30話:入口を守る仕掛け
夜明け前の会津城下は、音が少なかった。
雪には至らぬが、冷え込んだ空気が地を押さえつけ、足音さえ吸い取ってしまう。
湊は外套を寄せ、聞き場の板塀の前に立っていた。
昨夜の騒ぎの痕跡は残っていない。板はそのまま、地面も荒れていない。ただ、人の気配だけが、わずかに違っていた。
(見られている)
そう思った瞬間、風が吹いた。
乾いた冷気が板の隙間を抜け、紙を一枚めくるような音を立てる。
――入口は、すでに押さえられかけている。
昨夜、酒屋の主が言った言葉が、頭の中で反芻される。
「一つだと握られる。二つだと競る。三つだと流れる」
湊は板塀から離れ、裏手へ回った。
八代が、少し距離を取ってついてくる。
「昨夜の動き、城には伝えてある」
「ありがとうございます」
「だが、動くのはこれからだな」
湊は頷いた。
聞き場は守れた。
だが、それは「一箇所を死守した」に過ぎない。
揃える側は退いたのではない。
測りに来ただけだ。
どこまで踏み込めば刃が出るか。
どこまでなら、声を揃えられるか。
(次は、入口そのものを押さえに来る)
湊は歩きながら、城の方角を見た。
空には薄い鉛雲が広がり、その上を、さらに高いところで巻雲が流れている。
低いところは重く、高いところは速い。
流れが、分かれている。
――ならば、こちらも分けるしかない。
◆
城に戻ると、すぐに政務の間へ通された。
兼続はすでに席にあり、脇には左内が控えている。
「聞き場は無事か」
「はい。ただし……」
湊は一礼し、言葉を選びながら続けた。
「守れたのは“場所”だけです。
流れは、まだ一本しかありません」
兼続の視線が、わずかに鋭くなる。
「つまり」
「入口が一つでは、いずれ握られます」
左内が、帳面を閉じた。
「酒屋の主が言ったな」
「はい」
湊は、昨夜のやり取りを簡潔に説明した。
名を出さぬ理由、入口を押さえるという考え、そして「数」の話。
兼続は黙って聞き、やがて言った。
「増やせるか」
「増やします」
即答だった。
「一つは聞き場。
もう一つは、町。
さらにもう一つは……城の外です」
左内が眉を上げる。
「外?」
「村です。正確には、村へ戻る途中に置きます」
湊は、神指城の町割り図を広げた。
聞き場の位置、寺、普請場、街道。
その間に、細い空白がある。
「ここです。
人が立ち止まらず、だが必ず通る場所」
「市ではないな」
「はい。
集めません。
通すだけです」
兼続が、ゆっくりと頷いた。
「名は」
「付けません」
即座に返した。
「名を付ければ、声は名に寄ります。
ここは、寄せず、流します」
左内が小さく息を吐いた。
「危ういな」
「承知しています。
ですが、危ういからこそ、握れません」
しばし沈黙が落ちた。
外から、風の音が障子を叩く。
兼続が言った。
「よい。
だが条件がある」
「はい」
「城は関与せぬ。
守るが、触れぬ」
湊は深く頭を下げた。
「それで十分です」
兼続の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「そなたは、城を盾にせずに戦おうとしているな」
「城が前に出れば、声は揃います」
「違いない」
◆
城を出る頃には、日が完全に昇っていた。
冷えは残るが、空気は少し緩んでいる。
湊は城下を歩きながら、視線を巡らせた。
人々はいつも通りに動いている。
だが、昨夜までとは違う。
誰もが、どこを見るべきか分からない目をしている。
(揃える側は、次の形を探している)
寺か。
役所か。
それとも、別の何かか。
八代が、低く言った。
「次は、刃が出るかもしれん」
「はい」
「怖れは」
「あります」
湊は、はっきりと答えた。
「ですが、揃えられた声より、
流れない声のほうが、よほど怖い」
八代は何も言わず、前を向いた。
そのとき、城下の向こう、街道の方から人影が近づいてくるのが見えた。
荷を背負った者。
立ち止まらず、だが足を緩める者。
――通る声。
湊は、心の中で線を引いた。
ここからだ。
聞き場ではない。
市でもない。
名を持たず、責を持たず、
ただ、流れるための入口。
その最初の一歩を、
今日、踏み出す。
空を見上げると、鉛雲の下で、巻雲が速く流れていた。
重いものと、軽いもの。
同じ空にありながら、交わらない。
(流れは、分けてこそ生きる)
湊は歩みを止めず、街道へ向かった。
――三つ目の入口が、今、開かれようとしていた。
街道へ出ると、風が変わった。
城下の風は石と板にぶつかって角を持つが、ここでは土と枯れ草を撫でて、ただ冷たいだけになる。
