36話:無益の声
冬の雨は、夜明けにも残っていた。霧雨というには筋があり、雪というにはまだ温い。城下の屋根を薄く濡らし、瓦の縁から落ちる滴が、石畳の目地に細い川を作っている。風は北寄りで、吹くたびに雨粒の向きが変わり、頬に当たる冷たさが針のように硬くなった。
湊は袖の口を押さえ、城の外郭へ向かった。歩くたび草履の裏が滑り、身体の芯が冷える。息を吸えば鼻の奥が痛み、吐けば白い煙がすぐ風に切られた。
昨夜、見たものがまだ目の裏に残っている。
木札の刻み。拾う者の手つき。袖の内に滑らせる動き。持っているのに持っていないふり。あれは盗みではない。責を持たぬための運び方だ。誰のものでもない顔で、誰のものでもない声を、数へ運ぶ。
そして――痕だ。
痕が残るのは、下手だからではない。見せている。誰もが見ていたことにして、誰もが責を負わぬようにする。揃える側は、責すら揃える。
湊は城門の前で足を止め、門番に名を告げた。雨に濡れた甲冑が鈍く光り、門番の視線が湊の袖の端、草履の泥、息の白さを一つずつ確かめる。余計な問いはない。だが余計な沈黙がある。城の沈黙は、村の沈黙とも寺の沈黙とも違う。ここでは沈黙が秩序の形をしている。
通され、回廊を進む。板敷きの冷たさが足裏から上がり、膝までじんと痺れた。障子の向こうで紙を擦る音がする。誰かが筆を運んでいる。城は、今日も文字で呼吸している。
政務の間に入ると、直江兼続が机に向かっていた。脇に控える者が二人。帳面と札束。湊の来訪を告げる声が短く響き、兼続は顔を上げた。
「湊。昨夜の線は、どこまで伸びた」
問いが早い。情けを挟まぬ速度だが、冷たさではない。急ぐべきことを知っている者の、容赦のなさだった。
湊は一礼し、懐から巻紙を出した。昨夜の記録――と呼べるほど整ったものではない。だが形にしすぎれば、形が揃う。湊はあえて、箇条のように短く書いた。余計な名は書かない。余計な断定は置かない。観測だけを、乾いたまま差し出す。
「まず、入口に置かれた木札が拾われました。拾い方は“隠す”ではなく、“持っていないふり”です」
兼続の眉がわずかに動いた。
「持っていないふり」
「はい。懐へ入れず、袖の内へ滑らせました。歩みも乱さず、周囲に見える形を崩さぬ。拾った者の手は、責から逃げる手でした」
控えの者が帳面に筆を走らせる。湊は続ける。
「次に、札は“数へ”向かいます。刻みが増えました。刻みは声を数に変えます。数になれば、帳面に乗ります。帳面に乗れば、責が分けられます」
「責を分ける……?」
兼続が短く促す。
「はい。誰か一人が盗んだ、ではなく、皆が知らぬうちにそうなった、という形を作る。痕は、責を散らすために残る」
兼続は机の端を指で叩いた。乾いた音がひとつ。
「拾う者、数にする者、祈りへ混ぜる者。三つの層か」
湊は息を飲んだ。自分が言う前に、兼続はすでに形を掴んでいる。だが掴んだ瞬間に、揃える側のように握り潰すのではない。兼続は掴んだ形を、次の線を引くために使う。
「まだ断定はできません。ただ、流れの“層”があるのは確かです。寺は出口です。入口ではない」
「寺を器として使う手がある」
「はい。器は替えられます。だから本体は別にある」
兼続は椅子に背を預け、しばし黙った。障子の外で雨が一段強くなる。風が変わったのだろう。雨粒が障子紙を叩き、紙の裏で音が鈍く滲む。湊はその音を聞きながら、昨夜の庇の下を思い出していた。
風を避ける場所。息が落ちる縁。
名を欲しがらぬ目。
名乗らぬまま助言した声――。
