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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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44話: 声が道へ変わる刻

翌朝の空気は、昨日よりもわずかに冷え込みが強かった。

 普請場に立つと、土の匂いと木屑の香りが風に混ざり、朝日を受けた材木が鈍い光を放っている。


 視界の端で、人夫たちがいつもより早く集まっているのが見えた。

 ざわ、と小さな波が立つような気配。緊張ではない。むしろ“期待”に近い。


 ――昨日より、空気が軽い。


 湊はそう感じ、胸の奥が静かに温かくなるのを覚えた。

 三雲が寺を抑え、曽根が北郭を整えた効果が、目に見える形で現れていた。


「差配殿」


 声をかけてきたのは曽根昌世だった。

 縄張り図を腰に差し、朝露に濡れた草を踏みしめながら近づいてくる。


「北の筋、今日はもうほとんど乱れはねぇ。三雲が抑えたおかげだ」


「助かります。本当に……」


「いや、助かったのはこっちだ。久しぶりに“現場が動く”感覚を味わった」


 曽根は少し笑った。

 それは職人としての喜びを隠しもしない顔だった。


「曽根殿、今日の段取りは?」


「南郭に入る。だがな……」


 曽根はそこで言葉を切り、湊へ視線を向ける。


「今日の普請は、昨日と同じじゃいかねぇぞ」


「昨日と……違う?」


「ああ。昨日は“三雲が揃えた流れ”だった。今日は“寺筋が揃えようとする流れ”が来る」


 湊は息を飲んだ。


「揃えようとする……?」


「三雲が抑えたぶん、今日は揺り戻しが来るだろう。寺の連中は、誰かにまとめられるのを嫌う。だから、逆に“揃えようとする者たち”が顔を出す」


 ――揃える側。


 八代が語った言葉が、湊の胸に蘇る。


 形を揃える者。

 声を揃えようとする者。

 揃えぬ場所を許さない者――。


「寺と“揃える側”が繋がっている……?」


「繋がってるんじゃねぇ。元々、そういう性質の集まりなんだ」


 曽根はそう言うと、軽く肩をすくめた。


「まぁ、三雲が居りゃ大事にはならねぇ」


 そう言って現場へ歩み去った。


     ◇


 そのときだった。


「差配殿。寺から、使いが……!」


 駆けてきた若い侍が告げた。


「また、ですか」


「いえ……“今日は話を通したい者がいる”と……」


 嫌な予感が胸をかすめた。


 ――昨日の僧兵とは違う匂いだ。


「どこに?」


「普請場の外れの林に……」


 湊は深く息を吸い、足を向けた。


     ◇


 林の奥に、僧衣をまとった三人が佇んでいた。

 昨日の荒々しい男とは違い、年配で落ち着いた雰囲気を持つ者たち。


 その中央に立つ一人が、湊へ静かに頭を下げた。


「普請差配殿。お初にお目にかかります。寺務を預かる“長玄ちょうげん”と申します」


 柔らかな物腰。

 だが、目だけは油断ならない。


 ――寺の“本筋の人間”だ。


「本日は何の御用でしょう」


「昨日の件、聞き及んでおります。三雲殿が寺領の扱いに口を出されたとか」


 長玄の声は穏やかだったが、その奥にわずかな刺がある。


「普請に支障が出ておりましたので、調整をお願いしました」


「調整……でございますか」


 長玄の眉が、ほんのわずか動いた。


「寺は、揃えることを旨とします。昔からの筋は、昔からの筋。変わらぬことが安心にも繋がる。

 しかし、三雲殿は……“揃えぬ場所”を作ろうとされる」


 湊の胸がざわついた。


 ――揃えぬ場所。


 八代の言葉と、寺の言葉が重なる。


「揃えぬ場所があると、声が乱れます。乱れた声は争いを生みます。

 普請差配殿。あなた様は、それを望まれますか?」


 静かだが、突き刺さる問いだった。


 湊は答えに迷わなかった。


「声は、揃えればいいというものではありません。揃えた声は、時に息を詰まらせます」


「……では、争いが起きれば?」


「それを調整する者がいれば、争いは“道”に変わります。

 寺が揃え、侍が揃え、人夫が揃え……そして誰かが揃えぬ場所を作る。

 その両方が必要です」


 長玄は静かに目を見開いた。


「湊殿……八代殿の言葉を聞かれたのですね」


「はい」


「なるほど。揃えぬ場所――確かに、普請における“息抜き”は必要。

 ですが、三雲殿は……あまりにも“抑えが強い”。」


「それが必要なときもあります」


 長玄はしばし沈黙した。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「三雲成持。

 あの男は――寺が最も負いたくない“過去”そのものです」


