42話:城を読む者、城を束ねる者
早朝の会津盆地に、まだ白い息が残っていた。
神指の丘陵に広がる普請場は、昨日までと同じように人の声で満ちているはずなのに、どこか空気が違っていた。
湊は自分の手帳――いや、現代の大学ノートを模して作った簡易帳面――を胸に抱えながら現場へ向かっていた。紙は粗末、墨は滲む。それでも、自分で作った「夫役割当表」「工程段階表」「資材搬入記録」によって、普請が動き始めているのは明らかだった。
――だが、違和感がある。
朝一番の段取りをつけようと普請頭に声をかける前に、湊はその正体に気付いた。
現場が“静かすぎる”のだ。
「……おはようございます」
声をかけると、普請頭の男・堀江がぎこちなく頭を下げた。昨日まで威勢のいい男だった。だが、今日の彼は目を泳がせている。
「湊様……その、少し困ったことが……」
「資材が遅れているのですか?」
「い、いえ……そちらではなく……」
湊は眉をひそめる。
すると堀江は、なおも言いづらそうに口を開いた。
「村の者が、普請を嫌がりはじめまして……。昨日の割当を“なぜうちの村だけ多いのだ”と……」
「割当は石高に応じて公平にしています。それは昨日、村役たちにも説明したはずですが」
「そうなんですが……『隣村より五人多いのは不満だ』と言い張りまして」
湊の胸に、冷たいものが走った。
――これだ。
歴史を変えるより前に、まず現実を変えねばならない。
普請とは、理屈だけでは動かない。
大学の法学部で学んだ「予測可能性」や「手続の公正」は、この時代では“説明しても理解してもらえるとは限らない”という壁をもつ。
「堀江さん、村の代表はどこに?」
「丘の上の簡易詰所で揉めております」
「行きましょう」
湊は現場を駆け上がる。
丘の上の詰所では、数人の村役人たちが言い争いをしていた。
「うちの村から十六人も出せとは!」「隣は十一人で良いと言われた!」「そもそもこの丘は湿地で、作業が重いのだ!」
湊が到着した瞬間、全員の視線が刺さった。
「湊様……! 納得できませぬ!」
「石高に合わせて算出した人数です。“隣が少ない”のではなく、“あなた方の村の耕地が広い”からです」
「そんな理屈は知らぬ!」「口先だけで村の苦労が分かるか!」
まずい、と湊は思った。
数学的な説明をしても意味がない。
この時代の村役は、合理性ではなく“体感の公平”でしか動かない。
湊は胸の内で素早く思考を切り替えた。
――じゃあ、“体感の公平”を作ればいい。
「では、こうしましょう」
湊は風が吹く丘陵を指さした。
「作業難易度が高い区域から、人員を優先して割り当てます。あなた方の村には“重い仕事”が多い分、作業完了後の負担軽減を約束します」
村人たちは一瞬押し黙る。
「……つまり?」
「“楽な区域”に人を回すより、あなた方を“信頼できる村”として難所に任せます。終われば、その功績を兼続様に報告します」
堀江が目を丸くした。
だが村役たちは、誇りをくすぐられたように顔つきが変わった。
「う、うむ……そういうことなら……考えないでもない」
「功績が残るというのは……悪くない」
湊は内心で胸を撫で下ろした。
――この時代は、“理屈より誇り”。
現代では当たり前の“公平な割当”が、この時代ではむしろ火種になる。
だが、表面上は解決しても、湊は“もう限界だ”と感じていた。
普請は、段取りと士気の両輪がなければ動かない。
その両方を一人で背負うのは、もう無理だ。
詰所を出て、堀江がぽつりとつぶやいた。
「湊様……正直、こちとら、あんたが何者なのか分かりませんが……村の者は今日から、あんたを“役目の者”として扱うでしょう。あの言い方は、なかなかできるもんじゃねえ」
「……ありがとうございます」
湊は苦笑を漏らした。
だが心は晴れない。
――このままでは、いずれ破綻する。
俺は“普請の専門家”ではない。
計画と人の整理しかできない。
現場の“技術の柱”が必要だ。
築城術の専門家。戦場を知り、城を知り、地形を読む者。
そんな人物、この時代にいるのか――
その時だった。
丘の下から、馬の蹄の音が響いた。
風を切るように、普請場を駆け抜け、数人の武士が現れた。
先頭の男が声を張る。
「上杉家 直江家中よりの伝令! 湊殿はおられるか!」
湊が足を止めると、伝令武士が馬を降り、胸に手を当てて深く礼をした。
「湊殿。直江兼続様よりの御言伝にて候」
「……御言伝?」
伝令は短く告げた。
「“普請の本格化にあたり、旧蒲生家臣の曽根昌世を呼び寄せる。
湊、そなたは引き続き段取りを整えよ。
曽根は近日中に会津へ到着する”」
湊は息を呑んだ。
――曽根……?
