表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/104

24話: 声を縫う寺、滞る村

城を出ると、会津の空には、冬の気配を孕んだ薄い鉛雲が重たく垂れ込めていた。

 音を吸い込んでしまうような静けさ。その下を歩きながら、湊は胸の奥に沈む違和感を、そっと押さえつけた。


 ――今日は、声を見る日だ。


 八代とともに城下へ向かうにつれ、違和感はゆっくりと形を帯びていった。

 往来には確かに人が多い。だが、誰もが笑っているようで、笑っていない。話しているようで、話していない。


 声が“揃いすぎている”。


「……まるで同じ筆で書かれた文字のようだ」


 思わず漏れた言葉に、八代が横目で湊を見る。


「気づいたか」


「はい。不満でも恐れでもない……もっと、意図的なものを感じます」


「皆、声を“揃えて”いるのだ。揃っている時は、どこかに“揃える者”がいる」


 湊は喉の奥が重くなるのを覚えた。

 誰が声を揃えているのか、何のために揃えているのか――まだ分からない。


 ふと、前方に寺の屋根が見えた。

 山の端のようにどっしりとした黒瓦。その周囲だけ、妙に空気が張りつめて見えた。


     ◆


 寺の門前は、朝の時刻とは思えないほど静まり返っていた。

 どの寺でも経が響いているはずの時間だが、この寺からは一切聞こえない。


 その静けさは、音が無いというより――

 “音を許していない”ような気配だった。


 湊は門前に立ち、周囲へ視線を流した。

 門柱の苔のつき方、履物の揃え方、供物を持った村人たちの立ち位置。


 異様なほど、均一だった。


「……揺らぎがありません」


 湊が呟くと、八代が頷く。


「本来、寺は“ゆらぎ”が集まる所だ。祈りも不満も願いも、いろんな声が混ざる。

 だが、ここは……揃いすぎている」


 村人たちは皆、口を開きかけては閉じる。

 その動きが、まるで“不揃いを許されていない”ように見えた。


 そこへ一人の僧が現れた。

 穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その目だけは笑っていなかった。


「巡検でございますか。ようこそお越しくださいました」


 抑揚、声の高さ、間――

 どれも村人たちとまったく同じ“形”だった。


 湊は一瞬で悟る。


 ――この寺が、声を“揃えている”。


     ◆


 本堂に案内されると、空気はさらに重くなった。

 柱の位置、座布の並び、報告書の積まれ方……乱れがひとつもない。


 “均一”のために作られた空間だった。


「こちらが今年の寄進の記録にございます」


 僧が差し出した帳面も、数字が端から端まで揃いすぎている。

 不正の痕跡があるわけではない。だが――「揺らぎ」が無い。


(これでは……数字の息づかいが分からない)


 湊は、帳簿に不正があった時の僅かな“乱れ”を思い出した。

 整えすぎた数字は、乱れた数字以上に不気味なのだ。


「僧正様について、ご意見を伺いたいのですが」


 湊が切り出すと、僧は一瞬だけ目を細めた。


「皆、よくお仕えしております。何の不満もございませんよ」


 その笑みは柔らかすぎた。

 何かを守るような、何かを封じるような、そんな笑みだった。


 湊がさらに踏み込もうとしたその時――

 本堂の外で、風が強く鳴った。僅かな隙間から、鱗雲が覗いた。


 ――何かが、揺れはじめている。


     ◆


 寺を辞した帰り道、湊はずっと胸の奥の違和感を抱えたまま歩いていた。


 “声が流れていない”。


 村の集まりでも、寺の会合でも、誰かの家でも、

 会話というものは、本来、誰かが言いすぎたり、誤解したり、笑ったりして揺れるものだ。


 今日の寺には、その揺らぎがまったくなかった。


「八代殿……この寺は、声を“閉じて”います」


「そうだ。閉じた声は腐る。腐った声は、いずれ爆ぜる。

 ここは……放っておけば必ず火種になる」


「では、誰が揃えているのでしょうか。僧正様でしょうか」


「それはまだ分からぬ。だが――“ここには何かがある”」


 言葉がそこで断ち切られた。


 通りの先に、人影が立っていた。

 ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。


 湊は一瞬で気づいた。


 ――酒屋の主だった。


 あの男が、なぜここに?


