48話: 湯治場の道
翌朝の普請場には、吐く息が白く残るほどの冷え込みがあった。木槌の音より先に、風の音が耳に痛い。冬の会津は、湊が想像していたより遥かに厳しいものだった。
人夫たちの指先はかじかみ、道具を握る手が震えている。昨日は三人、今日は二人、足場から落ちかけた者が出た。曽根が怒鳴りつけて事なきを得たが、湊の胸には重くのしかかっていた。
――このままではいけない。
作業は捗らず、怪我人ばかり増える。これが会津の冬なのだと、誰もが当たり前のように言う。しかし湊は思った。ならば、その“当たり前”を変えることはできないのかと。
「湊殿、顔が険しいぞ」
名古屋が肩を軽く叩いた。相変わらず軽やかだが、その目は鋭い。外の視線を読む男は、変化の兆しを見逃さない。
「怪我人が増えているな。曽根が苛立つのも無理はない。冬は手元が狂う」
「はい……。しかし、このままでは作業が滞ります」
「滞るのは普請だけじゃない。人心もだ」
名古屋は遠くに見える山並みへ目を細めた。
「寒さは“敵”になる。敵が増えれば、城は建たん」
敵――湊にとっては新しい言葉だった。
寺筋、外様の視線、領内の不満。そこに新たに“冬”が加わる。
「八代殿は?」
「帳場で人数調整と薪の配給を見直しています。ただ……」
「ただ?」
「医師が、間に合っていません」
そこだった。湊の胸が再び重くなる。
神指城の普請に臨時の薬師は来ているが、たった二人だ。転んだ、切った、寒さで指が動かない。理由はどうあれ、怪我人が増えれば薬は枯れる。湊が毎日確認している薬箱は、今日もほとんど空だった。
「名古屋殿。会津には……医師の数は十分なのでしょうか」
「藩領は広いからな。町までは医者がいるが、普請場には回りきらん」
「何か、良い手立ては……」
「あるにはある」
名古屋の声はいつになく低かった。
「湊殿、“湯治”って言葉、知ってるか?」
湊の心が跳ねた。前世の記憶が、思いがけず脳裏をよぎる。
「湯治……温泉で、体を癒すこと、でしょうか」
「おお、その通り。会津にはな、湯の湧く地がいくつもある。東山、芦ノ牧……昔から“怪我人を連れて湯へ行け”と言う土地柄でな」
そうだ。
会津には、温泉があった。
寒さに強いだけの土地ではない。“癒し”を持つ土地だったのだ。
「ならば……怪我人を温泉に?」
「毎日とはいかん。だが、重い者なら湯治に出す価値はある。薬より効くこともある」
「では、薬を減らせる……?」
「薬師を無理に増やすより、湯の力を借りた方が早いな」
湊の胸の内で、何かが繋がった。
温泉。
冬の産業。
療養所としての湯治場。
――会津の冬は、弱点ではない。強みにできる。
「ただし、湊殿」
名古屋が声を潜めた。
「湯治を使うには、もうひとつ問題がある」
「何でしょうか」
「“診る者”が少ないことだ。湯に浸けて済む怪我ばかりじゃない。骨折、深手、寒気で倒れる者……薬師だけでは見切れん」
「医師……必要ですか」
「そうなる。だが、医師を普請場に常駐させるのは難しい。“藩府が動かんとどうにもならん”類の話だ」
そう言い残し、名古屋は再び人夫の列へ視線を投げた。
湊は思わず拳を握った。
――藩府が動かねばならないほどの問題。
――しかし、今の普請場はその一歩手前にいる。
温泉を使う。
療養所として整える。
藩府に“必要性”を伝える。
その全てを、湊たち五人で積み上げねばならない。
「湊殿、気づいておるな?」
八代が帳場から出てきて声をかけた。
「怪我人が多すぎます。湯治や医師の手当てがなければ……」
「いや、そこではない」
八代は名古屋の後を継ぐように言った。
「“寺筋”が、怪我人を口実に、再び楯突く可能性がある」
湊の背筋に冷気が走った。
寺は、理由さえあれば動く。
怪我人の増加は、彼らにとって格好の“口実”だ。
「湊殿。温泉を整えることは、普請を守る盾にもなる。名古屋殿の言う通り、藩府も動かせる」
「……動かせるでしょうか」
「動かせるように“整える”のです。それが差配の役目。そして――」
八代は、静かに微笑んだ。
「その“流れ”を作るために、我ら五人がいるのです」
湊は深く息を吸った。
――温泉を。
――湯治を。
――会津の冬を、弱点から武器へ。
名古屋が軽く顎で湊を指した。
「差配殿、まずは一つだけ決めるんだ」
「一つ……?」
「“どの温泉を、最初の湯治場にするか”だ」
湊は、遠くに立ちのぼる白い蒸気を思い浮かべた。
東山か。芦ノ牧か。
それとも、まだ知らぬ別の湯か。
風は冷たかったが、胸の中には確かな熱が生まれていた。
普請場の空気は冷たく澄んでいたが、その内側では、これまでと違う熱が生まれ始めていた。
湊が“温泉”という可能性を示したことで、五人の視線の先に新しい道が開けたのだ。
「湊殿。では、湯治場をどこにするか……そこからですね」
八代が帳簿を閉じ、静かに言った。
「はい。まずは場所の選定が必要です」
「東山温泉なら、藩府も動きやすい。近いからな。ただ――」