湊はその男の存在を、ここで言うべきか迷った。だが、名を出せば名に声が縫われる。名を出せば、縁が場所になり、場所が握られる。湊は、あえて“名”を持ち込まないと決める。
「もう一つ。入口を増やしたことで、声が置かれなくなりました。板は空白のままに“保たれ”、拭かれています」
「拭く……。空白を揃えるか」
「はい。“何もない”という形が揃えられています。置く者の心だけが折れる」
兼続は、湊の巻紙を受け取り、視線を落とした。文字数が少ない。だが、少ないことが強い。余計なものがないから、形が立たない。形が立たないから、揃える側が掴みにくい。
「湊。そなたの線は細い。だが細い線は、切られにくい」
褒め言葉ではない。命令でもない。現状認識の共有だ。湊は頷く。
「次の仕掛けを考えます。入口は板ではなく、縁です。息が落ちる縁を拾う。ただし――拾う形を作れば、揃えの手が入る」
「矛盾だな」
「はい。ですが矛盾を抱えたまま動きます。形にしないまま、機能させる。完全でないからこそ握られない」
兼続は口の端をわずかに上げた。笑みではない。刃の角度が変わっただけだ。
「では問う。湊。揃える側が最も揃えやすいのは何だ」
湊は即答できなかった。恐れ。怒り。欲。どれも揃えやすい。寺の祈りは恐れで揃い、役人の帳面は欲で揃い、人足の口は怒りで揃えられる。
湊が黙ると、兼続は続けた。
「揃えやすい声は、使いやすい。使いやすい声は、国を壊す。――では揃えにくい声は何だ」
湊は息を吸い、冷たい空気を肺に入れた。雨の日の政務の間は、火鉢があっても底冷えする。だがその冷えが、湊の頭を冴えさせる。
「役に立たない声です」
言って、湊自身が確信した。役に立たない声は、功にもならず、責にもならず、祈りにも混ざりにくい。揃える側にとって価値がない。価値がないものは、揃えにくい。
「役に立たない声とは」
「不満でも訴えでもない。ただ、息のように漏れる声です。怖い、ではなく寒い。悔しい、ではなく腹が痛い。誰が悪い、ではなく眠れない。そういう声は、刃になりにくい。刃になりにくい声は、祈りにしにくい」
兼続は頷いた。
「無益の声を落とす縁を作る、か」
「はい。無益の声なら、揃える側は拾いにくい。拾う価値がないからです」
「価値がない、と見せる」
兼続が、机の上の帳面を一冊指で押した。
「左内。普請場の銭の帳を、湊へ回せ」
控えの男――左内が一礼し、帳を抱えて進み出た。帳の紙は新しい。だが角が妙に揃っている。揃いすぎた角は、人の手が均している証だ。
湊は帳を受け取りながら言った。
「ありがとうございます。ただ、帳は形です。形は握られる。だから私は――帳を読むのではなく、帳を読んでいる者の息を拾います」
左内が一瞬だけ目を細めた。理解した顔だ。湊が扱おうとしているのは数字ではない。数字に変わる前のものだ。
兼続は立ち上がり、障子の隙間から外を見た。雨はまだ落ちている。雲は低く、城下を覆っている。だが雲の向こうに、薄い明るさがある。冬の空は、明るくなるほど冷える。
「湊。城下の者は、城に向かって声を吐く。村の者は庄屋に向かって吐く。寺の者は仏に向かって吐く。――ならば無益の声は、どこに落ちる」
湊は、庇の下を思い出した。道の縁。井戸の脇。火のそば。人が無意識に歩みを緩める場所。息を吐く場所。
「縁です。所有されない隙間。守りも、名も、責も立たぬ場所。――雨を避ける庇。風を避ける壁。そういう縁に落ちます」
「そこに、そなたは何を置く」
「何も置きません」
湊はきっぱり言った。
