40話:火の縁に落ちる声
夜明け前の城下は、音が少ない。
霧雨はいつの間にか止み、空気だけが冷え切っていた。石畳に残った湿り気が、歩くたびに草履の裏で低く鳴る。
湊は、城外れの広場に立っていた。
ここは市でも辻でもない。荷を積む前の牛馬が足を止め、火を入れる前の炭が仮置きされる、ただの空地だ。役にも功にもならない場所。だが、息は落ちる。
背後で、足音が一つ止まった。
振り返らなくても分かる。
歩幅が短く、音が軽い。重心が低い。酒屋の主ではない。
湊が視線を向けると、そこに男がいた。
背は高くないが、骨格がはっきりしている。肩幅があり、首が太い。外套の襟を立てているが、寒さを誤魔化す仕草がない。目だけが、すでに場を測っていた。
男は広場を一瞥し、低く言った。
「ここはいい」
声は抑えているが、曖昧さがない。判断の声だ。
「理由は?」
湊が問うと、男は足元の地面を見た。
踏み固められた土。昨日と今日で変わらない跡。新しい足跡も、古い足跡も、区別がつかない。
「残らん。残らん場所は、揃えにくい」
男はそう言って、視線を上げた。
「人は、残るところで嘘をつく。残らんところでは、息を吐く」
湊は小さく頷いた。
昨夜、兼続に報告した内容と噛み合う。だがこの男は、報告を聞いていない。見て、決めている。
少し離れた位置で、八代が黙って周囲を見張っている。
酒屋の主は来ていない。今日は役割が違う。
男が続けた。
「昨夜までのやり方は、もう通じん」
「止めたから、ですか」
「違う」
男は即座に否定した。
「見たからだ。相手は、見られたことを知っている」
湊は息を吸った。
見た、という事実は、こちらの勝ちでもあり、同時に次の段階への合図でもある。
「だから、次は点だ」
男は地面にしゃがみ込み、指で小さな円を描いた。
「入口を作るな。仕掛けるな。ここに落ちた、とも思わせるな」
「では、どうやって」
「役に立たぬ理由で、立ち止まらせる」
男は立ち上がり、湊を見た。
「水が冷たい。煙が目に染みる。足が疲れた。腹が減った。――全部、使えん」
湊は、その言葉の重みを測った。
使えないからこそ、奪われない。価値がないから、数にならない。
「それを……散らす」
「散らすな」
男は首を振った。
「散らすと、集めたくなる。点のまま、落とせ」
沈黙が落ちる。
風がないのに、寒さだけが動く。
湊は、はっきりと言った。
「一人では、回せません」
男の眉が、わずかに動いた。否定ではない。
「分かっている」
「だから……」
湊は言葉を選ばなかった。
「ここから先は、役を決める必要があります」
男は、しばらく黙って湊を見ていた。
値踏みではない。時間の計算だ。
「遅い」
そう言ってから、男は続けた。
「決めるのが、だ」
湊は、視線を逸らさなかった。
「俺は、見ることと考えることは出来ます。だが、回すことは一人では無理です」
「分かっている」
男は、同じ言葉をもう一度使った。
「だから、俺はここにいる」
湊の胸の奥で、何かが静かに定まった。
説得ではない。納得でもない。配置だ。
「役を、引き受けてもらえますか」
男は即答しなかった。
だが、拒まない。
「内容は」
「表に立たない。名を持たない。だが、人は動かす」
「責は」
「俺が負います」
男は、短く息を吐いた。
「……いい」
それだけだった。
だが、その一言で、空気が変わった。
助言者ではなくなる。偶然そこにいた男でもなくなる。
男は言った。
「今日から、見るだけでは足りん」
「何を」
「調練の数。動かせる人間の量。街道ごとの時間」
男は広場の端を指さした。
「ここは、三日後には使えなくなる」
湊は眉を寄せる。
「理由は」
「噂が回る。理由のない立ち話が増える。そうなると、数を付けたがる奴が出る」
湊は、即座に理解した。
「では……」
「次を、もう一つ用意する」
男は歩き出しながら言った。
「役に立たぬ場所は、一つでいい。だが、落ちる縁は複数要る」
湊は、その背中を見た。
名を名乗らぬまま、既に仕事の話をしている。
これは、もう助言ではない。
仕事だ。
湊は、静かに答えた。
「分かりました。――その役、任せます」
男は振り返らなかった。
だが歩幅が、わずかに変わった。
