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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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29話:入口を増やす夜

聞き場に潮が満ちるような気配が出てきたのは、三日目の夕刻だった。

 人が増えたからではない。声の“種類”が変わったからだ。


 最初は消えた人足の話。次に揃いすぎた銭の話。

 そして今夜――誰かが、意図して“揃える側の言葉”を流し込みはじめている。


 湊は板の前に立ち、集まった者たちの視線の向きを確かめた。

 寺へ向ける目。役人を避ける目。城を伺う目。

 それらがひとつの方向へ揃いかけた瞬間、声は刃になる。


「今日は、名を聞かぬ」


 湊がそう言うと、最前にいた中年の町人が眉をひそめた。


「名を聞かねえって、そりゃ……」

「名が先に立つと、声が名に合わせて揃う。そうすると、誰かの都合で刃になる」


 町人は口を開きかけ、閉じた。

 その“閉じる”動きに、湊は寺の門前で見た揃いを思い出す。


 八代が一歩、湊の隣へ出た。背を半分だけ、群衆へ向ける。

 剣は抜かない。だが、抜かせもしない――そういう立ち方だった。


「湊殿」

「うん」


 短い合図。

 湊は板の脇に置いた小さな帳面を開き、墨を含ませた筆を置いた。

 ここは訴えを裁く場ではない。記す場だ。

 記して、流れの癖を見つける場だ。


「今夜は、二つだけ聞く」

「一つ。消えた者が、どこで最後に見えたか」

「二つ。銭が“同じ数だけ”減ったという話は、いつから出たか」


 人の輪が、わずかにざわめいた。

 聞きたいのは怨みの名だ。顔だ。指さす先だ。

 それを今夜は抑える。抑えるのではなく、別の道に流す。


 沈黙を破ったのは、声の細い若い人足だった。顔色が悪い。唇が乾いている。


「……最後に見たのは、川沿いです」

「川沿い?」

「普請場の裏を抜けたとこに、祈りをする場所があって……」


 輪のどこかで、誰かが「やめとけ」と囁いた。

 その囁きが、また別の囁きを呼び、声が形になる前に潰れかける。


 湊はすぐに言った。


「止めなくていい。ここは止める場所じゃない」

「続けてください。誰が、何を言ったかじゃなくていい。何が起きたかを」


 若い人足は喉を鳴らし、視線を下げた。

 その“下げ方”が、寺の僧の礼と似ていた。揃えている。揃えさせられている。


「……祈れって。祈れば、名前は……消えるって」


 その一言で、空気が固くなった。

 祈り。寺。声が死ぬ場所。

 それらが一本の細い糸で結ばれ、今夜の聞き場に引き寄せられている。


 湊は筆先を紙に落とさず、宙で止めた。

 書けば、形になる。形になれば、誰かが拾う。

 拾われた瞬間、声は“使えるもの”になる。


 だから、まずは器の中でほどく。


「祈りを、誰が教えたんです」

「……僧形の男です。寺の人かは、分からねえ。でも、寺の言葉の形をしてた」


 八代の肩が、ほんの少しだけ沈んだ。

 湊にはそれが“怒り”ではなく、“嫌な確信”に見えた。


「二つ目を聞きます」

「銭が同じ数だけ減りはじめたのは、いつからです」


 今度は、年嵩の人足が口を開いた。腕が太い。土と汗の匂いが近い。


「……先月の半ばからだ」

「急に?」

「急じゃねえ。最初は少しずつだった。だが、途中から“揃った”」


 揃えた。

 湊の胸の奥で、何かが冷たく鳴った。

 帳簿の数字。寺の祈り。町の挨拶。

 すべて同じ音色だ。


「誰が、揃えたと言った?」

