49話: 冬を変える湯、国を動かす筆
朝の会津盆地に、白い息が長く尾を引いた。季節はゆっくりと冬へ傾き始めている。神指城の普請場では、うっすらと霜が下り、木材の節が冷気で鳴る音が響いていた。
湊は、普請場を見下ろす丘の上で、小さく肩をすくめた。
「……寒い、ですね」
隣で図面を広げていた八代が頬をゆるめる。
「会津は、冬が本番です。ですが、これも“産業”として生かせますよ」
「昨日の話ですね。温泉と……鍋、炬燵、猫」
「ええ。あれは非常に有益です。特に湯の利用は、軍役にも普請にも効果をもたらすでしょう」
湊は深くうなずいた。
温泉の場所、湯量、そこへ通じる道筋——現地で確認せねばならないが、まずは藩府……いや、政務の中心にいる兼続へ上申が必要だった。
「八代殿。昨日の文書、“藩府”という言葉を用いましたが……あれで、よかったのでしょうか」
八代は少し驚いたように目を瞬いた。
「湊殿。あれは良かったですよ。むしろ、もっと早く使うべきだったくらいです」
「本当ですか?」
「ええ。“会津”“政庁”“本城”“政務所”——いままでは各人が好きに呼んでおりました。しかし、湊殿が“藩府”と記したことで、事務方としても整理がしやすい」
言葉は力だ。
名を定めれば、流れが生まれる。
「湊殿、あの言葉には意味がありました。“政のすべての源”という観念を、現場に示したことになります」
「……なるほど」
「現場の人夫も、侍も、寺も、町人も、領民も。必ずしも同じ言語体系では動いていない。しかし、“藩府”という言葉は“政の中心”の象徴として扱えます」
八代は胸元から帳面を取り出し、白紙の頁に筆を乗せた。
「私は、湊殿の言葉を借りて、新しい帳簿の形式を作りました。“藩府への伺い”“藩府への報告”——統一されれば、混乱は減ります」
「いや……そんな、大げさな」
「大げさではありません。湊殿。あなたは“言葉で仕組みを作る人”なのですよ」
胸の奥が、静かに熱くなった。
普請を進めるための便宜上の造語にすぎなかった。
だが八代にとっては、湊の“構造を見る力”が形になった証だったのだろう。
湊は息を吐き、視線を普請場へ戻した。
「……では、これからも“藩府”を使っていきましょう」
「はい。使い続けることで意味が広がり、いつか本当の言葉になります」
八代がそう言った時、丘の下から曽根が駆け上がってきた。息は荒くない。普段から体を動かしている証だった。
「湊殿。昨日おっしゃっていた件——南側からの湯煙、確認しました」
「湯煙?」
「ええ。湊殿が言っていたとおり、どうも“湯が湧いている”らしい」
八代が息を呑む。
「それは……温泉が普請場の近くにあるということですか?」
「近くっちゃ近くだが、山の裾野だ。行こうと思えば朝のうちに歩ける距離だ」
湊は八代と顔を見合わせた。
温泉が“利用できる場所にある”という事実は、ただの医療資源ではなく、
普請・軍役・冬季産業・領民の生活・寺社との調整……すべてに影響を与える、重大な意味を持つ。
「曽根殿。三雲殿には?」
「言ってねぇ。あいつは今、寺筋と話してる。昼には戻るだろうが……お前さんの顔を先に見せといた方がいいと思ってな」
「理由は?」
「湯の扱いは厄介なんだ。寺にも関わるし、村にも関わる。地侍も口出ししてくる。黙って掘れば喧嘩になる」
八代が眉を寄せた。
「ならば、なおさら急ぐべきです。寺筋に“外の視線”が入る前に、こちらで理由を整えねば」
「名古屋殿が……?」
「ええ。あの方は“寺が嫌がることを一番嫌がる顔”をしておられる。つまり、外の介入だと受け取られる前に、我々が筋を作る必要があります」
なるほど、と曽根がうなずいた。
湊は短く息を吸った。
「では、今から湯の場所を確認しましょう。八代殿は帳付けと用途の整理を。曽根殿は周辺の地侍と村落の地形を確認願います」
