21話: 心臓部への招き
左内の試練から三日が過ぎた。
数字に潜む影を見抜き、人足逃散の原因を突き止めた湊の名は、城中で静かに広がりつつあった。
だが、当の湊はそのことすら知らず、ただ与えられた役目に向き合い続けていた。
この日の朝も、湊は早くから帳場に籠もり、左内から渡された新たな帳簿と格闘していた。
一筆下ろすたびに紙がかすかにきしむ。その音が、自らの未熟さを告げるようで気が引き締まる。
八代が湊の肩越しに覗き込んだ。
「湊殿、また補助線を引いているのか」
「ええ……分かりにくかったので。頭の中だけでは追えず、線にしてみました」
紙の上には、商品の流れと人の動きを照らし合わせる補助線が縦横に走っている。
八代はふっと笑った。
「よい癖だ。剣も同じよ。見えぬ流れは、いったん形にすればよく分かる」
「線を剣に例えるのですか?」
「お前の線は、斬るというより“切り分ける”のだろうな。
どれが真で、どれが虚か。その境を探る剣だ」
「……格好よく言いますね」
「本当のことだ」
柔らかい声音だった。励ましというより、湊の成長をそばで見続けてきた者の実感――そんな温度があった。
その時、静かな足音が近づく。
湊と八代が顔を上げるより早く、戸が二度叩かれた。
「湊、いるか」
落ち着いた低い声。だがその奥には、抗いようのない威がある。
直江兼続であった。
「兼続様……!」
湊と八代は慌てて立ち上がり、膝をつく。
「よい、続けよ。そんなに堅くなるな」
兼続は帳場へ入り、湊の広げた帳簿を一瞥した。
補助線に沿って走る数字の脈。その工夫を認めるように、口元がわずかに緩む。
「左内が面白がるわけだ。数字を写すだけの者には、この線は引けぬ」
「いえ……未熟ゆえに、こうしないと読み切れず……」
「未熟な者は線すら引けぬものだ。
“見えぬものを見えるようにする工夫”こそ、才の証よ」
その一言で湊の胸が熱くなる。
兼続は机の前に座りなおし、湊へ向き直った。
「湊。そなたを一度、城の奥へ連れていく」
「城の……奥、でございますか?」
「会津の要――政の心臓部よ。
いずれはそなたにも触れてもらわねばならぬ場所だ」
八代は息を呑んだ。
それはただの資料庫でも、役所でもない。
上杉家の“内臓”を見せるに等しい重大な意味を持っていた。
「景勝様がお呼びなのですか……?」
「まだだ。今日はその“準備”だ。
そなたが主君の前に立つに相応しいか、わしが見極める」
兼続の眼差しが湊を射抜く。
試す、鍛える、見極める――その視線を湊はこれまで幾度も浴びてきた。
だが、この日の光は違った。
もっと深く、もっと重く、
“未来へ進ませる覚悟”を帯びていた。
湊の胸が騒ぐ。
この三日間、数字と向き合い、泣きそうになりながら帳簿と格闘した。
その先に、兼続は何を見たのか。
兼続は静かに言葉を継いだ。
「左内は数字の裏を見抜く“影の目”を持つ。
だが会津を治めるには、影だけでなく光も読まねばならぬ」
「光……でございますか」
「うむ。
人がどこに集まり、どこに離れ、どこに力を宿すのか。
それを読むことは、数字を切るより難しい」
八代が思わず呟いた。
「……湊殿を、次の段階へ?」
兼続はうなずいた。
「そなたには、いずれ“地を動かす者”になってもらう。
そのために、まずは会津の根を見せる」
湊の喉が乾く。
――地を、動かす者。
それは、左内の言う“影を読む者”でも、帳簿を整理する小吏でもない。
会津という巨大な大国をどう作り替えるか、その中枢へ踏み込むということ。
「ついて参ります」
湊は静かに、しかし揺るぎなく答えた。
兼続は立ち上がると、部屋の奥の棚から一巻の巻物を取り出した。
重く、分厚い巻物だった。
「湊。そなたに見せたいのは――会津の“未来図”だ」
湊の心臓が跳ねた。
「これは、ただの普請図ではない。
――神指城と、その周辺の城下をすべて描いた設計よ。
会津という地をどう再編し、どう守るかを示す“器”だ」
巻物の重さが、湊の膝へずしりと沈む。
