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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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33/102

32話:入口に立つ者、祈りに立つ影

翌朝の城下は、珍しく冷え込みが緩んでいた。

 夜半に降った霧雨が土の塵を抑え、石畳の色を一段濃くしている。湿った空気が鼻に残り、冬の匂いに木と泥の香が混じった。


 湊は城下南の聞き場に立ち、空を見上げた。


 雲は低い。鉛色ではあるが重さはなく、ところどころに薄い裂け目が走っている。陽はまだ差さないが、今日は降らない。そういう空だった。


「……流れるな」


 独りごちた声は、湿り気に吸われるように短く消えた。


 入口に立つ者を置いた。

 酒屋の主――名を名乗らぬ男が、城下の聞き場のひとつに腰を据える約束になっている。


 ただ立つのではない。

 仕切らない。

 誘わない。

 遮らない。


 声が来れば聞き、来なければ何もしない。

 それだけの役目。


 理屈では分かっている。

 だが、制度は理屈どおりには動かない。


 湊は視線を落とし、板の前へ歩み寄った。

 夜のうちに新しい紙が一枚置かれていた跡がある。今はもう無い。紙の端が擦ったような薄い傷と、露に濡れて乾ききらぬ木の匂い。


 置いた者。

 抜いた者。


 その二つが同じとは限らない。

 それが、聞き場という器の弱いところでもあり、強いところでもある。


「湊殿」


 背後から八代の声がした。

 振り向くと、濡れた地面を踏みすぎぬよう足を運びながら近づいてくる。肩には霧雨の粒が細かく残っていた。


「動きは?」

「三つの入口すべてで、紙は置かれています。ただ……」


 湊は言葉を切った。


「城下の入口だけ、抜き方が違う」

「違う、とは」

「抜いた後の足取りが妙に整っている。急ぎすぎず、迷わず、立ち止まらず。『行き先が決まっている足』です」


 八代の眉がわずかに動いた。


「揃っている、と?」

「はい」


 湊は吐息を白くしながら続けた。


「役人の足に似ています。ただし、表の役人ではない。城下の下働き……帳付けか、普請方の小者。そういう者の歩幅です」


 八代は聞き場の周囲を一瞥した。


「揃える側だな」

「ええ。入口を増やしたところで、集め直す者がいれば意味が薄れる」


「酒屋の主は?」

「今朝は、まだ姿を見せていません」


 八代が小さく息を吐いた。


「試されているな」

「はい。こちらが、どこまで踏み込むかを」


     ◆


 昼前、城下の聞き場に一人の男が現れた。


 役人ではない。

 僧でもない。

 町人にしては、足取りが静かすぎる。


 湊は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 男は板の前に立ち、懐から紙を一枚取り出した。

 だが、置かない。


 代わりに、紙を軽く折り、すぐ懐へ戻した。


(……見るだけ?)