名古屋が肩をすくめた。
「近さは強みだが、湯治場として整えるには寺筋の口を挟まれやすい」
「寺……」
「近い寺が“監視”を理由に湯治場へも入り込むだろう。あれも口実があれば好きに動く」
「となると、芦ノ牧ですか?」
「距離はあるが、逆に手が入りにくい。普請場からも遠い。寺が簡単には口を挟めん」
曽根が図面の上に太い指を置いた。
「芦ノ牧なら、山間の集落の協力も得られる。雪は深いが、そのぶん湯の利用が“必然”になる」
三雲が腕を組むと、いつものように鋭い目つきで続けた。
「寺筋が嫌がるのは、“自分たちが扱えない領分”が生まれることだ。湯治場を普請差配の管理下に置けば、寺筋は余計な理屈を言えなくなる」
それぞれが意見を言い、自然に芦ノ牧の優位が形になり始めていた。
「湧出量も十分だ。昔から怪我人が通っている」
「湯そのものに力がある」
「藩府に説明しやすい。距離があるゆえに“必要性”を強調できる」
議論は流れるように進み、最後に湊が静かに言った。
「……では、芦ノ牧を、普請場の“外の療養所”としましょう」
その瞬間、名古屋が軽く手を打った。
「決まったな。なら湊殿、次は“どう動かすか”だ」
「どう、とは?」
「湯治場を設けると言っても、ただ湯へ連れていくだけでは藩府は首を振らん。“制度”が必要だ」
八代が頷いた。
「名簿、期間、運搬手段、食料、見舞いの順序。すべて整えなければ、藩府は承認できないでしょう」
「ということは……」
「手続きが必要だということです」
湊の胸が少し重くなった。藩府への願い出――それは差配としての大きな仕事になる。普請場だけでなく、城下全体の視線も受けることになるからだ。
「湊殿、一つ言っておく」
名古屋がやや真面目な声音で続けた。
「これは“差配の務め”ではあるが、あなた一人で背負うことはない。我ら五人でやる」
「名古屋殿……」
「俺は外の口を封じる役。寺筋の理屈にも、城下の不安にも、全部目を張る」
三雲が口元をつり上げた。
「俺は寺を抑える。湯治場に首突っ込めんようにな」
曽根は鼻を鳴らす。
「怪我人の選別は俺がやる。湯が要るかどうかは、骨を見りゃ分かる」
八代は穏やかに締めくくった。
「帳簿と手続きは私が。……湊殿は、“道”を示してください」
湊の胸に、熱が満ちていくのを感じた。
――これは、普請の外へ踏み出す第一歩だ。
湯治場の設立は、ただ怪我人を癒すためではない。寺筋を制し、藩府を動かし、普請場を守り、人心をまとめるための大きな布石となる。
“差配として、外へ声を持つ者になれ。”
名古屋の言葉が、湊の中でゆっくり形を変えていく。
「……ありがとうございます。皆さんの力を借りながら、藩府へ願い出ます」
「よし。ならまず“状”だな」
「状……ですか?」
「藩府へ上げる最初の文書だ」
八代が紙束を持ってきた。
「湯治場設置の理由。怪我人の増加。薬不足による危険。寺筋との調整必要。これらを、順序よく記すのです」
「順序……」
「湊殿」
八代が静かに微笑んだ。
「“整える”とは、こういうことなのですよ」
湊は深くうなずき、筆を取った。
紙の上に言葉が降りていくたび、胸の奥で何かが変わっていくのを感じた。
普請は、城を建てる仕事。
だが、差配は、流れを作る仕事だ。
そして今、湊が作ろうとしている流れは、普請場から外へ、会津全体へ広がり始めていた。
「……名古屋殿。湯治場の話ですが」
「ん?」
「医師がいない問題。温泉を作るだけでは解決しません」
「そうだな。だが急がなくていい。“医者を呼ぶ理由”が整えば、そのとき藩府は動く」
名古屋は、じっと湊を見た。
「湊殿。医者というのはな、ただの職ではない。“国が呼ぶ存在”だ」
「国……」
「その価値を、あなたが作るんだ。普請場で、湯治場で、そして会津の冬で」
湊は息を飲んだ。
医師はまだ来ない。
だが、来るべき場所は、今作られつつある。
温泉。
療養所。
冬の産業。
普請の指揮系統。
それらすべてが、“医師を呼ぶ理由”へとつながっていく。
ふと、風が吹いた。冬らしい鋭い風だったが、その中に、湊は確かな予感を感じた。
――この先、会津には多くの者が集まる。
――武、町、寺、そして……医。
やがて名古屋が軽く手を打った。
「差配殿。今日はここまでにしておこう。湯治場の準備は明日からだ」
「はい」
「そして湊殿」
「はい?」
「明日は普請場に、“外の者”が来るかもしれん」
「外の……?」
「寺筋は、湯治場の噂を聞きつければ黙っておらん。だが――」
名古屋はにやりと笑った。
「迎える準備はできている。あなたが、道の先頭に立つだけだ」
曽根が図面をたたみ、三雲が縄を巻き、八代が帳簿を閉じる。
五人が揃った姿は、会津の冬よりも重く、強い力を放っていた。
湊は深く息を吸い、静かに言った。
「……明日、道を示します」
冬の日は短い。空はすでに薄暮の色へ変わり始めている。
だが湊の前には、確かに光があった。
――温泉から始まる、新しい道が。




