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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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35話:縫い糸の端を掴む

夜明け前の城下は、音が少ない。

 霧雨はいつの間にか止み、代わりに冷えた空気が石畳の隙間に沈み込んでいる。雲は低く、鉛色の底が町を押さえつけるように垂れ込めていた。


 湊は、庇の下に残された木札を見下ろしていた。

 置かれた刻み。拾われ、流され、数へと変えられた痕。その一部だけが、わざと残されている。


 完全に消さない。

 だが、元の場所にも戻さない。


「……見せ痕、ですね」


 八代が低く言った。


「うむ。拾った者は、気づかせるつもりで残している。こちらが“見ている”ことを承知の上だ」


「それでも隠す気はない」


「隠すなら、消す。消さぬのは、誇示だ」


 湊は頷いた。

 流れの入口を担う者が、意図的に“尾”を残している。


 そこへ、庇の奥から声がした。


「消し切らぬのは、仕事が下手だからじゃない」


 湊は振り向いた。

 風避けの板の脇、影になる位置に男が立っている。昨夜からそこにいた。気配を消すでもなく、出しゃばりもしない。ただ、風を避けるように。


「見せているんだ」


 男は続けた。


「ここまで流れた、とな」


 八代が一瞬だけ、目を細める。

 だが制止もしない。すでに、この男が“敵ではない”ことを知っている。


「拾う側が?」


 湊が問う。


「拾う側“だけ”じゃない」


 男は庇の外、通りを見た。

 朝の往来が始まり、人の足音が重なり始めている。


「上に行くほど、痕を残したがる。

 消した証より、動かした証を欲しがる」


「功、ですか」


「功でもあり、責でもある。

 何も残らなければ、責も立たん」


 湊は、木札に残された刻みの欠けを見た。

 意図的に折られ、しかし完全には砕かれていない。


「拾う者は、下ですね」


「下だ。

 だから、残す。上は残さない」


 男は淡々と言う。


「上は、祈りの形しか見ない。

 だが下は、数を見ている」


 湊の胸に、静かな確信が落ちた。

 拾う者の動きが“証拠を持たないふり”だった理由が、一本につながる。


「……拾う者は、責を負わされる」


「そうだ」


 男は頷いた。


「だから拾う者は、必ず“見られている”形を作る。

 責を一人で被らぬためにな」


 八代が、低く息を吐いた。


「責を、分けるための痕か」


「分けるんじゃない。

 逃がす」


 男は言い切った。


「痕を見た者が増えれば、責は薄まる。

 誰もが見ていた、になる」


 湊は、無意識に拳を握った。

 揃える側は、声だけでなく、責も揃えている。分散させ、特定できなくする。


「だから、刻みは消されない」


 湊の声は、冷静だった。


「声を殺す道具でありながら、

 同時に、責を逃がす楔でもある」


 男は、初めて湊を見た。

 視線が合う。量る目ではない。確かめる目だ。


「よく見ている」


 それだけ言った。


 湊は、一歩踏み出した。


「あなたは、昨夜もここにいましたね」


「ああ」


「なぜ、拾わなかった」


「拾えば、流れが止まる」


 即答だった。


「今は、見る段だ。

 止める段じゃない」


 湊は、深く頷いた。


「……では、次は?」


 男は、少し考える素振りを見せた。


「次は、拾わせる理由を変える」


「揃えにくい理由で、でしたね」


「そうだ」


 男は庇の柱に背を預ける。


「恐れは揃えやすい。

 怒りも揃えやすい。

 だが――」


 男は、通りの先を見た。

 朝の光が、雲の隙間から滲み始めている。


「役に立たない声は、揃えにくい」


 湊は、眉をわずかに動かした。


「役に立たない……?」


「そうだ」


 男は続ける。


「数にならない。

 祈りにもならない。

 功にも責にもならない」


「そんな声が、落ちますか」


「落ちる」


 男は断言した。


「人はな。

 使えないと思ったときに、いちばん本音を吐く」


 その言葉に、湊の背中を冷たい風が撫でた。

 使えない声。数にならない声。祈りにもならない声。


 ――それは、制度から零れた声だ。


「……拾うのが、難しい」


「だから、入口を変える」


 男は、静かに言った。


「板の前じゃない。

 聞き場でもない。

 仕事の途中だ」


「途中……」


「手が止まる場所だ」


 湊の脳裏に、道の縁、井戸の脇、火のそば――息が落ちる場所がよぎる。


「普請場ですか」


「半分、当たりだ」


 男は言った。


「普請場“そのもの”じゃない。

 終わったあとだ」


