4話:建白、直江兼続の裁可
建白書を書く――
その言葉の重さを、湊は翌朝になってもまだ掴みきれていなかった。
あの直江兼続に指名され、自分の考えを書けと言われた。
生半可な気持ちで挑めば、己の首を差し出すのと同じだ。
(やると決めた。それに、逃げないと誓ったんだ)
長屋で簡素な朝食をとりながら、湊は紙束を抱えて外に出た。
建白に必要なのは、まず“現場を見ること”だ。
帳面だけでは、この世界で暮らす人々の実感がつかめない。
◆
朝の若松城下は、昨日より活気があった。
荷車の軋む音、行商人の呼び声、米俵を運ぶ足軽の掛け声。
人々が生活を整えようと動き続ける音が、街全体に脈打っていた。
(まずは……移住してきた越後の人たちの声を聞こう)
会津の町角には、越後訛りがまだ残っている。
湊が声をかけると、若い農夫が快く足を止めてくれた。
「会津の田は、どうですか?」
「悪くねぇよ。ただ、用水がまだ整ってねぇでな。
越後とは水の性質が違う。米づくりもやり直しよ」
「収穫は減りましたか?」
「そりゃ減ったさ。でも、上の人らもわかっててくれりゃ文句も言わねぇ」
若い農夫は汗をぬぐい、笑った。
「越後からここに来て、うまく馴染めねぇ奴もいるが……
まぁ、なんとかなる。お前みたいに話聞いてくれる奴がいるならな」
湊は深く頭を下げた。
(農政の柱が見えてきた。
“用水の整備”“土壌の差”“転作の試案”……これを建白に盛り込める)
◆
次に向かったのは、職人たちが集まる小さな作業場だった。
越後から移ってきた木工職人は、湊の姿を見て少し驚いたように眉を上げた。
「何だ、若いのに紙束なんか持って歩いてるのか」
「学んでいる最中なんです。越後の職人の暮らしを聞いてもいいですか?」
「いいぞ。どうせ昼休みに入ったとこだ」
職人たちは思いのほか饒舌だった。
「越後とは木の質が違う。雪の降り方も違う。家づくりの作法も変えねぇといけねぇ」
「会津の城下は急ぎで家を建てたから、柱の組みが甘ぇ家も多い。
いずれ直す時期が来るな」
「それに、越後の材木との通しが悪い。物流の通り道が狭いんだ」
(物流……ここにも問題があるんだ)
湊は焦らず、一つひとつ書き留めていく。
「若いの、なんでそんなに真剣なんだ?」
「……人の暮らしがどう動いているのかを、知りたいんです」
職人はふっと笑った。
「なら、いい建物も作れそうだな。……いや、筆で作るのか?」
「筆で、です」
「筆で町を動かすってのも悪くねぇな」
◆
昼を過ぎるころ、湊は本町通りに足を向けた。
ここは店が多く、越後から来た商人も新しく加わっている。
(税収と物流の要……商人の声は絶対に必要だ)
湊は味噌屋、呉服屋、行商人の話を順に聞いて回った。
「越後との取引はしやすかった。会津は山が多くて道も複雑だから、荷の値段が上がるのさ」
「人口が増えたのはいいが、まだ市場が安定していないね。
でも、上杉さまの統治は悪くないよ。筋が通ってる」
「一番困ってるのは、越後からの“伝票”と“帳場の書き方”が違うこと!
あれを書き直すのが手間で手間で……」
(統治の“標準化”が進んでいない……これも建白に使える)
気づけば紙束の半分が埋まっていた。
(思った以上に大変だ。でも……見える。
会津の現状が、どんな痛みを抱えているかが)
◆
夕刻、湊は城下北の集落へ向かった。
そこには越後由来の村民の一部が集められていると聞いていた。
山風が吹き、夕雲が流れ始めていた。
今日の雲は低く、足早に動いている。
変化を告げる巻雲が、遠い空へ伸びていた。
(今日の空は“変化”だ。……僕も変わらないといけない)
ふと、道端で座り込む老人の姿に気づいた。
「どうかされたんですか?」
「おお……あんたは?」
「清原湊といいます。越後から会津に来られた方ですか?」
「そうよ。儂は越後の寺の下働きをしていた。
会津でも同じことをしようと思ったが……寺領の番付も変わってのぅ。
どこへ所属すればいいのか、わからんのじゃ」
(寺社の再編……本当に全部が動いているんだ)
老人は、紙に書かれている複雑な配置図を見せてきた。
「これでは、素人には読めんな……」
湊は老人の隣に座り、図を読み解き始めた。
「ここがかつての寺領の境界線です。
でも、今は会津式の区分で整理されているから……」
丁寧に説明すると、老人はしみじみと頷いた。
「お前さん、字が読めるだけじゃなく、人の話を聞いてくれるな。
越後を離れてから、こんなに親身に話してくれる者はおらんかった」
その言葉は、湊の胸に深く刻まれた。
(……この建白書は、絶対に綺麗事じゃ終わらせない)
◆
日が沈み、湊はようやく長屋へ戻った。
紙束は重く、墨の匂いが染みついていた。
(書くことが……ありすぎる)
それでも、不思議と筆を取る手に迷いはなかった。
紙を広げ、湊は最初の一行を書いた。
――「会津移封に伴う混乱と改善策、私見」
筆先が震えている。
