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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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23話: 声を操る者

翌朝、湊はまだ白んでいる廊下を、吐く息を白くしながら歩いていた。

 昨夜、遅くまで書きつけていた報告書の感触が、指先に残っている。


 政務の間の戸口を叩くと、すぐに兼続の声が返ってきた。


「入れ」


 障子を開けると、室内にはすでに左内と八代が座していた。

 外の冷気とは対照的に、部屋の中は静かな緊張で満ちている。


「湊、座れ」


「はい」


 湊が膝を折ると、兼続は机の上の紙束を軽く叩いた。

 昨夜湊が書いた報告である。


「三つの場を見てきたな。寺、酒屋、村の寄り合い。……まずは自分の目で見たままを、口で言ってみよ」


「承知いたしました」


 湊は一度だけ息を整えた。

 昨日の情景が、順に胸の内に立ち上がってくる。


「寺は、帳簿も祭礼も整っておりました。住職も穏やかで、表立った不満は……見えませんでした」


「ふむ。だが?」


「“見えぬ”こと自体が、気になりました。

 村人たちの悩みや愚痴が、あの寺の中でどこまで語られているのか……。住職は聞き役ではありますが、同時に“蓋”にもなり得る、と」


 兼続の目がわずかに細くなる。

 左内は腕を組み、無言で聞いていた。


「次に、城下の酒屋でございます。

 そこでは男たちが景気よく笑いながら、城の普請や年貢の話をしておりました。

 ……ですが、その笑いはどこか、薄い皮のようでもありました」


「皮?」


「はい。

 声は大きいのですが、目が笑っておりません。

 とりわけ店の主は、笑い声を上げながら、客の一人一人の顔をよく見ていました。値踏みするように」


「ほう」


 ここで初めて、左内が小さく相槌を打った。


「最後に、村の寄り合いでございます。

 年貢の負担や普請の苦しさを、皆が抱えているのは感じました。

 ですが――」


「声が交わらぬ、か」


 兼続が先を継いだ。

 湊は驚き、そして頷いた。


「はい。

 言葉が出かかっても、庄屋の顔色を見て飲み込まれる。

 怒りや不安があるのに、“誰に向ければよいか分からぬまま”沈んでいるように見えました」


「なるほどな」


 兼続は報告書から目を離し、湊をまっすぐ見た。


「湊。そなたの目は、よく“滞り”を捉えておる。

 寺は整いすぎて流れが見えず、酒屋は笑いという泡で誤魔化し、村は声が出る前に押し潰される。……どれも、良き流れではない」


 左内が口を開いた。


「湊。銭も同じだ。

 帳簿が整いすぎている所ほど、かえって怪しい。

 笑いが多いところほど、損をしている者が隅に追いやられる。

 声が上がらぬところでは、銭が静かに抜かれていく」


「……言葉と銭は、共に流れでございますか」


「そうだ」


 左内はあごで報告書の束を示した。


「寺は“見えぬ蓋”。酒屋は“笑いの蓋”。村は“沈黙の蓋”よ。

 蓋をされたところには、必ず澱みが溜まる。澱みは腐る」


 湊の背筋に、冷たいものが走った。

 昨日感じた居心地の悪さが、言葉に形を得る。


 兼続が静かに区切るように言った。


「湊。一つ、問おう」


「はい」


「三つの場のうち……最も危ういのはどこだと見た?」


 即答はできなかった。

 寺の静けさも、村の沈黙も、どちらも気になっている。

 だが、胸の奥で最初に浮かんだのは――あの酒屋の主の目だった。


「……酒屋でございます」


「理由は?」


「寺と村は、まだ“自分の中で煮詰まっている段階”に見えました。

 ですが酒屋は、笑いを纏いながら、声を選んでおりました。

