33話:刻まれた声
霧雨が、城下の屋根を薄く濡らしていた。冬の雨は粒が細かく、降っているのか止んでいるのか分からない。だが石畳を踏めば、草履の裏がぬるりと滑る。空は低い鉛色で、雲の底が町の上に貼り付いているようだった。
湊は袖の口を押さえ、息を吸った。冷たい。肺の奥まで冷えが入り込み、息が白くなる。鼻の奥がわずかに痛む。
――声が、置かれなくなった。
三つの入口。城下、普請場の外れ、街道の分かれ道。名の無い板を置いて、紙を置かせ、拾われ方で流れを読む。その仕掛けは、確かに最初は働いた。だが今は違う。板は空白のまま、ただ雨を吸って黒ずみ、表面の繊維が毛羽立っていくだけだ。
八代が隣を歩きながら、首を振った。
「人は賢い。いや――怖くなると、賢くなる」
「置けば拾われると、知ったからですね」
「置かずに済むなら、置かぬ。声も銭も、同じだ」
八代の声は淡々としていた。だが、淡々としていられるだけの余裕は湊になかった。入口を増やせば流れる。そう思った。だが、入口を増やした途端、相手は“入口の外”へ逃げた。声が形になる前に、形ごと失くされる。
城下の入口に着く。板は、今日も白いまま――いや、白いままに“見せて”ある。誰かが拭いたのだ。雨で汚れるはずなのに、板の上だけが妙に清い。湊はそこに、別の種類の冷たさを感じた。
「……拭いてあります」
「誰かが“何も書かれていない”という形を守っている」
八代が眉を寄せる。
「守っている、か。あるいは――」
「揃えている、ですね」
湊は膝を折り、板の縁に指を当てた。水気が残っている。拭いたばかりだ。布で擦った跡が、木目に沿って薄く走っている。声を置かせないのではない。声を置くこと自体を、無意味にする。置いても消える。置かなくても消える。そうして、置く者の心だけを折る。
湊は立ち上がり、視線を上げた。町の往来はある。だが会話は短い。必要な言葉だけが、乾いた息のように交わされて、すぐ途切れる。笑い声が無いわけではない。ある。だが、笑いが続かない。笑いの後ろで、誰かが口を閉じる音がする。
――声が、息をする前に止められている。
湊は胸の内で、歯を噛んだ。
「八代殿。入口があるから、声が流れる……そういう単純ではなかった」
「単純なら、戦は要らん」
八代はそう言って、湊の歩調に合わせた。
「湊殿。入口は“器”だ。だが器だけでは水は動かん。傾きが要る。流れが生まれる理由が要る」
「理由……」
「人が息を吐きたいと思う理由。誰かの前で、ではない。誰にも見られずに、だ」
湊は足を止めた。
「誰にも見られずに……声を吐く場所」
「そうだ。見られぬところで吐いた息が、偶然、誰かに届く。それがいちばん危うく、いちばん生きている」
八代の言葉は、湊の胸の奥に引っかかった。聞き場は、声を集める場所だった。だが今は、集めれば握られる。ならば――集める前の息を拾うしかない。
湊はもう一度、板を見た。白い板。空白。そこに、声を置かせようとしていた。だが、人は紙を置かない。置けば名が立つ。置けば形になる。形になった途端、揃えられる。
――では、紙を置かせない。
湊は、思わず口に出した。
「紙を、やめる」
八代が目を細める。
「……ほう」
「紙に書かせるから、形になる。形になれば揃えられる。なら、形にする前のものを拾う。――息、です」
八代は小さく頷いた。
「息なら、揃えにくい。だが拾いにくい」
「拾います。拾える形に……せずに、拾う」
言いながら、湊は自分の言葉の矛盾に気づき、苦笑した。
拾うために形を作れば、揃えの手が入る。形を作らねば拾えない。だが形を作れば殺される。――堂々巡りだ。
その時、八代が視線で町角を示した。
「湊殿。あれだ」
道の脇に、小さな軒がある。壁に寄せた板。雨除けの庇。中に入ると風が弱まり、吐く息が落ち着くような、半歩だけ逃げ込める場所。人が行き交う道の“縁”。誰も所有しない隙間。
そこに、老人が一人座っていた。
濡れた笠を膝に置き、指先で笠の縁をゆっくり撫でている。着物は古い。だが襟元は整っていた。背は少し曲がっているのに、視線だけは真っ直ぐだ。目が、濁っていない。
