50話:湯煙の先に立つ覚悟
神指城下に薄い雪が舞い始めていた。まだ積もるほどではないが、冷えは確実に深まっている。藩府の回廊を抜けた湊は、吐く息の白さに季節の変わりを感じた。
——冬が来る。
そして冬は、上杉家にとって“試練”であり“弱点”でもある。
湊は足を止め、静かに普請場の方向へ目を向けた。
湯——
あの湧き場は、弱点を覆すだけの力を持っている。
だが同時に、争いの種にもなり得る。
寺。
地侍。
町方。
そして、外様勢力。
温泉は“資源”であるがゆえに、扱いを誤れば国が割れる。
湊は息を吐いた。
(……それでも、掴みにいかねばならない)
一瞬だけ胸に迷いが浮かぶ。
しかしすぐに、氷に触れた火のように消えた。
(あの湯が、会津の冬を変える。ならば踏み込むしかない)
湊は歩き出した。
迷いはない。
冷えた石畳に、確かな覚悟の音が落ちていく。
◇
藩府の一室では、三雲がすでに資料を広げて待っていた。名古屋も隅に控えている。八代は帳簿を抱えたまま、墨の香りを漂わせていた。
「湊殿、お戻りですか」
三雲が顔を上げる。
その表情には僅かな緊張があった。
「寺社筋が動く前に、“湯の道理を整える”。それが今日の議題だな」
「はい。湊殿の報告を受け、数点まとめております」
八代が紙束を置いた。
それを湊は受け取り、ざっと目を通す。
——湧き場の位置。
——周辺の村落。
——地侍の勢力圏。
——寺社が管理する山林境界。
細かい線が地図の上に交差している。
「……複雑だな」
「湯は金になりますからね」と三雲が苦笑する。「寺は湯を“薬の恩寵”と位置づけることがあります。僧が治療のために使うからです。領主が勝手に使うのは警戒される」
「地侍たちは?」
「湯を取られると、冬の収入が減ると考えるでしょう。“自分たちの山のものだ”と言ってくるはずです」
八代が淡々と補足した。
「村も黙ってはおりません。湯を持てば宿になるし、物資も動く。湯は“領民の希望”になりうるのです」
湊は目を閉じた。
(寺、地侍、村……それぞれの利が絡む)
一つの湯が、これほどまでに重い。
しかし——だからこそ扱う価値がある。
湊は地図を指で辿りながら問いかけた。
「この湧き場に最も近い寺は?」
「妙泉寺です」と三雲。「山の東側の境界を押さえている。僧たちは温厚ですが……“筋を通されない扱い”には敏感です」
「つまりこちらが理由を整えれば、話は通せる」
湊の言葉に、三人は瞬時に表情を変えた。
名古屋が特に鋭い視線を向ける。
「湊殿……理由とは?」
「“会津の冬を越えるための湯”だ」
八代が息を呑んだ。
「……普請と兵糧の維持、冬季の労働、疲労回復……すべて藩のためだと?」
「そうだ。“湯治場”と称せば、寺も納得する。しかも湯の管理が藩府にあるなら、冬の産業として民も救える」
湊は湧き場の方向を見た。
「湯の恩恵は“領民全体”にある。寺の占有物ではないと示せる」
「……それは、筋が通る」と三雲が頷いた。
名古屋も静かに続ける。
「妙泉寺は領民に寄り添う寺です。“皆のための湯”という言葉は決定打になります」
八代も帳簿を閉じた。
「では、“藩府から湯治場設置の指示が出る”という形にしましょう。藩府が主で、寺は協力者となる」
「それが最も争いが少ない」
湊は視線を上げた。
(この判断が、上杉を冬に強くする初めの一歩だ)
胸の奥の火が、少し強く燃えた。
◇
会議が終わろうとした時、名古屋が一歩前へ出た。
「……湊殿。もう一つ、気にかかることがございます」
「なんだ?」
「妙泉寺の住職が、近ごろ“外から来た医者の噂”を気にしているとか」
湊は息を止めた。
医者——
(……佐竹との橋になると言われた人物か?)
