39話:白い息の縁
夜明け前の城下は、音だけが先に目を覚ます。
桶の軋み、炭の爆ぜる匂い、井戸縄が湿った手に吸いつく感触。人の声はまだ短く、吐いた瞬間に冷えへ溶けていく。
湊は路地の角に身を寄せ、井戸端を見ていた。
灯りはない。だが月は雲の薄い裂け目から、井戸の縁だけを白く浮かせている。水面は見えない。見えないからこそ、覗き込む者の顔だけが、ふと白くなる。
酒屋の主は少し離れて、縄の影のように立っていた。
近づきすぎれば「誰かがいる」になる。遠すぎれば「見ている」が届かない。ここまでの距離を選ぶのに、主は一言も使わなかった。
もう一人は、さらに暗がりにいた。
壁に背を預け、視線だけで井戸と路地の入口を押さえている。背は高くないが、骨が太い。首筋の厚みが、寒さの中でも形を崩さない。動かなさが、逆に目立つ。
湊はその男に、目だけで問う。
今夜、ここで良いのか。
男は、ゆっくり一度だけ瞬きした。
肯定でも否定でもない。だが「見ろ」という合図に近い。
井戸端に、最初の女が来た。
水桶を抱え、袖口で鼻を押さえ、縄へ手を伸ばす。指が冷え切っているのか、結び目を探すように縄を撫でた。
「冷たいねえ」
独り言に近い声だった。返事など求めていない。求めない声は、揃えようがない。
すぐ後ろから、男が二人。
町人の身なりだが、足が揃いすぎている。草履の音が同じ間隔で、同じ石を踏む。湊は息を止めた。そういう揃い方は、役に立つ。
だが、二人は井戸の縁で立ち止まらない。
通り過ぎる。ただ通り過ぎるだけで、わざわざ井戸を避けているのが分かる。濡れを嫌う歩き方ではない。縁を嫌う歩き方だ。
酒屋の主が、わずかに顎を引いた。
「見えた」と言っている。
女が縄を引く。
軋んだ音とともに桶が上がり、水の気配が濃くなる。桶が縁に当たり、小さく木が鳴った。女が思わず笑う。
「落とすと叱られるんだよ」
叱る者の名は出ない。叱られる理由も出ない。だから揃えにくい。
湊はそれを、胸の奥へいったん沈めた。
路地の向こうから、別の影が来た。
歩幅が小さい。だが無駄がない。風に逆らわず、濡れを嫌わず、周囲へ目を配らず、配っている。袖の位置が低い。懐へ入れない持ち方が、最初から出来ている。
拾う者だ。
湊の脈が一度だけ速くなる。
ここで走れば、形が立つ。形が立てば、縁が死ぬ。
拾う者は井戸へ寄った。
寄ったが、水を汲まない。縄に触れない。桶もない。代わりに、井戸の縁へ指先だけを置き、湿り具合を確かめるように擦った。
その仕草が、嫌に丁寧だった。
ただの通りすがりがやる丁寧さではない。縁の「状態」を読む手だ。
酒屋の主が、息をひとつ吐く。
音のない溜息が白くなり、すぐ消えた。
拾う者は、井戸の縁から二歩だけ離れ、路地の影へ入った。
そこで初めて、何かを取り出した。紙ではない。木でもない。小さな布包みだ。握りしめたまま、ほどかない。
湊は視線を外さない。
札はもう戻らない。戻らないからこそ、次の「形」が見える。
拾う者は布包みを、地面へ置かなかった。
地面に置けば、痕が残る。残れば責が立つ。責が立てば、上が動く。上が動けば、形が変わる。――分かっている動きだ。
代わりに、井戸の縁の裏側へ、指先で滑り込ませた。
縁の陰。誰の目にも入らぬ場所。だが、手を伸ばす者には必ず触れる場所。
湊の胸が冷える。
「落とす」のではない。「触らせる」仕掛けだ。
井戸の側にいた女が、もう一度縄を引いた。
桶が上がり、縁に当たる。木の音。水の匂い。