「これよりそなたには、“人の流れ”を読ませる。
数字ではない。
怒号でも恐れでもない。
ましてや刀でもない」
兼続は静かに言い放った。
「――会津をどう治めるべきか、その目で見極めよ」
帳場の空気が震えた。
湊は深く、深く頭を垂れた。
「はい。必ず」
巻物の重みを両の手で受け止めながら、湊はごくりと喉を鳴らした。
会津そのものの“器”が、この中に収められている。
「立て。これを持って参れ」
「は、はい」
湊が巻物を胸に抱え立ち上がると、兼続は先に立って歩き出した。
八代が無言で一礼し、その背を追う。湊も遅れまいと、急ぎ足を揃えた。
廊下は城の内でも人通りの少ない筋で、障子越しの光も淡い。
あちこちに立つ中間や小者たちは、兼続の姿を見ると一様に道を開け、頭を垂れた。
「……ここまで奥へ来たのは、初めてだ」
胸の内で呟く。
村立て改めの指示を受けたときも、この手前の部屋であった。
今進んでいる先は、それよりさらに奥――城の“内臓”と呼ぶにふさわしい場所だ。
「緊張しておるな、湊」
先を行く兼続が、振り向きもせずに言った。
「……お見通しでございますか」
「肩が固い。足音で分かる」
そう言いながらも、兼続の声はやわらかい。
「怖れる必要はない。
ここで見るものは、お前を縛るための鎖ではない。
――会津を、ともに支えるための“重み”だ」
湊は、巻物を抱える腕に力を込めた。
「支えられるよう……努めます」
「努めるだけで済むなら、わしも苦労はせぬがな」
小さく冗談めいた一言。
しかしそれに続く沈黙には、やはり重みがあった。
◇
やがて兼続が足を止めたのは、厚い板戸の前だった。
左右には武装した小姓が二人、無言で控えている。
「入る」
兼続が一声かけると、板戸が静かに左右へ引かれた。
中は、城の一室とは思えぬほど広かった。
床のほぼ中央に大きな卓が据えられ、その上には幾枚もの木製の板図と紙の図面が重ねられている。
壁際には、村々の名が記された木札や、年貢高を記した札が整然と並び、まるでこの一室だけで会津の内情が見通せるかのようだった。
「ここが――」
「会津の根だ」
兼続が短く答える。
「村々の位置、道筋、川の流れ。
兵の集まる場所、人が暮らす場所……。
すべてがここに映っておる」
湊は思わず息を呑んだ。
これまで巡ってきた村々の名が、卓の上の板図のあちこちに刻まれている。
それぞれの位置関係が、まるで一枚の網のように繋がっていた。
「湊。その巻物をここへ」
兼続の指示で、湊は卓の手前に膝をつき、巻物をそっと置いた。
紐を解き、両端を持って慎重に広げる。
紙が擦れる音とともに、ひとつの巨大な図が現れる。
山並み。
川のうねり。
城郭の輪郭と、そこから伸びる街路。
門、堀、橋、寺、町屋――それらが緻密な筆で描き込まれていた。
「……これが、神指城……」
思わず声が漏れた。
今、湊たちが暮らすのは若松城を中心とした城下だ。
だがこの図に描かれた城は、明らかに違う位置にある。
「若松は、もともと蒲生の城。
悪くはないが、会津全体を束ねるには器が小さい」
兼続が指で、現在の城下の位置を示し、続けて新たな城の位置をなぞる。
「こちらの地は川を押さえやすく、周りに余白がある。
戦の時には兵を集めやすく、平時には町を広げやすい。
――城とは、戦のためだけの砦ではない。
人と物を集め、守り、育てる“器”だ」
湊はごくりと唾を飲み込んだ。
「会津九十一万石――などと、人は気軽に申す。
だがその石高が、どこからどう運ばれ、どこで食われ、どこに積まれるか。
それを考えねば“九十一万石”はただの数字にすぎぬ」
兼続の指が、図の上を滑る。
川筋から城下へ、そこからさらに城の内側へ――水と物資の道をなぞるように。
「湊。見たままを言ってみよ。
この図は、何を考えて引かれた線に見える?」
湊はしばし黙考した。
左内の帳簿を前にしたときと同じように、まず“流れ”を見る。
「……城を中心に、道が四方へ伸びております。
それぞれが、川と交わる場所で太くなっている」