「おう」
「承知しました」
三人は役割を自然に分担し、動き始めた。
丘を下りながら、曽根がぽつりと呟いた。
「そういや湊殿。“藩府”って言葉、妙に気に入ったぞ」
「そうですか?」
「ああ。“城”と“国”の区別がつきやすい。外との戦を見ている俺たちには、こういう言葉がちょうどいい」
湊は小さく笑った。
まだ形になったばかりの言葉だ。
しかし、形があれば流れが生まれる。
流れが生まれれば、人が動く。
それこそ、湊が積み上げてきた“仕事”そのものだった。
◇
山の裾を進むと、ほのかに硫黄の匂いが漂ってきた。冬の冷気の中に混ざる湯煙は、白さを濃くしてゆらゆらと揺れている。
「……本当に、湯だ」
「おう。ちょっとした湯だまりだが、湧き出してる」
曽根が案内した先には、岩の割れ目から温かい蒸気が噴き出している窪地があった。周囲の草は枯れず、ほのかに緑を保っている。
八代が慎重に湯へ手を伸ばし、湯温を確かめた。
「これは……四十度近い。人の体に近い温かさです。湯治にも、兵の疲れを取るのにも使えます」
「人夫も救えるし、怪我人も救える。三雲殿が言っていた“寺との接点”もここで作れますね」
湊が言うと、曽根が頷く。
「寺は湯を欲しがる。薬湯にもなるし、僧たちの休みにも使える。普請との折り合いもつけられるだろう」
湊は湯煙を見つめた。
この小さな湯が、やがて“大きな流れ”になる。
そう思った瞬間だった。
ふと、曽根が声を潜めて言った。
「湊殿……噂だがよ。南から、一人変わった医者が来るらしい」
「医者?」
「名は知らん。だが、“佐竹家の預かり”とか。“山の薬と湯の流れを読む名医”だとよ」
湊の胸が微かに高鳴った。
——曲直瀬玄朔。
まだ姿は現さぬが、その名だけが静かに近づいてきている。
「本当に来るのですか」
「さぁな。噂は噂だ。ただ……湊殿が温泉を見つけたのは、妙に話が重なるだろ?」
八代が静かに言った。
「湊殿。“湯”という資源を扱うなら、必ず医者が必要になります。それが佐竹の預かりであれば……外交にも通じる橋となるでしょう」
風が湯煙を揺らした。
湊は深く息を吸った。
「……来るかどうかはともかく。“来た時の準備”を整えておきましょう」
「それが差配殿らしいところだな」
「ええ。流れは備えがある方に寄っていくものです」
湊は湯煙を見つめた。
この湯はただの温泉ではない。
普請を動かし、兵を癒し、村を救い、寺を繋ぎ、外の視線を制する。
そして、いつか佐竹・真田・上杉——東国の大名たちを結ぶ“道”になる。
その未来の気配が、確かにあった。
城へ戻る頃には、会津の空はすっかり冬の色へ変わっていた。灰のような雲が山々を覆い、冷たい風が湊の頬を刺す。しかし、その冷たさとは裏腹に、湊の胸の内にはあの湧き場の熱がまだ残っていた。
——あれはただの温かい水ではない。
——会津という土地の未来を変える“資源”だ。
湊は藩府(政庁)の建物へ足を向けた。
廊下を抜けると、八代が帳簿を抱えて立っていた。
「湊殿。先ほど名古屋殿が戻り、寺社筋の動きをすべて報告されました。兼続様は評定室でお待ちです」
「湧き場の話も……すぐに通さないといけませんね。」
「はい。寺筋が先に動けば、話がこじれる恐れがあります」
湊は小さく頷き、評定室へ向かった。
◇
襖を開くと、暖炉の薪がぱちりと音を立てた。冬の気配が忍び寄る部屋で、直江兼続は文を閉じ、湊へ目を向けた。
「湊、戻ったようだな。南の湧き場、曽根より聞いた」
「はい。確かに湧いておりました。湯温も安定しており、湯治にも作業休めにも使えます。冬の普請や軍役にも、大きく役立つはずです」
兼続は腕を組み、わずかに笑んだ。
「会津は雪に閉ざされる土地。冬に動けるかどうかは、国の生命線だからな。……続けよ」