 胸の奥が、静かに波打つ。


     ◆


 酒屋の主は無言のまま寺を見上げていた。

 その背に、揺らぎはなかった。風に紛れても、存在が揺れない。


 普通の町人ならば、こうは立てない。


「……ここまで来たか、お侍様」


 振り返った男の目に、笑いはなかった。


「“声を見に来た”んだろ。だったら、ここは外しちゃいけねえ場所だ」


 湊は男の表情を見つめた。


 ――何を拾っているのかは分からない。

 ――しかし、この男は絶対に“ただの町人”ではない。


「あなたは、ここを知っているのですか」


「知ってるなんてもんじゃねえよ。

 “声が消える場所”ってのは、匂いが違うんだ。お侍様には分かりづれえがね」


 男の言葉の続きが気になったところで、八代が前に出た。


「湊殿、この男……なぜ寺の前に?」


「さあな。ただ――」


 男は寺の方を顎で示した。


「ここには“揃えすぎた声”がある。

 揃えすぎた声は、いつか破れる。

 ……破れた時が、一番恐ぇんだよ」


 その言葉に、湊の背筋が冷たくなった。


 声が流れていない。

 声が揃いすぎている。

 声が閉じている。


 そのすべてが、この寺を指している。


 男は湊をちらりと見た。


「帰りな。ここで長居すると、声が耳に張りつくぜ」


 そう言って、男は町のほうへ歩き出した。


 湊はその背中を見送りながら思った。


 ――寺の問題は、帳簿では測れない。

 ――ここには、言葉の“縫い目”がある。

 ――誰かが縫っているのか、誰かが縫わせているのか……それを見極めなくてはならない。


 八代が静かに言う。


「湊殿。ここは、放置すれば必ず破れるぞ」


「はい……。声のどこが滞っているのか、もっと深く見なければ」


 空を見上げると、薄い鱗雲は溶け、再び鉛雲が覆い始めていた。


 会津の空は、重たい沈黙を抱えたまま――

 声の火種を隠していた。

寺を離れても、湊の胸のざわつきは収まらなかった。

 城下へ戻る道すがら、八代が横を歩きながら口を開く。


「湊殿。さきほどの寺――どう見る」


「……声が揃いすぎています。怒りも嘆きも、形になる前に均されています」


「均す者がいる、ということだな」


「はい。僧か、庄屋か、それとも……」


 言いかけて、湊は口をつぐんだ。

 頭に浮かんだのは、先ほど寺前に立っていた酒屋の主の顔だった。


 酒屋の主――

 何を“拾っている”のかは分からないが、ただの町人ではない。


 あの男は、寺の内情をかなりのところまで知っている。

 にもかかわらず、何も“告げよう”とはしなかった。


 ――声を流すことより、“どこで止まるか”を見ている人間。


「八代殿。寺は、今すぐに手を入れるべきでしょうか」


「剣のことなら、すぐにでもと言うところだがな……これは剣では切れぬ」


 八代は苦く笑う。


「寺に無闇に手を出せば、民の信仰そのものを傷つける。

 “声の揃えられ方”が見えぬまま動けば、一気に噴き上がるぞ」


「……まずは、どこでどう“縫われている”のか、見極めねばなりませんね」


「そうだ。声の縫い目を見つける。お前の筆の役目は、そこだ」


 湊は深く息を吸い込んだ。

 鉛雲の下の空気は冷たかったが、その冷たさがむしろ頭を澄ませてくれる。


     ◆


 昼過ぎ、湊は八代とともに、寺の周囲の村を歩いた。

 寺の正面からでは見えない“裏側”を確かめるためだ。


 一軒の古びた農家の前で、湊は足を止めた。

 藁を抱えた老女が、ゆっくりと庭を掃いている。


「少々、お話を伺ってもよろしいでしょうか」


 湊が頭を下げると、老女は驚いたように目を瞬かせた。


「お、お侍様が、こんな所へ……」


「寺の様子を見に参りました。ここからは、どう見えておられますか」


 老女はしばらく黙っていた。

 やがて、周囲を一度見回すと、小さな声で言った。


「悪い所は……何ひとつ、ありませんよ」


 それは、あまりに整った答えだった。

 さきほど寺で聞いた僧の言葉と、まるで同じ形をしている。


 湊は、あえて話題をずらした。


「冬支度は順調ですか。雪は厳しいでしょう」


「ええ、それはもう……。ここいらは、毎年のことで」


「年貢のほうは?」


「……それも、決められた通りに」


 老女の声が、そこで少しだけ揺れた。

 ほんのわずか、言葉の縫い目が緩むのが見えた。


 湊は、その“揺れ”に薄く指先をそえるように、言葉を重ねた。


