22話: 声なき村、笑う酒場、沈む寺
神指城の設計図――会津の未来そのものが描かれた巻物を仰ぎ見た翌朝。
湊は寝付きが悪かったせいで目の奥に重さを感じていた。それでも身体は軽い。
胸の奥には、焦りに似た熱が灯っていたからだ。
――自分は、この巨大な絵図に何を描き足せるのか。
一晩中考えたが、答えはまだ見えない。
湊が湯気の立つ井戸端で手を洗っていると、冬の気配を含んだ冷気が頬を刺した。
空には薄い巻雲が漂っている。
高く、細い――会津では冬前に珍しく見える“変化の兆し”を告げる雲だった。
胸のざわつきを押し込み、部屋へ戻ると、八代が刀の手入れをしていた。
「眠れなかったのか」
「……はい。兼続様のお言葉が、頭から離れず」
「それだけの役目を負ったということだ。誇れ」
八代の声は淡々としている。しかしその眼差しには、確かな支えがあった。
「湊殿。今日、兼続様は“言葉の流れを見よ”と仰るだろう」
「言葉、ですか……?」
「水でも銭でもない。もっと厄介だ」
八代は刀を布でゆっくり拭きながら続けた。
「言葉は形が無い。帳簿にも残らぬ。
だが、村を動かし、侍を煽り、国を揺らすのは結局そこだ。
……間違った言葉が広がれば、一揆が起きる」
湊は息をのみ、昨夜の巻物を思い返す。
町並みの線、寺社の配置、祭礼の道筋――どれも“言葉が集まる場所”だった。
「八代殿、私は……その“言葉”をどう追えばよいのでしょう」
「答えは一つではない。だが、人の間に踏み込めば必ず見えてくる」
八代が刀を鞘へ静かに戻した。
「湊殿。お前の目は“流れ”を掴む目だ。
水でも銭でも、滞りを見つけることができた。
ならば言葉も、きっと見つかる」
その声に背を押され、湊は静かに決意を固めた。
◆
政務の間へ向かう廊下には朝の冷気が入り込み、肌を刺すように冷たかった。
歩むたび、畳の軋みが妙に大きく響く。胸の高鳴りのせいだ。
案内された部屋では、すでに直江兼続が待っていた。
「湊、よく来た」
机の上には、昨日の巻物とは別に、
会津一帯――百二十万石に及ぶ寺社・祭礼・村々の記録がずらりと並んでいる。
兼続は筆を置き、湊へ向き直った。
「昨日は“形”を見せた。今日は“声”を見せよう」
「声……でございますか」
「形あるものより、形なき噂の方が民を動かす。
水も銭も、言葉ひとつでひっくり返ることがある。」
兼続は一枚の紙を手に取り、湊へ渡した。
「読んでみよ」
湊は目を走らせた。
ある村の寺社の収支と祭礼の記録――数字は綺麗に整っている。
だが、最後の一行に違和感があった。
「……“今年の祭礼は村々の不満を晴らす場となった”……?」
「うむ。帳簿ではない。“言葉の記録”だ」
兼続が紙を指で軽く叩く。
「祭礼で民が何を語り、何を嘆き、どこに怯えているか。
それが読めねば国は治まらぬ」
湊は息を呑む。
数字が乱れていないのに、どこか危うい気配。
“整っているのに濁っている”空気だった。
「湊。そなたに探させる“穴”とは、城普請や町割りだけではない。
言葉が集まり、滞り、膨れ、火を噴く場所――それもまた穴だ」
「……寺社、でございますか」
「一部はそうだ。だが、民の寄り合い、商人の酒席、侍同士の雑談……
言葉の火種は至るところにある」
兼続の声が低くなる。
「会津百二十万石。広い土地のどこかで、
今この瞬間にも“火の種”が落ちている」
湊は胸に冷たいものが流れ込むのを感じた。
「湊。今日から寺社と町人、村人の“声”を拾ってもらう。
水や銭より見えぬ分だけ難しい。
だが、直江が国を治める上で最も欠かせぬ目だ」
「……務めさせていただきます」
「うむ。八代をつける。危険な場もある」
八代が軽く頷く。
その時、外から冷たい風が吹き込み、障子がかすかに揺れた。
湊はふと空を見る。巻雲の裏に、細かな鱗雲が混じり始めている。
変化の兆しの奥に、さらに小さな予兆が潜んでいた。
――言葉の流れも、きっとあの雲のように。
「湊。今日のお主の務めはひとつ」
兼続が静かに言った。