だが、その震えは“逃げたい”ではなく“前へ進みたい”から来るものだった。
(兼続さん……僕は、あなたの期待に応えられるだろうか)
夕雲が消えゆく窓の外で、会津の風が静かに吹いた。
長屋に戻った湊は、灯をともすとすぐに紙束を広げた。
今日一日で集めた声は、どれも重く、どれも確かな痛みを含んでいた。
(問題の種類は違っても……根は同じだ)
――越後から会津へ移ったことで生じた“ほころび”。
――新しい土地に制度が馴染まない“ずれ”。
――人々の暮らしが追いついていない“空白”。
湊は筆を取り、ゆっくりと書き始めた。
一行、また一行。
筆先は丁寧に、しかし迷いなく進んでいく。
◆
越後の農政と会津の土壌の違い。
用水設備の不備。
転作の必要。
職人たちの材料不足。
物流路の狭さ。
越後式の帳場と会津式の書式のズレ。
寺社の再配置とその混乱。
越後の村落制度の名残と会津古来の制度の衝突。
湊はすべてを「批判」ではなく「改善の提案」として書き直した。
(兼続さんが言った。“書くなら逃げるな”。
批判だけの文章は逃げだ。……僕の役目は、道を示すことだ)
やがて、紙束の最後に筆を滑らせる。
――「以上、会津国政における現状と改善策、私見にて記す」
筆を置いた瞬間、湊の肩から力が抜けた。
外では風が強まり、低い雲が流れていく。
(……やっと、形になった。
でも、これを兼続さんがどう見るか……)
胸が軋むほど緊張したが、逃げたい気持ちは一度も湧かなかった。
◆
翌朝。
湊は建白書を抱え、再び城へ向かった。
書院では既に数名の家臣が動いており、湊を見ると短く頷いた。
「来たか、清原。
直江様はすぐにお越しになる」
昨日とは違う空気だった。
誰もが湊を“試される者”ではなく、“役目を持つ者”として扱っているように感じた。
(気のせいじゃない。……僕はもう、ただの流れ者じゃない)
そこへ、控えめな足音とともに兼続が現れた。
書院の空気がすっと静まる。
湊は膝をつき、建白書を両手で差し出した。
「直江様。……私見ではありますが、書き上げました」
「うむ。見せよ」
兼続はそれを受け取り、すぐに読み始めた。
湊の呼吸が浅くなる。
一枚。
二枚。
三枚――
読み進めるたび、兼続の目の光が変わっていく。
(どうだ……? 伝わるか……?)
湊は両手を握りしめ、ただ待った。
やがて読み終えると、兼続は建白書をそっと閉じた。
「……なるほど」
その声は昨日よりも静かで、底に確かな重みがあった。
「清原湊」
「は……はい」
「これは、若者の浅知恵ではない。
かといって、学者の書く理屈でもない」
兼続は湊を真っ直ぐに見た。
「“暮らしの中にいる者”の目であり、
“外から見た者”の視点でもある。
……実に、貴重だ」
湊は息を呑んだ。
「農政、物流、書式の統一、寺社の再編……いずれも、いま会津が抱える不和の根だ。
お前はそれらをよく見て、よく聞き、よく考えた。
誠実で、澄んだ文章だ」
胸が熱くなり、視界が揺れる。
「ありがとうございます……!」
「だが」
兼続は一転して言葉を引き締めた。
「建白とは“意見を述べること”ではない。
“責任を負う覚悟”だ」
湊の背筋が伸びる。
「この建白書は、私が預かる。
以後、お前には『城下巡察』を命じる」
「城下……巡察……?」
「会津に根を張り、生きる者たちの声を拾え。
それをまとめ、私に届けよ。
この地を治めるための“耳と足”が必要なのだ」
湊は一瞬、呼吸を忘れた。
(僕が……直江兼続の“耳と足”……?)
「大役だが、やれるか?」
返事は、迷いなく出た。
「……はい。誠実に務めます」
兼続は満足げに微笑んだ。
その笑みは鋭い武将ではなく、まるで教え導く学者のようだった。
「よかろう。お前には弥藤をつける。
当面の記録は彼に学べ」
「はっ」
弥藤が一歩前へ出る。
「直江様、この者は粗削りではありますが、人の声を聞く才があります。
鍛えれば、きっと役に立ちましょう」
兼続は頷いた。
「清原」
「はい」
「逃げぬ者を、私は好む。
上杉家もまた、そういう者によって支えられてきた」
その言葉は湊の胸に深く刻まれた。
◆
書院を出た湊は、外の光を浴びると同時に大きく息を吐いた。
緊張と達成感と、これからの責任が一気に押し寄せてくる。
(これで……僕は、ここで生きるための“位置”を得たんだ)
城下を見下ろすと、人々の生活が流れている。
農民、職人、商人、兵、僧侶……
昨日聞いた声が、そのまま風景の中に立ち上がる。
(次は、もっと深く見ないといけない)
すると隣で弥藤が呟いた。
「清原。お前、直江様に気に入られたな」
「……そんな、恐れ多いですよ」
「恐れ多いからこそ、誇れ。
あの方は、見込みのない者をそばに置かん」
湊は歩き出しながら、胸の奥の震えを押さえた。
(これが……僕の戦国での最初の“役職”なんだ)
雲は低く流れ、東の空には小さな巻雲が浮かんでいた。
それはまるで、次の変化を予告する兆しのように見えた。