「置けば形になります。形になれば揃えられる。だから、置かない。私は“見つける”だけです。落ちる場所を」
兼続は背を向けたまま、低く笑った。
「落ちる場所を見つけるだけで国が動くなら、戦は要らぬな」
「戦は要ります。揃える側が、落ちる場所ごと奪うからです」
兼続が振り返る。その目が鋭い。
「ならば、奪われぬ落ち方を考えよ」
湊は一礼した。胸の奥で、線が一本引かれる音がした。
無益の声を落とす縁を増やす。
だが増やした縁を“場所”にしない。
場所にしないまま、落ちる理由を作る。
理由は、功にも責にもならぬこと。
湊は政務の間を出て回廊を歩きながら、帳の重みを腕に感じた。紙は冷たく、指先が痺れる。だがこの冷たさが、湊に言っている。
形は冷たい。
息は温い。
温いものから先に拾わねば、国は冷える。
外へ出ると、雨は少しだけ弱まっていた。代わりに風が強い。雲の底が流れ、城下の煙が横へ倒れている。火の息が揃っていない。――それでいい。
湊は袖の口を押さえ、白い息を吐いた。
次は、刃にならぬ声を落とす。
揃える側が、拾う気にならぬ声を。
拾われても、祈りに混ざらぬ声を。
そして――拾われた痕が残るうちに、流れの入口を、もう一段だけ読み切る。
雨は止まない。
だが止まない雨は、誰の許しも要らぬ。
湊は足元の石畳を見た。滴が集まり、目地へ落ち、細い流れになる。流れは、いつか川へ出る。川は、海へ出る。
声も同じだ。
湊は歩みを早めた。今日は、縁を探す。落ちる息の温度を測る。帳の数字ではなく、その数字に縫われる前の、誰にも役立たぬ吐息を拾うために。
城下へ降りる坂道は、雨で黒く光っていた。朝の刻を少し過ぎたばかりだが、人の動きは早い。普請場へ向かう者、市へ向かう者、城へ用を届ける者。歩みは皆、同じ速さを装っている。だが息は違う。吐く息の長さ、間、肩の上下――それぞれが揃っていない。
湊は帳を懐に収めたまま、城門を離れた。帳を読む気はない。だが帳を「持っている」という事実は使える。役に立たぬ声を落とすには、役に立つものを持っている顔をしていたほうがいい。
城下の道は、雨を含んで柔らかい。草履の裏が沈み、戻る。その感触が、歩みを自然に遅くさせる。湊は意図せず、息を深く吐いた。
――こういう場所だ。
普請場へ続く大通りを避け、一本脇へ入る。井戸のある辻。桶を抱えた女が二人、短い言葉を交わして別れた。会話は続かない。続かせない空気がある。だが、別れ際の一瞬、女の口元が歪んだ。笑いではない。溜めた息が逃げただけだ。
湊は、その井戸の縁に腰を下ろした。
座る理由はない。休む理由もない。ただ、ここは「立ち止まっても責を問われぬ」場所だった。井戸は誰のものでもあり、誰のものでもない。声を落としても、拾われにくい。
湊は井戸の水面を見下ろした。雨粒が輪を作り、すぐ消える。形は残らない。だが、落ちた事実だけは確かだ。
しばらくすると、普請場帰りと思しき男が通りかかった。肩に板を担ぎ、足取りが重い。男は湊の姿をちらと見て、視線を逸らした。だが歩みが半拍遅れた。息が乱れた証だ。
湊は声をかけなかった。声をかければ、役になる。役になれば、揃えられる。
男は二歩進み、三歩目で足を止めた。井戸の方を見ない。だが背中が語っている。言いたいことがある。だが言えば、何かになる。
湊は、ただ井戸を覗いたまま言った。
「水が冷たい」
独り言だった。誰に向けた言葉でもない。
男は一瞬だけ振り返り、すぐ前を向いた。だが、足が動かない。
「……冬だ」
返事とも独り言ともつかぬ声だった。