 誰が、とは聞かない。名を呼べば刃が走る。

 湊は言葉を替えた。


「揃うようになった時、何が変わりました」

「……帳付けが変わった」

「帳付け?」

「前は現場の帳面だった。今は、役人の帳面だ。こっちの帳面は、綺麗だ。綺麗すぎる」


 綺麗すぎる――作りすぎた帳簿。

 湊は、左内の冷えた目を思い出す。

 数字が整いすぎると、人の影が消える。影が消えると、誰かが笑う。


 そのとき、聞き場の外で、草を踏む音が揃って鳴った。

 四つ、五つ。間を置かない。

 八代の視線が、すぐにそちらへ流れた。


 戸口に現れたのは、僧形の男がひとり。

 その後ろに、町役人が三人。

 顔を揃え、口を揃え、歩幅まで揃えている。


 聞き場の空気が、音もなく引き締まった。

 人足たちの背が、反射で丸くなる。

 声が、引っ込む。


 湊は動かなかった。

 動けば、相手の土俵になる。

 ここは“空白”から作った器だ。空白は、誰のものでもない。


 僧形の男が、静かに言う。


「ここは、何です」

「聞き場です」

「名を記さぬ場所、と聞きました」

「はい」

「秩序を乱します」


 町役人のひとりが、一歩前へ出た。

 手には紙束。墨の匂いが強い。

 書くための紙ではない。縛るための紙だ。


「城の許しがあるなら、役目を明かしなさい」

「役目は明かしています。声を聞き、流れを記す」

「ならば責を負え」

「追えない責は、背負わせません」


 役人の眉がぴくりと動いた。

 その動きだけが、この場で唯一“揃っていない”ように見えた。


 僧形の男は、湊の背後――板に書かれた何もない空白を見た。

 それから、ふっと息を吐いた。


「空白は、人を呼びます」

「ええ」

「だが空白は、主も呼びます」


 その言い方が、寺で聞いた“救い”の語り口と同じ形をしていた。

 柔らかく、正しく、逃げ道のない声。


 湊は、ゆっくりと返す。


「主が要るなら、寺に行くべきです。ここは違う」

「違わない」

 僧形の男の声が、ほんの一段だけ低くなった。

「声は主を求めます。主なき声は、刃になる」


 刃にするのは誰だ。

 湊はその言葉を飲み込み、代わりに問う。


「あなた方は、何を恐れているんです」

「恐れ?」

「ここで声が揃わずに流れることを。揃えられない声が、増えることを」


 町役人が口を挟む。


「勝手を言うな。普請は進んでいる。銭も人も足りている」

「足りているなら、消えた人足はどこへ行きました」


 役人の口が、一瞬だけ止まった。

 止まって、すぐに動き出す。


「誰が消えたと言った。名を――」

「名は聞きません」

 湊は、先に遮った。

「代わりに聞きます。祈りを教えたのは誰です」


 僧形の男の目が、笑わずに細くなった。

 八代の指が、鞘の口に触れた。抜かない。だが、抜ける角度を作る。


 僧形の男は、急に声を柔らかくした。


「祈りは、悪いものではない」

「祈りは悪くない。悪いのは、祈りに混ぜて声を殺すことです」


 場が、静まり返る。

 その静けさの中で、若い人足が小さく息を吸った。

 さっきまで下がっていた視線が、ほんの少し上がる。


 湊は、その“上がり方”を見た。

 揃えられた礼の角度ではない。

 自分の角度だ。


「ここは、声を殺す場所じゃない」

「刃になる前の声を、もう一度言ってください。誰にでも聞こえるように」


 若い人足が、唇を震わせた。

 震えたまま、声を出した。


「……祈れって言われたんだ」

「祈れば、名前は消えるって」

「消えれば、怒られねえって」

「……怖かったんだ。怒られるのが」


 その声は、刃ではなかった。

 恐れの形だった。

