27話: 声は、揃えられる前に
夜更け、城下の灯は疎らになり、雪に濡れた土の匂いだけが濃く残っていた。
湊と八代は、昼間の聞き場で人足が吐いた言葉を胸の内で反芻しながら、普請場へ向かっていた。
――逃げたんじゃねえ。消えた。
――どの組も、同じ数だけ減ってる。
声は刃になりかけていた。
だからこそ湊は、あの場で「もう一度、刃になる前の声で」と頼んだ。
刃を止めるためではない。刃になる理由を確かめるためだ。
八代が足を止め、闇の向こうを指で示した。
普請場の外れ、木柵の影に二つの人影。夜番のはずの位置から少し外れている。
「 見張りが増えている」
「 昼の連中の後だろうか」
湊は息を浅くして、闇に身を沈めた。
聞き場に現れた僧形の男と町役人。
「 秩序」「 責」「 名を記せ」――揃える言葉。
彼らが動けば、普請場も動く。
雪が降るほどではないが、冷えた湿気が頬に貼りつく。
空は鉛色の雲で塞がれ、星は見えない。音だけが妙に澄んでいた。
八代が小さく顎で合図する。
湊は頷き、木柵の端へ回った。人足の出入りに使う裏口だ。昼間は泥と掛け声で満ちる場所が、今は沈黙の器になっている。
柵の隙間から覗くと、普請小屋の一つに灯があった。
火ではない。油皿の小さな光。帳面の上にだけ落ちる、仕事の灯だ。
「 夜に帳付けとは、勤勉だな」
八代の声には皮肉が混じった。
「 勤勉に見せたいのかもしれません」
湊は小屋の周囲を目で測った。
入口に人はない。だが、扉の前の土だけが新しい。踏み固められた跡が、今夜に限って濃い。
八代が囁く。
「 入るか」
「 ……はい。ただし、声を立てない。こちらの仕事は剣ではなく筆です」
八代が鼻で笑う。
「 筆でも、踏めば音は鳴るぞ」
湊は腰を落とし、足の置き場を探した。
水路の縁石、板切れ、凍りかけた泥の硬い部分。村で分水口を直したときと同じだ。足場を読む。流れを読む。
言葉も銭も、人も、足場の上を通る。
二人が小屋の側面に回り込むと、板壁の隙間から中が覗けた。
机に男が一人。僧形ではない。役人風でもない。
頭巾を深く被り、筆を走らせている。
帳面の脇には、銭の束。奇妙なほど同じ厚みで揃えられた小袋が並んでいた。
湊の胸が冷えた。
――揃いすぎた銭。
男は袋を一つ開き、銭を数える。
数え方が手慣れている。兵糧蔵の出納でも、商いでもない。
「 抜く」指だ。流れの途中で、同じ分だけ切り取る指。
八代の目が細くなる。
湊は手で制し、まず耳を澄ませた。
小屋の外。別の足音。
誰かが近づく気配があった。湊は板壁に身を寄せた。
扉が静かに開き、男が入る。
町役人の装いだが、夜の普請場へ入る歩き方ではない。躊躇が無い。
役人が机の男へ言う。
「 今日の“聞き場”は、まだ名をつけぬそうだ」
「 ……空白は、厄介だな」
机の男が顔を上げた。
灯の中で、目だけが光る。笑っていないのに、口元が少しだけ持ち上がっていた。
それは、湊が帳簿で見た種類の笑み――数字が整ったときの笑みだ。
「 寺の方は?」
「 揃えている。だが、揃えきれぬ声が漏れ始めた。あの若い筆が、器を作ったせいでな」
湊は喉の奥が乾くのを感じた。
自分が作った器が、揃える者を引き寄せている。
けれど、恐れて引けば声はまた寺に縫い止められる。
役人が続ける。
「 “消えた人足”の噂が、火になりかけている。今夜のうちに、口を塞ぐか、火種を別へ流すか……」
「 流す? どこへ」
「 寺だ。祈りに混ぜれば、声は形になる前に死ぬ」
机の男が、ふっと息を吐いた。
「 便利な器だな。寺は」
湊は思わず拳を握った。
祈りを、声を殺す道具にする。
それが「秩序」だと言うのか。
八代の気配が微かに動く。
湊は、もう一度手で止めた。今は剣を抜く時ではない。
必要なのは、確かな名と筋だ。
誰が銭を揃え、誰が声を揃え、誰が人を消すのか。
役人が机に小袋を置いた。
「 今夜分だ。いつも通り、同じ数に揃えておけ。文句が出ぬように」
「 ……承知」
机の男が袋を手に取り、重さを確かめる。
そして、ぽつりと言った。
「 “消えた”分は、どこへ行った」
「 知らぬ。知る必要もない」
「 ふむ。知らぬ顔を揃えるのは、お前の役目か」
役人が一瞬、視線を逸らした。
その間が、湊には何よりの答えだった。
知らないのではない。
知っているが、言わない。
言葉の流れを断ち、数字の流れを揃え、責の流れを下へ押しつける。
それが、この国のどこかで育っている“やり方”だ。
湊は胸の内で、ひとつの線を引いた。
普請場の銭。寺の統制。町役人の秩序。
そして、人足の「消えた」という声。
一本の流れではない。
三つの流れが、同じ場所で絡み合っている。
扉の向こうで、役人が言った。
「 明日、もう一度聞き場へ行く。名をつけさせる。名がつけば、声は揃えられる」
「 若い筆は?」
「 必要なら折る。だが、今はまだ。兼続様の目がある」
机の男が、ゆっくりと筆を置いた。
「 ……直江の目か。面倒だな」
その言葉に、湊の背筋が凍った。
兼続の名を、軽く扱う声。
それは、ただの小役人や帳付けの声ではない。
八代が、湊の耳元で息だけで告げる。
「 引くぞ。今はまだ刃の届く距離ではない」
湊は頷いた。
だが、心は決めていた。
――明日、名をつけさせない。
――そして、“消えた人足”の行き先を突き止める。
