24話: 声を縫う寺、滞る村
城を出ると、会津の空には、冬の気配を孕んだ薄い鉛雲が重たく垂れ込めていた。
音を吸い込んでしまうような静けさ。その下を歩きながら、湊は胸の奥に沈む違和感を、そっと押さえつけた。
――今日は、声を見る日だ。
八代とともに城下へ向かうにつれ、違和感はゆっくりと形を帯びていった。
往来には確かに人が多い。だが、誰もが笑っているようで、笑っていない。話しているようで、話していない。
声が“揃いすぎている”。
「……まるで同じ筆で書かれた文字のようだ」
思わず漏れた言葉に、八代が横目で湊を見る。
「気づいたか」
「はい。不満でも恐れでもない……もっと、意図的なものを感じます」
「皆、声を“揃えて”いるのだ。揃っている時は、どこかに“揃える者”がいる」
湊は喉の奥が重くなるのを覚えた。
誰が声を揃えているのか、何のために揃えているのか――まだ分からない。
ふと、前方に寺の屋根が見えた。
山の端のようにどっしりとした黒瓦。その周囲だけ、妙に空気が張りつめて見えた。
◆
寺の門前は、朝の時刻とは思えないほど静まり返っていた。
どの寺でも経が響いているはずの時間だが、この寺からは一切聞こえない。
その静けさは、音が無いというより――
“音を許していない”ような気配だった。
湊は門前に立ち、周囲へ視線を流した。
門柱の苔のつき方、履物の揃え方、供物を持った村人たちの立ち位置。
異様なほど、均一だった。
「……揺らぎがありません」
湊が呟くと、八代が頷く。
「本来、寺は“ゆらぎ”が集まる所だ。祈りも不満も願いも、いろんな声が混ざる。
だが、ここは……揃いすぎている」
村人たちは皆、口を開きかけては閉じる。
その動きが、まるで“不揃いを許されていない”ように見えた。
そこへ一人の僧が現れた。
穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その目だけは笑っていなかった。
「巡検でございますか。ようこそお越しくださいました」
抑揚、声の高さ、間――
どれも村人たちとまったく同じ“形”だった。
湊は一瞬で悟る。
――この寺が、声を“揃えている”。
◆
本堂に案内されると、空気はさらに重くなった。
柱の位置、座布の並び、報告書の積まれ方……乱れがひとつもない。
“均一”のために作られた空間だった。
「こちらが今年の寄進の記録にございます」
僧が差し出した帳面も、数字が端から端まで揃いすぎている。
不正の痕跡があるわけではない。だが――「揺らぎ」が無い。
(これでは……数字の息づかいが分からない)
湊は、帳簿に不正があった時の僅かな“乱れ”を思い出した。
整えすぎた数字は、乱れた数字以上に不気味なのだ。
「僧正様について、ご意見を伺いたいのですが」
湊が切り出すと、僧は一瞬だけ目を細めた。
「皆、よくお仕えしております。何の不満もございませんよ」
その笑みは柔らかすぎた。
何かを守るような、何かを封じるような、そんな笑みだった。
湊がさらに踏み込もうとしたその時――
本堂の外で、風が強く鳴った。僅かな隙間から、鱗雲が覗いた。
――何かが、揺れはじめている。
◆
寺を辞した帰り道、湊はずっと胸の奥の違和感を抱えたまま歩いていた。
“声が流れていない”。
村の集まりでも、寺の会合でも、誰かの家でも、
会話というものは、本来、誰かが言いすぎたり、誤解したり、笑ったりして揺れるものだ。
今日の寺には、その揺らぎがまったくなかった。
「八代殿……この寺は、声を“閉じて”います」
「そうだ。閉じた声は腐る。腐った声は、いずれ爆ぜる。
ここは……放っておけば必ず火種になる」
「では、誰が揃えているのでしょうか。僧正様でしょうか」
「それはまだ分からぬ。だが――“ここには何かがある”」
言葉がそこで断ち切られた。
通りの先に、人影が立っていた。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
湊は一瞬で気づいた。
――酒屋の主だった。
あの男が、なぜここに?