女の手が、無意識に縁を撫でる。
濡れを拭うための手。寒さを払うための手。理由にならない手。
その指先が、縁の裏に触れた。
女は一瞬だけ止まり、指を引っ込めた。痛んだわけではない。驚いたのだ。驚きは声になる前に喉へ詰まる。
女は左右を見る。
誰も見ていない。だから、声が落ちる。
「……何だい、これ」
吐いた息に混じって、やっと言葉が出た。
誰に向けたわけでもない。だから揃えにくい。
拾う者は、その声を拾わない。
拾うのは物だけだ。声は、縁に落ちたままにする。声を拾えば、声が形になるからだ。
酒屋の主が、湊の方へわずかに目を向けた。
「どうする」と問う目だ。
湊は、首を横に振った。
止めない。今夜は見る。
名を名乗らぬ男が、初めて口を開いた。
声は低く、短い。息を使わない声だ。
「今のが、理由だ」
湊は答えなかった。
理由――役に立たぬ理由。叱られる、冷たい、何だいこれ。そういう声が落ちる場所。
拾う者は、女が布包みを摘まむより先に動いた。
路地の影へ戻り、別の影とすれ違う。すれ違う瞬間、袖が一度だけ触れ合う。渡したのか、受けたのか、見えない。見えないようにやっている。
第二の層だ。
湊の視線が、名を名乗らぬ男へ吸い寄せられる。
男は頷かない。だが、目が「二つ」と言っている。
女は布包みを見失い、縁を探るように手を入れた。
何もない。あるはずのものがない。人はそのとき、余計な声を出す。
「誰だい、こんな……」
文句の途中で、女は口を閉じた。
「誰だ」と言えば名が立つ。名が立てば、形が縫われる。無意識に、それを避けた。
湊は、背の内側で小さく頷いた。
寺の教えが染みている。だが、染みているからこそ、縫い糸の手触りが分かる。
酒屋の主が、路地の奥へ視線を滑らせた。
第二の影が、三つ目の影へ寄る。寄り方が、さらに雑になる。雑に見せているのだ。責を分散するために。
名を名乗らぬ男が、湊の耳へだけ落とす。
「見ろ。揃える側は、揃えすぎぬ」
「疑われるからですか」
湊が返すと、男は初めて、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「疑いより、動員が怖い」
湊の背が冷えた。
疑われるのは嫌だ。だが、疑いが刃になり、刃が動員を生む。動員が生まれれば、城が動く。城が動けば、戦が早くなる。――早すぎる戦は、必ず負ける。
湊は、拳を袖の中で握り直した。
この戦は、戦より時間がかかる。男の言葉が、今になって骨へ入る。
井戸端の女が、桶を抱え直し、ふらりと歩き出した。
何か言いたげだが、言わない。言えば形になる。形になれば縫われる。
酒屋の主が、湊の隣へ半歩だけ寄った。
寄りすぎない距離で、唇だけ動かす。
「縁は、生きてます」
湊は頷いた。
「生きているうちは、痕が残る」
名を名乗らぬ男が、即座に受ける。
「痕が消えたら、負けだ。だが――痕が残るうちは、作り替えられる」
湊は男の横顔を見た。
骨太の頬。短い顎髭。瞬きの少なさ。寒さの中でも声を浪費しない口。
この男は、縁の仕事を知っている。
そして、寺社の匂いも知っている。
湊は問いを飲み込んだ。
「あなたは誰だ」と問えば名が立つ。名が立てば、この縁が死ぬ。
代わりに湊は、別の問いを置いた。
「次は、どこへ落とすべきです」
男はすぐ答えない。
井戸の縁を見、路地の影を見、女の背を見てから、言った。
「火だ」
短い一語。
だが湊の中で、図が描けた。炭焼き小屋。煮炊き場。焚き火。冬の夜、人が息を吐く場所。理由にならぬ愚痴が落ちる場所。
