32話:入口に立つ者、祈りに立つ影
翌朝の城下は、珍しく冷え込みが緩んでいた。
夜半に降った霧雨が土の塵を抑え、石畳の色を一段濃くしている。湿った空気が鼻に残り、冬の匂いに木と泥の香が混じった。
湊は城下南の聞き場に立ち、空を見上げた。
雲は低い。鉛色ではあるが重さはなく、ところどころに薄い裂け目が走っている。陽はまだ差さないが、今日は降らない。そういう空だった。
「……流れるな」
独りごちた声は、湿り気に吸われるように短く消えた。
入口に立つ者を置いた。
酒屋の主――名を名乗らぬ男が、城下の聞き場のひとつに腰を据える約束になっている。
ただ立つのではない。
仕切らない。
誘わない。
遮らない。
声が来れば聞き、来なければ何もしない。
それだけの役目。
理屈では分かっている。
だが、制度は理屈どおりには動かない。
湊は視線を落とし、板の前へ歩み寄った。
夜のうちに新しい紙が一枚置かれていた跡がある。今はもう無い。紙の端が擦ったような薄い傷と、露に濡れて乾ききらぬ木の匂い。
置いた者。
抜いた者。
その二つが同じとは限らない。
それが、聞き場という器の弱いところでもあり、強いところでもある。
「湊殿」
背後から八代の声がした。
振り向くと、濡れた地面を踏みすぎぬよう足を運びながら近づいてくる。肩には霧雨の粒が細かく残っていた。
「動きは?」
「三つの入口すべてで、紙は置かれています。ただ……」
湊は言葉を切った。
「城下の入口だけ、抜き方が違う」
「違う、とは」
「抜いた後の足取りが妙に整っている。急ぎすぎず、迷わず、立ち止まらず。『行き先が決まっている足』です」
八代の眉がわずかに動いた。
「揃っている、と?」
「はい」
湊は吐息を白くしながら続けた。
「役人の足に似ています。ただし、表の役人ではない。城下の下働き……帳付けか、普請方の小者。そういう者の歩幅です」
八代は聞き場の周囲を一瞥した。
「揃える側だな」
「ええ。入口を増やしたところで、集め直す者がいれば意味が薄れる」
「酒屋の主は?」
「今朝は、まだ姿を見せていません」
八代が小さく息を吐いた。
「試されているな」
「はい。こちらが、どこまで踏み込むかを」
◆
昼前、城下の聞き場に一人の男が現れた。
役人ではない。
僧でもない。
町人にしては、足取りが静かすぎる。
湊は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
男は板の前に立ち、懐から紙を一枚取り出した。
だが、置かない。
代わりに、紙を軽く折り、すぐ懐へ戻した。
(……見るだけ?)
男は板を指でなぞり、周囲を一度だけ見回した。
誰かの視線を探すように。あるいは、視線が無いことを確かめるように。
そして、何事もなかったかのように立ち去る。
追うべきか。
追えば、入口に触ることになる。
湊は動かなかった。
八代が低く言う。
「置かぬ声、か」
「置けば拾われると知っている。だから置かない。……入口が、もう知られている」
揃える側は、「置かれた声」を集める段階を過ぎた。
次は、「置かせない」か、「置く前に形を変える」。
湊の胸の奥に、冷たいものが沈む。
寺で見た均一な祈り。
城下で感じた揃いすぎた挨拶。
普請場で噂の形が整えられていく気配。
形が揃えば、声は死ぬ。
死ねば、扱いやすい。
「僧形の男が動くかもしれません」
「あるいは、役人の形で来る」
「ええ。だから……次は、ここではない」
湊は板を見つめ、わずかに首を振った。
「城下で置かせないなら、城下の外で置かせる。
人は、監視が薄いところで本音を落とします」
八代が目を細める。
「街道か」
「はい。街道の入口です」
◆
午後、城へ戻る途中。
風が変わった。
湿り気を含んだ空気が動き、雲の裂け目から一瞬だけ光が落ちる。短い。だが、確かにあった。地面の濡れが淡く照り、遠い山の輪郭がわずかに浮いた。
季節が、ほんの少し前へ進んだ。
政務の間で、兼続は静かに話を聞いていた。
湊の報告は簡潔に整えた。
「入口に立つ者を置きました。