胸の奥が、静かに波打つ。
◆
酒屋の主は無言のまま寺を見上げていた。
その背に、揺らぎはなかった。風に紛れても、存在が揺れない。
普通の町人ならば、こうは立てない。
「……ここまで来たか、お侍様」
振り返った男の目に、笑いはなかった。
「“声を見に来た”んだろ。だったら、ここは外しちゃいけねえ場所だ」
湊は男の表情を見つめた。
――何を拾っているのかは分からない。
――しかし、この男は絶対に“ただの町人”ではない。
「あなたは、ここを知っているのですか」
「知ってるなんてもんじゃねえよ。
“声が消える場所”ってのは、匂いが違うんだ。お侍様には分かりづれえがね」
男の言葉の続きが気になったところで、八代が前に出た。
「湊殿、この男……なぜ寺の前に?」
「さあな。ただ――」
男は寺の方を顎で示した。
「ここには“揃えすぎた声”がある。
揃えすぎた声は、いつか破れる。
……破れた時が、一番恐ぇんだよ」
その言葉に、湊の背筋が冷たくなった。
声が流れていない。
声が揃いすぎている。
声が閉じている。
そのすべてが、この寺を指している。
男は湊をちらりと見た。
「帰りな。ここで長居すると、声が耳に張りつくぜ」
そう言って、男は町のほうへ歩き出した。
湊はその背中を見送りながら思った。
――寺の問題は、帳簿では測れない。
――ここには、言葉の“縫い目”がある。
――誰かが縫っているのか、誰かが縫わせているのか……それを見極めなくてはならない。
八代が静かに言う。
「湊殿。ここは、放置すれば必ず破れるぞ」
「はい……。声のどこが滞っているのか、もっと深く見なければ」
空を見上げると、薄い鱗雲は溶け、再び鉛雲が覆い始めていた。
会津の空は、重たい沈黙を抱えたまま――
声の火種を隠していた。
寺を離れても、湊の胸のざわつきは収まらなかった。
城下へ戻る道すがら、八代が横を歩きながら口を開く。
「湊殿。さきほどの寺――どう見る」
「……声が揃いすぎています。怒りも嘆きも、形になる前に均されています」
「均す者がいる、ということだな」
「はい。僧か、庄屋か、それとも……」
言いかけて、湊は口をつぐんだ。
頭に浮かんだのは、先ほど寺前に立っていた酒屋の主の顔だった。
酒屋の主――
何を“拾っている”のかは分からないが、ただの町人ではない。
あの男は、寺の内情をかなりのところまで知っている。
にもかかわらず、何も“告げよう”とはしなかった。
――声を流すことより、“どこで止まるか”を見ている人間。
「八代殿。寺は、今すぐに手を入れるべきでしょうか」
「剣のことなら、すぐにでもと言うところだがな……これは剣では切れぬ」
八代は苦く笑う。
「寺に無闇に手を出せば、民の信仰そのものを傷つける。
“声の揃えられ方”が見えぬまま動けば、一気に噴き上がるぞ」
「……まずは、どこでどう“縫われている”のか、見極めねばなりませんね」
「そうだ。声の縫い目を見つける。お前の筆の役目は、そこだ」
湊は深く息を吸い込んだ。
鉛雲の下の空気は冷たかったが、その冷たさがむしろ頭を澄ませてくれる。
◆
昼過ぎ、湊は八代とともに、寺の周囲の村を歩いた。
寺の正面からでは見えない“裏側”を確かめるためだ。
一軒の古びた農家の前で、湊は足を止めた。
藁を抱えた老女が、ゆっくりと庭を掃いている。
「少々、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
湊が頭を下げると、老女は驚いたように目を瞬かせた。
「お、お侍様が、こんな所へ……」
「寺の様子を見に参りました。ここからは、どう見えておられますか」
老女はしばらく黙っていた。
やがて、周囲を一度見回すと、小さな声で言った。
「悪い所は……何ひとつ、ありませんよ」
それは、あまりに整った答えだった。
さきほど寺で聞いた僧の言葉と、まるで同じ形をしている。
湊は、あえて話題をずらした。
「冬支度は順調ですか。雪は厳しいでしょう」
「ええ、それはもう……。ここいらは、毎年のことで」
「年貢のほうは?」
「……それも、決められた通りに」
老女の声が、そこで少しだけ揺れた。
ほんのわずか、言葉の縫い目が緩むのが見えた。
湊は、その“揺れ”に薄く指先をそえるように、言葉を重ねた。
