28話: 揃えぬ器、名なき責
夜が明ける頃、会津の空は薄い鉛色を引きずったままだった。
冷えた風が城下の屋根を撫で、昨夜の川辺で聞いた声を、まるで最初から無かったもののように散らしていく。
湊は眠れず、畳の上で膝を抱えていた。
普請場の闇、寺へ混ぜられる祈り、そして川辺でほどけた「怖かったんだ」という一言。
どれも同じ糸で縫われているのに、縫い目が見えない。
――揃える者は、声も銭も、同じ手つきで揃えている。
障子の向こうで足音が止まった。
八代の声が低く響く。
「起きているか。兼続様がお呼びだ」
湊は即座に立ち上がった。
呼ばれる理由は分かっている。昨夜の件が、城へ届いていないはずがない。
廊下へ出ると、空気が刺す。
息を吐けば白く曇り、胸の内まで冷えていく気がした。
だが湊の内側は、むしろ熱い。恐れと、焦りと、決意が混ざった熱だった。
八代は歩きながら、わずかに声を落とした。
「昨夜、僧形の男が引いたのは、剣を恐れたからではない」
「……計算、ですか」
「うむ。あの手合いは、血を流さずに勝つ。
血が流れれば上が動く。上が動けば“揃え”が崩れる。そう読んだだけだ」
湊は唇を噛んだ。
血を流さずに勝つ。
それは左内が言った、「銭が戦の始まりと終わりを決める」という言葉と同じ匂いがする。
政務の間に通されると、すでに兼続と左内がいた。
机の上には、いくつもの帳面と、神指城の町割り図を写した紙が広げられている。
空白の区画――聞き場を置いた場所――だけが、白く目に刺さった。
兼続は湊を見て、短く言った。
「昨夜のこと、話せ」
湊は膝をつき、一礼した。
そして余計な飾りを落とし、見たままを積んでいく。
普請場で聞いた囁き。
「消えた分はどこへ行った」「知る必要もない」
寺へ混ぜれば声が死ぬという論理。
川辺での僧形の男。
人足の震えた声が、形になる前に潰されかけたこと。
語り終えると、室内の静けさが一段深くなった。
左内が机の端を指先で叩き、乾いた音を鳴らす。
「消える、か。逃げたでも、死んだでもない。言い回しが妙だな」
湊は頷いた。
「はい。逃げたなら、怒りが向かいます。
死んだなら、誰かが泣きます。
ですが“消えた”と言う者は……怒りの向け先が無い」
兼続が目を細めた。
「向け先が無い怒りは、どこへ溜まる」
湊は一瞬迷い、だが答えた。
「揃えられます。
形だけを与えられ、祈りに縫い込まれ、声になる前に死にます」
左内が小さく鼻を鳴らした。
「良い。言葉の流れを見始めた顔だ。
だが、ここからは“読む”だけじゃ足りん。手当てが要る」
兼続は町割り図の空白に視線を落とした。
「聞き場は、声を通す器だ。
器が働き始めれば、必ず“器の主”を決めたがる者が出る」
湊の喉が鳴る。昨夜、僧形の男が吐いた捨て台詞が蘇った。
空白は、声を呼ぶ。だが声は――いずれ主を呼ぶ。
湊は恐る恐る言った。
「……もう、来たのでしょうか」
左内が即答した。
「来る。今日か明日だ。
役人が来る。僧が来る。名を記せと言う。責を負えと言う。
そして一番厄介なのは、来たことを“善意”の顔で包む連中だ」
兼続が湊を見た。
その眼差しは試す光ではない。任せる光だった。
「湊。そなたは昨夜、声を一度ほどいた。
ほどけた声は、必ずまた絡まる。
次は“絡ませる側”が動く」
湊は背筋を伸ばした。
「ならば、先にこちらが“道”を作ります」
「ほう。どう作る」
問いが飛んできた瞬間、湊は自分の中にまだ形になっていない線があるのを感じた。
聞き場を守るための線。
声を通すための線。
そして、揃える者を炙り出すための線。
湊は町割り図の空白を指でなぞり、ゆっくりと言葉を選んだ。
「名を付けません。
責も背負いません。
ですが、記録は残します。声ではなく、“流れ”として」
左内が目を細める。
「流れとして、だと?」
「はい。