 八代が、静かに口を開いた。


「……片付けか」


「そうだ」


 男は頷く。


「仕事が終わり、銭も出ない。

 誰にも見られず、名も残らない。

 そのときに出る声は、使えない」


 湊は、ゆっくりと息を吐いた。


「刻みを置く理由が、変わる」


「置く、じゃない」


 男は訂正する。


「落ちる」


 湊ははっきりと頷いた。


「……分かりました」


 湊は、木札から視線を上げた。


「今夜は、普請場の“終わり”を見る」


 男は、何も言わずに一歩下がった。

 庇の影に溶けるように、位置をずらす。


 名も告げない。

 だが、風の向きだけは、確かに示した。


 雲の底が、わずかに切れた。

 朝の光が、石畳に細い線を引く。


 声は、まだ縫われていない。

日が落ちると、城下の冷えは質を変えた。昼の冷たさは皮を刺すが、夜の冷えは骨の内側へ沈む。霧雨は止んだままなのに、空気は湿り気を残し、吐く息が白く太い。雲はまだ低く、月は見えない。鉛色の天井が、町の灯を押し潰すように垂れていた。


 湊は羽織の襟を立て、普請場へ向かう道を選んだ。大通りではない。商家の裏手、土塀の影、用水の縁。足音が吸われる道だ。八代が半歩後ろにつき、気配だけで周囲を測っている。


「寒いな」


 八代が短く言った。


「湿りが残っています。雨が止んでも、地が乾かない」


「冬の空気は、乾いた顔をして湿っている。気を抜くと咳が出る」


 咳。湊の脳裏に、庇の下の男の言葉がよぎった。足跡の向きと、咳の数。声の前に、息がある。息の前に、体がある。寒さは人の体を黙らせるが、同時に—黙りきれなくなった場所で、声を落とす。


 普請場の外れに近づくにつれ、匂いが変わった。濡れた土、木屑、煤、鉄の冷えた臭い。昼は汗と油が勝つが、夜は金物の匂いが前に出る。風が薄く通り、皮膚の表面から熱をさらっていった。


 普請場そのものは暗い。灯はあるが、作業のための灯ではない。番が見回るための灯だ。揃える側の灯は、いつも必要最低限しか置かれない。余分な明るさは余分な影を生むからだ。


 湊は足を止め、耳を澄ませた。遠いところで、木を打つ乾いた音が一つ。誰かが戸を閉める音。人の声は、ない。いや、ないように見せられている。


「終わり、を見る」


 湊は自分に言い聞かせるように呟いた。


 終わりとは、仕事が終わる瞬間ではない。道具を片付け、手を洗い、薪に当たり、銭が出ないと知り、帰る道を選び直す、その間のことだ。名も功も立たぬところで、人は本音を吐く。使えない声は、そこに落ちる。


 八代が湊の視線を追い、顎で示した。


「—あれだ」


 普請場の横手、板塀の切れ目に、小さな仮小屋がある。昼は人足が道具を置く場所だが、夜は半端な風除けになる。戸は閉じ切っていない。隙間から、火の赤が揺れていた。焚き火ではない。火鉢だ。終わりの火。


 湊と八代は、音を立てずに近づいた。板塀の外側、土手の草が濡れている。踏むときゅ、と短い音が出る。湊は足の置き方を変え、草を避けた。湿り気は音を増幅する。乾いた夜より、濡れた夜のほうが耳が鋭い。


 仮小屋の内側から、くぐもった声がした。怒鳴りでも、愚痴でもない。疲れた息に混ざる、吐き捨ての声だ。


「……今日も、銭は揃ってたな」


 別の声が、かすれた笑いを含んで返す。


「揃ってるほうが安心だろ。文句が出ねえ」


「文句が出ねえのは、俺らが同じだけ削られてるからだ」


「言うなよ。聞かれるぞ」


「聞かれたら何だ。名もねえ。功もねえ。削られても、元々ねえ」


 湊は、息を吸った。まさにそれだ。功にも責にもならない声。揃える側が拾いにくい声。


 八代が、湊の袖を軽く引いた。ここで近づきすぎれば、声が止まる。止まれば形になる。形になれば、揃える側が後から“整えた理由”を与える。


 湊は頷き、位置を保った。


「削った分は、どこへ行く」


 最初の声が、火鉢へ手を伸ばしながら言った。


「知らねえ。知る必要もねえ。……知ったら、責が来る」


「責、ね」


「責は上が取るもんだろ?」


「上が取るのは功だ。責は、下に落ちる」


 火鉢の炭が、ぱち、と鳴った。湿った薪の匂いが混じる。寒さで指先がかじかみ、火に触れたい。そんな体の欲が、言葉を緩める。


「この前、消えたって言ってた奴—」


 声が一瞬、低くなる。湊の背中が固くなった。


「消えたんじゃねえ。あいつは……“消された”って言ってた」


「やめろ。そういうのは、祈りに回される」


「祈りに回されるって、何だよ。死んだってことか」


「死んだって言うな。言った瞬間、そうなる。—言葉は形だ」


 湊は、奥歯を噛んだ。ここにも“形”の観念が染みている。寺の教えが、普請場の終わりにも入り込んでいる。祈りは、救いの器であると同時に、声を殺す器でもある。


 そのとき、外で足音がした。軽い。草履の擦れる音が短く、迷いがない。番の歩き方ではない。番は音を出して威圧する。これは—下の者の歩き方だ。用事があって、急いでいる。