「ええ」
湊はそれ以上、言葉を足さなかった。
沈黙が落ちる。沈黙は責を生まない。だが沈黙が長くなると、人は息を吐く。
「……昨日も、同じ板を担いだ」
男の声は低かった。怒りも訴えもない。ただの事実だ。
「重さは、同じだった」
「ええ」
「でも……」
男は言葉を切った。ここから先は、役に立つ声になりかねない。
湊は井戸の縁を指でなぞりながら言った。
「板は、話をしません」
男が、かすかに笑った。笑いと呼ぶには弱い。ただ、息が抜けただけだ。
「しねえな」
その一言で、男の肩が少し下がった。役に立たない声だ。誰も得をしない。誰も責を負わない。
男はそれ以上何も言わず、再び歩き出した。足取りは重いままだが、さきほどより呼吸が整っている。
湊は、男の背を追わなかった。追えば形になる。形になれば、拾われる。
――今のが、無益の声だ。
帳には載らない。祈りにもならない。怒りにもならない。だが、生きている。
湊は立ち上がり、井戸を離れた。次の縁へ向かう。
城下の外れ、炭焼き小屋の脇。火のそばは、人が無意識に歩みを緩める。暖を取る理由は正当だ。だが息は、理由を持たずに落ちる。
炭を運ぶ女が一人、膝を抱えて座っていた。顔は伏せたまま。肩に煤が付いている。湊は少し離れた場所に立ち、火の様子を眺めるふりをした。
女は、しばらくして小さく言った。
「煙が、目に沁みる」
誰に向けた言葉でもない。
「ええ」
湊はそれだけ答えた。
「……昨日より、沁みる」
役に立たない声だった。仕事の遅れにも、不正にも、誰の責にもならない。ただの感覚だ。
「風向きでしょう」
「……そうかもしれない」
女はそれ以上、言葉を続けなかった。だが呼吸が深くなった。湊は、その変化を見逃さない。
揃える側は、こういう声を拾わない。拾っても使えない。使えない声は、祈りに混ぜられない。
湊は確信した。
――縁は、点でいい。
――線にすれば、奪われる。
その日の昼過ぎ、湊は再び城へ戻った。帳は一度も開いていない。だが帳の「重さ」は、十分に使った。
政務の間では、兼続が一人、窓際に立っていた。外を見ている。城下の煙が、午前とは違う向きに流れている。
「拾ったか」
兼続は振り返らずに言った。
「はい」
湊は一礼する。
「形にはしていません。ですが――落ちました」
「どんな声だ」
「役に立たない声です。寒い、重い、沁みる。誰も責を問われない声」
兼続は、ふっと息を吐いた。
「揃えにくいな」
「はい。拾っても、使えません」
「だが」
兼続が振り返る。
「使えぬ声が増えれば、揃える側は“価値を与える”」
湊は頷いた。
「だから、増やしません。点で落とします。偶然に見せます。誰かが仕掛けたとは思わせない」
兼続は、しばらく湊を見つめた。その視線には、試す色も測る色もない。ただ、構造を確認する目だ。
「湊」
「はい」
「そなたのやり方は、時間がかかる」
「承知しています」
「だが――」
兼続は、わずかに口角を上げた。
「時間をかけねば、壊せぬ仕組みもある」
湊の胸の奥で、何かが静かに定まった。
止めない。
壊さない。
だが、流れを変える。
揃える側が気づいたときには、拾う価値のある声が減っている。祈りは揃っているのに、町が冷えない。責は分けられているのに、不満が爆ぜない。
それは、刃のない戦だ。
湊は、もう一度城下を見た。雨は上がり、雲の底が少しだけ高くなっている。だが風は冷たい。人は、まだ息を吐く。
無益の声は、今日も落ちる。
それでいい。
拾われぬまま、生きていれば。




