37話:名を縫わぬ者
霧雨は夜のうちに雪へ変わりきれず、冷たい水の粒のまま城下へ落ち続けていた。瓦の黒が湿り、土塀の白が灰に沈む。冬の空は低く、雲の底が町の息を押さえつけているようだった。
湊は城門をくぐる直前、指先の感覚が薄いことに気づいた。袖の中で握っても熱が戻らない。冷えは骨に入るより先に、言葉を短くする。
――だからこそ、今日の報告は短く、しかし外さない。
八代が並んで歩きながら、声を落とした。
「昨夜のことは、言い方を誤ると刃になる。城の中ほど、刃は早く抜かれるからな」
「分かっています。止めた、とは言わない。追い払った、とも言わない。……見た、だけです」
「それでいい。見たことを、見た順に」
湊は頷き、廊下の冷えを踏みしめた。板に置かれた刻み札。拾う者の手つき。袖の内に滑らせる動作。誰にも責を背負わせない痕の残し方。祈りへ混ぜる道筋。昨夜は、入口から出口まで、流れが一本に繋がった夜だった。
そしてもう一つ。庇の下にいた男の助言。
恐れは揃えやすい。怒りは刃になる。笑いは軽い。次は、揃えにくい理由で落とせ。
湊は、その言葉を反芻しながら政務の間へ向かった。襖の前に立つと、八代が軽く咳払いをしてから声を掛ける。
「兼続様。湊殿、昨夜の件、報告に参りました」
「通せ」
襖が開くと、暖がわずかに流れ出た。炭の匂いと墨の匂い。紙の擦れる音。政務の間は静かだが、静けさが働いている。何も言わずとも、決めて動く場所だ。
兼続は机の向こうに座していた。眉間に疲れの影があるが、目は澄んでいる。湊を見て、短く言った。
「昨夜、何が見えた」
湊は膝をつき、礼をしてから、息を整えた。話を盛れば形になる。形になれば掴まれる。だから、盛らない。
「入口に置かれた刻み札が、拾われました」
兼続の指先が止まる。墨を含ませた筆が、半寸だけ宙に浮く。
「拾ったのは誰だ」
「名は分かりません。ですが、懐へ入れず、袖の内へ滑らせました。持っているのに持っていないふりをする動きです」
「下の手だな」
兼続は即座に断じた。湊は続ける。
「拾う者の後ろに、数へ変える者がいます。刻み札を受け取り、別の札と取り替える。刻みの間隔が揃っていました。あれは、人の息を数に縫い直す刻みです」
八代が黙って頷く気配が背にある。湊は言葉を落とす。
「そして、祈りへ混ぜる者がいます。寺の裏手、川沿いの祠。『刻みは祈りより強い』と口にしていました」
兼続の目が細くなった。
「寺が器になっている、ということか」
「はい。寺が本体かどうかは、まだ断じられません。ただ、祈りの器は便利です。声が形になる前に、形の中へ入れられる」
兼続は筆を置き、両手を組んだ。
「止めはしなかったのだな」
「止めれば、仕掛けが変わります。昨夜は見て、繋ぎを確かめるべき夜でした」
兼続は僅かに口元を上げた。笑みではなく、許可の形だ。
「よい。見ねば斬れぬ」
湊は胸の奥で小さく息を吐いた。ここまでは、既に繋がっている。問題は次だ。
「ただ……入口が知られたことで、紙は置かれなくなりました。板は空白のままに拭かれ、空白という形が守られています」
「空白を揃えるか」
兼続の言葉は短いが、刺さる。湊は頷いた。
「声を置かせないのではなく、置く行為そのものを無意味にする。置いても消える。置かなくても消える。そうして、置く者の心だけを折る」
兼続は一度、視線を伏せた。炭の爆ぜる音が、小さく響く。
「……で、次の手は」
湊は、即答しなかった。ここで“名”を立てれば、策は形になる。形になれば、奪われる。だから、言い方を選ぶ。
「入口を、板から離します。人が息を吐く“縁”へ移します。井戸の脇、火のそば、風除けの庇。誰の許しも要らず、誰の名も立たぬ場所です」
兼続の目がわずかに動いた。理解の速さが、目の動きに出る。
「形にしないで拾う、か」
「はい。拾うための看板を立てません。立てれば、そこが“入口”になります。入口になった瞬間、奪われます」
八代が低く補った。
「点で落とし、線にしない。線にすれば握られる」
兼続は頷き、湊へ視線を戻す。
「よし。――だが、点は孤立する。点を点のまま保つために、誰を立てる」
湊の喉が一瞬、乾いた。ここだ。誰を立てるか。立てれば揃う。立てねば守れぬ。
湊は、慎重に答えた。
「“声を恐れぬ”者で、“声を欲しがらぬ”者です。声を欲しがる者は、必ず揃えます。揃えれば使えるからです」
兼続は静かに息を吐いた。
「その条件に合う者は、少ない」
「はい。だからこそ――“名を名乗らぬ”者を使います。名が立てば、声が寄り、揃いが生まれる。名を捨てた者なら、声を道具にしにくい」
兼続はしばし黙り、そして言った。
「今夜から動け。だが、線を太くするな。太くした瞬間、相手も太くする」
「承知しました」