「寺では、皆で話し合う場などはありますか。困りごとを分かち合えるような」


「ございますよ。月に一度……皆で集まって、僧正様のお話を聞きます」


「皆、意見を言うのですか」


「あの……僧正様の仰せを、聞くだけで」


 老女は、そこで口をつぐんだ。

 喉に何かがひっかかっているような表情を一瞬だけ見せ、すぐに笑みで塗りつぶす。


「ありがたいことです。僧正様はよう整えてくださいますから」


 “整える”。


 さきほどから、寺を語る言葉はそればかりだ。


 湊は礼を言い、その場を辞した。

 少し歩いたところで、八代が低く問う。


「どう見る」


「やはり……声が“出る前に”縫い止められています」


「縫い止める者が、寺の中にいる」


「はい。ただ、一つだけ気になることが」


「何だ」


「老女は“悪い所はない”と言いながら、寺の話になると目線を必ず地面に落としました。

 ……あれは、恐れている目ではありません」


「では、何だ」


「“何かを裏切ることを恐れている”目、です」


 自分で言いながら、その言葉の重さを噛みしめる。

 恐れているのは、寺ではなく、寺を通じて結ばれている“何か”。


 湊は、胸の内に小さな問いを抱えたまま、次の家へと足を向けた。


     ◆


 日が傾きはじめたころ、湊は再び寺の門前に立った。

 本堂からは、今度は読経の声が微かに聞こえてくる。


 ――さきほどまでは無かった声だ。


 まるで、巡検を察しているかのような変化だった。


 湊はその変化をあえて顔には出さず、本堂へ向かった。

 出迎えた僧は先ほどと同じ男で、同じ笑みを浮かべている。


「再びお越しくださるとは。何かお心にかかることでも」


「はい。少々、伺いたいことがございます」


 本堂の柱越しに、僧たちの背が整然と並んでいる。

 一人ひとりの座る位置、微妙な前後の差――それらが妙に“帳簿”を思わせた。


 湊は、僧正の所在を尋ねた。


「僧正様には、お目通り叶いますでしょうか」


「本日は少々お加減が優れず、奥にて静養されております。

 ……代わりに、この寺務を預かる私がお伺いを」


 湊は黙って僧を見た。

 寺務を預かる――つまり、この寺の日々の運びを“整える”役目。


「では、あえてお聞きします。この寺では、民の不満や悩みをどのように受け止めておられますか」


「もちろん、すべて、お預かりしております」


 僧は即答した。


「悩みも、怒りも、嘆きも、すべて仏の御前にて洗い清めておりますゆえ。

 ……この寺からは、一つたりとも不満を外へ漏らしたことはございません」


 湊は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――漏らしたことがない。


 それは一見、美徳のようにも聞こえる。

 だが同時に、“どこにも流していない”という宣言でもある。


 湊は、村での経験を思い返した。

 用水争いのとき、怒りが溜まりすぎた村がどうなったか。


 怒りは、ただ抑え込めばよいものではない。

 流れを整えてやらねば、必ず堤を破る。


「では、その悩みや怒りは、どこへ行くのですか」


 湊の問いに、僧は一瞬、言葉を止めた。

 それから、ゆっくりと答える。


「心の中に収めていただきます。

 私どもは、そのための“形”を整えるのです」


「形……」


「はい。言葉にせずとも、皆が同じ形で頭を下げ、同じ形で祈る。

 そうすれば、余計な声は立たぬ。村の争いも減りましょう」


 それは、ある意味では理にかなった答えだった。

 だが、湊の背筋には、別の種類の寒気が走る。


 ――声を“形”に閉じ込めている。


 形を揃えれば、その場は静まる。

 だが、その静けさは、決して安らぎではない。


「……そのやり方で、村の者たちは救われていますか」


 僧の目が細くなった。

 先ほどまでの柔らかさが、ほんのわずかに鋭さを帯びる。


「救われておりますとも。少なくとも、争いは起きておりません」


「争いが起きていないことと、救われていることは、同じでしょうか」


 その一言で、本堂の空気がわずかに揺れた。

 座っていた僧たちの背筋が、ほんの一瞬だけこわばるのが見えた。


 湊は、それ以上は言わなかった。

 ここで踏み込みすぎれば、寺そのものを敵に回すだけだ。


「本日のところは、これまでにいたします。

 また改めてお話を伺いに参ります」


 湊が頭を下げると、僧も同じ角度で頭を垂れた。

 その角度までもが、妙に揃っている。