しかし、揃える側はもう入口の存在に気づいています。置かせぬ手に出る兆しがあります」
「置かせぬか」
「はい。あるいは、置く前に形を変える。祈りに混ぜるようなやり方です」
兼続の指先が、机の上で一度だけ止まった。
「……寺を道具にする手は、さらに強くなるか」
「そうなれば、声は死にます。死んだ声は、燃えます。
だから――」
湊は言葉を選びながら続けた。
「城下の入口だけでは足りません。
街道に、もうひとつ。人が息を吐く場所に入口を置きたい」
兼続の目が細くなる。
「息を吐く場所」
「城下では声が揃います。監視があるからです。
街道なら、旅人も商いも人足も混じる。揃えにくい」
兼続はしばらく黙った。
沈黙は冷たくはない。だが、重い。
「八代」
「は」
「街道の入口を見よ。夜から動く。湊、そなたも行け」
湊は深く一礼した。
「承知しました」
兼続はふっと息を吐き、窓の外の空を一度だけ見た。
低い雲はまだ居座っている。だが、裂け目は消えていない。
「……揃える者は、入口を欲しがる」
兼続がぽつりと言う。
「入口を欲しがる者に、入口を渡すな。だが、塞ぐな。流れは止めると腐る」
湊は胸の奥で頷いた。
止めない。
渡さない。
流れだけを守る。
それが、この国の縫い目だ。
城を出ると、霧雨はもう止んでいた。
湿った冷気が頬を撫で、遠くの山から降りてくる風が、乾いた冬の匂いを連れてくる。
湊は八代と並び、街道へ向かって歩き出した。
夜になれば、空はさらに冷える。路面は凍り、足音がよく響く。
響く足音は、声よりも先に流れを告げる。
その流れが、誰の手に拾われるのか――
今夜、確かめねばならなかった。
日が落ちるにつれ、街道の空気は目に見えて変わっていった。
昼の湿り気は消え、冷えた風が地をなぞるように流れる。路肩の草は早くも白く縁取られ、吐く息ははっきりと形を持った。
湊と八代は街道沿いの小さな辻に立っていた。
城下から半刻ほど離れた場所。宿も寺もなく、旅人が立ち止まる理由の乏しい地点だ。
それでも――
ここには「抜け」がある。
道が緩やかに折れ、山影が一瞬だけ視界を遮る。人は無意識に歩みを緩め、息を吐く。考えを切り替える場所。
湊はその「間」に、無名の板を立てさせていた。
看板ではない。
名も目的も書かれていない。
ただ、古びた板が一本、地に打たれているだけだ。
空は低く、雲が薄く引き延ばされている。
昼よりも色が浅い。巻雲が混じり、明日は晴れるかもしれない、そう思わせる空だった。
「寒くなりますね」
湊が言うと、八代は短く頷いた。
「声は、寒い夜に出やすい」
「はい。昼は理が勝ちますが、夜は……」
「恐れと疲れが勝つ」
その言葉どおり、街道には次第に人影が増えてきた。
普請場帰りの人足。
城下へ戻る商人。
荷を担いだ百姓。
板の前を通り過ぎる者がほとんどだ。
だが、足を止める者もいる。
湊は数を数えなかった。
代わりに、止まる時間を見る。
一瞬だけ視線を向けて去る者。
二、三呼吸ぶん立ち止まり、首を振る者。
板の裏に回り、誰もいないか確かめる者。
そして――
置く者。
若い人足だった。
肩の筋が張り、顔に土がこびりついている。
男は周囲を見回し、板の根元にしゃがみ込む。
手は震えていない。だが、動きが速すぎた。
紙を一枚。
折らず、書き直さず、ただ押し込むように置く。
置いた瞬間、男は息を吐いた。
深く、長く。
(……置けた)
その表情は、安堵に近い。
男はすぐ立ち去った。
追わない。
ここで追えば、入口が「監視」になる。
しばらくして、別の人影が現れた。
先ほどの人足より年上。
足取りは軽い。手ぶら。
男は板の前で止まり、しゃがむことなく紙を抜いた。
迷いがない。
抜く手だ。
八代が低く囁く。
「同じ者ではないな」
「はい。置く者と、抜く者が違う」
抜いた男は紙を懐へ入れ、何事もなかったように歩き去った。
去る方向は――城下ではない。
「街道を上りました」
「揃える側が、城へ戻すとは限らない……」
湊は、胸の奥で嫌な手応えを覚えた。
城に戻さず、寺にも持ち込まない。
なら、どこへ?