昨日、普請場の銭は揃えられていました。
揃える者は、必ず“同じ癖”で揃えます。
声も銭も、同じ手で触るなら――」
湊は言い切る。
「揃える側の癖を、こちらで先に写し取ります」
兼続は、ほんの僅かに口元を上げた。
「その癖を写した先に、何が見える」
湊は答えようとして――言葉が止まった。
見えるものはある。だが、それはまだ名にできない。
名にした瞬間、そこに声が揃う。酒屋の主が言った通りだ。
沈黙が落ちた時、左内が机の脇から一冊の薄い帳面を投げてよこした。
「なら、まずこれだ。
昨夜の普請場の帳付け――写しだがな。
揃えた銭が、どの口から出て、どの口へ消えるか。
今日中に“流れ”の形にしろ」
湊は帳面を受け取り、胸が締まった。
今日中。
言葉の流れを追いながら、銭の流れも追う。
だが、やるしかない。
兼続が追い打ちのように言った。
「それと、湊。
聞き場は今日も開ける。閉じるな。
閉じた瞬間に、声は寺へ戻る」
「……はい」
「八代。守れ」
「はっ」
湊は頭を下げ、立ち上がる。
帳面の重みが、手のひらに現実として残る。
廊下へ出た瞬間、遠くで太鼓の音が一つ鳴った。
朝の時刻を告げる音ではない。城下のどこかで、誰かが合図として打ったような、乾いた響き。
八代が歩みを止め、窓の外を見た。
「……動いたな」
湊も見上げる。
鉛雲の下、低いところに薄い鱗雲が走っている。
予兆が、また空に現れた。
その時、廊下の先から走り来る足音がした。
若い足軽が息を切らして頭を下げる。
「八代様! 湊様!
聞き場に……城下の役人が来ております。
それと――僧が、四人」
湊の心臓が、ひゅっと縮む。
来た。思ったより早い。
八代は刀の柄に指を置き、短く言った。
「湊殿。行くぞ。
今日の勝負は、声ではない。
“誰が主か”を決めさせない勝負だ」
湊は帳面を抱え直し、頷いた。
「はい。……聞き場を、揃えさせません」
鉛雲の下、城下へ向かう廊下は冷え切っていた。
だが湊の胸の奥では、一本の線が確かに走り始めていた。
聞き場の前には、すでに人だかりができていた。
だが、いつもと様子が違う。
普段は遠巻きに様子をうかがう町人や人足が、今日は距離を取っている。
中心に立つ数人を避けるように、円が歪んでいた。
役人が二人。
僧形の男が四人。
そしてその後ろに、帳付けと思しき男が一人。
――揃える側が、揃って来た。
湊は一歩、聞き場の内側へ踏み出した。
八代が半歩遅れて立つ。刀には触れない。ただ、そこにいる。
「ここが……例の“聞き場”ですか」
役人の一人が、薄く笑って言った。
声は穏やかだが、響きが硬い。
人に向けてではなく、“場”に向けて放たれている声だ。
「看板も無い。名も無い。
責任者も分からぬ。
ずいぶんと――無秩序な場所ですな」
僧形の男が静かに続ける。
「声は、秩序なく流れれば刃になります。
刃は、いずれ人を傷つける。
それを防ぐのが、我らの役目」
聞き場の周囲で、空気が固くなる。
町人の肩がすくみ、人足の視線が落ちた。
湊は一礼した。
「ここは、声を揃える場ではありません」
役人の眉が、わずかに動く。
「では、何の場です?」
「声が“流れる前”に、息をつける場です」
一瞬、沈黙が落ちた。
その沈黙に、役人が笑みを深める。
「言葉遊びですな。
流れぬ声は、ただの不満。
不満は、いずれ乱れを生む」
湊は、視線を役人から外した。
あえて、後ろに立つ帳付けの男を見る。
「あなたは、昨夜もいましたね」
帳付けの男の喉が、かすかに鳴った。
「普請場に。
消えた人足の帳を付けていた」
役人が一歩、前に出る。
「その話は、すでに処理されている。
逃散として記録も――」
「いいえ」
湊は、帳面を取り出した。
左内から渡された写しだ。
「逃散なら、日が揃わない。
人数も、銭も、揃いすぎています」
帳面を開き、指でなぞる。