 誰がどの不満を抱えているかを測り、必要とあらばどこかへ流すことができる……。

 もし、誰かが金や立場のために情報を操ろうとすれば、ああいう場を使うのではないかと」


 左内の目が、わずかに光る。


「兼続様。やはり拾い物ですな、この若造は」


「珍しいな、左内。素直に褒めるとは」


「褒めちゃいませんよ。“使える”と言っているだけです」


 兼続が小さく笑うと、すぐに真顔へ戻った。


「湊。会津という器を造るとは、石垣を積むことだけではない。

 声の流れの“水路”もまた、造らねばならぬ」


「声の……水路……」


「そうだ。

 声が留まりすぎれば澱む。

 あちこちから一気にあふれれば、一揆となって噴き出す。

 ならば、初めから“吐き出せる場”と“受け止める場”を用意しておけばよい」


 湊は、昨夜見た神指城の絵図を思い浮かべた。

 城郭、武家地、町人地、寺社。

 そこに――まだ描かれていない何か。


「湊。そなたに問う。

 寺でもない、酒屋でもない。

 民が気兼ねなく愚痴をこぼし、時に侍とも顔を合わせられる場とは、どのような場所だと思う?」


 問われてすぐには答えが出てこなかった。

 だが、脳裏に浮かぶ光景がある。

 この世界に来る前も、そしてこちらの会津でも、何度か目にしてきた「人の集まる場」。


「……市でございます」


「市?」


 兼続が身を乗り出した。

 湊は思考を言葉に変えていく。


「はい。

 定められた日に、村々の者や町人、旅の商人までもが集まる市。

 物と銭だけでなく、噂と情報が行き交う場です。

 そこには庄屋や寺のような“上の目”が薄れ、肩の力を抜いて話すことができる者も多いかと」


 左内が、面白そうに口端をつり上げた。


「ほう。市を“言葉の水路”に使うか」


「城下と郷村を繋ぐ道の要に市を置き、

 そこに“誰が来てもよい”場を設ければ……

 不満や愚痴も、どこかで自然に漏れ出し、互いに聞こえるようになるのではと」


 湊は言いながら、自分の中で輪郭が整っていくのを感じていた。


「寺のように“上から諭す”場ではなく、

 酒屋のように“酒に紛れて逃がす”場でもなく。

 ただ、日々の暮らしの中で言葉が混じり合う場所を――」


 しばし沈黙が落ちた。


 兼続は目を閉じ、何かを噛みしめるように考えている。

 左内は腕を組んだまま「面白い」と小さく呟いた。

 八代は湊を見て、目だけで「続けろ」と促している。


「湊」


 ようやく兼続が口を開いた。


「市を“声の水路”とする策。悪くない。

 だが、それだけでは足りぬ」


「……足りぬ、でございますか」


「市は確かに声が交わる場だ。

 だが一方で、“火種”も集まりやすい。

 噂が噂を呼び、敵の間者が流言を流すには格好の場所よ」


 湊は息を詰めた。


「だからこそ、そこに“耳”を据えねばならぬ。

 民の言葉を押さえつける耳ではない。

 ただ、聞き、覚え、上へと伝える耳だ」


「……それは」


「湊。そなたのような者のことよ」


 心臓が、一瞬止まったように感じた。


「村を歩き、数字を追い、声の滞りを見つける目。

 その目を、市の中に置く。

 神指城の城下には、そうした“聞き役”をあちこちに散らすつもりだ」


 左内が顎をさすりながら、付け加えた。


「市の賑わいの裏で、銭の流れと声の流れを同時に見る役。

 ……たしかに、こいつには似合いそうだ」


「左内殿」


「褒めてるんですよ?」


 八代がくぐもった笑いを洩らす。

 だが湊の胸は、重くもあり、どこか温かくもあった。


 ――自分は、城を造る石を積むのではない。

 人の声が溜まらず、しかし溢れもせぬようにする“水路”を描くのだ。


 その重みが、ようやく腹の底に落ち始めていた。


「湊。一つ、命じる」


 兼続の声が再び鋭くなる。


「今日見て回った三つの場――寺、酒屋、村の寄り合い。

 そのうち、最も危ういと見た酒屋へ、もう一度行け」