 村で見た恐れと同じ、逃げ場のない恐れ。


 僧形の男が、ゆっくりと息を吐く。

 笑わない。怒らない。

 ただ、淡々と言った。


「恐れは、秩序を守ります」

「恐れは、声を殺します」

 湊は返した。

「声が死ねば、銭の影が濃くなる。濃くなれば、人が消える」


 町役人が、紙束をぎゅっと握りしめた。

 紙が鳴る。乾いた音。

 それは、鎖の音に似ていた。


「湊殿」

 八代が、湊の耳にだけ届く声で言う。

「今夜は、これ以上は追うな。ここで“刃”を抜かせるな」


 湊は頷いた。

 勝つ場ではない。折る場でもない。

 “流れ”を守る場だ。


「今夜は、ここまでにします」

 湊は板の前に戻り、筆を置いたまま言った。

「皆さん、帰ってください。名も責も、今は置いていっていい」


 人足たちが、戸口のほうへ動き出す。

 その動きはまだ怯えを含むが、さっきより揃っていない。

 揃っていない、というだけで――流れは生きる。


 僧形の男は、去り際に一言だけ残した。


「空白は、必ず埋まります」

「埋めるのは、主ではなく流れです」


 湊がそう返すと、男は初めて、ほんのわずかに口元を動かした。

 笑みではない。

 “形”だけの動きだった。


 戸が閉まり、聞き場に残ったのは、墨の匂いと、浅い息だけ。

 八代が一歩引き、湊の横顔を確かめるように見る。


「湊殿、今のは……」

「刃が触れた」

 湊は、声を落として言った。

「でも、抜かせなかった。まだ――器は割れていない」


 外に出ると、会津の空には薄い鉛雲が広がっていた。

 音の響きを吸い込んでしまうような静けさ。

 その下で、湊は自分の掌が冷えているのに気づいた。


 怖かったのは、人足ではない。

 揃える者でもない。

 “揃うことに慣れてしまう町”そのものだ。


 湊は息を吐き、八代に言った。


「川沿いへ行きます」

「今からか」

「今夜のうちに。祈りの場所を見ておきたい」

「……よし」


 八代の返事は短かった。

 だが、その短さは、迷いの無さでもあった。


 聞き場の灯が背後で小さく揺れる。

 空白が呼んだのは声だけではない。

 今夜、ついに“揃える側”が器の縁へ手をかけた。


 湊は、冷えた廊下ではなく、冷えた夜道へ歩み出す。

 声の普請は、いよいよ“現場”へ降りる。

夜道は冷え、足音だけが妙に大きく聞こえた。

 城下を抜けるにつれ、人の気配は薄くなる。だが静けさの中に、意図のある沈黙が混じっていた。


 鉛雲が空を低く覆い、月の形を隠している。

 光がない夜は、声の輪郭をぼかす。ぼかされた声は、拾われやすい。


「湊殿」

 八代が低く呼んだ。

「足を揃えるな。揃えると、追われた時に読まれる」


「……分かりました」


 湊は歩幅を変えた。二歩、三歩、間を置き、また寄せる。

 普請場に忍び込んだ夜の癖が、身体に残っている。


 川沿いへ向かう道は、町の端をかすめて伸びていた。

 道の脇には、冬枯れた草が立ち、霜が白い刃のように光る。

 その刃を踏まぬように歩くと、逆に足元が慎重になりすぎる。慎重さは、誰かに見られる。


 湊は、わざと小石を踏んだ。乾いた音が夜に散る。

 音が散れば、こちらの輪郭も散る。


 川の気配が近づく。湿った冷気が頬を撫でた。

 水面は闇に溶け、流れだけが薄い銀の線になる。


「祈りの場所は、川のどこだ」

 八代が言う。


「人足が言っていたのは、普請場の裏を抜けた先……」

「裏、か。表の目が届かぬ場所に、祈りを置く。理屈は分かる」


 湊は頷き、息を吐いた。吐いた息が白い。

 声も、こうして白く見えればよいのに、と一瞬だけ思う。


 川沿いの小径を折れたところで、湊は足を止めた。

