26話:揃える者、揃えられぬ声
翌朝、湊はまだ薄暗い座敷で目を覚ました。障子の向こうは夜明け前の冷えが残り、息を吐くたび白くほどける。
昨夜、兼続から渡された町割り図の空白は、巻き直してもなお胸の内に残っていた。
寺でも武家屋敷でもない場所。
揃えぬことを許す場所。
湊は身支度を整え、八代と連れ立って城下へ出た。冬の会津の空は鉛色に沈み、低い雲が音を吸う。城下の往来は動いているのに、声だけが控えめだった。
「名は付けぬのだな」
八代が呟く。
「名が先に立つと、声が名に合わせて揃います」
湊は昨夜の自分の言葉を、もう一度確かめるように言った。
兼続が許したのは、仕組みではなく余白だった。
余白が人を呼び、声を呼ぶ。そう信じるしかない。
◆
空白の地は、神指城の新しい町割りに合わせて道が引かれたばかりの、まだ土の匂いが強い場所だった。湊はそこに、何も書かれていない板を一本、杭で立てた。字を刻まぬまま、ただ立てる。
それだけで、周囲の空気が少し変わった。
人は「読む」前に「見る」。名がないものは、意味を探させる。湊はその性質を、村の寄り合いで何度も見てきた。
「ここが……聞き場、になるのですか」
手伝いに来た若い足軽が、遠慮がちに尋ねた。
「今は違う。空白だ」
湊は板の前に腰を下ろし、膝の上に小さな帳面を置いた。
「だが空白は、やがて声で埋まる」
八代は少し離れて立ち、周囲を見渡している。湊は合図も出さず、ただ待った。待つこともまた、仕事だ。急けば、人は揃えた声しか持ってこない。
最初に現れたのは、人足の男だった。顔は煤け、手の爪は割れている。土の臭いが染みついた着物を握りしめ、板を見上げたまま動かない。
「……ここで、話せるって聞いた」
男の声は低く、乾いていた。
「話していい」
湊は帳面を開くが、筆はまだ取らない。
「名は。言いたくなければ言わなくてよい」
男は鼻で笑った。笑いというより、息の漏れだった。
「名を言ったら終いだ。ここじゃ、名の方が先に死ぬ」
湊は頷くだけで促す。
「人足が、消えた」
男が吐き捨てるように言った。
「逃げたんじゃねえ。消えた。昨日まで隣で飯を食ってた奴が、朝になったらいねえ」
「どこへ行く当てがあったのですか」
「あるわけねえ。山は寒い。村へ戻れば庄屋に叩かれる。城下に潜れば役人に捕まる」
男は唾を飲み、声を落とした。
「だから消えたって言ってる」
湊の胸の奥で、昨日までの「声の滞り」が別の形を取って膨らんだ。滞っていたのは不満だけではない。行き場のない生活そのものだ。
「最後に見たのは、いつです」
「一昨日の晩。普請場で銭を受け取って、笑ってた。……笑ってたのに、次の日にはいねえ」
笑い。
湊はその言葉を拾い、胸の中で転がした。笑いの蓋。声を包む暖簾の内側。酒屋の主の顔が、一瞬よぎる。
男は板をもう一度見上げ、吐き出した。
「ここに来たのは、怒鳴りたいからじゃねえ。怒鳴っても戻らねえからだ」
湊は、そこで初めて筆を取った。だが書いたのは名ではない。
「消えた人足」そう一行だけを記し、男の目を見る。
「あなたの声は拾いました。次に、拾うべき声を教えてください」
男は眉をひそめた。
「拾うべき声?」
「同じことを知っている者。違うことを知っている者。どちらでもよい」
男は少し迷い、顎で路地を示した。
「……向こうの組の親方だ。あいつは銭の勘定を見てる」
◆
昼前には、板の周りに三、四人の影が増えた。誰も近寄りすぎず、だが去りもしない。空白が人を留めている。
二人目は親方だった。背が高く、肩が厚い。怒鳴れば場を支配できる体つきなのに、声は抑えられていた。
「消えたのは一人じゃない」
親方は言う。
「月を跨いで、ちょいちょい減る。大工、土方、荷運び……組が違っても同じだ」
「誰かが連れていった、と」
湊が尋ねると、親方は首を振った。
「連れていけるなら、逃げるって言葉になる。だがこれは、言葉にならねえ。誰も見てねえからだ」
親方は歯を食いしばり、続けた。
「見てねえ、ってのが一番怖い。見てねえことにされてる」
湊は筆を置き、親方の目線の動きを追った。親方は板ではなく、周囲の人の足元を見ている。耳ではなく、気配を拾っている。
