動く者には筋で。

 そして、どうにもならん者には……」


 湊は唇を引き結んだ。


「覚悟を見せるしかない」


 藩府の差配として、ここで退く道はない。

 退けば、湧き場は外に奪われる。


(外に奪われれば、冬の国に残された希望は消える)


 湊はゆっくり立ち上がった。



 八代が戻ったのは夕刻だった。

 藩府の帳場で帳簿を抱え、顔は決意に満ちていた。


「湊殿、調べがつきました。寺筋は“薬湯分け”を条件に従う意志あり。ただし——」


「“ただし”が本題だな」


「はい。寺が最も嫌がるのは“藩府が湯を独占した”と村人に思われること。湯が仏の恵みだと強く信じる者も多く、政治の匂いを出すと拗れます」


「つまり、寺には最初に“大義”を示す必要がある」


「畏れながら……“民を救うための湯治”を名目に、寺へ役割を与える形が最適かと」


 湊は頷く。


「寺には医療と祈祷を。藩府は整備と道筋を。……いい落とし所だ」


 八代の目がわずかに安堵で揺れる。


「湊殿、もう一つ。村落側ですが……湯の周りの“山林利用”に口を挟んできそうです。薪の権利、伐採の権利……このあたりを巡る揉め事は避けられませぬ」


「山林は村の生命線だ。そこに湯治場を作れば、確かに衝突はする」


「はい。しかし……村にも利があることを示せば通りましょう。冬に人夫が倒れないだけでも、村の負担は大きく減る」


「そこは“数字”で示すべきだな。八代、計算を頼む」


「承知!」



 続いて戻ってきたのは名古屋だ。

 城外で拾った情報をまとめ、湊の前に膝をついた。


「湊殿。地侍側ですが……厄介です」


「予想通りだ。理由は?」


「湯治場を作れば、“道”ができます。道ができれば人が来ます。その流れを“自分の領地を通す形にしたい”らしく……」


「地侍同士が湯の前に縄張り争いを始める、ということか」


「はい」


 湊は短く息を吐いた。


(地侍の利権争いは面倒だ。ここを失敗すると、湯が政治の火種になる)


「名古屋。どこまで動いた?」


「湧き場の近くの者に話を聞きました。どうやら“寺に近い地侍”と“村落の年寄衆”が対立しているようです」


「……最悪の構図だな」


 寺が威光で動き、地侍が力で動き、村落が生活で動く。

 その三つがぶつかると、藩府の意向すら通りにくくなる。


「名古屋、急ぎ地侍側に伝えてくれ。“湯は藩府が直轄する。道路の引き込みは藩府が決める”と」


「強気にいくのですか?」


「ここは強く出ねば乱れる。……ただし、利を与える。それで納得する地侍も多い」


「利、ですか?」


「湯治場周辺の“警護役”を任せる。湯治に来る者を守るのも仕事のうちだ。道の整備も請け負わせれば、名目と実利の両方を与えられる」


 名古屋が深くうなずいた。


「承知! やってみせます」



 最後に戻ったのは三雲だ。

 雪のついた肩を払いつつ、湊の前に立つ。


「湊殿、湧き場の周り……妙な痕跡がいくつかありました」


「旅医者のものか?」


「それもありますが……寺筋の者が“こっそり”湯を見に来た形跡も。どうやら寺は湧き場を完全に把握していたようです」


「やはり、か」


 三雲が静かに言う。


「さらに……旅医者の足跡ですが。湧き場に立ち寄っただけではない。湧き場の“地形の変わり方”を観察した後、別の小道へ消えています。まるで、“湯の流れ”そのものを追ったように」


「……湯脈を読んだ、ということか」


 三雲が頷く。


「普通の医者ではありません。名古屋が拾った噂の通り、曲直瀬玄朔なら……湯脈を見ることができても不思議ではない」


 湊は拳を握った。


(湯の扱いに長けた医者……曲直瀬玄朔。

 まだ名乗らぬが、いずれ必ず会津に来る)


「三雲、湧き場周囲の見取り図を作ってくれ。“湯脈がどこへ伸びているか”を知りたい」


「承知」


「旅医者……いや、医者が湧き場を見てどう動いたのか。それ自体が重要な情報だ」


 三雲が微笑んだ。


「湊殿、医者にまで目を向ける差配は、あなただけでしょう」


「湧き場を守るということは、湯の“未来”を守るということだ。その未来に医は欠かせない」


「その通りですな」



 全員の報告が出揃ったところで、湊は藩府の広間に立った。

 冬の夕陽が障子に淡く差し込み、室内は静けさに包まれている。


「八代、名古屋、三雲。……よく動いてくれた」


 三人が頭を下げる。


「湯は利を生み、利は争いを呼ぶ。だが、この湯を手に入れねば、会津の冬は変わらない。だから——」


 湊は障子を開け、外の雪を見た。


「私はこの湯を“国の背骨”にする。

 寺も村も地侍も、そのために動かす。

 外から手が伸びるのなら、跳ね返す」


 その言葉に、八代の目が少し潤んだ。


「湊殿……その覚悟があれば、会津は変わります」


 湊は頷いた。


(覚悟が弱ければ、湯はただの湯で終わる。

 だが、覚悟が強ければ——国を変える)


「これより“湯の押さえ”に入る。

 藩府直轄の印を作れ。

 寺へは“薬湯の大義”を届ける。

 村落には冬の負担減を数字で示す。

 地侍には警護と道普請の利を。

 そして湯治場の案を描く——会津の冬を変える礎だ」


 三人が同時に頭を下げた。


「承知!」


 湊は静かに息を吸った。


(玄朔——まだ見ぬ医者よ。

 いずれ会う時が来るだろう。

 その時、この湯が“国の力”になっていなければならない)


「……行こう。湯の未来をつかむのは、今だ」


 湊の足が、雪振る会津の夕闇へ踏み出した。

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