 男は板を指でなぞり、周囲を一度だけ見回した。

 誰かの視線を探すように。あるいは、視線が無いことを確かめるように。


 そして、何事もなかったかのように立ち去る。


 追うべきか。

 追えば、入口に触ることになる。


 湊は動かなかった。


 八代が低く言う。


「置かぬ声、か」

「置けば拾われると知っている。だから置かない。……入口が、もう知られている」


 揃える側は、「置かれた声」を集める段階を過ぎた。

 次は、「置かせない」か、「置く前に形を変える」。


 湊の胸の奥に、冷たいものが沈む。

 寺で見た均一な祈り。

 城下で感じた揃いすぎた挨拶。

 普請場で噂の形が整えられていく気配。


 形が揃えば、声は死ぬ。

 死ねば、扱いやすい。


「僧形の男が動くかもしれません」

「あるいは、役人の形で来る」

「ええ。だから……次は、ここではない」


 湊は板を見つめ、わずかに首を振った。


「城下で置かせないなら、城下の外で置かせる。

 人は、監視が薄いところで本音を落とします」


 八代が目を細める。


「街道か」

「はい。街道の入口です」


     ◆


 午後、城へ戻る途中。

 風が変わった。


 湿り気を含んだ空気が動き、雲の裂け目から一瞬だけ光が落ちる。短い。だが、確かにあった。地面の濡れが淡く照り、遠い山の輪郭がわずかに浮いた。


 季節が、ほんの少し前へ進んだ。


 政務の間で、兼続は静かに話を聞いていた。

 湊の報告は簡潔に整えた。


「入口に立つ者を置きました。

 しかし、揃える側はもう入口の存在に気づいています。置かせぬ手に出る兆しがあります」


「置かせぬか」

「はい。あるいは、置く前に形を変える。祈りに混ぜるようなやり方です」


 兼続の指先が、机の上で一度だけ止まった。


「……寺を道具にする手は、さらに強くなるか」

「そうなれば、声は死にます。死んだ声は、燃えます。

 だから――」


 湊は言葉を選びながら続けた。


「城下の入口だけでは足りません。

 街道に、もうひとつ。人が息を吐く場所に入口を置きたい」


 兼続の目が細くなる。


「息を吐く場所」

「城下では声が揃います。監視があるからです。

 街道なら、旅人も商いも人足も混じる。揃えにくい」


 兼続はしばらく黙った。

 沈黙は冷たくはない。だが、重い。


「八代」

「は」

「街道の入口を見よ。夜から動く。湊、そなたも行け」


 湊は深く一礼した。


「承知しました」


 兼続はふっと息を吐き、窓の外の空を一度だけ見た。

 低い雲はまだ居座っている。だが、裂け目は消えていない。


「……揃える者は、入口を欲しがる」

 兼続がぽつりと言う。

「入口を欲しがる者に、入口を渡すな。だが、塞ぐな。流れは止めると腐る」


 湊は胸の奥で頷いた。


 止めない。

 渡さない。

 流れだけを守る。


 それが、この国の縫い目だ。


 城を出ると、霧雨はもう止んでいた。

 湿った冷気が頬を撫で、遠くの山から降りてくる風が、乾いた冬の匂いを連れてくる。


 湊は八代と並び、街道へ向かって歩き出した。

 夜になれば、空はさらに冷える。路面は凍り、足音がよく響く。


 響く足音は、声よりも先に流れを告げる。


 その流れが、誰の手に拾われるのか――

 今夜、確かめねばならなかった。

日が落ちるにつれ、街道の空気は目に見えて変わっていった。

 昼の湿り気は消え、冷えた風が地をなぞるように流れる。路肩の草は早くも白く縁取られ、吐く息ははっきりと形を持った。


 湊と八代は街道沿いの小さな辻に立っていた。

 城下から半刻ほど離れた場所。宿も寺もなく、旅人が立ち止まる理由の乏しい地点だ。


 それでも――

 ここには「抜け」がある。


 道が緩やかに折れ、山影が一瞬だけ視界を遮る。人は無意識に歩みを緩め、息を吐く。考えを切り替える場所。


 湊はその「間」に、無名の板を立てさせていた。


 看板ではない。

 名も目的も書かれていない。

 ただ、古びた板が一本、地に打たれているだけだ。


 空は低く、雲が薄く引き延ばされている。

 昼よりも色が浅い。巻雲が混じり、明日は晴れるかもしれない、そう思わせる空だった。


「寒くなりますね」

 湊が言うと、八代は短く頷いた。


「声は、寒い夜に出やすい」

「はい。昼は理が勝ちますが、夜は……」

「恐れと疲れが勝つ」


 その言葉どおり、街道には次第に人影が増えてきた。

 普請場帰りの人足。

 城下へ戻る商人。

 荷を担いだ百姓。


 板の前を通り過ぎる者がほとんどだ。

 だが、足を止める者もいる。


 湊は数を数えなかった。

 代わりに、止まる時間を見る。


 一瞬だけ視線を向けて去る者。

 二、三呼吸ぶん立ち止まり、首を振る者。

 板の裏に回り、誰もいないか確かめる者。


 そして――

 置く者。


 若い人足だった。

 肩の筋が張り、顔に土がこびりついている。


 男は周囲を見回し、板の根元にしゃがみ込む。

 手は震えていない。だが、動きが速すぎた。


 紙を一枚。

 折らず、書き直さず、ただ押し込むように置く。


 置いた瞬間、男は息を吐いた。

 深く、長く。


(……置けた)


 その表情は、安堵に近い。


 男はすぐ立ち去った。

 追わない。

 ここで追えば、入口が「監視」になる。


 しばらくして、別の人影が現れた。


 先ほどの人足より年上。

 足取りは軽い。手ぶら。


 男は板の前で止まり、しゃがむことなく紙を抜いた。

 迷いがない。

 抜く手だ。


 八代が低く囁く。


「同じ者ではないな」

「はい。置く者と、抜く者が違う」


 抜いた男は紙を懐へ入れ、何事もなかったように歩き去った。

 去る方向は――城下ではない。


「街道を上りました」

「揃える側が、城へ戻すとは限らない……」


 湊は、胸の奥で嫌な手応えを覚えた。


 城に戻さず、寺にも持ち込まない。

 なら、どこへ?


