45話:武の骨、外の顔
朝の光は冷たく澄んでいた。
神指の丘に立ち上る白い息が、湊の胸に静かに落ちていく。
昨日――三雲が寺を抑え、曽根が北の郭を整えたことで、普請の流れは一気に滑らかになった。
槌の音は一定のリズムを刻み、人夫たちの声も揃っている。
ようやく“城を作る現場”になった。
そんな実感が、湊の胸に確かに宿っていた。
しかし、その安堵はわずかなものでしかなかった。
「湊殿」
背後から声がした。
振り返ると八代が立っていた。昨日と同じ落ち着いた声だが、どこか鋭さを帯びている。
「顔つきが変わりましたな。ようやく“支える者の顔”になった」
「支える者……ですか」
「ええ。差配とは、形を作る者ではない。形が動き出す“道”を作る者です」
湊は息を吸い込んだ。
その言葉は、胸の奥に静かに落ちる。
「昨日、三雲殿と曽根殿が“骨”を整えた。
ならば今日は、その骨に“血”を通す日でしょう」
「血……ですか?」
「はい。
人の流れ、声の流れ、そして――戦の流れ、です」
八代は丘の下を見渡した。
「普請が整えば、必ず“戦の匂い”が動き始めます。
湊殿、昨日の混乱が静まって安心した顔をしておられるが……あれは序の口です」
湊は無意識に拳を握りしめた。
「……覚悟はしています」
「では、今日はその“始まり”を見ることになるでしょう」
八代が言い終えた瞬間、普請場の奥で人夫たちの声が一段と高まった。
決して混乱ではない。勢いだ。
良い予兆のはずなのに、八代が目を細めたことが気になった。
◇
午前の巡察を終えると、曽根昌世が駆けてきた。
「湊殿、少し見てほしいところがある」
「北の郭の件ですか?」
「いや。別だ」
曽根の顔に、普段とは違う険しさがあった。
「昨日から、普請の“外”の動きが妙なんだ。
人夫の数が噛み合わねぇのは寺筋のせいだが……それとは別の動きがある」
「……別の?」
「ああ。寺じゃねぇ。村でもない。侍でもない。
“外からの流れ”だ」
湊は思わず言葉を失った。
「外……つまり、会津の外部ということですか」
「多分な。現場に姿は見えねぇが……視線がある。
それも、寺とは違う鋭ぇ目だ」
曽根が“視線”という言葉を使うのは珍しい。
普請の鬼は抽象表現が嫌いだ。
その曽根が言うなら、本物だ。
「どこからの視線だと思いますか?」
「関東か、山形か……どちらにしろ、上杉を睨む連中だ」
湊の胸が冷える。
――まだ、戦の時期ではない。
――動くのは早い。
――だが、敵は“上杉の動き”を見ている。
「寺の混乱を抑えた途端に外から目が来た。
……普請が順調だと、どこも焦るんだよ」
曽根の声は淡々としていたが、その奥には確かな緊張があった。
「湊殿。その視線は、普請そのものより……“差配であるあんた”を見てる」
「……私を?」
「ああ。会津で急に現れた若い差配が、寺筋を黙らせ、曽根と組み、普請を一気に動かし始めた。
そんな奴がいたら……敵は気味が悪く思うだろうさ」
胃が重くなるような感覚が湊を襲った。
――寺の問題が静まったと思ったのに。
――外からの目が来るのか。
「曽根殿。これは……上杉家に伝えるべきでしょうか」
「いや、まだ幕下で止めとくべきだ。
上に伝えれば、景勝様や兼続様が“動かざるを得なくなる”。
今は動く時期じゃねぇ」
曽根の判断は正しい。
今、上杉が大きく動けば、それこそ徳川が“戦の理由”を見つけてしまう。
「湊殿。外の流れを読むには、まだ人が足りねぇ。
寺には三雲が入った。
普請には俺がいる。
だが“外の戦”を読むには……軍を知る者が必要だ」
曽根は遠くを見るように言った。
「今日の午後、“武の骨”が来るはずだ。
