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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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4話:建白、直江兼続の裁可

建白書を書く――

 その言葉の重さを、湊は翌朝になってもまだ掴みきれていなかった。


 あの直江兼続に指名され、自分の考えを書けと言われた。

 生半可な気持ちで挑めば、己の首を差し出すのと同じだ。


(やると決めた。それに、逃げないと誓ったんだ)


 長屋で簡素な朝食をとりながら、湊は紙束を抱えて外に出た。

 建白に必要なのは、まず“現場を見ること”だ。


 帳面だけでは、この世界で暮らす人々の実感がつかめない。



 朝の若松城下は、昨日より活気があった。

 荷車の軋む音、行商人の呼び声、米俵を運ぶ足軽の掛け声。

 人々が生活を整えようと動き続ける音が、街全体に脈打っていた。


(まずは……移住してきた越後の人たちの声を聞こう)


 会津の町角には、越後訛りがまだ残っている。

 湊が声をかけると、若い農夫が快く足を止めてくれた。


「会津の田は、どうですか?」


「悪くねぇよ。ただ、用水がまだ整ってねぇでな。

 越後とは水の性質が違う。米づくりもやり直しよ」


「収穫は減りましたか?」


「そりゃ減ったさ。でも、上の人らもわかっててくれりゃ文句も言わねぇ」


 若い農夫は汗をぬぐい、笑った。


「越後からここに来て、うまく馴染めねぇ奴もいるが……

 まぁ、なんとかなる。お前みたいに話聞いてくれる奴がいるならな」


 湊は深く頭を下げた。


(農政の柱が見えてきた。

 “用水の整備”“土壌の差”“転作の試案”……これを建白に盛り込める)



 次に向かったのは、職人たちが集まる小さな作業場だった。


 越後から移ってきた木工職人は、湊の姿を見て少し驚いたように眉を上げた。


「何だ、若いのに紙束なんか持って歩いてるのか」


「学んでいる最中なんです。越後の職人の暮らしを聞いてもいいですか?」


「いいぞ。どうせ昼休みに入ったとこだ」


 職人たちは思いのほか饒舌だった。


「越後とは木の質が違う。雪の降り方も違う。家づくりの作法も変えねぇといけねぇ」


「会津の城下は急ぎで家を建てたから、柱の組みが甘ぇ家も多い。

 いずれ直す時期が来るな」


「それに、越後の材木との通しが悪い。物流の通り道が狭いんだ」


(物流……ここにも問題があるんだ)


 湊は焦らず、一つひとつ書き留めていく。


「若いの、なんでそんなに真剣なんだ?」


「……人の暮らしがどう動いているのかを、知りたいんです」


 職人はふっと笑った。


「なら、いい建物も作れそうだな。……いや、筆で作るのか?」


「筆で、です」


「筆で町を動かすってのも悪くねぇな」



 昼を過ぎるころ、湊は本町通りに足を向けた。

 ここは店が多く、越後から来た商人も新しく加わっている。


(税収と物流の要……商人の声は絶対に必要だ)


 湊は味噌屋、呉服屋、行商人の話を順に聞いて回った。


「越後との取引はしやすかった。会津は山が多くて道も複雑だから、荷の値段が上がるのさ」


「人口が増えたのはいいが、まだ市場が安定していないね。

 でも、上杉さまの統治は悪くないよ。筋が通ってる」


「一番困ってるのは、越後からの“伝票”と“帳場の書き方”が違うこと!

 あれを書き直すのが手間で手間で……」


(統治の“標準化”が進んでいない……これも建白に使える)


 気づけば紙束の半分が埋まっていた。


(思った以上に大変だ。でも……見える。

 会津の現状が、どんな痛みを抱えているかが)



 夕刻、湊は城下北の集落へ向かった。

 そこには越後由来の村民の一部が集められていると聞いていた。


 山風が吹き、夕雲が流れ始めていた。

 今日の雲は低く、足早に動いている。

 変化を告げる巻雲が、遠い空へ伸びていた。


(今日の空は“変化”だ。……僕も変わらないといけない)


 ふと、道端で座り込む老人の姿に気づいた。


「どうかされたんですか?」


「おお……あんたは?」


「清原湊といいます。越後から会津に来られた方ですか?」


「そうよ。儂は越後の寺の下働きをしていた。

 会津でも同じことをしようと思ったが……寺領の番付も変わってのぅ。

 どこへ所属すればいいのか、わからんのじゃ」


(寺社の再編……本当に全部が動いているんだ)


 老人は、紙に書かれている複雑な配置図を見せてきた。


「これでは、素人には読めんな……」


 湊は老人の隣に座り、図を読み解き始めた。


「ここがかつての寺領の境界線です。

 でも、今は会津式の区分で整理されているから……」


 丁寧に説明すると、老人はしみじみと頷いた。


「お前さん、字が読めるだけじゃなく、人の話を聞いてくれるな。

 越後を離れてから、こんなに親身に話してくれる者はおらんかった」


 その言葉は、湊の胸に深く刻まれた。


(……この建白書は、絶対に綺麗事じゃ終わらせない)



 日が沈み、湊はようやく長屋へ戻った。

 紙束は重く、墨の匂いが染みついていた。


(書くことが……ありすぎる)


 それでも、不思議と筆を取る手に迷いはなかった。


 紙を広げ、湊は最初の一行を書いた。


――「会津移封に伴う混乱と改善策、私見」


 筆先が震えている。

 だが、その震えは“逃げたい”ではなく“前へ進みたい”から来るものだった。


(兼続さん……僕は、あなたの期待に応えられるだろうか)