◆
夜半。
気温はさらに下がり、路面が硬く鳴りはじめた。
湊と八代は、抜いた男の足取りを追っていた。
距離は取る。見失わぬ程度に。
男は街道を外れ、川沿いの細道へ入る。
月は雲に隠れ、光は乏しい。水の流れだけが、暗闇に音を刻んでいる。
やがて、小さな祠が見えた。
昼に見た場所ではない。
だが、形は似ている。
男は祠の前で立ち止まり、懐から紙を取り出した。
そこへ、もう一人――いや、二人、三人と影が集まる。
僧形の男。
城下で見た覚えがある。
そして、役人の下働きらしき者が二人。
湊は息を潜めた。
「……増えたな」
僧形の男が言う。
「入口が増えましたから」
下働きの一人が答える。
「だが、紙の中身は揃っていません」
僧形の男は、紙に目を通さずに言った。
「揃っていない声ほど、祈りに向く」
「祈り、ですか」
「形にしてしまえばいい。名を消し、責を消し、天へ預ける」
別の男が不安げに言う。
「ですが……城が」
「城は、声を恐れる。だが、祈りは恐れぬ」
僧形の男の声は、静かだった。
刃は見えない。だが、確かにある。
湊は、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
(……ここだ)
声が、形になる前に殺される場所。
入口を増やしても、ここへ集められるなら意味がない。
だが。
僧形の男は、ふと顔を上げた。
「……風が変わったな」
その瞬間、八代が一歩、前へ出た。
「変えたのは、俺たちだ」
湊も姿を現す。
雲が流れ、月が半分だけ姿を見せた。
冷たい光が祠と人影を照らす。
「やめてください」
湊は、静かに言った。
「ここは、祈りの場所ではない」
僧形の男は、驚いた様子を見せなかった。
「またあなたか」
「ええ。何度でも来ます」
僧形の男は微笑む。
「声は危険だ。揃えねば、人は迷う」
「揃えれば、考えなくて済む。そうですね」
「それが救いだ」
湊は首を振った。
「いいえ。救いではない。
考えないまま進むのは、楽ですが――国はそれで壊れます」
役人の下働きが苛立った声を出す。
「では、どうする! 放っておけば、一揆になるぞ!」
「なりません」
「何故言い切れる!」
湊は一歩、前に出た。
「声は、流れれば刃になりません。
溜めて、揃えて、押さえつけるから――刃になる」
僧形の男が、初めて眉を動かした。
「流れ、だと」
「はい。入口を一つにしない。
拾う者を一人にしない。
主を置かない」
「それでは、誰も責を負わぬ」
「だから、国が持つのです」
沈黙が落ちる。
川の音だけが、夜を満たす。
やがて、僧形の男は小さく息を吐いた。
「……覚えておきなさい」
「何を」
「流れは、いつか主を欲しがる」
「ええ」
湊は、目を逸らさなかった。
「だから、主を置かない努力を続けます」
僧形の男は、それ以上何も言わず、踵を返した。
下働きたちも、紙を残さぬよう回収し、去っていく。
◆
人影が消えた後、湊は祠の前に立った。
夜気は鋭く、頬が痛む。
だが、空は少しだけ澄んでいた。雲が流れ、星が一つ、見え始めている。
「……勝ったわけではありませんね」
湊が言う。
「いい」
八代が答える。
「刃は抜かれていない。だが、向きは変えた」
湊は川を見た。
水は冷たく、速い。だが、淀んでいない。
入口を増やす。
入口を守る。
それでも、完全ではない。
だが、完全でないからこそ、握られない。
「行きましょう」
湊は言った。
「次は、城下だけでなく、村にも入口を」
八代は静かに頷いた。
夜明けは近い。
東の空が、わずかに薄んでいる。
季節は、確実に進んでいた。
そして――
声もまた、進まねばならなかった。