酒屋の主が、静かに頷く。
「火のそばは、口が緩みます。冷えた手が戻るから」
湊は、息をひとつ吐いた。
白い息が、井戸の影へ溶ける。
「では今夜は、井戸の縁を“知った”だけにします」
名を名乗らぬ男の目が、僅かに細くなる。
それは褒めでも許しでもない。ただ「分かってきた」という合図だった。
「知って、明日、捨てろ」
「捨てる?」
「縁は、持つと奪われる」
湊は頷いた。
縁を守るとは、守り続けないことだ。点を点のままにするとは、点に執着しないことだ。
路地の奥で、第二の影が消える。
第三の影も、気配を薄めて消える。残るのは井戸の湿りと、役に立たぬ声の余韻だけ。
湊は踵を返した。
城へ戻り、兼続へ報告する。だが盛らない。形にしない。見た順に、見たことだけを置く。
そして次の夜、火のそばへ縁を移す。
揃える側が揃えぬように割るなら、こちらは揃えられぬまま、さらに落とす。
冬の空はまだ低い。
だが、低い空ほど、息が落ちる場所ははっきりする。
湊は袖の中で指先を確かめ、冷えの残る感覚に言った。
――生きているうちは、まだ勝てる。
城へ戻る道は、行きよりも静かだった。
井戸端に落ちた声は、湊の耳の奥でまだ薄く鳴っているのに、町は何事もなかったように眠っている。眠っているのではない。起きているまま、口だけ閉じている。
湊は城門をくぐる直前、草履の裏の湿りを確かめるように一度だけ足を捻った。冷えが残る。冷えが残るから、言葉を削れる。今夜の報告は削って削って、骨だけを置く。
廊下の板は冷たく、足裏から熱を奪う。
八代は何も言わず、湊の半歩後ろを歩いた。言葉を先に立てれば形になる。形になれば、城の中ほどほど刃が早い。二人ともそれを知っている。
政務の間の襖の前で、八代が咳払いをひとつした。
「兼続様。昨夜の見えたこと、湊殿より」
「通せ」
炭の匂いが流れ出る。墨の匂いと混じって、温かさより先に仕事の気配が鼻へ届いた。
兼続は机の向こうに座し、筆を持ったまま湊を見た。疲れはある。だが目は鈍っていない。
「昨夜、何を見た」
湊は膝をつき、礼をしてから、息を整えた。
盛らない。飾らない。名を立てない。見えた順に、見えた形だけを置く。
「井戸の縁に寄る者がいました。水を汲まず、縄にも触れず、縁の湿りだけを読みました」
兼続の筆先が止まる。
「拾う手か」
「はい。動きが丁寧すぎます。通りすがりではありません」
湊は続ける。
「縁の裏へ、指先で何かを滑り込ませました。地へ置かず、痕を残さぬ置き方です。次に水を汲んだ女が、偶然、縁の裏へ触れました」
「声が落ちたか」
「はい。誰に向けたでもない声です。驚きの息に混ざる程度の短い声でした。名も責も立たない声です」
兼続は机に置いた筆を指先で転がし、湊を見た。
「その声を拾ったか」
「拾いませんでした。拾ったのは物です。物は手から手へ移りました。袖が触れるだけの受け渡しです」
八代が低く補う。
「二つ目の層が居りますな。受け取り、割る者」
兼続の視線が八代へ流れ、すぐ湊へ戻る。
「寺へは」
「今夜は確かめ切れません。終点へ急げば形が立ちます。見えたのは、終点へ急がず、途中の置き場を増やしていることです」
兼続は小さく息を吐いた。炭が一度だけ爆ぜる。
「揃える側が揃えすぎを避けている」
「はい。疑いより、動員を怖れているように見えます。揃いが強すぎると、こちらが動く。こちらが動けば、相手も太くする。太さ比べになる前に、細く割る」