「銭の受け取りは、どうなっています」
湊が問うと、親方は一拍置いた。
「……揃ってる」
「揃っている?」
「そうだ。揃いすぎてる」
湊の背筋が冷えた。
帳簿で見た「整いすぎた数字」。寺で見た「揃いすぎた声」。ここでも同じ匂いがする。
親方は声をさらに低くする。
「どの組も、同じ数だけ減ってる。誰も文句が出ねえように、だ」
「本来、減り方には癖が出ます」
湊が言うと、親方は短く頷いた。
「癖がねえ。だからおかしい。銭ってのは癖が出る。手が荒れてる奴は銭を握る。手が綺麗な奴は銭を数える。そういう違いが出るはずなのに、出ねえ」
親方は息を吐く。
「揃えられてるんだ。声も、銭も」
八代が背後で小さく足を踏み替えた。警戒の合図だ。湊も気づく。板の周りの「影」が、増えたのではない。さっきから、少しずつ位置を変えながら、こちらを測っている。
見られている。
だが誰の視線か、まだ形がない。
「湊殿」
八代が低く呼ぶ。湊は頷き、親方にだけ聞こえる声で言った。
「今日はここまでにします。あなたの組の者に、ここへ来たことは無理に言わなくてよい。ですが、来たくなった者には止めないでください」
親方は目を細めた。
「お侍様は、これを揉み消さねえのか」
「揉み消せば、声が別の場所で燃えます」
湊は板を見上げた。
「燃える前に、流す道を作る。私はそのためにここにいます」
親方は何も言わず去った。去り際、板の横に小さな銭を一枚、置いていった。礼なのか、試しなのか分からない。
◆
日暮れ前、板の周りに一度だけ、空気が張り詰めた。
着物の裾が泥で汚れていない男が二人、わざとらしく笑いながら近づいてきたのだ。腰の物はない。だが歩き方が役人に近い。声の出し方も、町人のそれではなかった。
「おお、ここが噂の場所か」
一人が板を指で弾き、乾いた音を立てた。
「名もない。役目もない。なら、ここで何をしても咎めはあるまいな」
もう一人が湊を見て、愛想よく頭を下げた。
「お侍様。ご苦労さまで。城下は平穏でございますな。皆、満足しております」
満足。
その言葉が、寺で聞いた「揃った声」と同じ形で湊の耳に刺さった。
湊はすぐに筆を取らない。筆を取れば、相手の言葉を「声」として拾ったことになる。今この場で拾うべきは、助けを求める声であって、空気を揃えるための声ではない。
「平穏かどうかは、私が決めることではありません」
湊は静かに言った。
「平穏に見える時ほど、声は奥に隠れます」
男たちは顔を見合わせ、笑った。だが笑いは目に届いていない。
「お侍様は難しい話をなさる。声があるなら、ここで言えばよい。ほら、皆に聞こえるように」
わざと声を張り、周囲の人々を振り返る仕草。湊は、彼らが人を「巻き込む」ことで沈黙を作る手口を知っていた。誰かが口を開けば、翌日からその家が苦しくなる。だから誰も口を開かない。
湊は板の前で一礼した。
「今日の聞き場は、閉じます」
八代が一歩前に出る。刀は抜かない。だが抜かずとも、目が刃になる。男たちは肩をすくめ、去っていった。去り際に片方が低く呟く。
「空白は、都合が悪い」
湊はその背を見送りながら、胸の中で反芻した。
空白は都合が悪い。つまり空白は、効いている。
◆
板の周りが散り、薄闇が落ちると、湊は残った二人の女に気づいた。年嵩の女と、若い女。二人とも視線を合わせず、手元だけを握りしめている。
「……話してもよいですか」
年嵩の女が、ほとんど息のような声で言った。
「はい」
湊はすぐには近寄らない。距離を保ち、逃げ道を残す。声を流すには、息ができる余白が要る。
女は唇を震わせ、言葉を探す。
「人足が消えた、って話……うちの子も、昨日から戻らない」
若い女が袖を握り、堪えるように首を振った。
「逃げたって言われました。でも、逃げるなら……草鞋を持っていきます。あの子は草鞋を置いていった」
湊は胸の奥が熱くなるのを抑えた。怒りではない。焦りに近い。声が、ようやく形になりかけている。
「最後に会ったのは」
「普請場の帰り。銭をもらって、笑って……」
年嵩の女は、そこで言葉を詰まらせた。
「笑ってたのに」
同じだ。