     ◆


 夜半。

 気温はさらに下がり、路面が硬く鳴りはじめた。


 湊と八代は、抜いた男の足取りを追っていた。

 距離は取る。見失わぬ程度に。


 男は街道を外れ、川沿いの細道へ入る。

 月は雲に隠れ、光は乏しい。水の流れだけが、暗闇に音を刻んでいる。


 やがて、小さな祠が見えた。


 昼に見た場所ではない。

 だが、形は似ている。


 男は祠の前で立ち止まり、懐から紙を取り出した。

 そこへ、もう一人――いや、二人、三人と影が集まる。


 僧形の男。

 城下で見た覚えがある。


 そして、役人の下働きらしき者が二人。


 湊は息を潜めた。


「……増えたな」

 僧形の男が言う。


「入口が増えましたから」

 下働きの一人が答える。

「だが、紙の中身は揃っていません」


 僧形の男は、紙に目を通さずに言った。


「揃っていない声ほど、祈りに向く」

「祈り、ですか」

「形にしてしまえばいい。名を消し、責を消し、天へ預ける」


 別の男が不安げに言う。


「ですが……城が」

「城は、声を恐れる。だが、祈りは恐れぬ」


 僧形の男の声は、静かだった。

 刃は見えない。だが、確かにある。


 湊は、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。


(……ここだ)


 声が、形になる前に殺される場所。

 入口を増やしても、ここへ集められるなら意味がない。


 だが。


 僧形の男は、ふと顔を上げた。


「……風が変わったな」


 その瞬間、八代が一歩、前へ出た。


「変えたのは、俺たちだ」


 湊も姿を現す。


 雲が流れ、月が半分だけ姿を見せた。

 冷たい光が祠と人影を照らす。


「やめてください」

 湊は、静かに言った。

「ここは、祈りの場所ではない」


 僧形の男は、驚いた様子を見せなかった。


「またあなたか」

「ええ。何度でも来ます」


 僧形の男は微笑む。


「声は危険だ。揃えねば、人は迷う」

「揃えれば、考えなくて済む。そうですね」

「それが救いだ」


 湊は首を振った。


「いいえ。救いではない。

 考えないまま進むのは、楽ですが――国はそれで壊れます」


 役人の下働きが苛立った声を出す。


「では、どうする! 放っておけば、一揆になるぞ!」

「なりません」

「何故言い切れる!」


 湊は一歩、前に出た。


「声は、流れれば刃になりません。

 溜めて、揃えて、押さえつけるから――刃になる」


 僧形の男が、初めて眉を動かした。


「流れ、だと」

「はい。入口を一つにしない。

 拾う者を一人にしない。

 主を置かない」


「それでは、誰も責を負わぬ」

「だから、国が持つのです」


 沈黙が落ちる。


 川の音だけが、夜を満たす。


 やがて、僧形の男は小さく息を吐いた。


「……覚えておきなさい」

「何を」

「流れは、いつか主を欲しがる」


「ええ」

 湊は、目を逸らさなかった。

「だから、主を置かない努力を続けます」


 僧形の男は、それ以上何も言わず、踵を返した。

 下働きたちも、紙を残さぬよう回収し、去っていく。


     ◆


 人影が消えた後、湊は祠の前に立った。


 夜気は鋭く、頬が痛む。

 だが、空は少しだけ澄んでいた。雲が流れ、星が一つ、見え始めている。


「……勝ったわけではありませんね」

 湊が言う。


「いい」

 八代が答える。

「刃は抜かれていない。だが、向きは変えた」


 湊は川を見た。

 水は冷たく、速い。だが、淀んでいない。


 入口を増やす。

 入口を守る。

 それでも、完全ではない。


 だが、完全でないからこそ、握られない。


「行きましょう」

 湊は言った。

「次は、城下だけでなく、村にも入口を」


 八代は静かに頷いた。


 夜明けは近い。

 東の空が、わずかに薄んでいる。


 季節は、確実に進んでいた。

 そして――

 声もまた、進まねばならなかった。

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