その瞬間、湊は理解した。
これは人を使う話ではない。
人が、人を預かる話だ。
夜明け前の城下は、湿り気だけが残っていた。霧雨は止んでも、瓦と土塀は乾かない。冷えは薄い膜になって町に張り付き、人の吐く息だけが白く目立つ。
湊は路地を抜け、井戸端へ向かった。走るのではなく、歩幅を変えずに。急げば形が立つ。形が立てば、相手は先に手を打つ。
八代は少し後ろ。気配だけで付いてくる。音を増やさない距離だ。
井戸は、辻の半歩外れにあった。家と家の間の隙間に、丸い石の縁。桶を置く板が二枚。そこだけは風が弱く、息が落ち着く。湊が「縁」と呼んだ場所の典型だった。
先にいたのは、女ふたりと、汲みに来た男ひとり。桶を下ろし、縄を手繰る音がする。言葉は短い。
「冷たいな」
「冬だもの」
役に立たない声。功にも責にもならない声。だから揃えにくい。湊は息を止めずに、その場へ入った。帳を抱えている。読むためではない。「役に立つものを持っている顔」を見せるためだ。
女のひとりが湊を見て、視線を落とす。城勤めの気配は、城下では目立つ。目立つが、目立つこと自体は悪ではない。悪になるのは、名と用を結ぶときだ。
湊は井戸の縁にしゃがみ、桶の水面を覗いた。暗い。底が見えない。水は冷たさの色をしている。
「深いですね」
言ってから、自分でも可笑しかった。深いから何だ。深いと分かったところで功はない。だが、こういう声は残る。残っても、誰も責を取らない。
女が、少し間を置いて答えた。
「昔から、ここは深いよ」
「落ちたら、戻らない」
もうひとりの女がぽつりと付けた。笑いが混じりそうで混じらない。笑いは軽い。軽い声は揃えやすい。だから、笑い切らないところに本音が落ちる。
湊は頷き、帳を膝に置いた。開かない。ただ「ある」と見せておく。
「桶を落としたら、どうします」
「拾うよ。縄で」
男が言った。
「縄が切れたら?」
「切れねえように結ぶ」
男の声は、少しだけ刺がある。生活の声だ。誰かを責めたいわけではない。ただ、余計なことを言う余裕がない。
湊は、そこで終わらせた。これ以上は用になる。用になった瞬間、形になる。
立ち上がり、井戸端を離れる。離れると同時に、背後の気配がわずかに変わった。
音がひとつ増えたのだ。
草履が石に触れる擦れ。ほんの一瞬。通り過ぎるふりをしている足取り。だが足が止まった場所が、井戸の縁に近すぎる。
湊は振り返らない。振り返れば、目が合う。目が合えば、名が生まれる。名が生まれれば、相手は責を背負わせる形に変える。
湊は帳を抱え直し、井戸から二十歩。角を曲がるふりをして、路地の影へ入った。八代が何も言わずに同じ影へ滑り込む。
井戸端の男が、桶を引き上げた。水が揺れる音。女の咳。そこに混じって、別の呼吸が一つ。抑えた呼吸。見ている呼吸。
やがて、その呼吸が動いた。井戸から離れる。足が軽い。荷を持っていない。役目は「拾う」でも「数にする」でもない。ただ「置き換えの前」に立ち寄っただけだ。
湊は、ようやく視線を動かした。角の隙間から、背中だけを見る。外套の裾が短く、膝の動きが見える。低い背。首が前に出ている。地面ばかり見て歩く癖。
酒屋の主だ。
湊の胸が、少しだけ冷えた。敵ではない。味方でもない。だが、入口を嗅ぎ分ける鼻を持つ。だからこそ、同じ縁へ寄る。
八代が低く囁いた。
「……同じ井戸か」
「偶然のふりをして、偶然を拾う者です」
「偶然が続けば、偶然ではなくなる」
その通りだ。点が点のまま保たれるには、点が「続かない」工夫が要る。続けば線になる。線になれば奪われる。
酒屋の主は路地を抜け、広い道へ出た。そこで一度、立ち止まる。立ち止まった場所は、寺へ向かう道の「少し外」。祈りへ混ぜる前の置き場が、そこにある。
湊は追わない。近づかない。だが見失わない。
見失わないために必要なのは、足の速さではなく、町の形だ。
湊は頭の中で町割りを引いた。寺。普請場。街道。井戸。火のそば。庇。縁。点。点の並び。並びは線に見えるが、線にしないために、点の間に「用」を置かない。
用を置かなければ、揃える側は価値を与えられない。価値が与えられなければ、拾う理由が立たない。
