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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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34話:刻みを拾う夜

霧雨は、いつの間にか本降りに近づいていた。粒は細いままだが、落ちる間隔が詰まり、屋根瓦を叩く音が絶えない。城下の通りは灰色に沈み、遠くの人影は輪郭を失って、動く染みのように見える。


 庇の下に置かれた木札は、まだそこにあった。


 柱の影。雨は直接当たらないが、湿気がまとわりつき、刻みの溝に水が溜まり始めている。誰かが触れば、指先に冷たさが残るだろう。


 湊は、少し離れた位置からそれを見ていた。


 近づきすぎない。囲わない。視線で守らない。

 ただ、在ることだけを許す。


 板のそばには、あの老人――名を名乗らぬ男が、相変わらず立っていた。背を丸め、庇の柱に半身を預け、風を避ける姿勢。通りを見るでもなく、札を見るでもなく、ただそこにいる。


 風除け。

 それ以上でも以下でもない。


 八代が、湊の横で小さく息を吐いた。


「……まだ、拾われませぬな」


「はい」


 湊は即答しなかった。札そのものよりも、周囲の“間”を見ていた。通り過ぎる人々の歩調。足が止まるか、止まらぬか。視線が落ちるか、落ちぬか。


 誰も、覗かない。


 それは無関心ではなかった。

 避けている。


「置かれたと、もう知られている」


 湊が言うと、八代は頷いた。


「知った以上、近づかぬ。触れた時点で、何かを負わされると思うのでしょうな」


 その時だった。


 庇の柱の陰から、低い声が落ちた。


「……違うな」


 老人――いや、板の側にいる男が、初めて言葉を挟んだ。


 二人は同時にそちらを見たが、男は視線を上げない。通りの先、霧の向こうを見たまま、続ける。


「避けているのではない。待っている」


 八代が眉を動かす。


「待つ?」


「そうだ。拾われる“形”になるのを、待っている」


 男の声は淡々としていた。教える調子ではない。断じるでもない。見えたものを、そのまま置いただけだ。


 湊は、胸の内で反芻した。


 拾われる形。

 ――刻みが、意味を持つ瞬間。


「……数として、ですか」


 湊がそう問うと、男はわずかに顎を引いた。


「刻みは数だ。数は帳面に行く。帳面は、祈りに行く」


 短い言葉。だが、一直線だった。


 湊の脳裏に、寺の光景がよぎる。揃いすぎた声。数に変えられ、意味を失った訴え。


「では……今は」


「まだ声だ」


 男は、ようやく札のほうへ目を向けた。


「数になりきれていない。だから、拾えぬ」


 湊は、はっとした。


 拾われないのは、危険だからではない。

 使えないからだ。


 使えないものは、手を出されない。


 八代が、低く唸る。


「……使える形になるのを待つ、か」


「待たせておけばいい」


 男はそれだけ言うと、再び黙った。

 それ以上、助言を重ねる気配はない。


 湊は、札を見つめ直した。


 刻み。

 規則正しい溝。

 だが、それだけでは“意味”にならない。


 ――意味を与えるのは、人だ。


 誰が拾うか。

 どこへ運ぶか。

 何と一緒に置くか。


 その瞬間、数になる。


 湊は、ふと気づいた。


 今、この場には――

 拾おうとする人間が、一人もいない。


 揃える側も。

 拾う側も。

 様子を見る者すら、遠巻きだ。


 均衡。


 だが、それは長く続かない。


 雨脚が、さらに強まった。

 庇の外で、水が溝を走る音が大きくなる。


 その時、通りの向こうから、一人の男が歩いてきた。


 町人ではない。

 武士でもない。

 草履の減り方が違う。歩幅が一定。周囲を見ない。


 役所の下働きだ。


 八代が、わずかに身を固くする。


「……来ますな」


 男は庇の前で、足を止めた。

 札には視線を向けない。

 だが、庇の中に立つ三人――湊、八代、そして名を名乗らぬ男の位置関係を、一瞬で把握した。


 そして、何事もなかったかのように、通り過ぎようとする。


 ――通り過ぎる、ふり。


 湊は、その“間”を見逃さなかった。


 男の歩調が、ほんのわずかに遅れた。

 視線が、地面に落ちた。

 札の位置と、影の位置を、確かめている。


 湊は、動かなかった。


 声も出さない。

 視線も送らない。


 男は、結局、触れなかった。


