41話:冬土の下で動くもの
雪になりきれない冬雨が、城下の泥に薄い皮を張っていた。踏めば割れ、割れた隙間から黒い土がにじむ。冬の普請は、土よりも「人の息」が冷える。
湊は藁笠を深くかぶり、神指城の予定地へ向かっていた。
正式な呼び名は、昨日兼続から言い渡されたばかりだ。
――神指城・普請差配。
役職ではない。権限でもない。
ただ「任された事柄の名」であり、誰の嫉妬も買わない形。
それで、十分だった。
名を立てれば、奪われる。立てないままなら、動ける。
冬の風が笠の下へ潜り込む。耳が痛い。
普請場の入口には、すでに十数名の職人が集まっていた。斧、木槌、縄、墨壺――すべてが濡れている。
「湊殿、お早い」
声を掛けたのは、普請頭の片倉重兵衛。
五十手前、小柄だが眼光が鋭い。城普請の経験が深く、現場の声をまとめる役である。
「現況を見せていただければ」
「へぇ。――ただ、今日は“測り”を始めるには土が悪いですぜ」
重兵衛は泥を指で弾いた。
「一日で変わる土じゃありませんが、冬の湿りは芯まで入る。乾きが遅いぶん、切り口の嘘が見える」
「嘘?」
「土は、冷えると固まる“ふり”をするんでさぁ。人間と同じでね」
重兵衛は笑ったが、眼だけは笑っていなかった。
湊は、その言葉を覚えておくことにした。
現代で得た知識のどれにも無い、しかし普請に生きる者だけが持つ感覚。
「今日はどこを?」
「“高台の縁”を見ていただきたい。地面の線、風の通り、人の流れ。城は上に乗るもんじゃなく、下に生えるもんですから」
湊は頷き、重兵衛とともに坂道を上がっていく。
まだ構造物は何もない。
だが、ここにはすでに“城が生える形”があった。
湊の足が、自然と止まった。
――風。
冬風が、ある一点を流れずに溜まっている。
そこだけ、冷えの刺し方が違う。
湊は笠を押さえながら言った。
「ここだけ、風が留まっています」
「ほぉ……気づきましたか」
重兵衛の声が低くなる。
「ここは“城の息が止まる場所”です。物見の位置でもなく、堀の線でもなく、ただ“誰もが一度足を止める場所”」
湊は目を細くし、足で土を踏んだ。
湿りが強い。だが沈まない。層が違うのか――。
「重兵衛殿。ここは……人が集まりやすいのですか?」
「ええ。理由はないんですがね。普請場が本格化すると、ここに勝手に道ができる。人の癖ってやつです」
理由のない流れ。
意味のない縁。
そして、揃えられない声。
湊は昨夜の名を名乗らぬ男の言葉を思い出した。
――“役に立たぬ声は、縫われん”
風の留まる場所は、声も留まるのだろうか。
「湊殿?」
「いえ……ひとつ、確かめたいことがあります」
湊は周囲を見渡した。
普請場の男たちは、寒さで声が短い。余計な話をしない。
だが、この“風の溜まり場”なら。
湊が立ち、足をずらして場所を変えると、重兵衛が眉を上げた。
「そいつは……妙な歩き方で?」
「ここだけ、足の沈みが同じなんです。他の土とは違う層が揃っている。冬でも均一に湿る土です」
「気づきましたか……。そこは昔、田んぼでした」
湊は息を呑む。
「田んぼ……?」
「ええ。城下になる前の話ですがね。“水が逃げない”土地なんです。だから人も風も、一度ここで“溜まる”」
――落ちる場所。
板の上ではなく、井戸の縁でもなく。
この“普請場の一点”にも、声が落ちる余地がある。
風も、土も、人も、理由なく集まる場所。
「重兵衛殿。ここに……小さな囲いを作ってもらうことはできますか?」
「囲い? 何を置くんで?」
「何も置きません」
重兵衛が目を丸くする。
「何も……?」
「ええ。人が勝手に立ち止まる場所を、“あえてそのままにする”ための囲いです」
重兵衛はしばらく考えてから、吹き出した。
「ははぁ……湊殿、変わったことをなさる」
「変わっていますか?」
「変わってる。普通は“何か置くための囲い”を作るもんでさぁ。何も置かないために囲うってのは、初めて聞きましたわ」
重兵衛は笑いながらも、その目は湊の意図を探っている。
「……湊殿。あんた、何を見て普請に来てる」
問われた瞬間、湊の胸が僅かに締まった。
――言えることと言えないことがある。
昨夜の“揃える側”の話は、普請の頭に伝える性質のものではない。
「形になり過ぎる前に、気配を見ています」
「気配?」
「人がどこで足を止めるか。どこで短く息を吐くか。城の形は、そういう“癖”にも左右されると思っています」
重兵衛はしばらく湊を見つめ、やがて口角を上げた。
「……面白ぇ。そういう目で普請を見る奴ァ、初めてだ」
その時だった。
坂の下から誰かが駆け上がってきた。
「重兵衛頭! 湊殿も!」
息を切らしながら走ってきたのは、若い職人の与三。
「どうした」
「城下で……“変な札”が見つかったそうで!」
湊の心臓が一度だけ跳ねた。
――札……だと?
