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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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31話:入口に立つ者

夜明け前の会津は、底冷えする寒さに包まれていた。

 雪はまだ降らない。だが、空気の芯が硬い。吐く息が白く、指先の感覚が鈍る。


 城下の屋根々々に霜が降り、板敷きの道は踏むたびに微かな音を立てた。

 秋と冬の境目。会津が最も静かになり、同時に最も荒れやすい季節だ。


 湊は城下の外れ、街道に面した一枚の板の前に立っていた。

 名も記されていない板。三十一話で置かれた、三つの入口の一つである。


 足元の土は、昨日よりも踏み荒らされていた。


 湊はしゃがみ込み、板の前後に残る足跡をじっと見つめる。


 深さ、向き、歩幅。

 雪は無いが、霜を踏み割った跡がはっきり残っている。


「……来た者は五人。だが、抜いた者は三人」


 小さく呟くと、背後から低い声が返った。


「数が合わぬな」


 八代だった。肩に外套をかけ、辺りを警戒するように立っている。


「はい。置いた者と、抜いた者が違います」


 湊は立ち上がり、街道の先を見た。

 朝靄の向こう、街道はゆるやかに城下へ続いている。


「置いた者は、村人。抜いた者は……別です」


「揃える側か」


「可能性が高い。ですが、まだ断定はできません」


 湊は板に目を戻した。


 板そのものに傷はない。

 だが、板の前に置かれた紙片の角が、僅かに折れていた。


「……読まれている」


 湊の声が低くなる。


「声を拾うだけでなく、形にされ始めています」


 八代は頷いた。


「左内殿の言った通りだな。入口の中に、形を入れに来た」


     ◆


 城へ戻る途中、風が強まった。

 北からの風だ。会津盆地を抜ける前兆の風。


 空には、低い鉛色の雲が垂れ込めている。

 巻雲ではない。動きが遅く、重たい雲だ。


「天気が崩れますね」


 湊が言うと、八代が短く答えた。


「荒れる前だ。人も、同じになる」


 城の奥、政務の間では、すでに直江兼続が待っていた。

 机の上には、三つの入口を示す簡素な図と、昨夜集まった報告が並んでいる。


「揃える側が動いたな」


 兼続は、報告を一読しただけでそう言った。


「はい。入口を使い、声を整えに来ています」


「想定より早い」


 兼続は筆を置き、湊をまっすぐ見た。


「湊。入口を増やした時点で、次に来るのは何だ」


「……入口の占拠です」


「違う」


 兼続の声は低く、しかし鋭かった。


「入口を“守る者”を置けぬ場所を狙ってくる」


 湊は息を呑んだ。


「守る者……」


「武士を立てれば、声は萎む。

 役人を置けば、揃えられる。

 寺を寄せれば、祈りに変えられる」


 兼続は、図の三つの入口に指を置いた。


「つまり、入口に立つ者そのものが、器になる」


 その言葉が、湊の胸に深く落ちた。


 守る仕掛けではない。

 守る人。


「湊。そなたに問う」


 兼続は、ゆっくりと言った。


「誰ならば、声を揃えず、殺さず、しかし刃にもせずに受け止められる」


 部屋の空気が張り詰める。


 湊は、すぐには答えなかった。


 村人では弱い。

 武士では強すぎる。

 僧では形に寄る。


 そして――


 ふと、湊の脳裏に浮かんだのは、

 名を名乗らず、拾う理由も明かさず、

 ただ「入口」を見ていた、あの男だった。


     ◆


 その頃、城下の酒屋では、暖簾が揺れていた。


 外は冷たい風。

 だが、店の奥には、火鉢の熱と、人の気配があった。


 酒屋の主は、誰もいない店内で、一枚の紙を指で弾いた。


 無名の板に置かれていたものと、同じ紙質。


「……入口が増えたか」


 男は小さく笑った。


「面白くなってきた」


 外に目をやる。

 鉛雲の下、街道の向こうに、城の影が見える。


「入口に立つのは、誰だ?」


 答えは、まだ出さない。


 拾うべき隙が、どこに生まれるか。

 それを見極めるまでは。


 会津の空は、重く、静かに鳴っていた。

兼続の問いは、ただの思案ではなかった。