「会津のどこで“声が滞っているか”を探せ。
滞りは必ず、膨れ、破れる。
そこが……国を揺らす」
湊は深く一礼した。
胸にあった焦りの熱は、いつのまにか“覚悟”に変わっていた。
城を出ると、冷えた空気が頬に刺さった。
日の高さはまだ低いが、町はすでに動き始めている。行き交う人の息が白く、軒先には干された藁縄や薪が並んでいた。
「湊殿、どこから見る」
八代が肩越しに問う。
「まずは、人が集まるところから、でしょうか。寺社と、市の立つあたり」
「道案内は任せろ。わしも会津の土地にはまだ明るくはないが、人の集まる気配ぐらいは分かる」
二人は城下へと足を向けた。
城下町はまだ完全には整っていない。蒲生の頃の町割りと、上杉が手を入れた道筋が混ざり合い、広い通りと狭い路地がまだらに続いている。道の端には雪除けのために積まれた土が低い塀のように連なり、軒先からは冷たい滴が落ちていた。
通りを抜ける途中、湊は意識して耳を澄ませた。
「今年は囲い普請が増えるらしいぞ」「また人足を出せと言われたら、腰が持たん」「だが、蒲生の頃よりはましだ」――そんな声が、行き交う町人や女たちの口から漏れ聞こえる。
不満もある。だが、笑いもある。声の調子に、まだ刺々しさは少ない。
「ここは、まだ“流れている”声ですね」
「どういう意味だ」
「愚痴は出ていますが、笑いで流している。沈殿していない――そんな感じがします」
「ほう」
八代は感心したように目を細めた。
「ならば、流れていないところを探さねばな」
「ええ」
二人はまず、城下の外れにある大きな寺へ向かった。元は蒲生家が保護していた寺で、今は上杉からも寺領を与えられているという。
山門をくぐると、朝の冷気に混じって線香の匂いが漂ってくる。境内には、すでに数人の町人が手を合わせていた。
僧の一人が箒を止め、湊たちに気づく。
「これはこれは、お侍方。お参りで?」
「いや、少し話を聞きたくてな」
八代が柔らかく応じ、湊が一歩前に出る。
「近頃の祭礼や、村々の様子などを知りたく存じます。城から“改め”に出ている者とお考えくだされば」
僧は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを作った。
「それはそれは、ご苦労なことで。こちらへ」
本堂脇の小さな部屋に通され、煎茶が出された。湊は周りをさりげなく見回す。棚には経典と共に、帳面がいくつか重ねられている。
「祭礼のことでしたな。今年も無事に終わりましたよ。村々からの寄進も、例年通りでございます」
「例年通り……かどうか、よろしければ帳面を拝見しても?」
僧は一拍置き、ふっと目を細めた。
「さすがは城のお役人。目が堅い。よろしい、お見せしましょう。ただ、細かな数字は、拙僧よりも寺男の方がよく存じておりますが」
帳面は整っていた。寄進の額も、祭礼に出した酒や米の量も、大きな乱れはない。むしろ几帳面すぎるほどだ。
「今年の祭礼の折、村人たちは、どのような話を?」
湊が問うと、僧は少しばかり肩をすくめた。
「景勝公に感謝する声が多うございましたよ。蒲生の頃より年貢は軽く、普請にも理があると。……もちろん、愚痴も出ますが、それはどの世も同じこと」
言葉は滑らかだ。だが、滑らかすぎる。
湊は、帳面の端に書かれた一行に目を留めた。小さく「村人、有難きことと申す者多し」とある。
「この言葉は、誰が書かれたのですか」
「拙僧が聞き取ったことを書き留めただけです」
「そうですか」
湊は頭を下げ、礼を述べた。
寺を出ると、境内の方から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。鬼ごっこをしているらしく、雪の残る地面を駆け回っている。
「どう見えた」
山門を出たところで、八代が問う。
「……整いすぎていました。数字も、言葉も」
「悪いことか?」
「悪いと決めつけるつもりはありません。ただ、“濁り”も“泡”も見えない川は、かえって底が読めないように思えます」