「うむ」
「太い道の先には、市が開ける場所が多いかと。
人と物が集まり……そこへ寺や社が置かれているように見えます」
「続けよ」
「寺社は……ただ祈る場ではなく、人の心を繋ぐ場。
市は物を動かし、寺社は人を留める。
この図は、それを意図して……」
言葉を探しながら、湊は自分の指で線を辿る。
「――“人の溜まり場”を、あらかじめ仕掛けているように感じます」
兼続の目が細められた。
「ほう」
「人は、集まる場所に集まり、通りやすい道を通ります。
その“癖”を先に読んで、城と町を組んでいる……そんな気がいたします」
「左内の帳簿と同じだな」
兼続が静かに笑う。
「水の流れ、銭の流れ。
それに続いて――今、そなたは“人の流れ”を見ようとしている。
よい。筋は通っておる」
湊は安堵と同時に、背筋が寒くなるような感覚を覚えた。
この図を描いた者は、いったいどこまで先を見ていたのか。
「だがな、湊」
兼続の指が、ある一点で止まる。
「この図には、まだ“穴”がある」
「穴……でございますか」
「そうだ。
城と町、川と道ばかりに目が行くと、見落とすものがある」
兼続は、城下から少し外れたところに描かれた小さな印に指先を置いた。
「ここを見よ。何に見える?」
湊は目を凝らした。
「……寺でしょうか。山の中腹に位置していますが、道が細く……」
「そう。古くからの寺だ。
会津を治めるうえで無視できぬ“言葉”を持った寺よ」
「言葉……」
「民は城主の命だけで動くものではない。
僧の説法、祭礼の有無、古くからの“村のやり方”――そうしたものが、時に武士の命を上回る力を持つことがある」
兼続の声音がわずかに低くなる。
「かつて越後では、寺を巡って大きな騒ぎも起きた。
教えを利用して民を煽る者、武家の政を軽んじる者――そうした者もおる」
湊ははっとした。
村立て改めの折にも、古い慣習を盾に抵抗する声があった。
それが大きくなれば、一揆に繋がる危うさがある。
「この図には、そうした“言葉の流れ”までは描かれておらぬ。
ゆえに穴だ」
「……では、誰かが補わねばならぬのですね」
「そうだ」
兼続は湊を見た。
「銭の流れは左内が見る。
戦の流れは、わしと諸将が見る。
――だが“人の心の流れ”を読む役は、まだ足りぬ」
湊は、胸の奥で何かが小さく鳴るのを感じた。
村を回り、怒りの奥の恐れを見た日々。
帳簿と格闘し、数字の陰に潜む小心と欲を見た二日間。
それらすべてが、今目の前の図と繋がっていく。
「湊。そなたに任せたいのは、この“穴”を埋めることだ」
「穴……」
「城をどこに置き、道をどこへ通せば、人は安心し、働き、逃げずに済むか。
寺社をどこに置き、祭をどこで行えば、村々が誇りを保ちながらも、政に背かぬ形を作れるか」
兼続の声が、静かに、しかし強く響く。
「それを考える者が要る。
剣ではなく、筆で。
怒号ではなく、言葉で」
湊は、喉が詰まりそうになりながらも言葉を絞り出した。
「……わたくしに、務まりますでしょうか」
「務めよ」
即答だった。
「わしが左内を会津に引き入れたときも、同じことを申した。
『務まるか』ではない、『務めよ』だ」
兼続は卓から少し身を離し、腕を組んだ。
「そなたはまだ若い。
だが若いからこそ、古い“しがらみ”に縛られぬ目を持っている。
この図を一度真っ白にして、もう一度描き直せと言われたとき――
古き権益ではなく、人の暮らしから考えられる者が必要なのだ」
湊の胸に、じんと熱が灯る。
村で見た、泥だらけの田。
痩せた牛。
子供を背負いながら鍬を振るう女たち。
あの生活を守るために、城をどう建てるのか。
道をどこに通し、どこに橋を架けるのか。
――それを考えてよいと言われている。
「……承りました」
湊は、深く頭を垂れた。
「ただ、すぐに答えを出す必要はない。
今は、この図を見て、感じ、疑い、書き留めよ。
それだけでよい」
兼続は卓の脇から小さな木箱を取り出し、その蓋を開けた。
中には、細い筆と、小ぶりの板図が幾枚か収められている。