 夕雲が消えゆく窓の外で、会津の風が静かに吹いた。

長屋に戻った湊は、灯をともすとすぐに紙束を広げた。

 今日一日で集めた声は、どれも重く、どれも確かな痛みを含んでいた。


(問題の種類は違っても……根は同じだ)


 ――越後から会津へ移ったことで生じた“ほころび”。

 ――新しい土地に制度が馴染まない“ずれ”。

 ――人々の暮らしが追いついていない“空白”。


 湊は筆を取り、ゆっくりと書き始めた。


 一行、また一行。

 筆先は丁寧に、しかし迷いなく進んでいく。



 越後の農政と会津の土壌の違い。

 用水設備の不備。

 転作の必要。


 職人たちの材料不足。

 物流路の狭さ。

 越後式の帳場と会津式の書式のズレ。


 寺社の再配置とその混乱。

 越後の村落制度の名残と会津古来の制度の衝突。


 湊はすべてを「批判」ではなく「改善の提案」として書き直した。


(兼続さんが言った。“書くなら逃げるな”。

 批判だけの文章は逃げだ。……僕の役目は、道を示すことだ)


 やがて、紙束の最後に筆を滑らせる。


――「以上、会津国政における現状と改善策、私見にて記す」


 筆を置いた瞬間、湊の肩から力が抜けた。

 外では風が強まり、低い雲が流れていく。


(……やっと、形になった。

 でも、これを兼続さんがどう見るか……)


 胸が軋むほど緊張したが、逃げたい気持ちは一度も湧かなかった。



 翌朝。

 湊は建白書を抱え、再び城へ向かった。


 書院では既に数名の家臣が動いており、湊を見ると短く頷いた。


「来たか、清原。

 直江様はすぐにお越しになる」


 昨日とは違う空気だった。

 誰もが湊を“試される者”ではなく、“役目を持つ者”として扱っているように感じた。


(気のせいじゃない。……僕はもう、ただの流れ者じゃない)


 そこへ、控えめな足音とともに兼続が現れた。


 書院の空気がすっと静まる。

 湊は膝をつき、建白書を両手で差し出した。


「直江様。……私見ではありますが、書き上げました」


「うむ。見せよ」


 兼続はそれを受け取り、すぐに読み始めた。

 湊の呼吸が浅くなる。


 一枚。

 二枚。

 三枚――


 読み進めるたび、兼続の目の光が変わっていく。


(どうだ……? 伝わるか……?)


 湊は両手を握りしめ、ただ待った。


 やがて読み終えると、兼続は建白書をそっと閉じた。


「……なるほど」


 その声は昨日よりも静かで、底に確かな重みがあった。


「清原湊」


「は……はい」


「これは、若者の浅知恵ではない。

 かといって、学者の書く理屈でもない」


 兼続は湊を真っ直ぐに見た。


「“暮らしの中にいる者”の目であり、

 “外から見た者”の視点でもある。

 ……実に、貴重だ」


 湊は息を呑んだ。


「農政、物流、書式の統一、寺社の再編……いずれも、いま会津が抱える不和の根だ。

 お前はそれらをよく見て、よく聞き、よく考えた。

 誠実で、澄んだ文章だ」


 胸が熱くなり、視界が揺れる。


「ありがとうございます……!」


「だが」


 兼続は一転して言葉を引き締めた。


「建白とは“意見を述べること”ではない。

 “責任を負う覚悟”だ」


 湊の背筋が伸びる。


「この建白書は、私が預かる。

 以後、お前には『城下巡察』を命じる」


「城下……巡察……?」


「会津に根を張り、生きる者たちの声を拾え。

 それをまとめ、私に届けよ。

 この地を治めるための“耳と足”が必要なのだ」


 湊は一瞬、呼吸を忘れた。


(僕が……直江兼続の“耳と足”……?)


「大役だが、やれるか?」


 返事は、迷いなく出た。


「……はい。誠実に務めます」


 兼続は満足げに微笑んだ。

 その笑みは鋭い武将ではなく、まるで教え導く学者のようだった。


「よかろう。お前には弥藤をつける。

 当面の記録は彼に学べ」


「はっ」


 弥藤が一歩前へ出る。


「直江様、この者は粗削りではありますが、人の声を聞く才があります。

 鍛えれば、きっと役に立ちましょう」


 兼続は頷いた。


「清原」


「はい」


「逃げぬ者を、私は好む。

 上杉家もまた、そういう者によって支えられてきた」


 その言葉は湊の胸に深く刻まれた。



 書院を出た湊は、外の光を浴びると同時に大きく息を吐いた。

 緊張と達成感と、これからの責任が一気に押し寄せてくる。


(これで……僕は、ここで生きるための“位置”を得たんだ)


 城下を見下ろすと、人々の生活が流れている。

 農民、職人、商人、兵、僧侶……

 昨日聞いた声が、そのまま風景の中に立ち上がる。


(次は、もっと深く見ないといけない)


 すると隣で弥藤が呟いた。


「清原。お前、直江様に気に入られたな」


「……そんな、恐れ多いですよ」


「恐れ多いからこそ、誇れ。

 あの方は、見込みのない者をそばに置かん」


 湊は歩き出しながら、胸の奥の震えを押さえた。


(これが……僕の戦国での最初の“役職”なんだ)


 雲は低く流れ、東の空には小さな巻雲が浮かんでいた。

 それはまるで、次の変化を予告する兆しのように見えた。

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