「寺では、皆で話し合う場などはありますか。困りごとを分かち合えるような」
「ございますよ。月に一度……皆で集まって、僧正様のお話を聞きます」
「皆、意見を言うのですか」
「あの……僧正様の仰せを、聞くだけで」
老女は、そこで口をつぐんだ。
喉に何かがひっかかっているような表情を一瞬だけ見せ、すぐに笑みで塗りつぶす。
「ありがたいことです。僧正様はよう整えてくださいますから」
“整える”。
さきほどから、寺を語る言葉はそればかりだ。
湊は礼を言い、その場を辞した。
少し歩いたところで、八代が低く問う。
「どう見る」
「やはり……声が“出る前に”縫い止められています」
「縫い止める者が、寺の中にいる」
「はい。ただ、一つだけ気になることが」
「何だ」
「老女は“悪い所はない”と言いながら、寺の話になると目線を必ず地面に落としました。
……あれは、恐れている目ではありません」
「では、何だ」
「“何かを裏切ることを恐れている”目、です」
自分で言いながら、その言葉の重さを噛みしめる。
恐れているのは、寺ではなく、寺を通じて結ばれている“何か”。
湊は、胸の内に小さな問いを抱えたまま、次の家へと足を向けた。
◆
日が傾きはじめたころ、湊は再び寺の門前に立った。
本堂からは、今度は読経の声が微かに聞こえてくる。
――さきほどまでは無かった声だ。
まるで、巡検を察しているかのような変化だった。
湊はその変化をあえて顔には出さず、本堂へ向かった。
出迎えた僧は先ほどと同じ男で、同じ笑みを浮かべている。
「再びお越しくださるとは。何かお心にかかることでも」
「はい。少々、伺いたいことがございます」
本堂の柱越しに、僧たちの背が整然と並んでいる。
一人ひとりの座る位置、微妙な前後の差――それらが妙に“帳簿”を思わせた。
湊は、僧正の所在を尋ねた。
「僧正様には、お目通り叶いますでしょうか」
「本日は少々お加減が優れず、奥にて静養されております。
……代わりに、この寺務を預かる私がお伺いを」
湊は黙って僧を見た。
寺務を預かる――つまり、この寺の日々の運びを“整える”役目。
「では、あえてお聞きします。この寺では、民の不満や悩みをどのように受け止めておられますか」
「もちろん、すべて、お預かりしております」
僧は即答した。
「悩みも、怒りも、嘆きも、すべて仏の御前にて洗い清めておりますゆえ。
……この寺からは、一つたりとも不満を外へ漏らしたことはございません」
湊は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――漏らしたことがない。
それは一見、美徳のようにも聞こえる。
だが同時に、“どこにも流していない”という宣言でもある。
湊は、村での経験を思い返した。
用水争いのとき、怒りが溜まりすぎた村がどうなったか。
怒りは、ただ抑え込めばよいものではない。
流れを整えてやらねば、必ず堤を破る。
「では、その悩みや怒りは、どこへ行くのですか」
湊の問いに、僧は一瞬、言葉を止めた。
それから、ゆっくりと答える。
「心の中に収めていただきます。
私どもは、そのための“形”を整えるのです」
「形……」
「はい。言葉にせずとも、皆が同じ形で頭を下げ、同じ形で祈る。
そうすれば、余計な声は立たぬ。村の争いも減りましょう」
それは、ある意味では理にかなった答えだった。
だが、湊の背筋には、別の種類の寒気が走る。
――声を“形”に閉じ込めている。
形を揃えれば、その場は静まる。
だが、その静けさは、決して安らぎではない。
「……そのやり方で、村の者たちは救われていますか」
僧の目が細くなった。
先ほどまでの柔らかさが、ほんのわずかに鋭さを帯びる。
「救われておりますとも。少なくとも、争いは起きておりません」
「争いが起きていないことと、救われていることは、同じでしょうか」
その一言で、本堂の空気がわずかに揺れた。
座っていた僧たちの背筋が、ほんの一瞬だけこわばるのが見えた。
湊は、それ以上は言わなかった。
ここで踏み込みすぎれば、寺そのものを敵に回すだけだ。
「本日のところは、これまでにいたします。
また改めてお話を伺いに参ります」
湊が頭を下げると、僧も同じ角度で頭を垂れた。