「寺筋や地侍の者が口を出す前に、こちらで用途と理を固めたいと考えます。湯を“藩府のもの”として扱うには、筋が必要です」
「道理だ。」
兼続は思案するように沈黙し、その後ふと視線を横へそらした。
「……実はな、湊。お主が戻る少し前に、一通の文が届いた。」
「文……ですか?」
「うむ。“遠方の者”からだ。名は伏せられていたが——医に通じ、湯と薬の扱いに長けた人物とだけ書かれていた。」
湊の眉がわずかに上がる。
「湯と薬……?」
「いまは佐竹家の預かりだそうだ。どういう経緯かは分からぬが……“湯は国を癒やし、兵を養い、冬を越す鍵となる。扱いを誤れば争いの種にもなる”とあった。」
湊の胸が、静かに鳴った。
その人物が誰なのか、湊には分からない。
だが——
あの湧き場と、藩府に届いた文が同じ線の上にあることだけは分かった。
「兼続様……これは、偶然の一致ではないと思います」
「わしもそう考えている。……湧き場は、争点になる。寺社筋、村々の利害、地侍、侍衆。冬に利益が生まれる場所は、必ず誰かが奪いに来る」
兼続は湊を見据えた。
「ならば湊。お主が先に“藩府の理”を作れ。湯を動かす口火を切るのだ。」
「……はい。」
「三雲と名古屋には、すでに別件の調査を命じている。寺が湯にどう反応するか、町方の風聞がどう変わるか。奴らは鼻が利く。湯の話はすぐ広まるぞ」
「曽根殿も動いています。周囲の地形と村落を押さえるために」
「良いな。役が揃ってきた。」
兼続は筆を取り、湊へ向けて軽く掲げた。
「湊。湧き場を最初に見つけたのはお主だ。
ならば“湯の道”を引くのも、お主の役目だ。」
「……承ります。」
「明朝、湧き場の地図を作れ。八代と共に用途を整理し、わしに伺いを出すのだ。その後、三雲・名古屋と合流し“寺筋が口出しする前”に筋をつける。」
湊は深く頭を下げた。
「必ず形にしてみせます。」
◇
評定室を出ると、八代が静かに隣へ並んだ。
「湊殿……湯の話、随分と大きな流れになりましたね」
「はい。あれをどう扱うかで、冬の動き方も変わるはずです。」
「寺筋は確実に来ます。“湯”は寺が最も欲しがるものですから。」
「だからこそ、こちらで先に筋を作る。八代殿……力を貸してください。」
「もちろんです。」
二人が歩みを進めていく廊下の先、夜の気配が濃くなっていた。
冬の会津は、長い。厳しい。
だが湊の胸には、あの湧き場で見た白煙のような小さな希望が灯っていた。
◇
湊の部屋に戻ると、名古屋が待っていた。壁に背を預け、薄く笑みを浮かべている。
「差配殿。寺筋、明日には動くぜ。」
「……やはりか。」
「湯が湧いたって噂、もう城下に流れた。寺の坊主連中、目の色変えてる。明日か明後日には“湯の扱い”に口を挟みに来る。」
「早いですね。」
「湧き場は“金にもなる”からな。寺はそういう所は嗅覚が鋭い。」
名古屋は湊へ一歩近づき、声を落とした。
「差配殿。明日の朝、寺に行くのは俺がやる。
あんたは湧き場の地図を作れ。
寺に好き勝手を言わせるわけにはいかねぇ。」
「頼りにしています。」
「任せとけ。ああいう面倒な連中の相手は慣れてる。」
名古屋が出ていくと、部屋に静寂が戻った。
湊は机へ向かい、紙を広げた。
湧き場の形、位置、地形、道筋、利用できる人夫——
一つずつ記していく。
冬を越える道を作るために。
その途中、湊はふと思う。
(……“佐竹家の預かり”の医に通じた者。
もし本当に来るなら——
湯の扱い方、聞いてみたいな)
名前は分からない。
どんな人物かも分からない。
ただ、湧き場の熱と文の内容だけが、静かに未来の気配を運んでいた。
湊は強く筆を握った。
「——冬を変える。必ず。」
夜の会津に、その決意は静かに溶けていった。




