3話: 直江兼続、試す者と見出す者
明け方、会津若松は薄い霧に包まれていた。
春の終わりとはいえ、山の気配が強いこの地では、朝の冷気が肌に刺さるほど鋭い。
湊は長屋から出て、まだ静まり返る町を見渡した。
(……今日だ)
胸の奥で、いつもより早い鼓動が響いている。
中間から言われた言葉――
「明後日、城に参れ。直江家の者が、お前を見る」
それがいよいよ現実になる朝だった。
緊張で眠れなかったわけではない。
むしろ眠れすぎて、気がつけば夜明けだった。
身体は軽くはないが、不思議と足元は安定していた。
(城に呼ばれるなんて、普通じゃありえない。
でも……逃げないって決めたんだ)
深呼吸を一つ。
吐き出した息が白く消える。
長屋の外で藁を干していた老人が湊を見つけ、にやりと笑った。
「おう、若ぇの。今日は早いな」
「城に伺う用事があって……」
「ほう! 城に? なんだか知らねぇが、大したもんだ!
昔からな、あそこは“逃げねぇ奴”がいちばん可愛がられるって話だ」
「……そうだといいんですが」
「そうなるさ。顔に出てる」
湊の背中をぽん、と叩くと、老人は笑いながら藁をひっくり返す作業へ戻った。
些細な励ましが、湊の心にじんわり染み入った。
◆
城下町を歩く。
朝の市場が始まり、荷を積んだ馬が通り、行商人の声が響く。
越後から移ってきた者たちと、元から会津にいた者たちが混ざり合い、どこか雑然とした空気が漂う。
(……僕が整理した帳面が、この町の“違和感”に気づく材料になってくれればいいけど)
越後からの移住は大規模だ。
農民、職人、武士、僧侶――あらゆる人間が生活の基盤を作り直している。
帳面にはその混乱がそのまま刻まれていた。
武家屋敷の区割りは未整備、寺領の境界も曖昧、田畑の免除や年貢率の調整も滞っている。
越後時代に積み上げた“上杉家の制度”がまだ会津で馴染んでいないのだ。
(だからこそ……あの武士は僕を呼んだのかな)
答えはわからない。
だが、考えるだけで手が震えそうになる。
城の石垣が視界に入り始めた。
◆
会津若松城は、朝陽に照らされ、赤みを帯びた石垣がどこか暖かい色をしていた。
高く積まれた石の存在感は、湊の胸にずしりと響く。
正門には槍を持った足軽が並び、厳しい目つきで往来を見ていた。
湊が近づくと、一人が声を張る。
「止まれ。名を述べよ」
「清原湊と申します。……直江家より本日、城に参るよう仰せつかりました」
足軽は湊の顔を観察し、身なりを見た。
粗末ではあるが汚れてはいない。
下働きとしては合格点だ。
やがて足軽は小さく頷き、別の武士へ声をかける。
「これが、例の男か?」
「ああ、そのようだ。通せ」
武士の一人が湊を手招きした。
「案内する。ついてこい」
湊の喉がひりつく。
緊張の波が押し寄せ、足が一瞬すくんだ。
(……大丈夫。行け、湊)
前へ踏み出す。
城門をくぐる。
石段を登る。
朝の静けさは消え、武士たちの声、足音、侍女が行き交う音が混ざり合い、城の“生きた空気”が全身を包む。
◆
「ここが政務を司る“書院”だ。直江家の家臣が詰めている」
案内の武士が立ち止まり、襖の前で湊に向き直った。
「この先は失礼のないよう気をつけろ。……お前の働き次第では、今後の身の振り方が変わる」
「はい……心得ています」
襖が静かに開いた。
書院の中には、几帳面に積まれた文箱、棚にずらりと並ぶ帳簿、筆を走らせる武士たちの姿があった。
湊が寺子屋で見た帳面より、はるかに量も内容も重い。
(……これが直江家の中枢……)
部屋の奥から声がした。
「例の者か?」
姿を現したのは、昨日の夕刻に寺子屋へ現れた武士だった。
鋭い目つきをしているが、その声音は落ち着いている。
「お前が清原湊。寺子屋で帳面をまとめたと聞いた」
「……はい」
男は湊の前まで歩み寄り、短く息を吐いた。
「今日ここへ呼んだのは、直江家中にて“試し”を行うためだ。
できるか、できぬか。それを見極める」
「……試し、ですか?」
「そうだ」
男は文机の上にある古びた帳簿を一冊取り上げた。
ずっしりと重い。
「越後時代の村明細書だ。会津に運び込まれてから整理が滞り、誰も手をつけていない。
古い書式で書かれているうえ、途中で筆者が変わっている。読み解くには骨が折れる」