どこかで聞いたことがある。
脳裏のどこかが、遠い歴史の授業を叩く。
名前の響きが、真田昌幸の周辺と繋がる。
武田家の築城術、軍学。
会津若松城の縄張りにも関わったとされる男――
その人物が、会津に来る。
湊は胸を押さえた。
「……助かった」
思わず漏れた言葉だった。
伝令も堀江も目を丸くする。
湊は気付かれないように、手帳を握りしめた。
――俺一人では無理だ。
でも、“土と石のプロ”が来るなら、物語は動き出す。
曽根昌世。
武田信玄の両眼と称された、築城と軍略の天才。
その人物が、神指の地に現れる。
湊は、冷たい風の中で小さく呟いた。
「……ここからだ。ここから歴史が変わる」
空を見上げると、会津の冬空が少しだけ明るく見えた。
夕刻の光が、普請場に長い影を落としていた。
伝令が去ったあとも、湊の胸はざわついていた。
――曽根昌世。
武田信玄の両眼と称された、戦国屈指の築城・軍略の名手。
たとえ歴史の細部を忘れていても、その“響き”だけで分かる。
自分とはまるで違う世界の人間が来る。
普請場で小さな改善を積み重ねるだけで精一杯だった湊にとって、その名は巨大な影のように迫ってきた。
その日の作業が終わり、職人や農民たちが帰っていく道を見送りながら、湊はふと足を止めた。
――俺は、このままでいいのか?
村の役人たちの説得、普請の段取り、工程の整理。
それらは確かに役に立っていた。
だが、それは“代わりのきく仕事”かもしれない。
曽根昌世のような人物が来れば、湊の役割は一気に変わるだろう。
――いや、変わらなければならない。
湊は胸の中に小さな火を感じた。
このまま普請の帳簿係で終わるつもりはない。
上杉家が天下の分岐点に立つ時、自分はもっと大きな役割を果たすはずだ。
そんな思いを胸に抱いた、その時だった――
普請場の入口に、馬の影が現れた。
湊は反射的にそちらを振り向いた。
夕日を背負って現れた男の姿を見た瞬間、全身が粟立つ。
――曽根、昌世。
風の匂いで分かったわけではない。
ただ、漂う“気配”が違った。
馬を降りた男は、五十を超えているはずなのに、背筋が真っ直ぐだった。
瞳は鋭いが濁りがない。
武田の赤備えを思わせる深紅の陣羽織。
腰の太刀は飾りではなく、磨き上げられた実戦の刃。
普請場の空気が変わる。
そこにいる全員が、この男が“本物”であることを直感した。
男は湊の前まで歩み寄る。
足音がやけに静かに響いた。
「――そなたが湊殿か」
声は低く、しかしよく通る。
問いではなく、確認の響きだった。
「はい。湊と申します」
湊が頭を下げると、曽根はわずかに顎を引いた。
「曽根昌世。直江殿より、ここに来いと命じられた」
湊は息を整えながら言う。
「お越しいただき、ありがとうございます。普請の状況をご覧になれば、分かることが多いかと……」
曽根は言葉を遮るように、普請場全体に視線を向けた。
その目の動きは、戦場の地形を読む兵法家そのものだった。
一歩、二歩、三歩。
足場の土を踏みながら、風向きや丘陵の傾斜をじっと観察していく。
やがて曽根は、溜息のように言った。
「――悪くはない。だが、これでは籠城は五十日ももたぬ」
堀江が驚いて声を上げる。