 寺を出ると、鉛雲はさらに厚みを増していた。

 雪が落ちてきてもおかしくない、重たい空。


「どうだった」


 門外で待っていた八代が問う。


「……あの寺は、“声を消す技”を持っています」


「技?」


「声が形になる前に、形だけを揃えてしまう。

 皆が同じように頭を下げ、同じように祈れば、不満は“祈りの形”の中に閉じ込められる」


「それは、悪いことか?」


「短く見れば、争いを減らす術でしょう。

 ですが――長く見れば、声の行き場を奪うやり方です」


 湊は、握りしめた拳をゆっくりとほどいた。


「声は流さねばなりません。

 悪い声も、怒りの声も、どこかで“通す”場がいる。

 ……あの寺は、それをすべて“自分の中だけ”で留めている」


「つまり、あそこが詰まれば、一気に溢れる」


「はい」


 八代は、空を見上げた。


「城に戻るぞ。兼続様に報せねばならん」


     ◆


 夕刻。

 政務の間では、兼続と岡左内が帳を広げていた。


「戻りました」


 湊が膝をつくと、兼続が顔を上げる。


「寺は、どうであった」


 湊は、見てきたことを順に述べた。

 門前の沈黙、村人の揃った言葉、寺務を預かる僧の答え、祈りの“形”。


 左内は黙って聞いていたが、「漏らしたことはない」というくだりで眉をひそめた。


「……声を、外へ一つも流していない、だと?」


「はい。悩みも怒りも、すべて寺の中で“清める”のだと」


「清めているのではない。潰しているのだ」


 左内の声には、いつになく露骨な嫌悪が混じっていた。


「銭の世界でも同じだ。

 流れを止め、“帳尻だけ”を合わせようとする者ほど、後で大きく破綻する」


 兼続が静かに問いかける。


「湊。そなたは、どう見る」


「短く見れば、あの寺は争いを抑えています。

 しかし長く見れば、声の行き場を奪う存在です」


「……行き場を奪われた声は、どうなる」


「ゆっくりと濃くなり、いつかどこかで爆ぜます。

 寺そのものが爆ぜるか、別の場で火を噴くかは分かりませんが」


 兼続は目を閉じた。

 短い沈黙ののち、ゆっくりと口を開く。


「湊。そなたの役目は、寺を責めることではない」


「……はい」


「寺は、寺の理で動く。

 だが会津は、会津の理で治めねばならぬ。

 わしらがやるべきは――“別の声の通り道”を作ることだ」


 湊の胸に、かすかな灯がともった。


「別の……通り道」


「寺にだけ頼らぬ、“声の器”だ。

 村同士が話せる場でもよい。町人と侍が、直接やり取りできる場でもよい。

 神指城の町割りを決めるとき、その“器”をどこに置くか――それを考えるのだ」


「……はい!」


 思わず声が大きくなった。

 寺の危うさをただ指摘するだけではなく、“代わり”を作る。その発想は、湊の胸に深く染み込んだ。


 左内が鼻を鳴らす。


「声の通り道にも銭は要るぞ」


「承知しております」


「寺を敵に回さぬように“新しい道”を通すのは、細かい綱渡りだ。

 ……お前の筆先次第だな」


「ならば、なおさら……誤魔化しの線は引けません」


 湊の言葉に、左内は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「いい目をしてきたな。

 数字だけでなく、声の流れも見始めている。

 ――その目が、いつか“笑って声を殺す奴”を見つけることになる」


 兼続が、巻物を一枚、湊の前へ滑らせた。

 神指城の町割り図。その中に、まだ何も描かれていない広場のような空白がある。


「湊。この空白は“声のための場所”だ。

 寺でも、武家屋敷でもない場所。

 ここに何を置くか――そなたに任せる」


 湊は図を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。


 寺で縫い止められていた声。

 村で行き場を失っていた声。

 酒屋で笑いの陰に隠されていた声。


 それらが自然に通う“器”を、ここに描かなければならない。


「……必ず、見つけてみせます」


 湊の声には、迷いがなかった。


 その夜、外の空には再び薄い鱗雲が浮かんだ。

 鉛雲の隙間から覗くその模様は、まだ形になっていない“声の道”のようにも見えた。


 会津のどこかで、声が滞り、膨れ、破れようとしている。

 その前に――

 湊は、自らの筆で“新しい縫い目”を引かねばならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