湿り気のない冷えが、鼻の奥を刺す。
息を吐けば白く、吸えば胸の奥が痛む。会津の冬は、雪より先に空気で来る。
湊は外套の襟を直し、道の端に立った。
人は途切れない。
馬を引く者、荷を背負う者、空の桶を揺らす女、旅装の商人。
皆、止まらずに通っていく。
――ここは、集めぬ場所にする。
通すだけの入口。
湊は、昨日から考えていた板を、八代と共に運ばせた。
板は新しいが、白すぎぬよう一度水を掛けて汚し、文字は書かない。
ただ、板の中央に一本、細い溝を掘ってある。
溝は、紙を挟めるほどの幅。
文を置き、抜き、また置くための口だ。
八代が板を立て、足元を踏み固めた。
「名も札も無い。これで人は寄るのか」
「寄せません」
湊は首を振る。
「寄せると揃います。
ここは“通り道”です」
「通り道に、わざわざ板など」
「板は、声の代わりです。
声を出せぬ者に、声の置き場所を作る」
湊は板の溝を指でなぞった。
「この溝に、紙を置きます。
書いた者が置き、読んだ者が抜く。
残さぬ。責も残らぬ。だが、流れだけは残る」
八代が低く息を吐く。
「危うい仕掛けだ。噂の火が入れば燃える」
「燃える前に、抜きます」
「誰が抜く」
「私が」
湊は、言い切った。
それは責を背負うという意味ではない。
揃える側の土俵に乗らぬための、最小の“手”だ。
「湊殿、そこは矛盾だ」
「ええ。ですので“抜く者”を一人にしません」
湊はもう一枚、板を出した。
同じ無名の板。
「ここだけではなく、城下にも一つ。
さらに、普請場の外れにも一つ。
三つです」
八代が、目を細める。
「競わせるのか」
「競わせるのではありません。
流れを分けます」
湊は、板を立てながら説明した。
「城下の板は、町人の声が置かれる。
普請場の板は、人足の声が置かれる。
ここは……村へ戻る者の声が置かれる」
八代が言う。
「ならば、揃える側は三つを押さえる」
「押さえに来たら、そこで分かります」
「何が」
「入口を押さえた者が、声を使う」
昨夜、酒屋の主が言った言葉。
それを湊は、今、自分の言葉として言い直した。
「入口を押さえようとする者が、揃える側です。
見えなかった敵が、入口で姿を現す」
八代はしばらく黙り、やがて頷いた。
「……お前は、釣る気だな」
「釣りではありません。
流れを守るための“観測”です」
湊は板の前に立ち、通り過ぎる人々の顔を見た。
誰も板に気づかない。
それでいい。
気づかれぬうちは、揃えられない。
声は揃う前に死ぬ。ならば、声が死ぬ前に、声の形を外へ出す。
◆
最初に板の前で足を緩めたのは、旅装の男だった。
手には小さな包み。薄い汗をかいている。寒さではない、迷いの汗だ。
男は板を見て、溝を見て、周囲を見た。
そして何もせず、通り過ぎた。
湊は追わない。
次に、荷を背負った女が立ち止まった。
女は溝を覗き込み、唇を噛んだ。
やはり何もせず去った。
湊は、焦らなかった。
(声は、まず置き場所を疑う)
置けば拾われる。
拾われれば知られる。
知られれば責が生まれる。
だから、人は最初の一歩を踏めない。
湊は板の前に、何気ない顔で立ち続けた。
見張っているようには見せない。
ただ、通りを眺める者として。
日が高くなると、風が少しだけ緩んだ。
しかし冷えは抜けない。足元の土が乾き、埃が立つ。冬の会津は、雪の前に土が硬くなる。
そのとき、若い人足が一人、道の端で立ちすくんだ。
普請場の者だ。手の皮が厚い。指先が裂けている。
湊は、その人足が板の前で呼吸を止めるのを見た。
人足は懐から紙を出した。
筆ではなく、炭で書いたような粗い字。
溝に差し込もうとして、止まる。
周囲を見る。
誰も見ていないようで、見ているような空気がある。
湊は、一歩だけ離れた。
視線も外した。
人足は歯を食いしばり、紙を溝に差し込んだ。
そして、走るように去っていった。
湊はしばらく動かなかった。
その紙は、声だ。
人の体温が残っている。
八代が、そっと近づく。
「読まぬのか」
「今は読みません」
「なぜ」
「私が読めば、城の声になります」
湊は首を振った。
「ここは通す場所。
拾う者は、別にいる」
八代が低く言う。
「拾う者が、揃える側であったら」
「それも観測になります」
湊は板を見つめた。
紙は風に揺れ、溝の中で小さく震えている。
――入口が生きた。
湊は、胸の奥で静かに線を引いた。
◆
夕刻。
城下へ戻る道すがら、湊は別の板の様子も見た。
城下の板は、路地の口に立ててある。
人が集まりすぎぬ場所。だが通りは多い。
ここにも、紙が一枚挟まっていた。