「そ、それほど違うんですか……?」
「違うのではない。そもそも“城にしていない”のだ。
ここはまだ、ただの大きな土塁だ」
曽根の言葉は厳しいが、怒りではなく“本物の職人”の声音だった。
湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。
――この人だ。
本当に必要だったのは、この“本物”だ。
「湊殿」
曽根が湊の名を呼んだ。
その声は、今まで聞いたどんな声とも違った。
「直江殿は言っていた。“若いが使える男だ”とな」
「……過分なお言葉です」
「使えるかどうかは、これから分かる。
だが、ひとつ確かなことがある」
曽根は湊の手に持つ帳面を指さした。
「このように普請を“数字で見る”者は、今の会津にはおらぬ。
そなたのやり方は、武田でも珍しかった。信玄公が好まれた手だ」
「……信玄公が?」
「物事を“形で見る者”は多い。だが“道理で見る者”は少ない。
そなたは後者だ。だから直江殿が気に入るわけだ」
湊は思わず息を呑んだ。
自分のやってきたことは、ただの現代知識の応用だと思っていた。
だが、曽根は違う捉え方をしている。
――道理で見る者。
大学で学んだ法学は、確かにその通りだ。
事実を分類し、手続きを整え、筋道を立てる。
それが武田信玄の好んだ方法と同じだと言われるとは思わなかった。
「湊殿。
城とは“形”ではない。
“考え”で作るものだ」
曽根は普請場の土塁を見つめながら言った。
「土を盛る者、石を運ぶ者、縄を張る者。
それぞれの力を“束ねる者”がいなければ、城はただの山と変わらぬ」
曽根の視線が、湊を射抜く。
「そなたが束ねよ」
「……私が、ですか?」
「普請全体ではない。
“段取りと人の動き”は、おそらくそなたが最も得意だ」
湊は言葉を失った。
曽根は続ける。
「わしが城の骨を作る。
そなたが血を流し、筋を張れ」
堀江も、周囲にいた職人たちも息を呑んでいた。
湊自身も震えていた。
――役目が変わる。
ここで、決定的に。
「……承知しました。
曽根様。私にできる限りのことをいたします」
その瞬間、曽根が初めて微笑した。
「うむ。
では、まず“現場の地図”を見せよ」
湊は帳面を差し出した。
曽根はそれを受け取り、手で触れた。
「――紙質は悪いが、筋は悪くない。
よし、今夜はこれを基に“初期縄張りの修正案”を作る」
「修正案……?」
「わしが考えるのではない。
そなたも考えよ。二案、三案、互いにぶつける」
「曽根様と……私が……?」
「そうだ。
城普請とは、考える者が多いほど良いものができる。
わしに遠慮はいらぬ。遠慮した瞬間、城は死ぬ」
湊は胸が熱くなるのを感じた。
――自分が、“ただの学生上がり”ではなくなる。
歴史の大舞台で、本物の職人と肩を並べる。
曽根は夕暮れの光を背に、静かに告げた。
「湊殿。
この会津の地に、わしらは“天下の形を変える城”を作る。
そのために来たのだ」
湊は深く頭を下げた。
「……よろしくお願いいたします」
風が吹いた。
会津の空が、まるで新しい季節を告げるように鳴った。
この瞬間、神指城の普請は“本物”になった。
そして湊自身も、ただの若造から“一人の武士”へと歩み出した。