 次の一手を誤れば、入口は握られる。握られれば、声は揃う。揃えば、聞き場は死ぬ。


 湊は喉の奥が乾くのを感じた。

 そして、言った。


「城の者でも、寺の者でもない者が必要です。ですが、ただの町人でもいけない」


「その“ただの町人ではない者”がいるのだろう」


 兼続は、見抜いたように微かに目を細めた。

 湊は一瞬だけ逡巡し、それでも正直に頷く。


「酒屋の主です。名は分かりません。ですが、あの男は……入口を見ています」


 八代が口を挟む。


「湊殿、その男は危うい。味方と決めてはならぬ」


「分かっています。ですが、あの男は“揃える側”でもありません。少なくとも今は」


 兼続は、机の上の図を指で軽く叩いた。


「第三の者か」


「はい。拾っているのは、声ではなく、隙です。入口の隙。人の隙。制度の隙」


 言い切った瞬間、湊は気づく。

 自分の口から出た言葉が、冷静すぎるほど整っていたことに。


 兼続が静かに言った。


「恐れているのだな」


「恐れています。入口を守るために、入口を“握る者”を置くことになるかもしれない。そうなれば、私が作ろうとしているものは、私自身が壊します」


 兼続は、そこで初めて目を伏せた。

 ほんの一瞬。だが、湊にはそれが重く見えた。


「ならば、握らぬ者を入口に立たせる」


 兼続が顔を上げる。


「湊。入口に立つ者は二つの資質が要る。

 ひとつ、声を恐れぬこと。

 ひとつ、声を欲しがらぬこと」


 湊は息を呑む。


「欲しがらぬ……」


「声を欲しがる者は、必ず揃える。揃えれば使えるからだ。

 だが、声を欲しがらぬ者は、流すことができる」


 兼続は、湊に巻物を一つ渡した。

 神指城の町割り図ではない。小さな、簡素な書付である。


「これは、城下の口利き衆の名だ。寺の繋がり、商いの繋がり、村の繋がり。

 どれも声の入口になり得る者たちだ」


 湊は受け取り、紙面を見た。

 そこには数名の名が並ぶ。だが、どれも“守る者”には見えなかった。


「湊。そなたは入口を守ろうとした。

 だが守るとは、閉めることでもある」


 兼続は言った。


「そなたの仕事は、閉めることではない。

 流すことだ。流すために、入口の形を変えよ」


 湊は、ふと気づく。

 兼続が一度も「武士を立てよ」と言っていないことに。


 それは、信頼でもある。

 同時に、覚悟を求める言葉でもあった。


     ◆


 その日の午後、風はさらに強まった。

 城下の往来では、布の端が煽られ、暖簾がいつもより荒く揺れている。乾いた土埃が舞い、目の奥が痛んだ。


 会津の冬は、雪だけではない。

 こうして風が荒れて、声が荒れる。


 湊は八代と連れ立って、城下の酒屋へ向かった。

 表向きは、普請の手配に必要な酒の買い付け。そういう名目だ。


 暖簾をくぐると、店内には炭の匂いと酒の匂いが混じっていた。

 喉がきゅっと締まる。寒さと熱が一度に来たような感覚。


 酒屋の主は、客に酒を注ぎながら湊を一瞥し、何事もない顔で言った。


「お侍様が酒を買いに来るとは。景気のいい話だね」


「買いに来たのは酒だけではありません」


 湊は、そう返した。

 八代が一歩後ろで、何も言わずに立つ。


 酒屋の主は笑わない。

 笑いの蓋を閉じたまま、湊の目を見る。


「じゃあ、何を買う」


「入口です」


 湊は言った。

 自分の言葉が、異様に真っ直ぐに響いた気がした。


 酒屋の主は、しばらく黙ってから、炭火の上に徳利を置いた。


「入口は買えねえよ。入口は、奪うもんだ」


「奪いません。増やします」


「増やしたな」


「増やしました。だから次が来ました」


 酒屋の主の口元が僅かに歪む。

 笑いではない。値踏みの形だ。


「次は、誰が入口に立つ」


「あなたです」


 湊は言い切った。


 店内の空気が少し変わる。

 客の笑い声が遠くなる。炭のはぜる音がやけに大きい。


 酒屋の主は、湊を見つめ返した。


「名を知りもしない相手に、立てって?」


「名を知らないから頼みます。名が立てば、声が揃います。あなたは名を立てない。だから、入口に立てる」


 酒屋の主が低く笑った。

 今度は、ほんの少しだけ、笑いに近い。


「頭がいいね。だが賢すぎる。賢すぎる奴は、仕組みで人を殺す」


 湊は、瞬きを一つして答えた。