湊は頭を下げた。外の冬雨はまだ止まない。だが、止まない雨ほど、落ちる場所の差を浮き彫りにする。
――落ちる場所を、奪わせない。
湊は立ち上がり、政務の間を辞した。
夜半、城下の空気はさらに冷えた。
昼の霧雨は上がったが、湿り気は残り、土の匂いが重く漂っている。濡れた石畳は月を弾かず、ただ暗さを吸っていた。
湊は、路地の角で足を止めた。
音がある。
人の気配ではない。足音でもない。
木が軋むような、乾いた擦過音。だが風ではない。
その音の出所に、先に立っていたのは二人だった。
一人は、背が低く、痩せている。
外套の裾が短く、歩くたびに膝の動きがよく見える。首は前に出て、顎が落ちている。視線は常に低く、地面から離れない。酒屋の主だ。
もう一人は、路地の壁に半身を預けている。
体格は中背。骨太で、肩幅が広い。首筋が太く、顎髭が短く刈り込まれている。暗がりでも瞬きが少なく、視線だけが先へ行く。庇の下にいた、名を名乗らぬ男。
湊は、その男へ視線を送った。
男は頷かない。
だが目だけで「来るな」と告げている。
酒屋の主が、先に口を開いた。
「拾われました」
声は低く、抑えている。報告の声だ。
「どこへ」
「寺裏です。直接ではない。二度、手を替えています」
湊は、名を名乗らぬ男を見た。
男は、初めて口を開く。
「想定通りだ」
声は太いが、抑揚がない。断定ではなく、確認だ。
「刻みは、数になる前に“置き換え”られる。帳でも祈りでもない場所を、一度通す」
「……誰の手ですか」
男は首を振った。
「今は要らん」
酒屋の主が続ける。
「拾った者は、懐へは入れませんでした。袖の内です。持っているが、持っていない顔をしていました」
「責を逃がす持ち方だな」
男の言葉に、酒屋の主が頷く。
「はい。見せています。痕を」
湊は胸の内で息を整えた。
見せる痕。
責を分けるための痕。
「祈りに混ざるのは、いつです」
酒屋の主が答える前に、男が言った。
「まだだ」
湊は目を細めた。
「まだ?」
「祈りは“終点”だ。終点に急ぐと、形が立つ」
男は路地の先を見た。
誰もいない。だが、誰もいないこと自体が、不自然だ。
「今は、数にする前の“置き場”を増やしている」
「揃えるために?」
男は口元をわずかに歪めた。
「違う。揃えぬために、揃えた形を散らしている」
酒屋の主が補足する。
「刻みを、一つの祈りに混ぜると、形が強くなりすぎます。だから今は、細かく割っている」
湊は理解した。
揃える側は、揃えすぎれば疑われることを知っている。
だから、あえて不完全にする。
「……賢い」
思わず漏れた言葉に、男は視線を向けた。
「賢い者ほど、同じ失敗をする」
「失敗?」
「賢い者は、“役に立つ形”を作ろうとする」
男は、ゆっくりと言った。
「だが、役に立つ形は、必ず奪われる」
湊は息を吐いた。
「では……どうするべきですか」
男はすぐには答えない。
代わりに、酒屋の主を見た。
「お前は、何を見た」
酒屋の主は一拍置いた。
「……拾った者が、寺に入る前に、足を止めた場所があります」
「どこだ」
「井戸の縁です」
男の目が、わずかに細くなる。笑いではない。確信の形だ。
「そこだ」
湊は眉を寄せた。
「井戸……?」
「水は役に立つ。だが“理由にならん”」
男は湊を見た。
「水が冷たい、深い、汲みにくい。
それは声だ。だが功にも責にもならん」
酒屋の主が続ける。
「井戸端では、人は話します。意味のない話を」
「……役に立たない声」
湊が言うと、男は頷いた。
「揃えられぬ声だ」
路地の奥で、誰かが咳をした。
すぐに消える。
男は低く言った。
「次は、止めるな」
「……止めない?」
「止めると、形が立つ。
今は、落とせ」
「落とす?」
「声を、役に立たぬ場所へ」
湊は、男の目を見た。
そこには焦りも高揚もない。ただ経験がある。
「あなたは……こういう仕事を?」
男は少しだけ首を傾けた。
「昔な」
それ以上は言わない。
酒屋の主が静かに言った。
「次に刻みが動くのは、明け方です」
男が頷く。
「その前に、縁を一つ、作れ」
「板は?」
「要らん」
男は短く言い切った。
「縁は、最初からある。
見つけるだけだ」
湊は深く息を吸った。
入口を作るのではない。
落ちる場所を、見つける。
夜は、まだ終わらない。
札は、もう戻らない。
戻らないからこそ、次が見える。
男は壁から身体を離し、闇に溶けるように歩き出した。
振り返らずに言う。
「これは戦ではない。
だが、戦より時間がかかる」
湊は答えた。
「承知しています」
男はそれ以上何も言わなかった。
残された路地で、酒屋の主が一礼する。
「……動きます」
湊は頷いた。
役に立たぬ声を、落とすために。
夜明けは、まだ遠い。
だが流れは確実に動いていた。