与三は続けた。
「普請とは直接関係ねぇんですが……“祈りじゃねぇ刻み方”になってるって、寺の坊主が……」
湊は、重兵衛を見る。
「行きましょう」
重兵衛は頷き、与三に続いた。
札がまた動いた。
だが今回は、昨夜の板の上ではない。
普請の外、城下の中。
湊は歩きながら、拳を握った。
(……早すぎる)
“揃える側”が、すでに新しい手を打ってきた。
声を落とす縁を探しているのは、湊だけではない。
そして――
その札は、神指城の“形が生まれる前”に来た。
揃える側が、先に動いたのだ。
湊は風の冷たさを忘れていた。
冬土の下で、何かが動いている。
城下の空気は、朝よりも冷たかった。
湿り気を含んだ風が、湊の足首へまとわりつく。冬は、影を長くし、声を短くする。だが――その短さの中に“違和”はよく出る。
与三に案内された先は、町外れの辻だった。
祠と呼ぶには小さく、供え物もない。ただ、風を避けるために板を立てただけの、誰も気に留めない場所。
だが、人が二、三人ほど集まっていた。
「これだ……」
寺の若い僧が、震える指で示した。
地面の上に、“乾いた札”が一枚落ちていた。
昨夜のような濡れや歪みがない。冬雨の中で乾くはずがないのに――乾ききっている。
湊は膝をついた。
(……違う)
昨夜の刻みとは、根本が違う。
刻みの深さが均一すぎる。刃の癖がない。
そして何より――
「これは……“人の手”じゃない」
僧が息を呑んだ。
「に、人の手でなくて……誰が刻むというのです」
「人が刻んでいます。ただし、“意味のない動きの反復”で」
湊は札を指でなぞった。
刃の入りが強弱なく、指の流れにも沿っていない。
あたかも「刻むという行為」を型だけで繰り返した跡。
「祈りに混ぜる刻みでもなく、数に縫う刻みでもない。これは……“揃えられた刻みそのもの”です」
僧の顔色が一気に変わる。
「つまり……作り物……?」
「ええ。形だけを先に作り、あとで理由を足すつもりなのでしょう」
重兵衛が腕を組んだ。
「理由が後か。……厄介ですな。普請でも一番嫌われるやり口だ。形だけ急いで、土台が死ぬ」
「揃える側は、“焦っている”ということです」
「焦り……?」
「昨夜、入口が動き始めた。板を離れ、井戸へ、風除けへ。それは向こうにも伝わっている。
だから今日は、理由より先に“揃っている形”を置いたのです」
札は、声ではない。
声に見せかけた“器”だけ。
湊はその札を軽く折り曲げようとした。
乾いているのに、折れ目がつかない。
「……この紙、古いです」
「古い?」
「今年のものではありません。去年か……もっと前か。保管されていた紙です」
理由なく、震えが湧き上がった。
揃える側は、今日のために“形だけの札”を用意していたのだ。
「湊殿! こっちにも……!」
与三の叫びに振り返ると、祠の裏に“同じ札”が二枚、落ちていた。
湊は一歩近づいた。
(……これは、撒かれた)
三枚すべてが乾いている。
乾いた札を、冬雨の中で落とすには――
(“持って歩いていた”ということだ)
つまり、拾われた札ではない。
最初から持ち歩かれ、今日この場所に落とされた。
僧が怯えた声で言う。
「これは……祈りの改ざんではなく、祈りの“先回り”では?」
「はい。祈りの形を先に置き、あとで意味を流し込む。形を作る側にとっては、これほど楽なことはありません」
重兵衛がぼそりと呟いた。
「普請で言やぁ……“柱の位置を決めちまってから、土台を合わせる”ようなもんですな。やっちまったあとじゃ、誰も直せねぇ」
「揃える側は、先に“柱”を打ったのです。
声を拾う前に、“声が揃った形”を置いた」
湊は三枚の札を拾い、手の中で重ねた。
重い。
紙一枚なのに、不自然に重い。