 仮小屋の中の声が止んだ。火鉢の音だけが残る。


 戸が少し開き、男が顔を出した。影の中で輪郭だけが見える。若い。町役人の下につく小者—そんな匂いだ。懐に手を入れたまま、視線を泳がせる。


「……終わったか」


「終わったよ」


 中の男が、あえて平坦に答える。


「これ、持ってけ」


 小者は、戸の隙間から何かを投げ入れた。音がしないように、布に包んだものだ。受け取った男が、手触りで中身を確かめる。硬い。札か、金物か。


「刻みか」


 男がぽつりと漏らす。


「黙ってやれ。黙って揃えろ。揃えときゃ、文句は出ねえ」


 小者はそれだけ言い、戸を閉めずに去った。閉めないのは、名を残さないためだ。戸を閉める癖は、痕になる。


 湊は、心の中で線を引いた。


 拾う者がいる。

 数にする者がいる。

 そして、その数を祈りへ混ぜる器がある。


 層が三つ。三本の線が、一本の縫い糸に束ねられている。


 八代が、湊の耳元で囁いた。


「追うか」


 湊は即答しなかった。追えば、形が立つ。だが追わねば、流れの先が見えない。今夜は見る段。止めない。だが—見失えば、次は拾われた痕すら残らなくなる。


 湊は、息を吐いた。白い息が闇へほどける。


「追います。止めません。—見るだけです」


 八代が頷いた。


 二人は、小者の足音が消えきる前に動いた。板塀の影、土手の窪み、積み木の間。月のない夜は闇が濃いが、雲が低い分、町の灯が反射して輪郭が出る。灯は味方にも敵にもなる。灯を背にすると、こちらが影絵になる。


 小者は道を選んでいた。広い道を避け、寺社へ近づく。だが寺の門へは入らない。門をくぐれば名が立つ。門前で止まり、脇へ折れる。寺の裏手—祈りの器に混ぜるための“横道”だ。


 湊は胸が冷えた。寺は器であり、本体ではない。器を動かす手が別にある。別の手は、門をくぐらず、器の背中を撫でる。


 小者が、裏手の小屋の前で立ち止まった。屋根は低く、雨の名残の水が滴っている。軒先が黒い。人の出入りがある軒だ。中に灯はない。だが、人の気配がある。


 小者が、合図のように咳を一つした。わざとらしくない咳だ。寒さのせいにできる咳。形になりにくい合図。


 戸が半分だけ開いた。中から手が出て、小者の持つ包みを受け取る。声はない。名もない。功もない。責もない。


 だが、流れはある。


 湊は、歯を食いしばった。目の前で、声が数へ渡される。数が祈りへ混ぜられる入口がある。入口を押さえた者が声を使う—酒屋の主の言葉が背中を刺す。


 そのときだった。


 足元の小石が、き、と鳴った。


 湊の足ではない。八代でもない。—第三の足音だ。


 湊は即座に視線を走らせた。板塀の影、普請場の土手、寺裏の暗がり。そのどこかに、先に立っていた気配がある。風を読むように立つ者。息が落ちる縁にいた男。


 そして、闇の向こうから、低い声が落ちた。


「……今のは、拾う側の下だ」


 声は、湊のすぐ背後ではない。少し離れた影からだ。位置を固定しない。触りすぎると握る—その約束を守っている。


「中の手は、数にする」


 男は続ける。


「祈りへ混ぜるのは、もっと奥だ。今夜は、ここまででいい」


 湊は息を殺し、返した。


「ここまでで?」


「これ以上は、形が立つ」


「……形が立てば、仕掛けが変わる」


「そうだ」


 男の声は淡い。だが断定は硬い。


「今夜は、線を引いただけで勝てる。

 明日、線を太くすれば負ける」


 湊は、胸の内で頷いた。今夜の収穫は大きい。層が見えた。入口が見えた。横道が見えた。見えた以上、次は—揃えにくい理由で声を落とす番だ。


 湊は、戸が閉じ切るのを見届けた。小者の足音が遠ざかり、寺裏の闇が元に戻る。冷たい風が吹き、雲の底がわずかに流れた。雲が動くと、町の灯の反射が変わり、闇の濃淡が入れ替わる。まるで、空そのものが“揃え”を嫌っているようだった。


 湊は静かに言った。


「明日、兼続様に—線を報告します」


 八代が頷く。


「そして、入口を守る仕掛けを考える」


 湊は、最後に一度だけ寺裏を見た。


 祈りの器は、そこにある。

 だが器を動かす手は、器の外にある。


 冬の夜気が、喉の奥を刺した。湊は咳を堪え、代わりに息を長く吐いた。白い息が、闇に消える。


 声は、まだ縫われていない。

 だが縫い糸の端は、今夜はっきりと見えた。

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