鉛雲の下、音のない普請場で、湊は初めて確信した。
声は自然に滞ったのではない。
誰かが、意図して堰き止めている。
そして、その堰の向こうに――
人の姿が、消えている。
夜更け、城下の灯がひとつ、またひとつと落ちていく頃。
湊は八代と並び、城下外れの普請場を見下ろす土手に立っていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
だが、静かすぎた。
――人足の数が合わぬ。
――銭は減っているのに、騒ぎが起きていない。
昼に聞き場で聞いた声が、湊の胸の内で反芻される。
「逃げたんじゃねえ……消えたんだ」
八代が低く言った。
「湊殿。見張りは二組。どちらも“異常なし”と報告している」
「異常がないこと自体が、異常ですね」
普請場の入口には柵が設けられ、夜間は立ち入りが制限されている。
その外側に、人足の仮小屋が並んでいた。
湊は一軒ずつ、静かに様子をうかがう。
寝息。
咳。
衣擦れの音。
だが――ある一角だけ、音がなかった。
「ここです」
湊が足を止めた。
空になった小屋。
寝藁は整えられ、履き物も揃えられている。
逃げた形ではない。
連れ出された形だ。
「連れ出すなら、抵抗が出るはずだ」
八代が眉をひそめる。
「はい。ですが……」
湊はしゃがみ込み、地面に残る足跡を指でなぞった。
「歩調が揃いすぎています。
一人だけ引きずられた跡がない」
「……全員、同じ速さで歩いている」
「はい。
“行く理由”を与えられていたのでしょう」
八代が息を呑んだ。
「理由……?」
「命令ではなく、納得です。
納得させられた声は、刃を持ちません」
湊は立ち上がり、小屋の奥へ目を向けた。
そこに、一枚の紙が落ちていた。
濡れたように黒ずんだ墨跡。
読めぬほどではない。
――祈祷の文言だった。
「寺……」
八代が歯噛みする。
「昼の寺か」
「はい。ただし、あの寺ではありません」
湊は紙を折り、懐へ収めた。
「これは“寺の声”ではない。
“寺を使った声”です」
その時、土手の下から微かな足音がした。
八代が即座に前へ出る。
「誰だ」
闇の中から、ひとりの人影が現れた。
酒の匂い。
だが酔ってはいない。
酒屋の主――
何を“拾っている”のかは分からないが、ただの町人ではない男。
「……やっぱり来たか」
男は小声で言った。
「ここに“声が落ちてる”気がしたんでね」
「なぜ、お前がそれを知る」
八代の声が鋭くなる。
男は肩をすくめた。
「拾い物は、重なると匂うんだよ。
人足、寺、銭……揃いすぎてる」
湊が一歩前に出た。
「誰が、揃えていますか」
男は即答しなかった。
闇の向こうを一度見やり、ようやく口を開く。
「一人じゃねえ。
だから厄介なんだ」
「名は」
「今は無い」
男は静かに続けた。
「名を出した瞬間、その名に声が揃う。
揃えば、あんたの“聞き場”は死ぬ」
湊は理解した。
――だから、この男は名を言わない。
――名を与えないことで、声を生かしている。
「今夜、次に動く場所はどこです」
男は一瞬だけ笑った。
「聞き場の“外”だ」
「外……?」
「声が来る前に、消す場所さ」
男は一枚の紙を差し出した。
簡単な地図。
普請場から北へ、川沿い。
「今夜、ここで“祈り”が行われる」
「祈り……?」
「そう言っときゃ、誰も疑わねえ」
男は背を向けた。
「行くかどうかは、あんた次第だ。
ただし――」
振り返らずに言う。
「行かなきゃ、明日の聞き場は血の匂いがする」
闇に溶けるように、男は消えた。
八代が低く唸る。
「信用するのか」
「半分です」
湊は紙を握り締めた。
「ですが、行かねばなりません」
◆
川沿いの空き地には、すでに人影が集まっていた。
松明は少ない。
声は抑えられている。
中央に立つのは、昼に見た僧形の男だった。
「……やはり」
湊の胸が冷える。
僧は静かに語りかけていた。
「祈れば、救われる。
名を記せば、守られる。
声を揃えれば、刃は生まれぬ」
人足たちの顔は、安堵に近かった。
その瞬間、湊は前に出た。
「――それは、救いではありません」
空気が凍る。
僧が振り返った。
「誰だ」
「聞き場を預かる者です」
湊は一歩も引かない。
「揃えた声は、確かに争いを生みません。
ですが――救いも生みません」
「何を言う」
「救われたと思った瞬間、人は考えることをやめる。
考えぬ者は、次に使われます」
人足の一人が、かすれた声で言った。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
湊は答えた。
「語ってください。
揃えず、削らず、ここで」
「刃になるぞ」
「なら、刃になる前に受け止めます」
沈黙。
やがて、ひとりが膝をついた。
「……怖かったんだ」
その声を皮切りに、言葉が溢れ始める。
僧の顔色が変わった。
「やめろ」
八代が前に出る。
「止めるなら、剣で止めろ」
僧は何も言えず、後ずさった。
湊は確信する。
――声は、通った。
――だが、これは始まりに過ぎない。
この夜、会津で初めて、
“揃えられていない声”が、刃にならずに流れた。
だが同時に――
それを快く思わぬ者たちが、確実に動き始めていた。
闇の向こうで、別の“揃える手”が、次の一手を考えていることを。
湊は、まだ知らない。