「これは“写し用”の図だ。
神指の元図を傷つけるわけにはいかぬゆえ、そなたにはこちらを使わせる」
「こんなものまで……」
「最初から一枚にまとめるな。
“人の流れ”“物の流れ”“言葉の流れ”――それぞれ別に写し、考えよ。
そのうち、線が一本に重なろう」
まるで、あらかじめ湊の癖を知っていたかのような指示だった。
湊は胸の奥でひそかに笑う。
(……また、線だ)
水の癖を読むために引いた線。
銭の流れを追うために引いた線。
今度は、人の足と心の流れを追う線。
湊は、板図の一枚を手に取った。
「湊」
兼続が、ふと声の調子を変えた。
「一つだけ、忘れるな」
「はい」
「城も道も寺も、人を縛るためにあるのではない。
人が“生きていけるようにするため”にある」
兼続の眼差しが、真正面から湊を貫いた。
「そなたは“法”を学んだと聞く」
「……僅かばかり、でございますが」
「ならばよい。
法とは本来、人を折るための棒ではなく、人がぶつからぬよう道を分ける柵だ。
その考えを忘れぬ限り、そなたの線は人を殺さぬ」
湊は、その言葉を胸の深くに刻んだ。
「心得ました」
◇
部屋を辞したときには、外の光はすでに傾きかけていた。
廊下に出た途端、八代がそっと息を吐く。
「……すごい顔をしておったぞ、湊殿」
「え?」
「さっきの部屋だ。
図を見ているとき、お前は戦場で槍を構える武士のような目をしていた」
「槍なんて持てませんよ」
「筆を持っているだろう」
八代はくつくつと笑った。
「湊殿の槍は、筆先だ。
会津の地をどう刺し、どう守るか……今日からは、それを考える役目だな」
「……軽く言わないでください」
「軽くなどない」
笑いながらも、その声には確かな敬意があった。
「わたしは剣で、お前は筆で。
それぞれの場所で、同じ会津を守るだけのことよ」
湊は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ありがとう、八代」
「礼などいらぬ。
ただ……一つだけ言っておく」
八代が立ち止まり、真顔になる。
「どれほど立派な図を描こうと、実際に動くのは“人”だ。
その人が倒れぬよう守るのがわたしの役目。
湊殿の線が、誰かの首を落とす線になりそうなら――その時は、止める」
その言葉は、脅しではなく、約束のように響いた。
「……頼もしいね」
「当然だ」
二人は並んで歩き出した。
◇
夜。
湊は与えられた小部屋の机に、昼間渡された板図を広げていた。
火鉢の火が静かに揺れ、その光に照らされて、会津の地形が浮かび上がる。
山、川、道、村、寺――昼の部屋で見た大図を、簡略に写したものだ。
「まずは……人の流れ、だな」
湊は筆を取り、そっと線を引き始めた。
村で聞いた話を思い出す。
朝早く山へ入る炭焼きの男たち。
市の日だけ川沿いの道を通る女たち。
雪の季節になると、麓の寺へ寄ってから帰る老人たち。
その一つひとつが、細い線となって図の上に描かれていく。
「次は、物の流れ……」
米、薪、塩、布、鉄。
どこで作られ、どこで集まり、どこへ運ばれ、どこで消えるのか。
左内の帳簿で学んだ“数字の癖”を思い出しながら、また別の線を引く。
そして――最後に筆を止めた。
「言葉の流れ……」
これはまだ、はっきりとは描けない。
だが、村で聞いた噂話や、寺の説教の断片が、湊の頭の中に薄い輪郭を描き始めていた。
(ここを間違えれば、一揆になる……)
越後で起きた騒動の話を、兼続が語ったときの表情。
それを思い出し、湊は無意識のうちに筆先を握る手に力を込めた。
「……間違えないように、しないと」
誰に聞かせるでもなく呟き、湊は再び線を引き始めた。
火鉢の炭が、ぱちりと小さく鳴る。
その音が、まるで遠い戦の気配のようにも聞こえた。
この夜、湊が板図の上に刻んだ無数の細い線は、まだ誰の目にも触れない。
しかしやがてそれが、会津の城と町の形を変え、戦の行方すら左右することになる――そのことを、この時の湊はまだ知らなかった。