「もう一度……」


「今度は客ではなく、“聞き手”としてだ。

 誰が、どの声を拾い、どこへ運ぼうとしているのか。

 酒の泡の奥にある本当の顔を、見てこい」


 湊はごくりと唾を飲んだ。


「危うい場でございます。

 湊殿ひとりでは――」


 八代が口を挟もうとしたが、兼続は首を振った。


「もちろん、お前もつける。

 だが、剣を抜く場ではない。

 湊の筆と目で勝負する場だ」


 湊は深く頭を下げた。


「承りました」


「もう一つ」


 兼続は机の端に置かれていた細い巻物を手に取った。


「これは神指城下の、新たな町割り案だ。

 市をどこに置き、どの道と繋げば“声の水路”となるか――

 湊。酒屋へ行く前に、一度目を通しておけ」


 巻物が差し出される。

 湊は両手でそれを受け取り、胸の前で固く抱いた。


 その瞬間、障子の外を冷たい風が走り、紙がかすかに鳴った。

 空はまだ淡い灰色で、雲の切れ間からわずかな光がのぞいている。


 会津の冬は、これから本格的に厳しくなる。

 だが、その寒さの中でこそ、固く締まるものもあるのだと――湊はふと思った。

巻物を抱いて部屋を下がった湊は、深く息を吐いた。

 胸の奥が、まだ熱さと冷たさのあいだで揺れている。


 ――再び、酒屋へ行け。


 兼続の命は短い一言だったが、その裏にある意図が湊には分かっていた。

 あの酒屋は、ただ話に花が咲く場所ではない。

 “声が集まり、選ばれ、流されていく場”――つまり、情報の分岐点だ。


 そこを読み違えれば、国全体の空気を誤る。


「湊殿」


 廊下の影から八代が現れた。

 静かな足取りで近づくと、湊の手にある巻物へ目を落とす。


「それが町割り案か」


「はい。……神指城下の骨組みが見えます」


「骨組み、か。

 では湊殿の役目は“肉をどう付けるか”、だな」


「肉……?」


「人の暮らしという肉だ。

 武家の道も、商人の道も、祭礼の道も――すべてそこに流れるだろう」


 湊は思わず笑った。


「八代殿にしては、言い回しが柔らかいですね」


「お前が小難しい役目ばかり背負うから、少しは肩をほぐしてやろうと思ったのだ」


「……ありがとうございます」


 二人は歩調を合わせ、外に出た。

 昼前の空は薄い灰色で、巻雲がわずかに流れている。

 昨日より高さがあり、風の向きは北へ傾きつつある。


 冬の深まりを告げる空だった。


     ◆


 まずは巻物の確認だ。

 湊は城の外れにある控えの部屋へと座し、巻物を慎重に広げた。


 神指城を中心に据え、武家地が南側に広がる。

 その外に町人地が並び、さらに外側に寺社と市の候補地。

 道は太く三本、大きな川に向かって伸びている。


 ――ここに、市を置くのか。


 兼続が示した位置は、三本の道が揃って狭まり、人と物が自然に集まる地点だった。

 まるで“滞りを防ぐための水路の合流点”のようだ。


 巻物の端に、兼続の小さな筆跡があった。


「声、抜ける道。

 声、集まる場。

 声、混じる路地。」


 湊は静かに読み、その言葉の意味を自分の中で噛みしめた。


 ――声が抜ける場がなければ、積もる。

 ――声が集まる場がなければ、散るだけだ。

 ――声が混じる路地がなければ、角が立つ。


 城普請と町割りは、人を動かす器を作る仕事。

 だが、声をどう流すかまで踏み込んで考えているのは、兼続の深さだ。


 湊は筆を取り、巻物の横に控えの紙を広げて書きつけた。


「寺――落ち着くが、声がこもる

 酒屋――声が泡になる。だが泡の下に本音が沈む

 村――声の主が定まらず、沈黙として滞る

 市――声が混ざり、流れ、抜ける可能性」


 書いて、少し離れた位置から紙を見た。


「あ……」


 自然と声が漏れた。


 三つの場所の“滞り方”は違う。

 だが、市だけは――滞らせずに流れを作ることができる。


 市は流れを生む。