帳簿の端は破れ、紙は黄ばんでいる。
墨の濃淡が不揃いで、確かに読みづらい。
「これを“使える形”にする。文量のまとめでも、索引でも、抜き出しでもよい。
要は、明後日の会議で直江様が使える状態にすればよい」
「……直江様が?」
「そうだ」
湊の胸が跳ねた。
こんな直接的な形で“直江兼続”が仕事に関わってくるとは思わなかった。
男は続ける。
「時間は半日。わからぬところがあれば聞け。ただし、答えるとは限らん。
お前がどう考え、どう形にするか。そこを見る」
湊は帳簿を受け取り、机へ向かった。
手のひらに、紙のざらつきが伝わる。
(……これが、“試される”ってことか)
震える手を押さえながら、湊はそっと頁をめくった。
◆
古い帳簿は、時代ごとに書式が異なり、同じ村でも年によって記述が違っていた。
筆者の癖もバラバラで、字が読みにくい箇所も多い。
(でも……ルールを見つければいける)
現代で学んだ“文書整理”の癖が、自然と頭を動かし始める。
符丁の読み替え、年貢率の変遷、家単位の移動……
情報を拾い上げながら、湊は別紙に項目を分けて書き出した。
隣の武士たちが、時折ちらりと湊を見ている。
(……好奇の目か、期待の目か。どちらでもいい)
墨の香りが濃い空間で、湊はひたすら筆を走らせた。
◆
昼過ぎ。
書院の襖が勢いよく開いた。
「直江様のご到着――!」
室内の空気が一瞬にして張り詰める。
筆の音が止まり、全員が姿勢を正す。
そして――
湊の視界に、ひとりの武将が静かに現れた。
細く鋭い目。
乱れのない着流し。
歩き方にも無駄がなく、しかし威圧ではなく凛とした気配を纏っている。
直江兼続。
その姿は、湊が歴史書で見たどんな人物より“生きた知性”を放っていた。
「……ここに、帳面を整えた若者がいると聞いた」
兼続の視線が、湊に向けられた。
それだけで――心臓が大きく跳ねた。
(……いよいよだ)
直江兼続の気配は、書院の空気を一瞬で変えた。
視線で周囲を圧するのではない。
その場に立っているだけで、誰もが背筋を正したくなるような“静かな威”があった。
(……本物の、重臣……)
湊の指先は細かく震えていた。
緊張というより、その場の重さに身体が追いつかないのだ。
「どれが、その帳面か」
兼続が問うと、昨日湊を寺子屋で見つけた武士――弥藤と呼ばれる男が前へ出た。
「こちらにございます」
湊が整理した越後村明細書を兼続へ差し出す。
兼続はそれを受け取り、無言のままめくり始めた。
頁をめくるたび、墨の匂いがふわりと漂う。
書院の誰もが息を潜め、兼続の指先だけが時を進めていた。
(読んでいる……僕の書いた整理を、直江兼続が……)
信じられない光景だった。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
しばらくして、兼続の手が止まる。
「……ふむ」
一言。それだけ。
しかし書院の空気がわずかに動いた。
兼続は湊に視線を向けた。
「これを書いたのがお前か?」
「……はい」
「どのように判断し、どのように整理した。理由を述べよ」
その声は鋭くも冷たくなかった。
問答そのものが試されているのだとすぐに理解できた。
湊は深く息を吸い、震えを鎮め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「この帳面は、年によって筆者が異なり、書式も統一されていませんでした。
そこで、まず“村ごとの基本項目”を拾い出し、欠けている年を補うために横並びで比較しました」
兼続の瞳が細く動く。
「続けよ」
「免除の理由、年貢率の変動、家単位の移動……これらを分けて書き出すことで、
“越後時代の統治がどれほど一貫し、どれほど混乱していたか”を見える形にしたつもりです。
こちらの紙には、村ごとの共通項目をまとめてあります」
湊は別紙を差し出した。
兼続はそれを受け取り、短く目を通す。
「……ふむ。比較しやすい。無理な解釈もしていない。
必要以上に書かず、しかし本質を欠いていない」
まるで詩を読むような静かな声だった。
「——よくやった」
湊の胸に熱い衝撃が走った。
(……褒められた? 本当に?)