 匂いが変わった。線香。濡れた木。古い布。


 闇の中に、ほのかな灯が一つ。

 火ではない。蝋燭のように揺れている。


「……あそこです」


 八代が先に半歩出た。

 音を殺し、視線だけで湊に合図する。湊は頷き、同じ高さで身を低くした。


 灯のそばには小さな祠があった。寺の立派なものではない。

 誰かが置いた石。縄。紙垂の代わりの白い布。

 祈りの形だけを寄せ集めたような、粗末な器。


 その前に、人影が二つ。

 一つは人足のように見える。もう一つは――僧衣に似たものをまとっているが、寺の僧の気配ではない。


 湊の喉が、ひゅっと鳴った。

 あの“僧形”の男だ。


 男は祠に向かって言葉を落としていた。大声ではない。

 だが、言葉の形が正しい。正しすぎる。耳に残るように作られている。


「名は、口にするな」

「口にすれば、刃になる」

「刃になれば、己も斬られる」

「祈れ。揃えよ。揃えば救われる」


 祈りながら、揃えよと言う。

 祈りの器に、統制の口をつける。

 湊の背筋に、冷たいものが流れた。


 人足が小さく頷いた。

 頷き方まで揃っている。寺の門前と同じ角度だ。


 八代の指が、鞘の口に触れた。

 抜くな、という合図ではない。抜ける、という準備だ。


 その瞬間、祠の脇で枝が折れた。

 湊ではない。八代でもない。


 僧形の男が、ぴたりと動きを止めた。

 流れが凍るような静止。次に来るのは刃だ。


「……誰だ」


 男の声が低くなる。

 祈りの形が崩れ、地金が出る。


 闇の向こうから、笑い声が一つだけ落ちた。

 乾いている。軽い。だが軽すぎて、逆に重い。


「怖ぇ顔するなよ。祈りが歪む」


 声の主は姿を見せない。

 ただ、灯の届かぬ場所で、気配だけを揺らす。


 湊は、その声を知っていた。

 聞き場で何度も、必要なところだけを撫でて消える声。


「……酒屋の主」


 八代が小さく言った。

 その呼び方に、湊はわずかに救われる。名ではなく、役目の呼び方だ。


 僧形の男が、闇を睨んだ。


「ここはお前の遊び場ではない」

「遊びじゃねえよ」

 声は笑いを含ませたまま続ける。

「拾い物をしに来ただけだ。ほら、今夜も落ちてる」


 拾い物。

 湊の頭に、聞き場での違和感が繋がる。

 あの男は、声を拾う。だが拾うのは声だけではない。声の“行き先”を拾っている。


 僧形の男は、祠の前の人足に向き直った。


「帰れ。今夜の祈りは終いだ」

「……え?」

 人足の声が揃っていない。初めて、角度が崩れた。


「帰れと言っている」

 僧形の男の声は、また正しくなった。

「揃っていれば救われる。揃っていれば、名は消える」


 湊は、その言葉の危うさを噛んだ。

 揃っていれば救われる。揃っていれば名は消える。

 名が消えれば責も消える。責が消えれば、消える人も増える。


 ――器の外へ流れない声は、器の中で腐る。


 湊は、足を一歩だけ前へ出しかけた。

 だが八代が、袖をつまんで止めた。


「今は出るな」

「……でも」

「今出れば、相手の望みどおりだ。刃を抜かされる」


 その言葉に、湊は歯を食いしばった。

 正面からの言葉は、今夜は違う。

 ここは声の現場ではない。声を“殺す仕組み”の現場だ。


 湊は代わりに、目で数を取った。

 祠。灯。僧形の男。人足。闇の声。

 そして川の流れ――祈りの形が置かれる場所は、必ず水の近くにある。流れに混ぜるためだ。


 僧形の男が、人足の肩を軽く叩いた。

 叩き方が優しい。優しさの形をしている。

 だから、拒みにくい。


「戻れ。明日、また揃えればいい」


 人足が、ふらりと立ち上がった。