その角度までもが、妙に揃っている。
寺を出ると、鉛雲はさらに厚みを増していた。
雪が落ちてきてもおかしくない、重たい空。
「どうだった」
門外で待っていた八代が問う。
「……あの寺は、“声を消す技”を持っています」
「技?」
「声が形になる前に、形だけを揃えてしまう。
皆が同じように頭を下げ、同じように祈れば、不満は“祈りの形”の中に閉じ込められる」
「それは、悪いことか?」
「短く見れば、争いを減らす術でしょう。
ですが――長く見れば、声の行き場を奪うやり方です」
湊は、握りしめた拳をゆっくりとほどいた。
「声は流さねばなりません。
悪い声も、怒りの声も、どこかで“通す”場がいる。
……あの寺は、それをすべて“自分の中だけ”で留めている」
「つまり、あそこが詰まれば、一気に溢れる」
「はい」
八代は、空を見上げた。
「城に戻るぞ。兼続様に報せねばならん」
◆
夕刻。
政務の間では、兼続と岡左内が帳を広げていた。
「戻りました」
湊が膝をつくと、兼続が顔を上げる。
「寺は、どうであった」
湊は、見てきたことを順に述べた。
門前の沈黙、村人の揃った言葉、寺務を預かる僧の答え、祈りの“形”。
左内は黙って聞いていたが、「漏らしたことはない」というくだりで眉をひそめた。
「……声を、外へ一つも流していない、だと?」
「はい。悩みも怒りも、すべて寺の中で“清める”のだと」
「清めているのではない。潰しているのだ」
左内の声には、いつになく露骨な嫌悪が混じっていた。
「銭の世界でも同じだ。
流れを止め、“帳尻だけ”を合わせようとする者ほど、後で大きく破綻する」
兼続が静かに問いかける。
「湊。そなたは、どう見る」
「短く見れば、あの寺は争いを抑えています。
しかし長く見れば、声の行き場を奪う存在です」
「……行き場を奪われた声は、どうなる」
「ゆっくりと濃くなり、いつかどこかで爆ぜます。
寺そのものが爆ぜるか、別の場で火を噴くかは分かりませんが」
兼続は目を閉じた。
短い沈黙ののち、ゆっくりと口を開く。
「湊。そなたの役目は、寺を責めることではない」
「……はい」
「寺は、寺の理で動く。
だが会津は、会津の理で治めねばならぬ。
わしらがやるべきは――“別の声の通り道”を作ることだ」
湊の胸に、かすかな灯がともった。
「別の……通り道」
「寺にだけ頼らぬ、“声の器”だ。
村同士が話せる場でもよい。町人と侍が、直接やり取りできる場でもよい。
神指城の町割りを決めるとき、その“器”をどこに置くか――それを考えるのだ」
「……はい!」
思わず声が大きくなった。
寺の危うさをただ指摘するだけではなく、“代わり”を作る。その発想は、湊の胸に深く染み込んだ。
左内が鼻を鳴らす。
「声の通り道にも銭は要るぞ」
「承知しております」
「寺を敵に回さぬように“新しい道”を通すのは、細かい綱渡りだ。
……お前の筆先次第だな」
「ならば、なおさら……誤魔化しの線は引けません」
湊の言葉に、左内は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「いい目をしてきたな。
数字だけでなく、声の流れも見始めている。
――その目が、いつか“笑って声を殺す奴”を見つけることになる」
兼続が、巻物を一枚、湊の前へ滑らせた。
神指城の町割り図。その中に、まだ何も描かれていない広場のような空白がある。
「湊。この空白は“声のための場所”だ。
寺でも、武家屋敷でもない場所。
ここに何を置くか――そなたに任せる」
湊は図を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
寺で縫い止められていた声。
村で行き場を失っていた声。
酒屋で笑いの陰に隠されていた声。
それらが自然に通う“器”を、ここに描かなければならない。
「……必ず、見つけてみせます」
湊の声には、迷いがなかった。
その夜、外の空には再び薄い鱗雲が浮かんだ。
鉛雲の隙間から覗くその模様は、まだ形になっていない“声の道”のようにも見えた。
会津のどこかで、声が滞り、膨れ、破れようとしている。
その前に――
湊は、自らの筆で“新しい縫い目”を引かねばならなかった。