その者を、しっかり掴んどけ」
「武の……骨?」
「ああ。“戦の流れ”を読むための、もう一人の要だ」
湊は息を呑んだ。
――もう一人。
――戦を知る者。
その瞬間、昨日の三雲の言葉が胸をよぎった。
『普請が整えば、戦の匂いも動く。
その時に備えろ』
まさにその通りだ。
今日、戦の匂いが本格的に動き始めている。
◇
昼前、湊は丘から普請場を見下ろしていた。
動きは昨日より揃っている。
三雲が寺を抑えたことで、寺筋の余計な介入も減ったのだろう。
しかしその調和の中に混ざる、微妙なざわめきがあった。
人夫たちが時折、丘の下の道を振り返る。
職人たちの動きに、どこか“期待”の色がある。
湊も、胸の奥にざわりとしたものを感じた。
――誰かが来る。
――普請の空気がそれを知っている。
「湊殿」
八代が横に並んだ。
「そろそろ来るでしょう。“武の声”が」
「武の……声」
「はい。
曽根殿が言った“武の骨”とは、湊殿がこれから向き合うべき第三の柱です。
普請の骨は作った。
寺の筋も抑えた。
ならば――次に来るのは“戦を読む者”です」
八代の目が、ゆっくりと道の方角へ向いた。
「湊殿。今日、あなたの周りに——影がひとつ増えます。
その影は、いずれこの会津の流れを変える者となる」
「……誰が来るのですか」
「名はまだわかりません。
しかし“戦を知る者”であることだけは確かです」
湊が息を呑んだその時――
普請場のざわめきが、波のように広がった。
人夫が振り向く。
侍が足を止める。
曽根が手をかざして遠くを見る。
その視線の先、道の向こうから――
一騎の馬影がゆっくりと近づいてきた。
凛とした姿勢。
無駄のない手綱捌き。
戦を知る者特有の、静かな重み。
湊の胸が強く脈打つ。
――来た。
――これが、“武の骨”だ。
八代が静かに言った。
「湊殿。
今日からあなたが動かす城は……普請の城ではなく、“戦の城”になります」
馬影はもうすぐ普請場に入る。
その者の名が、湊の未来を大きく変えることを——
この場にいる誰もが、言葉にせずとも感じていた。
そして湊は、深く息を吸った。
――この者を迎えねばならない。
――この者と共に、“外の視線”に立ち向かわねばならない。
丘に冬の風が吹いた。
その中で、湊の覚悟はさらに固く結ばれていった。
馬影が丘を越えて現れた時、普請場の風がわずかに止んだ。
静寂ではない。だが、皆が息を潜めたような、そんな空気。
男は馬を下りると、手綱を曳いてこちらへ歩いてきた。
無駄のない歩幅、揺れない重心、肌に触れるような“火の気配”。
戦を知る者だけが持つ、独特の間である。
曽根が腕を組んでつぶやいた。
「湊殿。あれが、さっき言った“武の骨”だ」
湊は喉が鳴るのを抑えられなかった。
ただ強い、ではない。
ただ勇ましい、でもない。
“戦の流れそのものを理解している者”
その感覚が、距離が縮まるごとに強まっていく。
男は湊の前で静かに足を止めた。
「差配殿。名を伺ってよいか」
「湊と申します。普請差配の任を……」
「うむ。話は聞いている」
それだけで、湊の胸に得体の知れぬ圧力がかかった。
男は軽く、しかし品のある所作で礼を返す。
「名古屋山三郎――今は宗円と名乗る。
旧・蒲生家臣だが、今は浪々の身。しばし、この地に滞在している」
曽根が鼻で笑った。
「相変わらず、立派な名乗りだな」
「曽根。見た目で言うな。中身で褒めろ」
三雲も肩をすくめた。
「相変わらずだねぇ、お前は。
戦の最中でも女の気を引くような顔しやがって」
「事実だから困る」
軽口の裏に、深い信頼がある。
旧知の者同士だけが持つ距離感だった。
八代は一歩前に出て、名古屋を静かに観察した。