 その足取りは、酔いにも似ている。

 祈りに酔う。揃いに酔う。責から逃げるために。


 闇の声が、ぽつりと言った。


「揃えた声は、楽だもんな」


 嘲りではない。事実のような言い方。

 その淡さが、かえって胸に刺さる。


 僧形の男は、闇へ向けて言った。


「お前が拾うのは、声か。銭か」

「どっちもだよ」

 笑い声がまた乾く。

「声が揃えば銭が揃う。銭が揃えば顔が揃う。顔が揃えば――」


「黙れ」

 僧形の男の声が、刃のように尖った。

 祈りの形が崩れた瞬間だった。


 八代が、湊を背に庇う。

 その動きも揃っていない。生きた動きだ。


 僧形の男が、ふっと息を整えた。

 整え方が、また寺の僧に戻る。

 恐ろしいのは、こうして形を切り替えられることだ。


「……今夜は、終いだ」

 男は祠の灯を指でつまむようにして消した。

 闇が一段深くなる。声だけが残る。


 そして僧形の男は、川下へ歩き出した。

 人足も、遅れてついていく。


 湊は追いたかった。だが追えば、足取りが揃う。

 揃えば読まれる。読まれれば、聞き場へ刃が届く。


 湊は、八代に小さく言った。


「……今夜、見たものは記します」

「名は書くな」

「書きません。形を書きます。祈りの形。揃えの形。声が死ぬ手順」


 八代が、短く頷いた。


 闇の声が、ふと近くなった。

 湊が気づく前に、背後の木陰に人の輪郭が浮かぶ。姿は見せない。だが距離だけは測らせる。そういうやり方。


「書くのはいい」

 酒屋の主の声だ。

「だが書いた紙は、風で飛ぶ。飛んだ紙を拾うのは、俺だけじゃねえ」


「……あなたは、何を拾っているんです」


 湊が問うと、声は少しだけ間を置いた。

 その間は、答えを探す間ではない。相手の器を測る間だ。


「拾ってるのは、隙だよ」

「隙?」

「揃える側にも、揃えられる側にも隙がある」

「隙は、流れの入口になる」

「入口を押さえた奴が、声を使う」


 湊の胸に、嫌な理解が落ちた。

 聞き場は入口だ。声の入口。

 だから狙われる。主を置け、と言われる。


「……なら、入口を増やせばいい」


 湊が呟くと、闇の声が小さく笑った。


「そういうことだ」

「一つだと握られる。二つだと競る。三つだと流れる」

「……だが、増やした入口の先に誰がいるかは、考えろよ」


 その声はそれだけ言って、気配ごと薄くなった。

 まるで最初からいなかったように。


 湊は川を見た。

 流れは何も知らない顔で、闇を運び続けている。

 だが人の仕組みは、流れを利用する。声も銭も、人も。


 八代が、湊の横で言った。


「湊殿。今夜は勝ちではない」

「……分かっています」

「だが、負けでもない」

「器が割れる前に、刃が触れたことが分かった」


 湊は頷いた。

 寒さで指が動かない。だが頭の中は熱い。


 聞き場は、声を救う器だ。

 だが器は、使い方次第で刃を磨く砥石にもなる。


 湊は息を吐き、八代に言った。


「明日、兼続様に申し上げます」

「何を」

「入口を増やします。聞き場を一つの板で終わらせない」

「声が揃えられないように、流れを分けます」


 八代の目が、ほんの少しだけ細くなった。

 喜びではない。覚悟の形だ。


「……それは、戦だな」

「はい」

 湊はゆっくりと言った。

「剣じゃない戦です。でも、刃は来る」


 鉛雲の下、川の音だけが確かなものとして残っていた。

 湊はその音を、耳の奥へ刻む。

 声の普請は、いま――水の冷たさまで含めて、現実になった。

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