八代は「なるほどな」と頷いた。
「ここは“滞っている”のではなく、“上手く整えられている”だけかもしれません。火種があっても、寺の中には見えぬ形で」
「では次だな」
昼に近づくにつれ、城下の市は賑わいを増してきた。野菜を並べる農夫、布を広げる女たち、鍋から湯気を立ち上らせる屋台。売り声と買い手の値切る声が入り混じる。
湊は、酒樽を並べる酒屋の前で足を止めた。店先には、大きな樽と小さな升が見える。奥からは笑い声と共に、酒の匂いが漂ってきた。
「八代殿」
「うむ。酒は、言葉が緩む場所だ」
二人が店に入ると、昼間から酒を飲んでいる男たちが数人、振り向いた。農夫らしい格好の者もいれば、どこか身なりの良い男もいる。
「いらっしゃいませ。お侍様方、温まっていかれますか」
店主が笑顔で迎えた。
「では、少しだけ」
湊と八代は隅の席に腰を下ろした。酒が注がれる間、湊は周りの声に耳を澄ます。
「今年の普請は、川向こうの村からも人足を取るらしい」「あそこは田の出来が悪いからな」「悪いからこそ、普請に駆り出されれば堪らんだろう」――そんな言葉が聞こえてくる。
やがて、身なりの良い男が、ひと際大きく笑った。
「まぁまぁ、諸君。文句を言っても年貢は減らぬ。どうせなら、酒で流してしまえ。城方も馬鹿ではないさ。あまりに無理を重ねれば、自分らの首が飛ぶ」
周りの男たちが「そうだそうだ」と笑う。
湊は、その笑い声にわずかな違和感を覚えた。
楽しげだが、どこか乾いている。やけっぱちとも違う。宥めすかしているようでいて、誰かの怒りがそこで止められている――そんな印象。
湊は杯を口元へ運ぶふりをしながら、その男をちらりと見た。
年の頃は三十前後。小綺麗な着物に、指には墨汚れもない。農夫ではない。商人か、あるいは村々の間を取り持つ“何か”の役目だろう。
男がふと視線を動かし、湊と目が合った。一瞬だけ、笑いの消えた目が、湊の顔を値踏みするように走り、それからまたにこやかに細められる。
「お侍様も、一杯どうです。こんな世の中、堅苦しくしていては身が持たぬ」
「そうだな。だが、世の中を傾けるのも、こういう場からの言葉よ」
八代がさらりと返すと、男は肩をすくめた。
「おっと、きついお言葉。ですが、ご安心を。拙らはただの弱い百姓ですよ。城をひっくり返す力など、どこにもありませぬ」
周りの男たちも笑う。だが、湊には、その笑いがどこか薄く感じられた。
店を出て、しばらく歩いたところで、八代が小声で言った。
「さっきの男か」
「気づかれていましたか」
「剣の目は、ああいう時にも役に立つ。周りの空気が、あの男の一声で変わっていた。だが、良い方にも悪い方にも振れてはいない。ああいう者が一番厄介だ」
「笑って場を収めているようでいて、何も消してはいない」
「そうだ。火の上に蓋をしているだけだ」
湊は頷いた。
「今日のところは、場の癖を見ただけにしておきましょう。名前と、どのあたりの者かだけ、後で確かめたく存じます」
「同意だ。最初から摘み取れば、別の芽が地下に伸びる」
二人は、今度は城下の外れ――農村が広がり始める辺りへ向かった。
ある村の外れ、藁葺きの家が固まった一角で、湊は妙な静けさを感じた。
女たちが井戸端で洗い物をしている。子どもの姿は少ない。男たちは畑にも行かず、家の軒先に座って黙っている者が多い。
井戸端に近づくと、女たちが一瞬だけ手を止め、すぐに目を伏せた。
「この村では、祭礼はどうしておりますか」
湊が穏やかに問うと、一人の女が口を開いた。顔に刻まれた皺が、その年の苦労を物語っている。
「去年から、中止でございます。田の出来が悪く、祭りどころではない、と」
「誰が決めた」
八代の問いに、女は一瞬迷い、目線を井戸の向こうへ向けた。
その視線の先には、一軒だけ屋根瓦を載せた家がある。他より少し大きく、軒先には立派な俵が積まれていた。
「庄屋様が……」
声はそこで小さく途切れた。