笑いの直後に消える。揃いすぎた銭。揃えられた声。一本の糸で縫われている。
湊は帳面に、名ではなく「草鞋を置く」「笑って消える」とだけ記した。
そして二人に頭を下げる。
「今日、あなた方の声はここに残します。明日も、ここへ来てください。……来られる範囲で」
若い女が小さく頷いた。年嵩の女は涙をこらえたまま、ふいに湊の手元の帳面を見た。
「名を書かないのですね」
「名を書けば、声が折れます」
湊は言った。
「折れた声は、もう流れません」
女たちが去った後、湊は板の前に残り、空を見上げた。鉛雲の切れ間に、ほんの一筋だけ巻雲が走っている。変化の兆しは高いところから来る。
湊は、誰かが置いていった握り飯の包みをそっと懐に入れた。粗末だが塩が利いている。そこに混じる町の手の温度が、妙に生々しかった。
そして板の裏側に、小さな炭の字があった。
「拾うな。拾う順を誤ると、器が割れる」
八代が覗き込み、眉を寄せる。
「酒屋の主か」
「断定はできません」
湊は炭の匂いを吸い込み、言った。
「ですが……ただの町人ではない」
空白に集まる声は、確かに始まった。
同時に、空白を埋めさせまいとする気配も、始まっている。
湊は帳面を閉じ、鉛雲の下の城下を見た。
雲は低い。だが、低い雲ほど、火の匂いを閉じ込める。
「八代殿。明日から、来る声が変わります」
「揃える側、か」
「はい。……そして、拾われたくない声も」
帰り道、湊は帳面を開き、今日拾った言葉だけを指でなぞった。
「消えた」「揃っている」「草鞋を置いた」「笑っていた」――どれも短い。だが短いほど、奥に熱を持つ。
「八代殿。明日から一つ決めます」
「何をだ」
「何を“聞かないか”を」
八代は歩みを止めず、湊の横顔だけを見る。
「器を守るためか」
「はい。揃える者の声は、今は拾いません。拾えば、ここが寺のように“形だけの場”になります」
八代は一度だけ頷いた。
「その判断を誤れば、声に背を向けたことになる。だが……誤らねば、国が救われる」
城の石垣が近づく。湊は胸の中で言った。
空白は、もう空白ではない。明日、そこへ火が落ちる。
その火を、燃やさずに流せるか――それが、聞き場の最初の戦だ。
翌朝。
湊は夜明け前の冷気で頬を撫でられるような感覚に目を覚ました。障子の向こうはまだ暗い。だが耳だけは冴えていた。昨日、板の裏に残された炭の字――「拾う順を誤ると、器が割れる」。その一行が、眠りの底まで沈まずに浮いていたからだ。
湊は帳面を懐へ入れ、羽織を整える。
廊下へ出ると八代がすでに立っていた。声を出さずに合図だけを送る。行くぞ、という目だった。
城下へ出る途中、湊は小さく息を吐いた。今日は決める。何を聞き、何を聞かないか。
器は拾い物で満ちれば割れる。割れた器は、声を燃やす。
◆
空白の板は、今朝も何も書かれぬまま立っていた。
だが昨日と違い、板の周りには最初から人がいた。普請帰りの人足、買い出しの女、荷を背負う若い男――皆、視線だけを板に滑らせ、足を止めかけては通り過ぎていく。
湊は板の前に腰を下ろし、帳面を膝に置く。
筆は取らない。昨日から決めていた。まず「空気」を見る。声は空気の温度で形が変わる。
そして、温度が下がった。
人の流れが、板の前だけ薄く避けて通る。
避ける理由が「怖さ」ではないのが、湊には分かった。怖ければ視線は板に釘付けになる。だが今朝の視線は、板を見ないようにしている。見ないことで、そこに「何もない」ことにしようとしている。
揃える側が動いた――そう思った瞬間だった。
足音が四つ、揃って近づいた。
役人の足音ではない。武士の足音でもない。足を運ぶ角度が同じで、間が同じ。寺で見た「正しすぎる」歩き方に似ていた。
現れたのは僧形の男が二人と、町役人風の男が二人。
僧形の男は笑みを浮かべている。だが目が笑っていない。町役人風の男は、書付と筆を携え、板を見上げた。
「ここが、例の場にございますか」
僧形の男が柔らかく言った。
湊は立たない。腰を据えたまま、頭だけ下げる。
「何かご用でしょうか」
「用などと申せば堅い。慈悲でございます」
僧形の男は板の前に立ち、空白を見て微笑んだ。