 だが――

 覚えた。


 それが、湊には分かった。


 男の背が霧に溶けていくのを見ながら、湊は静かに言った。


「……今夜か、明日」


 八代が頷く。


「拾われますな」


 庇の柱の側で、男がぽつりと落とした。


「拾うのは、役所ではない」


 湊が、そちらを見る。


「下の者だ。帳面を運ぶ役の、さらに下」


「……名も残らぬ」


「名が残らぬから、使える」


 湊は、ゆっくり息を吐いた。


 ――来る。


 刻みは、いずれ数になる。

 だが、その瞬間を見れば、流れが掴める。


「八代殿」


「は」


「今夜は、見ます。止めません」


 八代は一瞬、躊躇ったが、すぐに頷いた。


「承知」


 庇の下で、札は黙っている。


 だが、黙りは沈黙ではない。

 次に動くための、溜めだ。


 雨音が、城下を覆い尽くす。


 刻みは、まだ声だ。

 そして――

 声は、数になる寸前で、息を潜めていた。

夜になっても、雨はやまなかった。霧雨が太り、粒が揃い、屋根から落ちる滴の間隔が一定になる。一定になるほど、人は安心する。だが湊にとっては逆だった。揃った音は、揃える手の気配に似ている。


 城下の灯りは早く消える。障子の向こうの行灯が一つ、また一つと消え、通りの輪郭だけが闇に沈む。湿った空気が肌にまとわりつき、袖が重い。


 庇の下に置かれた木札は、昼より黒ずんで見えた。刻みの溝に溜まった水が、灯りを吸い、細い影を作っている。


 湊は通りの向かい、商家の軒先の暗がりに身を置いた。八代は半歩後ろ。視線は動かさない。動かせば、そこに“守り”が生まれる。


 板の側には、名を名乗らぬ男がいた。昼と同じ姿勢で、柱に寄り、風を避ける。誰かを待つでもなく、追うでもなく、ただ在る。


 揃えぬ者は、目立たぬように立つ。

 目立たぬのに、見落とせぬ立ち方で。


 雨の音に、別の音が混じった。草履が石畳を擦る音。一定の歩幅。急がない。迷わない。まっすぐ来る。


 八代が、ほんのわずかに顎を引いた。


 湊は息を止めた。白い息を出せば、そこに人がいると知らせてしまう。喉が冷える。冷えは、声を奪う。今夜は奪わせない。


 影が一つ、庇の前で止まった。


 役所の下働き――昼間の男ではない。背丈が違う。歩き方が違う。だが足の裏の癖は似ている。どちらも、道を選ばない。決められた道を歩く足だ。


 男は周囲を見なかった。見ないことが、合図になる夜がある。見ない者の周囲を、見張りが見ている。


 男は庇に入らず、外から手を伸ばした。札へ――伸ばさない。伸ばすふりだけをして、柱の陰の湿り具合を指で確かめる。誰かが触っていないか。触れば、乾きが変わる。


 触られていない。


 男は一拍置いてから、札を摘まんだ。


 その瞬間、湊の胸の内で、線が一本引かれた。

 刻みが声である時間は、終わった。


 男は札を懐へ入れない。懐へ入れれば自分のものになる。自分のものになれば責が生まれる。責が生まれれば名が立つ。名が立てば、揃える側の縄が掛かる。


 男は札を袖の内に滑らせ、抱えないように持った。持っているのに、持っていないふりができる位置。


 そして、すぐには歩き出さない。雨を避けるふりをして、庇の柱へ半身を寄せる。そこに、名を名乗らぬ男が立っている。


 暗闇の中、二人の影が重なった。


 言葉は無い。

 だが湊には見えた。


 男が札を引いた指の動き。名を名乗らぬ男の足の向き。ほんの僅か、つま先が通りの先へ向いていた。追うでもなく、導くでもなく、ただ“流れ”の先を知っている足だ。


 男は庇を離れ、歩き出した。一定の歩幅。だが昼のような硬さが無い。雨の夜は、足が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなった足は、寄り道ができる。


 湊が動いた。すぐには追わない。

 三つ数えてから、同じ歩幅で歩き出す。


 八代も動く。二人の影は一つにならないよう、微妙に間を取った。武士が二人並べば、それだけで形だ。形は揃えられる。


 男は真っ直ぐ役所へは向かわなかった。市の裏を通り、井戸の脇を抜け、塀沿いの暗い道へ入る。人の目の少ない道だ。だが、完全に見られぬ道ではない。完全に見られぬ道は、逆に危うい。誰が待っているか分からぬ。


 男は歩きながら、時折、咳をした。


 咳の回数が一定だった。

 それが湊には気味が悪い。


 咳は息だ。息は揃えにくい。だが回数を揃えることはできる。揃えられた息は、既に半分、形だ。


 角を曲がったところで、男が一度だけ立ち止まった。壁に手をつく。雨で濡れた壁に触れ、指先を湿らせる。何をしている?