酒屋の主が、道端の何でもない板塀の影に入った。人が二人、影に溶ける。顔は見えない。だが動きは見える。袖の内に滑らせる仕草。受け取ったものを、別の手に渡す仕草。
湊の喉が渇いた。
戻らないものが、確かに流れている。
八代が息を吐き、湊の耳元で言った。
「入口から出口まで、もう一度繋がったな」
「はい。今度は、寺へ行く前に薄く割っています」
「薄く割れば、揃いすぎない」
「揃えすぎれば疑われるからです」
相手は賢い。賢いから、不完全を選ぶ。不完全は握りにくい。握りにくいものを握ろうとすれば、指が露出する。
湊は、その「露出」を待っている。
背後で、気配が一つ寄った。八代ではない。足音を殺す歩き方。湿った石畳でも滑らない重心。肩幅が広い。首筋が太い。瞬きが少ない。
湊は振り返らずに言った。
「見えましたか」
低い声が返る。
「見えた」
短い。余計がない。だが、言葉の硬さが違う。戦場の硬さだ。
「追うな」
「追いません」
「追えば、奴らは形を変える」
「分かっています」
沈黙が一拍落ちた。湊は、そこで初めて振り返った。
暗がりに立つ男は、庇の下で見た通りだった。骨太。肩幅。顎髭。目だけが先へ行く。服は古いが、乱れていない。浪人の身なりにしては、襟が整っている。整え方が「見られるため」ではなく、「崩れないため」だ。
湊は、男の目を見た。名を問わない。ただ、仕事を問う。
「あなたは、どこまで関わるつもりですか」
男はすぐ答えず、路地の先に視線を向けたまま言った。
「関わるんじゃない」
「……では」
「預かるだけだ」
湊は息を呑んだ。預かる、という言葉は軽くない。責を背負う側の言葉だ。だが同時に、名を立てない言い方でもある。「部下」でも「家臣」でもない。今はまだ、その形を作らない。
「預かる、とは」
男はようやく湊へ視線を戻した。
「縁が潰される前に、縁の外へ逃がす」
「声を?」
「声も、人もだ」
湊の胸が熱くなりかけ、すぐ冷えた。熱くなると刃になる。刃は揃えやすい。ここでは刃を作らない。
湊は短く頷いた。
「では、今夜はここまで見た。明け方に動くと言っていましたね」
男は頷く。頷きは小さい。だが、肯定の重さがある。
「明け方は、誰もが眠い。眠い声は揃えにくい」
「眠い声……」
「役に立たない声だ」
男は言い切った。
「役に立たない声を落とせ。落ちた声は拾われにくい。拾われにくい声ほど、生きる」
湊は、その言葉を飲み込んだ。これは助言ではない。命令でもない。提案でもない。経験の断片だ。断片だからこそ、奪われにくい。
八代が、男へ視線を送った。
「そなた、名は」
男は答えない。答えないことが、答えになっている。名を立てれば、声が寄る。声が寄れば、揃いが生まれる。
湊は八代を制し、男へ言った。
「名は要りません。要るのは、明け方の縁です」
男の口元が、ほんの僅かに動いた。笑みではない。「余計な形を作らぬ」同意だ。
「よし」
その一言で、湊は理解した。
役職はまだない。任命もない。だが、ここから先、この男は「縁の側」に立つ。立つ以上、責は増える。責が増える以上、湊もまた、預かる側になる。
それが「決まった」のではない。
逃げられなくなっただけだ。
遠くで鶏が鳴いた。まだ早い。空は青くならない。だが湿った暗さが少しだけ薄れ、町の輪郭が戻り始める。
酒屋の主が影から出て、別の道へ消えた。流れは、また一本、見えない場所へ移った。
男が言った。
「明け方に、井戸は使うな」
「なぜ」
「井戸は役に立つ。役に立つ声が寄る。寄れば揃う」
「では、どこで」
男は少しだけ顎を上げた。
「火だ」
「火……」
「炭の火。湯の火。人が手を止める火。火は役に立つが、役に立ちすぎて声にならん。そこに落ちるのは、息だ」
湊は頷いた。
点を移す。線にしない。理由を立てない。名を立てない。だが、流れは読む。
湊は男へ一礼した。
「明け方、火の縁で」
男は頷き、背を向けた。歩みは重いのに静かだ。石畳が濡れていても滑らない。重心が低い。戦場の歩き方だった。
湊はその背中を見送り、八代と並んで歩き出した。
冬の町は冷たい。だが、冷たいほど、息が白く見える。白いほど、落ちる場所が分かる。
落ちる場所が分かれば、奪わせない工夫ができる。
そして工夫は、名も役職も要らない。
ただ、預かる覚悟だけが要る。