湊は足を止めた。老人の前には、何も無い。ただ雨粒が落ちる音と、通り過ぎる草履の音だけがある。だが――老人の周囲だけ、音が妙に澄んでいた。澄んでいるからこそ、誰の咳払いも、誰のため息も、拾える。
老人は湊を見て、軽く頭を下げた。声は出さない。挨拶の形だけがある。
湊は、こちらも一礼した。八代が無言で警戒する気配を背に、湊は一歩前へ出る。
「……ここで、雨宿りを?」
老人は一拍置いてから、口を開いた。
「雨宿りではない。風を避けている」
低い声だった。枯れてはいない。声の芯が硬い。だが威圧は無い。必要な分だけ、空気を震わせる。
「風を?」
「この季節の風は、人の息を持っていく。持っていかれると、人は黙る。黙ると、音だけが残る」
湊の胸が、かすかに鳴った。
「音だけが残る……?」
老人は、町を見た。行き交う人々の背中。笑いが短く切れる口元。すぐ閉じる唇。
「声が死ぬと、形が増える。礼が増える。挨拶が揃う。――美しくなる」
湊は、喉が乾いた。
「……あなたは、何者ですか」
八代が一歩、前に出ようとした。だが湊は、手で制した。老人の目には、こちらを量る色が無い。ただ“見ている”。見て、記している。湊と同じ種類の目だ。
老人は、湊の問いにすぐ答えなかった。代わりに、濡れた笠を持ち上げ、庇の外へ少しだけ出した。雨が笠に当たり、細い音を立てる。
「雨は、誰の許しも要らぬ。だが落ちる場所を選べぬ」
笠を戻し、老人は続けた。
「声も同じだ。許しが要らぬ声はある。だが落ちる場所を失うと、声は形に縫われる」
湊は、息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。白い息が庇の下に溜まり、すぐ散る。風が持っていく。
「……縫われる」
老人の言葉は、湊がここまで見てきたものと一本に繋がった。寺の揃いすぎた祈り。役人の揃いすぎた銭。板の揃いすぎた空白。すべてが“縫い”だ。縫って形にし、形で殺す。
老人は、湊の目を見た。
「そなたは、縫い目を増やした。縫い目の外へ声が漏れぬように、相手は縫い糸を太くした」
湊は、言い返せなかった。まるで見ていたように、老人は言う。
八代が低く言った。
「……聞きすぎだ」
老人は笑わない。だが、口元だけがほんの少し緩む。笑みというより、“余計な形を作らぬ”という意思のようだった。
「聞いてはいない。見ていただけだ。――足跡の向きと、咳の数を」
湊の背筋に、冷たいものが走った。自分がやってきたことだ。読まずに流れを読む。紙を読まず、足跡を読む。声を読まず、息を読む。
湊は、思わず言った。
「あなたは……声を揃える側ですか」
老人は首を横に振った。
「揃える側は、名を欲しがる。名があれば、揃えやすいからだ」
湊の胸が、すっと軽くなった。老人は続ける。
「揃えぬ側は、名を捨てる。名があると、声が寄ってしまうからだ」
それは、湊が今まさに選ぼうとしている道だった。名を立てない。形にしない。声を殺さない。だが――それでも国を動かす。
湊は、庇の外へ目を向けた。鉛雲の底が、さらに下がっている。雨が冷たくなった。霧が濃くなる。まるで町全体が、息を吸い込んでいるようだ。
「……あなたの言う“落ちる場所”を、私は作らねばならない」
老人は、静かに頷いた。
「作るのではない。――見つけるのだ。もともと人は、息を吐く場所を知っている。道の縁、井戸の脇、火のそば。手が止まる場所。足が緩む場所」
湊の脳裏に、神指城の町割り図の空白が浮かんだ。広場。道の交差。寺社の位置。市場の位置。人が息を吐く場所は、図の上にも描ける。だが、描きすぎれば形になる。形になれば揃う。
その時だった。
庇の外から、女の声がした。高くない。叫びでもない。だが、息が震えている。
「……ここで、聞いてもらえるって……」
湊が振り向く。女が一人、立っていた。頭巾をかぶり、肩をすぼめている。手には布包み。濡れた布から、かすかに鉄の匂いがした。普請場の匂いだ。
女は庇の中へ入ろうとして、足を止めた。そこに湊と八代がいるのを見て、身を引く。目が怯える。だが逃げない。逃げられない目だ。
湊は一歩、前へ出た。声を柔らかくする。揃えない。だが受け止める。