湊は、女たちに礼を述べたあと、その家の前まで歩いた。戸口には、年配の男が腕を組んで立っている。
「城から改めに参りました。庄屋殿に話を伺いたく」
「これはこれは、お疲れ様でございます」
庄屋は深々と頭を下げた。言葉遣いは丁寧で、笑みも崩れない。
「村の祭礼が去年から絶えていると聞きました。田の出来が悪いから、と」
「はい。今年も、先が見えませぬゆえ。余裕のないところに祭りをすれば、かえって恨みが出ましょう」
「恨み、でございますか」
「ええ。“なぜうちだけ米がないのに、踊りなどしているのだ”と。祭りというものは、皆に余裕のある時こそ楽しめるもの。苦しい時に無理にやれば、かえって心が荒れます」
言っていることは理にかなっている。だが、その声にはどこか“押さえつける”響きがあった。
「普請や年貢のことについて、村から上に訴えが上がったことは」
「ございませぬ。皆、上杉様の御恩を口々に申しております。蒲生の頃より、いくらかは楽になったと」
言葉だけ聞けば、先ほどの寺と同じだ。だが、寺とは違う気配がある。
この村では、不満が“口にされる前に”止められている――そんな感じ。
湊は、庄屋の後ろに積まれた俵をちらりと見た。他の家には見られなかった数だ。
「その米は、村の皆で分けるのですか」
「お預かりしている分も含まれております。年貢や、いざという時のための備えでございます」
「いざという時、とは」
「飢饉や、戦でございます。会津は、いつ何が起こるか分かりませぬから」
言葉はもっともだ。だが、その「いざという時」が、誰のための備えなのかが見えない。
屋敷を辞したあと、村の外れまで歩いたところで、湊は足を止めた。
「ここは、“声が滞っている”村ですね」
「そう見えるか」
「はい。寺のように整えられているのではなく、庄屋殿のところで押しとどめられている。祭りが絶えたことで、村人が集まる場も消えている。声が交わる前に、途切れているように思えます」
八代は腕を組んだ。
「放っておけば、どうなる」
「静かなまま、何も起こらぬかもしれません。ですが……どこかで別の火種が投げ込まれた時、一気に燃え上がる気がします」
「言葉を交わしていない分だけ、形が見えぬ怒りになるか」
「ええ。“誰に怒ればよいのか分からない怒り”ほど、厄介なものはありません」
湊は、村の方を振り返った。井戸端で洗い物をしていた女たちが、こちらをじっと見ている。その目には、期待とも不安ともつかぬ色が浮かんでいた。
「今日見た三つ――寺、酒屋、この村。どれも、違う形で“声”が動いていました」
「どこが一番危うい」
「今すぐ火が上がるなら、酒屋でしょう。だが、長く見れば……この村かもしれません」
「理由を聞こう」
「酒屋の声は、まだ笑いに混じっています。あの男が意図しているかどうかは別として、場の空気は読める。寺は、少なくとも“上に見せる顔”を意識している」
湊は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ですが、この村は“何も見せない”。声が交わらぬまま、祭りも絶えている。ここで生まれるのは、誰にも届かぬまま溜まっていく“声なき不満”です」
八代は長く息を吐いた。
「湊殿。お前は、いつのまにか“人の声”まで数え始めているな」
「数えているつもりはありません。ただ……水や銭と同じように、どこで滞っているかを見ているだけです」
「それを“数える目”というのだ」
八代は、空を見上げかけて、ふと目線を戻した。湊も、あえて空は見なかった。
今日は雲ではなく、人の声を見に来たのだから。
「城に戻って、兼続様に報告しよう。どこにどんな滞りがあったかをな」
「はい」
会津百二十万石。その中の、ほんの一握りを見ただけだ。
だが、それでも分かったことがある。
人は、数字には嘘を書く。
だが、沈黙はもっと深い嘘を隠す。
その沈黙を見つけ、ほどき、声に戻すことが――
神指城の絵図に描かれていない“もう一つの普請”なのだと、湊は思った。