兼続は顎に指を添えた。
「……なるほど。賢い」
湊は首を振った。
「賢い者ほど、役に立つ形を作ります。役に立つ形は奪われます。だから、こちらは役に立たぬ声を落とすしかありません」
兼続の目が僅かに細くなる。理解の速さが、目の動きに出る。
「次は」
湊は一拍置いた。ここで策を名付ければ形になる。形になれば奪われる。だが兼続へは骨を渡さねばならない。
「井戸の縁は今夜で捨てます。縁は持つと奪われるからです。次は火のそばへ移します。冬の火は人の手を戻し、口を緩めます。功にも責にもならぬ声が落ちやすい」
兼続は頷いた。
「点で落とせ。線にするな」
「承知しています」
湊は頭を下げた。
兼続は最後に、短く言った。
「名を立てるな。だが、名を捨てた者は使え」
その言葉が、湊の胸の奥で重く落ちた。
庇の下の男の顔が浮かぶ。骨太の頬、短い顎髭、瞬きの少なさ。名を捨てた者の目。
政務の間を出ると、廊下の冷えが戻る。
だが湊の足は揺れなかった。揺れないのは、勝っているからではない。揺れるほどの形を、まだ作っていないからだ。
夜が二つ目の底へ沈む頃、城下の外れで火が赤く灯っていた。
炭焼き小屋の脇。風を避ける板囲いがあり、火の熱が逃げにくい。煙は薄く、鼻を刺す匂いだけが残る。匂いは残るが名は残らない。そういう場所だ。
湊は小屋の裏手に身を寄せ、呼吸を浅くした。
酒屋の主は、少し離れて地面へしゃがみ、炭の欠片を指で弄っている。弄りながら周囲を見ている。見ているが、見ていない顔が出来る男だ。
名を名乗らぬ男は、さらに風下の影にいた。
今夜は壁に背を預けない。火の赤が輪郭を割るからだ。影の濃い場所へ身を置き、光に身体の端を出さない。出さないことで、逆にこの場を押さえている。
湊は男の方を見ない。
見れば合図になる。合図になれば形になる。形になれば、相手が気づく。
火のそばには、二人の人足が居た。
役目の終わった者たちだ。終わりの時間は声が落ちやすい。責が薄れるからだ。
「煙が目に沁みるな」
「風向きだろ。今日は悪い」
役に立たぬ言葉が落ちる。
落ちるが、拾う価値がない。拾う価値がないから、揃えにくい。
そこへ、三人目の男が来た。
袖が濡れていない。歩きが乾いている。雨上がりの夜に乾いた歩きは目立つ。だが本人は目立たぬつもりで、目立たぬ癖を重ねている。そういう手だ。
湊は火の赤の縁で、その男の指先を見た。
指先だけが妙に綺麗だ。爪の間が黒くない。荷を持つ手ではない。拾う手だ。
拾う者は火の前で立ち止まらない。
だが立ち止まらないまま、足元の炭の欠片を一つ踏み、わざと小さく砕いた。乾いた音。誰でも振り向く音。音で視線を散らす。
人足が一瞬だけ拾う者を見る。
拾う者は見返さない。見返さないことで、関係を作らない。関係を作らないことで、責を作らない。
酒屋の主の肩が、ほんの僅かに動いた。
見えた、という合図だ。
拾う者は小屋の板囲いへ近づき、指先で板の隙間を確かめた。
井戸の縁と同じだ。湿りを読む手つきではない。隙間を読む手つきだ。どこへ滑り込ませれば、誰かが無意識に触れるかを探している。
湊の背筋へ冷えが走る。
相手は縁を移してきた。こちらが火を選ぶ前から、火の縁を候補にしている。
名を名乗らぬ男が、息だけで笑った。
声は出さない。だが湊には分かる。笑ったのではない。確信したのだ。
拾う者は板の隙間へ何かを滑り込ませた。
井戸端と同じだ。地へ置かず、痕を残さず、誰かの無意識へ引っかける。