湊の肩がわずかに震える。
それを兼続は見逃さなかった。
「清原湊、と言ったな」
「は、はい」
「字の筆跡は粗いが誠実で、余計な飾りがない。
お前の性根がそのまま出ている。……気に入った」
書院の武士たちがざわりとした。
直江兼続という人物は
“誰にでも言葉をかける男ではない”
“安易に人を褒める男ではない”
それを皆が知っていたからだ。
「ありがとうございます……!」
湊は自然と深く頭を下げていた。
胸が熱く、視界がわずかに滲む。
◆
兼続は帳簿を閉じ、弥藤へ視線を戻した。
「これほど整理できるなら、もっと大きな働きができるはずだ。
……弥藤、この男に“試しの次”を与えよ」
「はっ」
弥藤は即座に膝をつき、命を受けた。
「清原」
兼続が湊に歩み寄る。
「越後から会津へ移るにあたり、様々な混乱が起きている。
農政、民政、寺社、武家、移住者……どれもが未整備だ」
湊は耳をそばだてた。
「お前はその混乱を“帳面の端”から読み取った。
ならば今度は、それを“考え”に昇華させてみせよ」
「……考え、に……?」
「そうだ。
思うところを、紙に書いて持ってこい。
形式は問わぬ。文量も問わぬ」
湊は息をのんだ。
(これって……)
「——建白書だ」
兼続の言葉は、静かだが鋭かった。
「越後から会津へ移った上杉家が、どうあるべきか。
お前の目で見、感じ、考えたことを一つの形にせよ」
兼続は一歩だけ湊に近づいた。
「学問とは、己一人のためにあるものではない。
世を照らすために磨くものだ。
……お前の学びは、まだ錆びていない。だからこそ使える」
湊の胸が震えた。
兼続の言葉が、心の奥深くに刻まれていく。
(……認められた。本当に、認められたんだ)
「ただし」
兼続はわずかに表情を険しくした。
「建白とは、己の身を賭ける行為だ。
命を惜しみたいなら書くな。
……書くなら、逃げるな」
その言葉に、湊の背筋が粛然と伸びた。
「……書きます。必ず」
「よし。期待している」
兼続は静かに頷き、書院を後にした。
彼が去ると同時に、張り詰めていた空気がほどけたように広がる。
「清原……どえらいことになったな」
弥藤がぽつりと呟いた。
「建白書など、家臣でも震え上がる仕事だぞ。
……だが直江様が言った。“逃げるな”とな。それは期待の証だ」
湊は深く息を吸い、頷いた。
(逃げない……僕の唯一の武器だ)
◆
その日の夕刻、湊は長屋へ戻った。
書院を出てからずっと、胸の奥が熱くて仕方がなかった。
(僕に……建白書を?
現代の教養しかない僕に……?)
それでも――湊の中には、ひとつの確かな思いがあった。
(やるしかない)
藁床に腰を下ろし、紙を広げる。
墨をすり、静かに筆をとった。
外では、若松城下に夕雲が流れ始めていた。
その雲は形を変えながら、山の向こうへと急いでいる。
湊は筆先を紙に落とす。
――「会津国政、現状覚書」
それが、上杉家を動かす最初の一滴になるとは、
まだ誰も知らなかった。