「不安は人を乱します。乱れは国を乱します。声の道を作ることは良い。ですが――」
僧形の男は声の高さも間も崩さず、続けた。
「声には秩序が要ります。秩序のない声は、刃になります」
湊の背中に冷たいものが走った。
住職の警告と同じ言葉だ。刃。だがこの男の言い方は違う。警告ではなく、取り締まりの匂いがする。
町役人風の男が一歩前へ出た。
「このような場を設けるには、城中の許しが要ります。誰の差配か。名を記すべきです」
名を記せ。
昨日から湊が避けている言葉を、正面から突いてきた。
湊は筆を取らないまま、静かに言った。
「許しはあります。ですが名は――」
「名を付けぬなら、責が持てぬ」
町役人の声が少しだけ強くなる。
「責が持てぬ場は、噂の巣です。噂は火です。火は――」
「火は、塞げば燃えます」
湊は遮るように言った。
「塞がず流せば、火は灯りにもなります」
僧形の男が一度だけ目を細めた。
「若いのに、言葉が鋭い。ならば尚更、秩序が要る。ここを寺の配下とし、我らが聞き役を置けばよろしい」
湊はすぐに答えない。
ここで反発すれば「寺を敵に回した」と見なされる。だが頷けば、器は寺の形に揃えられる。声はまた死ぬ。
八代が一歩、湊の斜め後ろへ出た。気配だけを強くする。
湊は八代の存在に背中を預け、言った。
「この場は、寺の外に置くためのものです」
「外、に?」
僧形の男が首を傾げる。
「祈りの器と、声の器は違う。混ぜれば声が祈りの形に揃う」
湊は板を見上げた。空白が朝の薄い光を吸っている。
「揃った声は、救われたように見えて、ただ消えていきます。消えた声は――いつか別の形で燃えます」
町役人が鼻で笑い、書付を軽く叩いた。
「若殿、良いことを申される。だが世の理は、良いだけでは回らぬ。ここで声を集めるなら、誰が責を負う」
湊はそこで、昨日決めた「聞かない」を実行した。
相手の言葉は拾わない。ただ、揃えようとする形だけを見て、答える。
「責は、分けます」
「分ける?」
「一人に背負わせません。この板の前で聞いた声は、帳面に残し、複数の目で扱います。八代殿と、もう一人――」
湊は一拍置いた。名前を出さない。だが存在は示す。
「城中の者にも見てもらう。ここが噂の巣にならぬよう、開いておく」
僧形の男が、柔らかい笑みを崩さぬまま言った。
「開けば開くほど、声は刃になるのです。刃になった声が誰かを傷つけた時、若殿はどうなさる」
湊は目を伏せずに答えた。
「刃になる声は、刃になる前に鈍らせる仕組みにします」
町役人が眉をひそめた。
「仕組み?」
「声の市です。聞くだけではなく、声に“返す”」
湊はゆっくり言う。
「返す先がない声は腐ります。返す先があれば、声は道になります」
僧形の男が何かを言いかけた、その時だった。
板の裏から、かさりと小さな音がした。
誰かが板の影へ小石を投げたのだ。合図のように。
次の瞬間、普請帰りの人足が一人、板の前へ飛び込んできた。息が荒い。頬が赤い。怒りではない。恐れだ。
「おい! まただ! また一人消えた!」
人足は声を張り上げ、町役人と僧形の男を見た。
「お前ら、知ってんだろ! 揃えやがって! 何もねえふりしやがって!」
空気が割れた。
昨日まで溜まっていたものが、刃になる寸前で飛び出した。
僧形の男が即座に穏やかな声を上げる。
「落ち着きなさい。祈りましょう。祈れば――」
「祈って消えたんだよ!」
人足が叫ぶ。
「祈りゃ腹が膨れるのか! 祈りゃ銭が戻るのか!」
湊は立ち上がった。
ここだ。今、器が割れるか、持ちこたえるかが決まる。
湊は人足の前に出て、まず頭を下げた。
「声を上げてくれてありがとう」
人足が一瞬、言葉を失う。怒鳴られると思っていた顔だ。
湊は続ける。
「だが、刃のまま振れば、ここは閉じます」
静かな声で言い切る。
「刃になる前の声で、もう一度言ってください。誰が、いつ、どこで。あなたの目が見たことを」
人足は歯を食いしばり、肩を震わせた。
そして、ほんの少し声を落とした。
「……昨夜。組の若いのが、銭を受け取って帰った。戻らねえ。家にもいねえ」
「最後に見た場所は」
「普請場の裏。藁束の陰だ。そこに――」