 湊の背筋に冷気が走った。


「過去……?」


「五年前。

 寺が乱れ、村が揺れ、人夫が怪我をし、侍が動き……混乱が広がった。


 その時、あの男が来た。

 “調整役”として派遣されたのです」


「――――」


「あの男は、乱れの根を三日で潰しました。

 寺の筋を止め、村の筋を結び直し、侍の筋を返し……。

 だが、その手はあまりに容赦がなかった」


 湊は言葉を失った。


「以来、寺では“三雲の名を出すな”が合言葉になっております」


 長玄の声は静かだが、苦味を帯びていた。


「ですから……あの男が動くと、皆震えるのです。昔の痛みを思い出す」


 湊は小さく息を飲んだ。


 ――だから、昨日の僧兵はあれほど怯えたのか。


「しかし、五年前の三雲殿とは違うはずです。彼はもう……」


 長玄は言葉を切り、湊を見据えた。


「もしあなた様が、“揃えぬ流れ”を認めるなら――寺は争わず、協力しましょう」


 湊は静かに頷く。


「流れを殺す普請は、城を殺します。

 私は、流れを生かす普請をしたい」


「……承知しました。では、今日の寺筋は私が抑えます。

 三雲殿には会いたくありませんのでね」


 長玄はそう言って微笑み、林の奥へ消えた。


     ◇


 林から戻ろうとしたとき――


「湊殿。話は済んだか」


 背後から声がした。

 三雲が木立の影から姿を見せていた。


「聞いていたのですか?」


「ああ。寺が“過去”を持ち出すとはな」


 三雲は少しだけ苦笑した。


「気にするな。あいつらが嫌がるのは俺のやり方じゃねぇ。“俺が乱れを止められる”って事実だ」


 その言葉には、誇りでも傲りでもなく、淡々とした覚悟があった。


「差配殿。寺は今日、揺れるぞ。揃える者と、揃えぬ者でな」


「……はい。わかっています」


「だが心配すんな。今日の普請は“流れが決まる日”だ」


 三雲はそう言い、普請場のほうへ歩き出した。


     ◇


 湊が普請場へ戻ると、八代が待っていた。

 風に揺れる衣を押さえながら、穏やかに微笑む。


「寺と話してきたのですね」


「はい。揃える側が、動き始めています」


「揃える者とは、本来“善”であり“悪”でもある。

 古きを守り、新しきを拒む。

 だからこそ――揃えぬ場所を作る者が必要になる」


「三雲殿が……ですか」


「そう。あの男は、揃える流れを断ち、揃えぬ流れを作る者。

 そして、あなたは――そのふたつを“道”にする者だ」


 八代の声は柔らかいのに、胸へ鋭く届いた。


「流れは形になった。

 今日は、その形が“道へ変わる日”です」


 湊は深くうなずいた。


 ――今日、普請が本当に動き出す。


 心の奥で、確かな鼓動がひとつ鳴った。

午前の普請場は、まるで巨大な川のようだった。

 人夫が材木を運び、職人が槌を振るい、侍たちがその流れを誘導する。

 そのどれもが噛み合い始め、昨日とは比べものにならない速度で動いていた。


 だが、湊は分かっていた。


 ――流れが速くなると、歪みもまた大きくなる。


 その歪みが顔を出すのは、決まって“揃えようとする者たち”が動く時だ。


     ◇


「差配殿!」


 駆けてきた侍が、息を切らして告げた。


「寺筋の者らが、南郭の木口きぐちを勝手に閉じました! 人夫が通れません!」


 湊は眉を寄せた。


「閉じた……理由は?」


「“ここは寺の古道だから”と……」


 寺らしい。

 昨日の線引きは認めたはずなのに、揺り戻しとして“古い筋”を持ち出してきたのだ。


「わかりました。行きます」


 湊は走り出した。


     ◇


 南郭の入口には、袈裟姿の三人が立ち塞がっていた。

 その背後には、材木を担いで足止めを食っている人夫たち。


「差配殿。ここは通せません」


「昨日、寺務の長玄殿と話をつけました。今日の普請は――」


「長玄殿は“揃えぬ流れ”を認めたのです。

 しかし我らは“揃える流れ”を守る役目。昔からの筋を動かすわけにはいきません」


 湊は胸の奥で小さく息を吸った。


 ――来たな、寺の“揃える側”。


「では、どうすれば通れるのですか」


「寺の筋に従えばよい」


「普請の筋が死にます」


「寺の筋を殺せと?」


 会話は噛み合わない。

 いや、噛み合わせる気がない。

 これが“揃える側”のやり方だ。


「湊殿!」


 背後から声がした。三雲だった。


 彼は立ち止まると、僧衣の三人を一瞥し、ため息をついた。


「……お前ら、長玄の言葉を聞いてねぇな」


「三雲……成持……!」


 男たちの顔色が変わる。


「長玄殿は“揃えぬ場所を認める”と言ったろう。

 なのにお前らは何だ。昔の筋を振りかざして、揃えようとするばかりだ」


「寺は……揃えるところです」