 寺は流れを止める。

 酒屋は流れを隠す。

 村は流れを生まぬ。


 湊は、その線で町並みを描き直した。


 線を重ねるたび、自分の中の景色もはっきりする。

 あの酒屋が市の近くに移ると仮定すると――声の流れがどう変わるか。

 寺を町外れに置いた場合はどうなるか。

 村からの道が市へと自然につながる配置とはどうあるべきか。


「……こうだ」


 湊は最後に大きく一本の線を引いた。

 寺と村と町人地を、それぞれ市へつなぐ三角の線。

 その中心に、市の広場がある。


「声が偏らぬように……互いの距離を測るのか」


 声は近すぎれば火種となり、遠すぎれば腐る。

 その真ん中で交わらせる場所を作る――

 兼続の意図が、ようやく形として見えた。


 そこへ八代が戻ってきた。


「湊殿。用意はできたか?」


「はい。……あとは酒屋に向かうだけです」


「行く前に言っておくぞ」


 八代は腰に手を当て、真剣な眼差しを湊に向けた。


「酒屋は“言葉の戦場”だ。

 剣の戦とは違い、相手が誰かも分からぬ。

 まして“笑いの泡”に隠れた敵は厄介だ」


「承知しております」


「湊殿。剣を抜く局面でもない。

 だが、誰よりも冷静であれ。

 少しの油断が、命を奪う場でもある」


「はい」


 湊は深く頷いた。

 自分が戦うのは剣ではなく、言葉の根を探ること。


 だが、根の先には“人”がいる。

 その人は、怒りか、恐れか、あるいは……違う何かを抱えているかもしれない。


「湊殿。ひとつ、教えておこう」


「何でしょう」


「“声が集まる場所”には必ず、

 “声を操る者”が現れる。

 それは寺の住職でも、庄屋でも、侍でもない。

 名もない町人や、旅の商人ですらそうだ」


 湊は背筋を伸ばした。


「昨日の酒屋の主も、そう見えました」


「だろうな。

 あの目は、ただの商人の目ではない。

 声の流れを読む者の目だ」


 八代が湊の背に手を置く。


「行くぞ。昼を過ぎれば、店はさらに賑わう。

 その分、言葉も増える」


「はい」


 一歩、外に踏み出すと、冷たい風が頬を打った。

 空を覆う灰色の雲の下で、城下の通りには人の姿が増えつつある。


 湊はゆっくり息を吸い、吐き、歩き出した。


     ◆


 城下の一角にある酒屋は、昨日と同じ賑わいを見せていた。

 入口の暖簾が揺れ、酒と味噌の混じった香りが外まで流れている。


「入るぞ」


「はい」


 二人が暖簾をくぐると、店内では既に数人の男が盃を交わしていた。


「お、昨日の若えのじゃねえか」


「兄ちゃん、今日は一人じゃねぇのか?」


 湊は微かに笑い、軽く頭を下げた。


「昨日は世話になりました。

 今日は……湯をいただけますか」


「酒じゃねえのか? ま、いいさ。座りな」


 湊と八代は店の隅の席へ腰を下ろした。

 八代は盃を断り、水だけを頼んだ。


 湊は周囲の声に耳を澄ませる。

 昨日より客は少ないが、その分、一人ひとりの言葉がよく聞こえる。


「……普請、また伸びるらしいぞ」


「ほんとか? もう人足も足りねぇって話だったのに」


「やっぱり、あれだろ。どっかで銭が消えてるんじゃねぇか?」


「こらこら、声がでけぇぞ」


 笑い混じりの声。

 だが、昨日と違って“泡”ではない。

 どこか鋭い、刺のような気配がある。


 八代が小さく囁いた。


「湊殿。あれを見ろ」


 湊が視線を送ると、店の奥に例の主――昨日のあの男がいた。

 桶の前で客と笑っているが、目だけは常に周囲を探り続けている。


「湊殿、どう見る?」


「……“誰が何を言うか”を測っています」


「だろうな」


 その時、ふいに主と湊の目が合った。

 男の笑顔が、わずかに深まった。


 ――見られている。


 湊は盃を置き、静かに姿勢を正した。

 男が近づいてくる。


「兄ちゃん。昨日と違って……今日は、ずいぶん目が鋭いな」