湊は動かない。
動けば形になる。形になれば、相手は次からもっと細くする。
その直後、人足の一人が火ばさみを探して手を伸ばした。
板囲いの端へ指が触れ、隙間へ引っかかった。小さく舌打ちが落ちる。
「ちっ……」
舌打ちは役に立たぬ。
役に立たぬから、揃えにくい。だが揃えにくい声が落ちる場所は、相手の仕掛けも落ちる場所になる。
人足が指先で何かを摘まみ、火の赤に透かす。
湊は目を細めた。火に透かす動作は危険だ。形が見える。形が見えれば、声が生まれる。
「……紙か?」
人足が言った瞬間、湊の胸がひやりとする。
紙は形だ。形は掴める。掴めるものは揃えられる。
だが人足は、すぐ口を閉じた。
紙だと言った瞬間、自分の言葉が縫われるのを、身体が知っている。
拾う者が、ほんの僅かに歩幅を変えた。
近づくのではない。遠ざかるのでもない。受けに行く距離へ、最短の線で寄る。線を見せない線で。
酒屋の主が、湊へ目だけを向けた。
今なら、拾える。今なら、形を崩せる。
湊は首を横に振った。
拾わない。拾えばこちらの手が立つ。こちらの手が立てば、相手は次からもっと速く、もっと薄くする。今夜は見る。見ることで、次の縁を決める。
名を名乗らぬ男が、湊の耳へだけ落とす。
「見て、捨てろ」
湊は答えない。
答えないまま、火の赤の縁を見つめる。
拾う者は人足の背後をすり抜け、袖が一度だけ触れた。
受け渡しは終わる。声は残る。物は消える。
人足が、息を吐いた。
「……訳が分からねえ」
訳が分からぬ声は、役に立たぬ。
役に立たぬ声は揃えにくい。だが、揃える側はその声を殺すために、紙を差し込んだ。
湊はようやく理解する。
相手は声を拾うのではない。声が落ちる瞬間へ紙を差し込み、声を紙へ縫い付ける。縁の仕事を、逆用している。
湊の喉が乾いた。
火のそばは口が緩む。だから声が落ちる。落ちるから、相手もここへ差し込める。
名を名乗らぬ男が、低く言った。
「次は、火じゃない」
湊の目が僅かに動く。
「火は口が緩む。だが緩みは、形になりやすい」
酒屋の主が続ける。
「湊殿。緩むと、人は言い訳を探します。言い訳は紙に乗ります」
湊は息を吐いた。白い息が火の赤へ溶け、すぐ消える。
「では……どこだ」
名を名乗らぬ男は、火の赤を見ずに、闇の方を見た。
「息が白くなる場所だ」
湊は一瞬、意味を掴めなかった。
息が白いのは夜の冷えのせいだ。だが男は、冷えそのものを言っていない。息が白いと、人は黙る。黙ると、声が短くなる。短くなると、紙に乗りにくい。
湊は、ゆっくり頷いた。
「風除けの縁……しかし看板は立てない」
男が瞬きで肯定する。
「縁を見つける。見つけたら、すぐ捨てる。点で落とし、線にしない」
酒屋の主が、火の赤を背にして一礼した。
「動きます。今夜の縁は、これで終いです」
湊は目を閉じ、頭の中で地図を開いた。
城下の風の通り。土塀の影。橋の袂。水路の脇。人が息を吐き、吐いたことさえ忘れる場所。
そして、兼続へ戻す報告の骨も決める。
火の縁は相手に差し込まれる。井戸の縁は一夜で捨てた。次は白い息が短く落ちる場所。名も責も立たぬ場所。
湊が目を開くと、拾う者の影はもう消えていた。
残るのは火の赤と、訳の分からぬ声の余韻だけだ。
湊は袖の中で指先を確かめ、冷えの戻り方を覚えた。
――縁は生きている。
――生きているうちに、縫い糸より速く、捨て続ける。
夜の底はまだ深い。
だが次の縁は、もう湊の中に生まれていた。