曽根が言っていた噂が脳裏をよぎる。
『佐竹家の預かりで、湯と薬の扱いに長けた医者が来るらしい』
名はまだ出ていない。
だが湯の発見と同じタイミングで、その者の噂が寺に届く。
因果があると感じざるを得ない。
八代が眉をひそめる。
「妙泉寺の住職は、医に通じる方です。外の医者が来れば、必ず湯を見に行くでしょうね」
「……湧き場を押さえる前に、外からの視線が入る可能性があるということか」
湊は静かに呟き、湯煙の揺れる風景を思い浮かべた。
そこに、黒い影が立つ未来が見える。
外の医者。
寺。
地侍。
そして藩府そのもの。
(ならば急がねばならない)
胸の奥に迷いが生まれた——が、すぐに湊はかき消した。
(湧き場の未来を決めるのは、外の者ではない。ここで働く者だ)
「名古屋。妙泉寺の動きを詳しく探れ」
「承知」
「八代、湯治場としての予算と人夫の割り振りを整えてくれ」
「すぐに」
「三雲、湧き場周辺の村の意見を聞きたい。僧が先に動く前に、こちらで声を集めよう」
「任せてください」
湊は最後に一度だけ窓の外を見た。
雪。
寒気。
閉ざされる冬。
しかし、その冷たい景色の向こうに、湯煙が立っている。
(あれが道を開く。ならば、私が形にする)
湊は拳を握った。
「——湯を会津の力に変える。それが我らの務めだ」
部屋にその声が響くと、三人の目に静かな光が宿った。
湊は歩き出した。
一歩ごとに、覚悟が定まっていく。
◇
その頃、妙泉寺の裏手——
冬風に揺れる竹林の奥で、一人の僧が誰かと短く言葉を交わしていた。
「……会津に湯が湧く、と?」
「ああ。聞き間違いではない。近く“藩の差配殿”が動くらしい」
「では——あの方に知らせねばならぬな」
“あの方”とは誰か。
その名はまだ明らかにならない。
しかし僧は静かに頷いた。
「湯が動けば、人も動く。戦もまた、動くだろう」
湯煙の向こうに、大きな影が生まれつつあった。
湊は藩府を出ると、そのまま妙泉寺へ向かった。
理由は二つある。
一つは、湯治場構想における“寺の立場”を正確に掴むこと。
もう一つは——噂の医者が、本当に寺へ接触しているかどうかを確かめるためだ。
(外からの気配があるなら、寺は必ず揺れる)
揺れは争いを生み、争いは早い者に利を渡す。
ならば、揺らぐ前に手を打つしかない。
湊は歩を止めることなく、山門へ足を踏み入れた。
◇
妙泉寺は雪をかぶる前の静かな佇まいで、庭を掃く僧の箒だけが音を立てていた。湊が声をかけると、若い僧が丁寧に頭を下げた。
「差配殿でございますね。住職がお待ちしております」
湊は僧に従い、広間へと進んだ。
妙泉寺住職・祐恵。
温厚で知られ、武士よりも領民への目線が近い男だ。
彼が湊を迎えた。
「これは湊殿。普請や政務でお忙しいと聞いておりますが……今日はどのような御用向きで?」
湊は無駄な遠回しをしなかった。
「単刀直入に申し上げます。寺の裏手で湯の湧き場を見つけました」
祐恵の手が一瞬だけ止まった。
しかしすぐに柔和な笑みへ戻る。
「……湯、ですか。なぜ、それをわざわざ寺へ?」
「寺が湯を薬の恩恵とされることを承知しております。ですから、先に筋を通しに来ました」
住職の眉がわずかに動いた。
「筋……?」
「湯治場にしたいのです。兵も、民も、人夫も、冬を越えねば国が立ちません。冬の間、湯があるだけで死者は減り、怪我も癒えやすくなる」
祐恵の視線が湊の目をじっと捉える。
「湊殿。それは本心で?」
「ええ。湯を私利私欲で使うつもりはありません。