「そう、見えますか」


「見えるさ。

 商売人は“目”で客を選ぶ。

 兄ちゃんの目は……“探してる目”だ」


 男はほほ笑み、声を小さくした。


「何を探しに来た?」


 湊は一瞬、迷った。

 だが、迷いを口にするわけにはいかない。


「――声の流れです」


 店のざわめきが、ふっと遠のいたように感じた。


 男の笑顔が止まり、黒い瞳が湊を射抜く。


「声の……流れ、ねぇ」


 男は湊の盃を指で軽く叩いた。


「兄ちゃん。声ってのはな……流すもんじゃない。

 “集めてから、使う”もんだ」


 その言葉に、湊の背中が冷たくなる。


 ――声を使う?


 男は軽く身を乗り出した。


「たとえばだ。

 城の普請が遅れてる、年貢が上がる、誰かが損をする。

 そういう声を集めりゃ……誰が浮かぶ?」


 湊の横で、八代の手が刀に触れた。

 だが湊は男の視線を外さなかった。


「兄ちゃん。

 言葉ってのは“武器”なんだよ」


 男は湊の前に盃を置いた。


「兄ちゃんは武士の言葉を持ってる。

 けど、町人の言葉はまた違う。

 その違いを知らねぇまま首を突っ込むと……

 “声に殺される”ぞ?」


 その瞬間、湊は悟った。


 この男はただの商人ではない。

 ――声の流れを読み、操り、時に人を動かし得る者。


 会津の“声の水路”を描くためには、

 こういう者こそ避けて通れない。


「兄ちゃん」


 男は笑顔のまま、声だけを低くした。


「何をしに来た?」


 湊は息を吸い、嘘をつかなかった。


「声の滞りを……探しに来ました」


 男の瞳が、初めて笑った。


「ほう。なら、教えてやるよ。

 滞ってるのは――“ここじゃねぇ”。」


「……え?」


「声は流れてる。

 流れすぎるくらいにな。

 だが……どこへ向かってるか、分かるか?」


 湊は言葉を失った。


 男は湊の盃を指先で軽く回した。


「兄ちゃん。“寺”だよ」


「寺……」


「声が沈む場所は危ねぇ。

 表向きは静かで、穏やかで、何の不満もねぇように見える。

 だがな――“沈黙ほど燃えやすいもんはねぇ”。」


 湊は、昨日の寺の記録の最後の一文を思い出した。


 ――“祭礼は村々の不満を晴らす場となった”。


 兼続が言った言葉が胸に蘇る。


 “言葉が膨れ、どこかで破れる”。


 湊の背筋に、ゆっくりと冷たい汗が伝った。


「兄ちゃん」


 男が笑った。


「寺の沈黙を、どう読むつもりだ?」


 湊は、答えられなかった。


     ◆


 酒屋を出た湊は、外の空気を吸い込んだ。

 冷たい風が、酒屋で張りついた匂いを剥がしていく。


「……湊殿、大丈夫か?」


「八代殿。私は……まだ“言葉”が読めておりません」


「読める者など、ほとんどおらぬ。

 だが、気づいたのだろう?」


 湊は空を見上げた。

 灰色の雲の向こうで、わずかに夕陽がにじみはじめている。


「声が流れるのは、寺ではなく酒屋ではなく……

 すべて“外”に出たいから、でしょうか」


「そうだ。

 閉じた声は腐る。

 開きすぎた声は暴れる。

 湊殿の仕事は、その中間――“声の器”を作ることだ」


 湊は唇を強く結んだ。


 寺の沈黙。

 酒屋の泡。

 村の迷い。


 すべての滞りは、ひとつの流れへ向かっている。


「八代殿。寺へ……明日、向かいます」


「良い決断だ」


 八代はわずかに笑い、湊の肩を叩いた。


「湊殿。

 声は風に似ている。

 掴めないが、当たれば分かる」


 湊は深く頷いた。


「明日、寺で“風”を感じ取ってみせます」


 夕雲がゆっくりと沈んでいく。

 余韻のような光が、城下の屋根に薄く広がった。


 その下で、湊の中にも静かに決意が灯っていた。

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