人足は言いかけ、周囲を見回した。
視線が、僧形の男に一瞬止まる。僧形の男の笑みが、わずかに硬くなる。
湊はその小さな変化を見逃さなかった。
揃える側が、声の芽を摘もうとしている。
湊は帳面を開き、筆を走らせた。名ではない。事実だけを。
書くことで、声を「外」へ出す。寺の中へ閉じ込めない。
「普請場の裏。藁束の陰。昨夜。戻らず」
湊は復唱し、周囲にも聞こえるように言った。
「今の声は、ここに残りました。明日も残ります。消えません」
町役人が言い募ろうとした。
「おい、それは――」
だが湊は、町役人の声を「聞かない」と決めたまま、向き直らずに言った。
「ここで起きたことは、城中へ上げます」
その一言で、町役人の顔色が変わった。
僧形の男は笑みを崩さず、しかし声の温度だけが冷えた。
「若殿。あなたは火遊びをしている」
「火は、隠して燃やすより、灯して使う方が安全です」
湊は返した。
「隠して燃やすのは、揃える側のやり方です」
僧形の男の目が、初めて露骨に鋭くなる。
そこへ八代が半歩前へ出た。刀には触れない。ただ、視線だけで線を引く。
「ここは直江様のお許しの場だ」
八代の声は低い。
「この場を塞ぐなら、許しを持ってこい」
僧形の男は一瞬黙り、やがて柔らかく頭を下げた。
「承知しました。無用の乱れが起きぬよう、見守らせていただきます」
見守る。
それは監視だ。
四人は去った。
去り際、僧形の男が板を見上げ、空白に向けて小さく呟いた。
「空白は、声を呼ぶ。だが声は――いずれ主を呼ぶ」
湊はその言葉を帳面には書かなかった。
今は拾わない。拾えば相手の思惑の土俵に乗る。拾うべきは、消えた者の声だ。
◆
夕刻。板の周りは昨日より人が増えた。増えたが、声は増えない。
皆、見ている。誰が来たか。誰が喋ったか。誰が消えるか。
湊はその空気を、重い布のように感じた。
布は音を吸い、声を小さくする。鉛雲の下と同じだ。
そこへ、暖簾の匂いがした。酒と味噌と、炭の匂い。
人の輪の外側に、あの男が立っていた。
酒屋の主――何を“拾っている”のかは分からないが、ただの町人ではない男。
男は今日も笑わない。
だが目だけが、面白がるように光っていた。
「随分と派手にやったな」
男は小声で言った。周囲に聞かせない声の使い方だ。
「あなたが炭で書いたのですか」
湊が問うと、男は肩をすくめた。
「さあな。俺は字が汚い」
嘘か本当か分からない。だが、嘘でもよい。湊はその男の言葉を「事実」として拾わない。
「揃える側が来ました」
湊が言う。
「来るさ。空白が効いたんだからな」
男は板を見た。
「お前さん、何を聞かないか決めたな?」
「はい」
「なら、次は“誰に聞かせるか”だ」
男は目を細める。
「声ってのはな、聞く相手で形が変わる。寺に聞かせりゃ祈りになる。役人に聞かせりゃ罪になる。……お前さんに聞かせりゃ、道になるか?」
湊は答えなかった。答える言葉が軽くなるからだ。
代わりに帳面を叩いた。
「道にするために、ここに残します」
「残すだけじゃ足りねえ」
男は低く言った。
「消えた者は、戻らねえ。戻らねえなら、次は“消した者”が来る。拾われたくない声がな」
湊は喉の奥が冷えるのを感じた。
消えた者。消した者。
声の流れが、いよいよ逆流しはじめている。
男は去り際、湊の足元に何かを落とした。紙片だ。
拾うか迷う一瞬の間に、男はもう人波に溶けている。
湊は紙片を拾い、開いた。
短い線が二本と、点が三つ。文字ではない。だが湊には分かった。
町割り図の空白から、普請場の裏へ向かう道筋。
そして藁束の陰――昨夜の場所。
点の一つは寺の裏手に近い。
湊は紙片を握りしめ、八代を見る。
八代も紙片を見て、無言で頷いた。
「今夜、動きます」
湊が言うと、八代は短く答えた。
「見に行くだけだ。刃は抜かぬ」
「はい。見て、記します」
湊は帳面を懐に押し込み、板を見上げた。
空白はもう空白ではない。
声が集まり、監視が集まり、そして――消えた者の影が集まっている。
湊は深く息を吸い、冷えた空気を肺に入れた。
鉛雲の下でも、呼吸は止めない。
――声の道を作る。
その最初の線は、今夜、闇の中へ伸びる。