「三つの組。
減った人数も、減った銭も、同じ。
これは“逃げた”数字ではない。
“揃えた”数字です」
ざわり、と空気が揺れた。
僧形の男が、低く言う。
「数字は、解釈次第でございます」
「ええ。だからこそ」
湊は顔を上げた。
「解釈を一つに揃えると、声が死ぬ」
役人の笑みが、消えた。
「……責任を取れるのですか」
その言葉が、刃だった。
「ここで聞かれた声が、誰かを傷つけたなら。
秩序を乱したなら。
その責、誰が負う」
湊は、すぐには答えなかった。
聞き場の奥――昨日、人足が座っていた場所を見る。
「ここでは、名を記しません」
僧形の男が、眉をひそめる。
「名を記さねば、責も追えぬ」
「追えない責は、背負わせません」
湊の声は静かだった。
「声が刃になる前に、ここを通す。
刃になった声は、ここでは扱わない」
役人が低く笑った。
「都合の良い線引きだ」
「線引きです」
湊は、はっきりと言った。
「器には、縁が要る。
縁が無ければ、流れは溢れます」
八代が、初めて口を開いた。
「……溢れた流れは、刀で止めるしかなくなる」
役人と僧形の男が、八代を見る。
剣呑な沈黙。
その時だった。
聞き場の端で、誰かが一歩、前へ出た。
人足だった。
昨夜、川辺で声を震わせていた男だ。
「……あの」
声が、揺れる。
僧形の男が、即座に言う。
「下がりなさい」
湊は、静かに手を上げた。
「ここでは、誰も下がらせません」
人足が、息を吸う。
「俺……
逃げたんじゃ、ねえ」
役人が鋭く言った。
「その話は終わっている」
「終わってねえ!」
声が、裏返る。
聞き場の空気が、張りつめる。
湊は、すぐに間に入った。
「刃になる前に、もう一度。
ゆっくりでいい。
“何が怖かったか”だけ、言ってください」
人足の拳が、震えた。
「……名だ」
その一言に、僧形の男の肩がわずかに動いた。
「名を出せって言われた。
誰が言ったかは、言うなって。
でも、祈れって。
祈れば、帳は揃うって……」
役人の顔色が変わる。
「虚言だ」
湊は、首を振った。
「名を出させないのに、名を使う。
祈りに混ぜて、声を消す。
……やり方が、揃いすぎています」
僧形の男が、一歩退いた。
「ここは危うい場だ」
「ええ」
湊は答えた。
「だから、城の内に置きました」
その言葉に、役人が息を呑む。
「城が……認めていると?」
湊は、視線を真っ直ぐに返した。
「城は、“揃いすぎた声”を恐れています」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
やがて、僧形の男が低く言った。
「……今日は引く」
役人が振り向く。
「よろしいのですか」
「刃は、まだ抜かれていない」
僧形の男の目が、湊を射抜く。
「だが覚えておきなさい。
空白は、人を呼ぶ。
人が集まれば、主が要る」
湊は、静かに答えた。
「主が要るなら――
流れそのものに、持たせます」
僧形の男は、それ以上何も言わず、踵を返した。
役人たちも、後に続く。
残された聞き場に、風が通り抜けた。
人足が、深く息を吐く。
「……助かったのか、俺」
湊は、少しだけ微笑んだ。
「生きて声を出せた。
それで、今日は十分です」
八代が、小さく頷く。
「湊殿。
揃える側が、完全に顔を出した」
「はい」
「次は――」
「もっと、静かに来ます」
湊は空を見上げた。
鉛雲の下、雲がわずかに割れ、細い光が落ちている。
声の道は、まだ細い。
だが確かに、通り始めていた。
そして湊は理解していた。
――これは始まりだ。
聞き場は、もう戻れない。
声を拾った器は、
いずれ“拾われたくない声”と向き合う。
その時こそが、本当の試練になる。
湊は帳面を胸に抱き、静かに息を整えた。
次に来るのは、
名を持つ者か。
それとも――名を作る者か。
答えは、もうすぐ聞こえる。