 次の瞬間、男は指で壁に小さな印を残した。泥のような薄い線。見れば消える。だが、見たい者には見える。


 湊は足を止めた。八代も止まる。


 印。

 札を拾った者が、誰かに示すための印。

 誰かが、この道のどこかで、その印を拾う。


 湊は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 見える。流れが見える。


 男は再び歩き出し、寺のある方角へ向かった。寺。祈り。揃いすぎた声が死ぬ場所。だが今夜、男が向かう寺は、表門の寺ではない。裏門だ。寺の裏へ回る道は、普請場の人足が夜に通る道と繋がっている。


 湊は唇を噛んだ。

 やはり、祈りに混ぜる。


 八代が、耳元で囁いた。


「湊殿。寺へ入るつもりか」


「入りません。入れば、こちらの形が立つ」


「では」


「裏を見ます」


 寺の裏手には、小さな納屋がある。薪を積むための屋根。そこに雨が打ちつけ、木の匂いが濃い。男は納屋の陰へ滑り込み、しばらく動かなかった。


 湊は塀の外、植え込みの暗がりに身を沈めた。冷たい水が足袋に沁みる。だが痛みは、判断を澄ませることがある。


 納屋の戸が、ほんの少し開いた。


 中から出てきたのは僧ではない。袴姿の男。帳面を抱えている。帳面の角が濡れぬよう、布で包んでいる。役所の男ではない。寺の男でもない。境目に立つ男だ。


 札を拾った男が、袖の内から木札を出した。帳面の男が、それを受け取る。受け取る手つきが慣れている。受け取って、すぐに帳面に何かを記すわけではない。帳面を開かず、木札の刻みを指で撫で、溝に溜まった水を確かめる。


 水が溜まっている。

 つまり、拾ったのは今夜。

 つまり、今夜の声。


 帳面の男は、木札を布で軽く拭いた。拭きすぎない。刻みの溝の水は残す。残せば、今夜拾ったことが後で分かる。

 ――証拠を残すやり方だ。


 湊は、背筋が冷えた。


 揃える側は、証拠を嫌う。

 だが揃える側の“下”は、証拠を残す。

 上へ持っていくために。


 帳面の男が低い声で言った。


「刻みは、いくつだ」


 拾った男が答える。


「揃ってる。いつも通りだ」


「いつも通り……」


 帳面の男は、布包みをほどき、別の木札を二枚取り出した。似ている。刻みも似ている。だが、微妙に違う。刻みの間隔が、ほんの少しだけずれている。


 帳面の男は、今夜の札と、二枚の札を並べた。雨の音の中で、木が触れ合う乾いた音がした。


「今夜のは、揃いすぎだな」


 拾った男が、短く笑う。


「揃ってたほうが、揉めねえ」


「揉めぬように揃える。祈りはよく効く」


 帳面の男は、木札を重ねて布に包み、納屋の奥へしまった。

 そして、帳面をようやく開き、墨を含ませる。


 ――ここから先は、数だ。

 数になれば、声は死ぬ。


 湊は、喉の奥で何かが鳴った。怒りではない。焦りだ。今止めれば、形が立つ。止めなければ、声は死ぬ。だが今夜の狙いは止めることではない。流れの入口と出口を掴むことだ。


 湊は、自分に言い聞かせた。


 見ろ。

 記せ。

 刃を抜くな。線を引け。


 帳面の男が、墨を走らせる。

 拾った男が、戸口を見張る。

 どちらも、こちらへは気づかない。気づかないように動いている。気づかれぬことが、彼らの仕事だからだ。


 その時、塀の影で、別の影が動いた。


 湊ではない。八代でもない。

 塀の内側――寺の敷地の中だ。


 影は納屋へ向かわない。納屋から少し離れた場所、祠の方へ滑る。雨を避けるように、木の根元を踏む足。武士の足ではない。だが町人の足でもない。重さがある。長年、甲冑を着た者の足だ。