「だから、止める者が必要です」


 八代が、そこで初めて声を出す。


「湊殿を止める役目は、俺が引き受けている」


「違う」


 酒屋の主は言った。


「止めるのは刀じゃねえ。入口に立つのは刀じゃねえ。

 入口に立つのは、いつも“暮らし”だ」


 湊は、言葉を飲み込む。

 暮らし。確かにそうだ。


 酒屋の主は徳利を手に取り、湊の前に置いた。

 飲めという意味ではない。距離を測るための置き方だった。


「何をさせる」


「三つの入口のうち、ひとつにあなたの手を入れてほしい。

 ただし、握らない。揃えない。

 来た声を、別の入口へ流す」


「流して、どこへ」


「聞き場へ。だが、ひとつに集めない。あなたの判断で散らす」


 酒屋の主が鼻で笑った。


「責は?」


「背負わせません」


「都合がいい」


「都合がいいからです。責を背負わせた瞬間、あなたは入口を握ります。握れば、あなたは“揃える側”になります」


 酒屋の主の目が、少しだけ鋭くなる。


「じゃあ俺は何を得る」


 湊は、ここで初めて息を吐いた。


「あなたが拾いたい“隙”が増えます。

 入口が流れれば、隙は生まれ続ける。

 あなたは入口を握らなくても、隙を拾える」


 酒屋の主は、しばらく黙った。

 炭火の音だけが間を埋める。


 やがて、ぽつりと言った。


「……怖いねえ。お侍様は怖い」


「私は怖いです」


「違う。怖いのは、お前の“正しさ”だ」


 酒屋の主は徳利を戻し、視線を少し外へ向けた。

 暖簾が風に煽られ、影が揺れている。


「入口に立てば、揃える側に狙われる。寺にも狙われる。役人にも狙われる。

 俺が“ただの町人じゃない”ってのを、表に出すことになる」


「表には出しません」


「出るんだよ。声ってのは、そういうもんだ。

 声は名を呼ぶ。名が出た瞬間、揃える側が来る」


 湊は、頷いた。


「だから、あなたの名は書かない。

 入口に立つのは“酒屋”としてです。

 役目はあなた個人ではなく、酒屋の“仕事”として残す」


 酒屋の主が、初めてはっきり笑った。

 だが、それは愉快さではない。


「仕事ねえ。便利な言い方だ」


「便利でなければ、制度は続きません」


 湊は答えた。


「続くことが、勝ちです。

 今日勝っても、明日握られたら負けです」


 酒屋の主は、湊を見つめ、そして頷いた。


「やってやる。だが条件がある」


「何でしょう」


「入口は三つだな。

 俺が触るのは一つだけだ。二つには触らねえ。

 触りすぎると、握るからな」


 湊の胸の奥が熱くなる。

 まるで、硬い冬の地面に、一本だけ湯が通ったように。


「ありがとうございます」


「礼はいらねえ。

 隙が増えるなら俺は動く。

 それだけだ」


 酒屋の主は、湊の前に紙片を一枚滑らせた。


「ここだ。街道の入口。

 抜いてるのは、役人の下の小者だ。名前は知らねえ。

 だが足が揃ってる。揃いすぎてる」


 湊が紙片を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 揃いすぎた足。揃いすぎた銭。揃いすぎた祈り。揃いすぎた声。


 すべてが一本の線で繋がっていく。


 八代が低く言う。


「湊殿。今夜、動くか」


「動きます」


 湊は答えた。

 そして酒屋の主を見た。


「入口に立つ者がいる。

 それだけで、声は少しだけ生きられます」


 酒屋の主は暖簾の向こうを見たまま、呟く。


「生きる声は、厄介だぞ。

 死んだ声のほうが、扱いやすい」


「扱いやすい声は、国を殺します」


 湊は言った。

 自分の声が、驚くほど静かだった。


 店を出ると、風がさらに強くなっていた。

 鉛雲が低く垂れ、空気が湿り始めている。雪の匂いがする。


 会津の冬が、近い。


 だが湊の胸には、冬に負けない熱が灯っていた。

 入口に立つ者が決まった。


 次は、揃える側の手が届く前に、流れを通す。


 湊と八代は、冷たい風の中を歩き出した。

 今夜、声の入口は試される。


 そして――

 入口を守るとは、閉めることではない。

 流すことだ。


 その真偽が、今夜明らかになる。

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