「ここは……まだ“聞き場”ではありません」
女の唇が、わずかに震える。
「でも……誰にも言えなくて……。紙にも書けなくて……」
湊は、頷いた。
「紙は、要りません。――息のままで、いい」
女は布包みを強く握りしめ、ようやく庇の中に足を入れた。濡れた草履が板を鳴らす。小さな音だが、その音が妙に大きく聞こえた。
老人が、静かに言った。
「ほらな。息は、落ちる場所を探している」
湊は女の手元を見た。布包みの中身が、重い。金具か、道具か。普請場のものだ。声の代わりに、物が来た。紙ではなく、手に残った証拠が来た。
湊は胸の奥で、決めた。
――入口は板ではない。看板でもない。名でもない。
――息が落ちる縁を、拾う。
――そして、そこに“揃えぬ器”を育てる。
冬の雨は、まだ止まない。だがその雨の中で、初めて“置かれぬ声”が、形を持たずに落ちてきた。
女は庇の下で、濡れた頭巾を外さなかった。外せば顔が割れると思っているのだろう。声も同じだ。いったん顔が割れれば、声はその形に縫われる。
湊は膝を折り、女と同じ高さに目を合わせた。吐く息が白い。庇の外は霧雨で、道の輪郭が薄く滲んでいる。人の往来はあるのに、ここだけが島のように切り離されていた。
「名前は、要りません」
女の指が、布包みを強く握り直す。布は湿っているのに、握る力だけが乾いている。
「……でも、聞いてくれるなら」
女は小さく頷き、布の結び目をほどいた。中から出てきたのは、鉄の留め具と、木の札だった。普請場で使う道具の一部――ではない。木札のほうに湊の目が吸い寄せられる。
札は、ただの札ではなかった。表に、細い刻みが規則正しく入っている。数を数えるための刻み。だが、その刻みの間隔が、妙に整いすぎていた。
「それは……」
八代が低く言いかけたが、湊が視線で止めた。ここで武士の声を立てれば、女の息が引っ込む。
湊は札を手に取らなかった。代わりに、膝の上で指を組み、女の言葉を待つ。
「渡すときに……言われました」
女の声は、霧雨よりも細い。
「“刻みは祈りより強い”って」
八代の背後で、空気がわずかに張る。
だが湊は、女から視線を外さなかった。
「名は聞くな、とも」
女は続ける。
「名を聞けば、声が縫われるから。
誰が言ったかを言えば、私の声も縫われるから……」
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
「刻みは、声を数に変えます。
数になった声は、祈りに混ぜられる。
祈りに混ざれば、誰の声だったかは消える」
女の肩が、小さく震えた。
「消えた人足も、そうして……」
「まだ、消えてはいません」
湊ははっきりと言った。
「声が数に変えられただけです。
だから、あなたはここに来た」
女は顔を上げなかったが、呼吸が少し深くなった。
「ここは、揃えません」
湊は続ける。
「祈りにも、帳面にも、しません。
刻みも、ここでは数にならない」
女はしばらく黙っていた。
霧雨が庇の縁を伝い、ぽつりと落ちる。
「……置いても、いいですか」
「はい」
湊は即座に答えた。
「置いて、去ってください。
拾う者が出たら、それは私が見ます」
「名前は……?」
「要りません」
女は、初めてわずかに笑った。
それは安堵ではなく、縫われないと知った者の、短い息だった。
女は木札を庇の柱の影にそっと置き、布包みだけを抱えて立ち上がった。霧の向こうへ溶けるように去っていく。
足音が完全に消えたあと、八代が低く言う。
「刻みが置かれましたな」
「はい」
湊は札を見つめたまま答える。
「置かれた、ということは――
入口を探している者がいる」
「揃える側か」
「あるいは、揃えさせる前に拾う側」
湊は、庇の外の道へ視線を向けた。
霧雨の中、人の影が交差している。
「刻みは、声を殺すための道具です。
だが同時に――声が生きていた証でもある」
湊は立ち上がり、札の位置を変えずに一歩退いた。
「今夜は、置かせました。
次は――誰が拾うかを見る」
霧雨は、まだ止まない。
だが、道の先に微かな風の流れが生まれていた。
声は、まだ縫われていない。