ただ、会津の冬を越える“力”として使いたいのです」
住職は長く息を吐いた。
「……実は、こちらにも噂が入っております」
(来たな)
湊はその言葉を逃さなかった。
「どのような噂でしょう」
「南方より医者が来ると。湯と薬に通じ、領国の病を見られるほどの才と聞きます。僧たちは“その者に湯を見せるべきでは”と申しておりましてな」
湊は心の奥で静かに火が灯るのを感じた。
(やはり、寺にも話が届いている……)
名古屋の報告は正しかった。
そして寺はその存在を“湯の主張”に利用しようとしている。
住職はさらに言葉を続ける。
「我らは湯を独り占めしたいわけではありません。しかし、湯を扱える者には資格が必要で……」
「住職」
湊は一歩前へ出た。
「湯を扱う資格は、才ではありません。覚悟です」
祐恵の表情が揺れた。
「覚悟……?」
「冬に倒れる人夫を救い、寒気で動けぬ兵を立ち上がらせ、領民が暮らしを維持できるようにする。その責を背負う覚悟を持つ者が、湯を扱うべきです」
湊の声は、静かにしかし強く響いた。
「寺のためでも、藩のためでもない。——会津全体のために使う覚悟。
私は、そのためなら手を汚すことも厭いません」
住職は息を呑んだ。
(これが湊殿の……覚悟の色か)
その沈黙の中、湊は一切目をそらさず、言葉を続けた。
「医者が来るなら歓迎します。湯を診てもらえばよいでしょう。だが湯治場の主は藩府が担う。寺はその協力者となる。
それが、争いを避ける最も穏やかな形です」
住職は静かに目を閉じた。
「……湊殿。正直に申し上げれば、私は湯を寺が守るべきだと考えていました。ですが、あなたの言葉は……」
「会津を見ての言葉です」
「……そうでしょう。湊殿の目は、個の利ではなく“国の未来”を見ている」
住職は深く頷いた。
「わかりました。妙泉寺として、湯治場設置に異議は申しません。ただし、医者が来た場合は寺にも立ち会いを許していただきたい」
「もちろんです」
住職は穏やかに微笑んだ。
「湊殿。あなたの覚悟、しかと受け取りました。湯は——会津のために使いましょう」
◇
寺を出た湊は、雪の舞う石段に立った。
寒気が肌を刺す。
だが胸の内は、先ほどよりも熱い。
(……一つ目の壁は越えた。だが次が本番だ)
問題は、寺ではない。
外から来る医者の存在だ。
この医者が“何者か”は、まだわからない。
だが一つだけ確信があった。
(湯を押さえる前に医者が動けば、主導権を奪われる)
そして医者が佐竹を背負って来るなら——外交問題に発展する可能性もある。
湊は拳を握り、空を見上げた。
(来るなら来い。だが湯を使うのは、私だ)
その瞬間、背後から控えめな声が聞こえた。
「湊殿」
名古屋だった。
雪を払いながら駆け寄る。
「急ぎの報せです。三雲殿より——“湯の場所近くで、見慣れぬ旅装の男を見た”と」
「……いつだ」
「今しがたです。寺の裏手を回り、湧き場の方へ向かったとか」
(……来たか)
湊の胸に冷たい緊張と、同じだけの熱が同時に走った。
湧き場を巡る争いが本格的に始まる。
逃げる道はない。
湊は口を開いた。
「名古屋、三雲の位置を追え。八代にも伝令を。湯の押さえは、今この時しかない」
「承知!」
名古屋が駆けていく。
湊は静かに息を吐いた。
(湯を国の力に変える。その覚悟は、もう揺らがない)
雪の舞う空に向けて、湊は小さく呟いた。
「——さあ、来るがいい。会津の湯を、誰が握るか。決めてやる」
湧き場へ向かう湊の背中は、白い雪の中でわずかに炎のように揺れていた。