手のひらで感じる“重さ”は、意味の重さではない。
(……これは、“数を縫う札”の重さだ)
昨夜見た男の動き。
袖の内へ滑らせる癖。
責を逃がす仕草。
それらが一瞬で結びついた。
「――これは、“昨日の流れ”とは別筋です」
僧も、重兵衛も驚いて湊を見た。
「べ、別筋……?」
「昨夜の拾いと数え、祈りへの縫い合わせは“夜の筋”。
しかし、この札を撒いたのは“昼の筋”です」
「昼……?」
「動きの癖が違います。昨夜の者は、痕を“見せて”責を散らしていた。
この札を撒いた者は――痕を“消す”方を選んでいる」
湊は指先を見た。
札には“持つ癖”がない。
誰かが長く持ち歩いたものではない。
(……複数の筋が動いている)
一つではない。
二つでもなさそうだ。
そして、最も恐ろしいのは――。
(“互いの存在を知らない可能性がある”)
昨夜の拾い手も。
祈りへ混ぜた者も。
そして今日、札を撒いた者も。
皆、“別の役割”で動いている。
「湊殿……どうします?」
重兵衛の問いに、湊は札を見下ろした。
昨夜、名を名乗らぬ男が言った。
――“これは戦ではない。だが、戦より時間がかかる”
それが、今ようやく腑に落ちた。
敵が一つではないなら。
形が一つでないなら。
声を揃える手が複数なら。
(……入口も、一つではいけない)
「重兵衛殿。先ほどの“風の溜まる場所”を囲ってください」
「へぇ。だが、何を……」
「何も置かない囲いのままに」
「……?」
湊は僧にも向き直った。
「坊様、この札は寺で預からないでください」
「で、では……どこへ?」
「誰の手にも渡さない場所へ。
“形にも祈りにも、どちらにも縫えない”場所です」
僧は戸惑ったが、重兵衛が代わりに頷いた。
「湊殿の言う“縁”ってやつですな」
「はい。縁は、意味を置き場にしません。置き場にしなければ、奪われません」
湊は札を三枚、袖の内に滑らせた。
それは昨夜見た“拾う者”の動きに、あえて似せた。
だが、意味は逆だ。
揃えるためではなく、散らすため。
縫うためではなく、切るため。
「湊殿……その札、どう扱うおつもりで?」
与三が、不安げに尋ねた。
「……落とします」
「落とす?」
「ええ。人の話が“意味にならない場所”へ」
湊は風を吸い込んだ。
普請場の風。
辻の風。
井戸の縁の風。
昨夜から今日にかけて、風の流れが繋がりつつあった。
(落ちる場所は最初からある。見つけるだけだ)
名を名乗らぬ男の言葉が、骨の中に染み込む。
「今夜、動きます」
湊が言うと、重兵衛は静かに頷いた。
「普請場でも“風の道”は開けておきます。人が立ち止まるなら、そこが湊殿の縁でしょう」
「助かります。ここから先は、普請と町と城の動きが……一本になります」
僧は息を呑んだ。
「一本……?」
「はい。城の形が、声の形になる。
声の形が、町の形に滲む。
その流れを読むために――神指城は“まだ形にならない城”でなければならない」
重兵衛は口を開いたまま、湊を見た。
「……湊殿。あんた、普請を“造る前に読む”ってのか」
「造れば奪われます。読むなら奪われません」
与三の背筋が震えた。
「な、なんか……湊殿の言ってること、普請じゃねぇ……」
「普請ですよ。形の前に流れを見る。
城は土でできていません。人でできています」
その一言に、重兵衛の顔が変わった。
普請の男が、普請ではなく“流れ”を見た。
そして気づいた。
――この男は、図を引かない。地面に線を描かない。
だが形になる前の“癖”を見ている。
湊は札を懐に入れ、風の下へ足を向けた。
(今夜。
揃える側より先に、落とす場所を作る)
揃えるための形が先に撒かれたなら。
散らすための縁を、先に見つければいい。
冬土の下で、流れは確実に変わり始めていた。