「そうだ。揃える場所だ。

 だからこそ、“揃えぬ場所”を理解しねぇと、揃えられねぇんだよ」


 三雲の声は低いが、鋭く通る。


「昨日までの筋は、昨日までの筋だ。

 今日の筋は、今日の普請が決める。

 それが村と寺と侍の“調整”ってもんだ」


 僧衣の一人が震える声で言った。


「三雲……あなたは、あの頃と同じように……」


「違う。

 今は“湊殿の流れ”がある。

 俺のやり方じゃねぇ。湊殿の道に合わせて動く」


 湊は驚いた。

 三雲が自分を“流れの中心”として認めたのは、これが初めてだった。


「だから寺も合わせろ。

 揃えるなら、湊殿の差配に合わせて揃えろ。

 それができねぇなら――」


 三雲の目が鋭く光る。


「昨日と同じように、俺が全部止める」


 その一言で、寺の三人の顔が強張り切った。


 やがて、一番年配の僧が深く息を吐き、道を開けた。


「……通られよ。普請の筋に従う」


 三雲はうなずくと、湊へ視線を向けた。


「行け。ここはもう大丈夫だ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。差配殿、今日はまだ荒れるぞ」


 三雲は遠くを見た。

 その先では、曽根が指示を飛ばし、縄張り図を広げている。


「揃える側と揃えぬ側。

 その二つが揃うと、大きな波になる。

 今日の普請は、その波を“道”に変える日だ」


 湊は深くうなずいた。


     ◇


 昼過ぎ。

 普請場の中央に人が集まり始めていた。


「差配殿、声が乱れております!」


「人夫同士が意見で割れて――!」


 湊が駆けつけると、十数人が二手に分かれて口論していた。


「寺の筋が通らねぇなら、昔の持ち場はどうすんだよ!」


「普請の動線に従えって言ってんだ!」


「昨日までは通れたんだぞ!」


「昨日は昨日だ!」


 声の渦。

 これが八代のいう“声の乱れ”かと、湊は直感した。


 そのとき、八代が歩み出た。


「皆の者。声を荒げるのは良い。

 だが、その声は――どこへ向ける?」


 不思議なことに、声の渦が少しだけ静まった。


「声は、揃えれば静かになる。

 揃えぬままでは乱れる。

 しかし――乱れた声を“道”へ変えることもできる」


 八代の穏やかな声音に、周囲の空気が変わる。


「湊殿。ここはあなたが“道”を示すところです」


 湊は前へ出た。


「聞いてください!」


 人夫も侍も、自然と湊を見る。


「寺の筋、侍の筋、人夫の筋。

 どれも間違っていません。

 しかし――“この普請の筋”は、今日を生きる我々が決めるものです!」


 湊は材木の束を指さした。


「この材木は、昨日の筋ではなく、今日の普請を通して運ばれます!

 寺の古道でも、侍の持ち場でもなく――“今の流れ”が優先されます!」


 その言葉に、ざわめきが広がる。


「流れを止めたい者は、昨日の筋に従ってください。

 流れを進めたい者は、今日の筋を通してください!」


 沈黙。


 だが――最初の一人が動いた。


「……俺は、今日の筋だ」


 人夫頭だった。


 次に、侍が言った。


「差配殿に従う!」


 また一人。

 また一人。


 気づけば、声は一つにまとまり始めていた。


 八代が静かに言う。


「これで“道”になりましたね。湊殿」


     ◇


 午後の普請は、驚くほど滑らかに進んだ。


 揃える側は、湊の言葉で揃う場所を変えた。

 揃えぬ側は、三雲が抑えた。

 曽根は南郭の筋を作り、八代は声の乱れを鎮めた。


 湊は思った。


 ――これが、四人で動くということか。


     ◇


 夕刻。

 陽が赤く差す普請場を見渡しながら、八代が近づいてきた。


「湊殿。今日の“流れ”は見事でした」


「……皆のおかげです」


「いいえ。

 流れを道へ変えたのは、あなたです。

 揃える者と揃えぬ者。

 その両方が動く時――現場は必ず乱れます。

 しかし湊殿。あなたはその乱れを“流れ”と見た」


 八代は静かにうなずく。


「それが、普請差配の才です」


 湊は少しだけ照れた。


「明日は?」


「明日は、“城の声”が動き始める日でしょう。

 揃える側も、揃えぬ側も。

 そのどちらも、あなたを見るはずです」


 八代が去ったあと、湊はひとりで普請場を見つめた。


 槌の音。

 掛け声。

 土を踏む音。


 それらが、昨日までとは違う“ひとつの響き”になっていた。


 ――流れは道になった。

 ――道はやがて、城になる。


 湊は胸の奥で静かに誓った。


「……行こう。

 神指城を“人の声が通る城”にするために」

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