 湊は、目を細めた。


 影は祠の陰で止まり、納屋の様子を見た。

 見て、待つ。

 待っているのは、拾った男でも帳面の男でもない。

 その“上”だ。


 湊は、背中に汗が浮くのを感じた。冷たい汗だ。


 今夜ここには、三つの層がいる。


 拾う者。

 数にする者。

 そして――祈りへ混ぜる者。


 納屋の戸が閉まり、拾った男が先に去った。帳面の男は少し遅れて出る。祠の影の男は、その帳面の男の後ろへ、音もなく付いた。


 湊は、八代の方を見ずに囁いた。


「……今、三つ繋がりました」


「追いますか」


「追いません」


 湊は言い切った。


「今夜追えば、こちらが形になる。形になれば、次から札が置かれなくなる」


 八代が、僅かに息を吸った。理解した合図だ。


 寺の裏手の闇に、影が溶けていく。

 雨は、すべてを均す。足跡を消し、匂いを薄め、声を呑む。だが雨の夜ほど、流れは読みやすい。音が少ないからだ。少ない音の中で、揃った音は目立つ。


 湊は、ゆっくり立ち上がった。足袋の中が冷たい。だが頭は冴えている。


 納屋の側へは行かない。行けば、そこに“調べた形”が残る。残れば次から仕掛けが変わる。揃える側は賢い。怖くなると賢くなる。


 代わりに湊は、庇の方角へ戻った。戻る道で、壁に残された薄い印を一度だけ見た。見て、位置を覚えた。触れない。触れれば形が立つ。


 庇の下には、名を名乗らぬ男がまだいた。


 雨粒が柱を伝い、笠の縁から落ちる。男はそれを避けもせず、ただ立っている。


 湊が近づくと、男は低く言った。


「拾われたな」


「はい」


「寺へ行ったか」


「はい」


「それで」


 男の声は短い。続きを促すでもなく、ただ事実を並べる。


 湊は、一拍置いてから答えた。


「拾う者がいて、数にする者がいて、その上がいました」


 男は、初めて湊の顔を見た。暗闇でも分かる目だった。濁りのない、乾いた目。


「上を見たか」


「姿だけです」


「姿で足りる」


 男はそう言い、視線を通りへ戻した。


「名を知りたがるな。名を知れば、名の方から縫いに来る」


 湊は、頷いた。


「名は要りません。流れが要ります」


 男は、ほんの僅かに口元を緩めた。笑みではない。肯定でもない。

 ただ、雨の中で息を吐いた形だった。


「なら、次は“落ちる場所”を変えろ」


「……庇を増やす、ということですか」


「庇ではない」


 男は言った。


「息を吐く理由だ。今夜、札は“恐れ”で落ちた。恐れは揃えやすい。次は、揃えにくい理由で落とせ」


 湊は、胸の奥で線を引いた。


 恐れは揃えやすい。

 では、揃えにくい理由とは何か。


 怒りは刃になる。刃は危うい。

 笑いは軽い。軽いものは握られる。

 では――ため息。諦め。疲れ。

 それらは揃えにくい。だが、拾うのが難しい。


 湊は、雨の匂いを吸い込み、吐いた。白い息が闇に溶ける。


「……人足の“消えた”は、まだ続いています」


 男は、短く返した。


「続くさ。続かせるために揃えている」


 湊は、拳を握りしめそうになり、ほどいた。握れば形だ。形は縫われる。今は握らない。


 八代が言う。


「湊殿。今夜の分は掴みました。次は、城へ報告を」


「はい」


 湊は庇の柱を一度だけ見た。そこには、札が置かれていた場所の湿りが残っている。拾われた痕だ。

 拾われた痕が残るうちは、まだ勝てる。

 痕さえ残らぬようにされたら、闇は完成する。


 湊は、闇に向かって心の中で言った。


 ――揃えた数は、いずれ揃えた刃になる。

 ――その前に、揃えられぬ息の道を作る。


 雨は止まない。

 だが雨の中で、流れは確かに姿を現した。


 そして湊は知った。

 声を殺す仕組みは、寺だけではない。

 寺はただの器で、器を動かす手が別にある。


 その手は、今夜も濡れずに動いている。


 湊は袖口を押さえ、白い息を吐き、城へ向けて歩き出した。

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