名は知らずとも、“戦の人”であることだけは分かる。
「八代と申す。普請の流れと、人の動きを整える役を務めております」
「ほう。あなたが八代殿か。……筋が通った眼をしている」
「武に通じた方なら、判断も早いでしょう。
湊殿の普請は、内だけでなく“外”の眼にも晒されております」
「それで俺を呼んだのか?」
「ええ。湊殿には“戦場の気配を読む芯”がまだ不足している。
それを補える者として、あなたが最も適すると判断しました」
名古屋は少し驚いたように目を細めた。
「湊殿。あなたの家臣は、よく人を読む」
「家臣……ではありませんが、頼りにしています」
「ならば良い」
名古屋は湊を正面から見つめた。
「曽根と三雲から聞いた。
寺筋が好き勝手に筋を引き、侍や町方が口を出し、普請が揺れていると」
「はい……まだ、対処しきれていません」
「湊殿。あなたは“内”を作っている。
だが、普請が動けば“外”が騒ぐ。これは避けようがない」
風が吹き、名古屋の袖がわずかに揺れた。
「外の声を抑え、必要なら誘導し、時に黙らせる。
これができる者を、俗に“戦の顔”と言う。
あなたの普請には――その役がいない」
湊は息を呑んだ。
八代が静かに言葉を添える。
「三雲殿は寺筋との調整ができる。
曽根殿は骨を作れる。
私は流れを整えられる。
しかし――“外へ示す芯”は、まだ無いのです」
名古屋はゆっくりと頷いた。
「芯がなければ、外の声に揺さぶられる。
あなたの普請が乱れている理由はそこだ」
曽根が唸った。
「確かにな……寺も町方も、湊殿を“軽い”と見てる節がある」
三雲も続ける。
「だがこいつは軽くない。
ただ、“重さの見せ方”を知らないだけだ」
名古屋は湊に歩み寄り、真正面から向き合った。
「湊殿。あなたは良い。
形ではなく流れを見ている。
この普請は、ただの建物ではなく“動く城”だ。八代殿の言うとおりだ」
湊の胸が震えた。
言葉ではうまく言い表せないが、
“自分のやっていることを初めて正確に言語化された”
そんな感覚だった。
「俺は――この“動く城”の外側を受け持つ。
外の侍にも通じる顔、外の町方にも通じる声。
それをまとめる役が必要だろう?」
「……必要です」
「ならば話は早い。俺を使え」
名古屋は胸へ軽く手を当てた。
「湊殿。ただし一つだけ言っておく。
俺は従属するつもりはない。
見どころがあるから助ける。それだけだ」
湊は首を振った。
「従属してほしいわけではありません。
ただ……あなたの力が必要なのです」
名古屋は笑った。
「言えるじゃないか」
八代が続けて言った。
「湊殿。今日から本当に“戦の城”が始まります。
あなたは外に立つ覚悟を持たねばなりません」
三雲が笑い、曽根が鼻を鳴らす。
「湊殿。覚悟のほど、聞かせてもらおうか」
湊は拳を握り、名古屋・八代・曽根・三雲の四人を見渡した。
自分の胸の奥で、何かが確かに変わっていく。
「……皆の力を貸してほしい。
この普請を“動く城”にするために。
外にも内にも負けぬ城にするために」
名古屋は満足げに笑い、手を差し出した。
「良い。では湊殿――俺の最初の仕事だ」
「最初の……?」
「寺筋に、“外の目がついた”と知らせる。
今日、寺は静かでは済まぬ。
揺さぶるぞ」
普請場の空気が震えた。
湊は名古屋の手をしっかりと握り返した。
「お願いします」
「任された」
風が吹き抜け、木屑がひらりと舞った。
かつてただの普請だった場所が、
今や“戦の気配”を孕んだ城へと姿を変えつつあった。
――普請は動く。
――流れは形となり、形は道となる。
湊はその中心に立ったことを、はっきり自覚した。