湊は読まない。
代わりに、板の周囲の足跡を見る。
足跡の向き。深さ。乱れ。
(読まずに、流れを読む)
村で水を見たときと同じだ。
水面を見ず、岸の泥を見る。
誰が来て、どこへ去ったか。
足跡は二つの方向に伸びていた。
来て、置いて、戻った者。
そして、来て、抜いて、去った者。
抜いた者の足は、わずかに踵が沈む。
荷を持っている。
ただの紙ではない。紙の“意味”を持ち帰る重さだ。
八代が言った。
「拾う者がいる。早いな」
「早いほど、いい」
「なぜだ」
「早く拾われる声は、燃えにくい。
燃えるのは、置かれたままの声です」
湊は歩きながら、冷えた指を握った。
聞き場は、声を受け止める場所。
無名の板は、声を流す場所。
受け止める器と、流す入口。
両方があって初めて、声は腐らない。
◆
その夜、湊は再び政務の間へ呼ばれた。
兼続と左内が待っている。灯火の匂いが濃い。蝋の甘さに、紙の乾いた匂いが混じる。
「三つ、立てたか」
「はい」
「名は付けたか」
「付けませんでした」
兼続は、短く頷いた。
「で、流れはどうだ」
湊は、板の周囲の足跡の話をした。
紙が置かれたこと。
抜かれたこと。
置いた者と抜いた者が違うこと。
左内が、面白そうに笑った。
「読まずに流れを読んだか。
帳簿を洗うより厄介だぞ」
「承知しています」
「厄介なものほど、入口が握られる」
左内の言葉に、湊は静かに返した。
「だから三つです」
兼続が言う。
「では次だ。
拾う者を、どう見る」
湊は答えた。
「拾う者が、どこへ向かうかで見ます」
「場所か」
「はい。
寺へ向かうなら、揃える側。
役所へ向かうなら、揃える側。
だが……酒屋へ向かうなら」
湊は言葉を止めた。
あの男は、敵でも味方でもない。
入口を押さえる第三の存在。
隙を拾う者。
兼続が、淡く笑う。
「まだ名が無い者の話だな」
「はい。正体は分かりません。
何を拾っているのかも」
湊は、はっきりと言った。
「ただの町人ではありません」
左内が、帳面を一つ差し出した。
「銭の口も追え。
普請場の帳だ。揃った銭の“出口”を探せ」
湊は受け取った。紙の重みが、手に残る。
兼続が言う。
「声の入口を増やした。
次は、銭の出口を押さえる」
湊は一礼した。
「はい」
兼続は、さらに続けた。
「そしてもう一つ。
寺を敵にするな。
だが、寺に呑まれるな」
「……承知しています」
兼続の声は、穏やかだった。
しかしその穏やかさは、刃を隠す布のようだった。
「湊。
そなたの線は、国を救う。
だが同じ線で、国は斬れる」
八代の言葉と同じだ。
止めるという約束。
刃になる前に声を戻すという仕事。
湊は、胸の奥を締め付けられるのを感じた。
「私の線は……切り分ける線です。
斬る線にしません」
左内が笑った。
「言い切るのは簡単だ。
だがな、湊。
揃える側は、刃を抜かずに斬る」
湊は顔を上げた。
「どうやって」
「名だ。責だ。祈りだ。
形の中で斬る」
左内の目が光る。
「お前が入口を増やした。
ならあいつらは、入口の中に“形”を入れるぞ。
紙の言葉を揃えに来る」
湊は、息を飲んだ。
――入口の中に形を入れる。
つまり、無名の板そのものが利用される。
兼続が、静かに言った。
「だから、先に手を打て」
「先に……」
「入口は増やした。
次は、入口を守る仕掛けを作れ」
湊は、帳面を抱えたまま、深く頭を下げた。
「承りました」
◆
城を出ると、夜気がさらに冷たかった。
雲は低く、星は見えない。
鉛雲が空を塞ぎ、城下の灯りが滲む。
湊は、歩きながら考えた。
入口は増やした。
だが、入口を守る仕掛けが無い。
(守るとは、押さえることではない)
押さえれば揃う。
揃えば声が死ぬ。
ならば――守るとは、揃えられない形にすることだ。
湊は、聞き場の板塀の前で足を止めた。
暗闇の中、板だけが白く浮かぶ。
声は集まる。
いずれ主を呼ぶ。
だが、主が一人であれば握られる。
主が形であれば揃えられる。
(流れそのものに主を持たせる)
自分が言った言葉が、今になって重く響いた。
湊は、空を見上げた。
鉛雲の切れ間に、ほんの薄く、鱗雲が見えた。
模様は小さく、まだ形にならない。
――声の道も、まだ形にならない。
だが、線は引いた。
湊は歩き出した。
まず、普請場の帳を洗う。
次に、入口へ“形”を入れに来る者を観測する。
そして、入口を守る仕掛けを作る。
冬の冷えは、骨の奥まで届く。
だが、湊の胸の奥には、別の熱があった。
声を殺さぬための熱。
国を揺らす前に、声を通すための熱。
その熱だけは、鉛雲にも消せなかった。




