20話: 城普請の歪み、数字の叫び
左内に名指ししたあの役人――帳簿取り次ぎの下役・藤井勘兵衛は、その日のうちに呼び出された。
湊は左内の背後に控え、静かに様子を見守っていた。
「勘兵衛。腰を下ろせ」
「は、はい……」
勘兵衛は汗をにじませながら座る。
左内は帳簿を三冊、音もなく机へ並べた。
「おぬしの筆跡だな。間違いないか」
「……は、はい」
「では問う。これら三つの“数字の癖”――いかなる理由で、こうなった?」
左内の声音は淡々としているのに、ひとつひとつの言葉がまるで針のように刺さる。
勘兵衛は口を開きかけて、閉じ、また開く。
「そ、それは……その……」
湊は目を細めた。
――怒りの奥には恐れがある。
だが、この男は怒りも恐れも表へ出していない。
あるのは、ただ“隠しごとを抱えた者の沈黙”。
左内が湊へ横目を送った。
「湊。おぬしが見立てた“動機”、ここで申してみよ」
「……よろしいのですか」
「構わぬ。どう反応するかも試しよ」
湊は勘兵衛をまっすぐ見つめた。
「勘兵衛殿。あなたは、私腹を肥やそうとしたのではなく……“立場”を守ろうとしたのですね」
勘兵衛の肩がびくりと揺れた。
「立場、でございますか……?」
「はい。三つの数字の癖は、あなたが得をするためではなく、
“自分の部署が無能だと思われぬよう、帳尻を合わせた”形跡に見えます」
左内が眉をわずかに上げた。
湊は続ける。
「兵糧の減りが少ない日、塩の仕入れの高騰、鉄砲玉の戻り――
どれも『本来あるべき数字』と違っていました。
ですが、あなたが抜き取った痕跡はない。
むしろ“帳簿を整えようとして、逆に歪めた”ように見えました」
勘兵衛の顔がみるみる青ざめていく。
「そ、そ、それは……! わ、私は……!」
「言い訳は要らぬ」
左内が手をあげて制した。
「湊の見立ては、ほぼ正しいだろう。
この男は銭を盗む器量も胆力もない。
だが、“上へ怒られぬために数字を塗った”小心さがある」
勘兵衛は俯き、震える声でつぶやいた。
「……申し訳、ございませぬ……」
「勘兵衛」
湊は静かに言った。
「あなたが守ろうとしたのは、部署の面目でしょう。
けれど、数字は人の命と繋がっています。
兵も農も、会津全体を動かす“血”そのものです」
「……っ」
「間違いを恐れ、隠すことは誰でもします。
ですが、隠した数字は、いずれ誰かの現場で“死”になります。
あなたは、そこを忘れてしまった」
長い沈黙が落ちた。
やがて左内が立ち上がり、帳簿を閉じる。
「勘兵衛。おぬしを罰するのは兼続様だ。
だが、覚えておけ――」
厳しい声が落ちる。
「銭の流れを誤魔化す者は、己の命より先に“他人の命”を奪うのだ」
勘兵衛は床に額をつけて泣き崩れた。
◆
勘兵衛が去ったあと、蔵には二人の静寂だけが残った。
「湊」
「はい」
「いまの見立て……どこで確信した?」
「数字よりも、文字でした」
「文字?」
「はい。数字を改める者は、筆も迷います。
ですが彼の筆跡は“必死に整えようとして滲んだ”痕がありました。
盗む者は、もっと大胆に、そしてもっと巧妙に書きます」
左内は目を細め、低く笑った。
「……やはり面白い。
おぬし、数字だけでなく“人の心の癖”まで読むのだな」
「恐れ入ります」
「だが湊。銭の世界は、今見たような小心者ばかりではない」
左内は机を指で叩き、湊の胸をまっすぐ射抜くように言う。
「そのうち、“笑って数字を殺す奴”と出会うぞ。
そいつは怒らず、怯えず、声を上げず――
ただ黙って、得を拾い続ける。
おぬしのような若い者が最も苦手とする敵だ」
湊の背筋に冷たいものが走った。
「覚えておけ湊。
帳簿とは、人の心の戦場だ。
数字は刀より冷たく、人より嘘をつかぬ。
だからこそ――」
左内は湊の肩を軽く叩いた。
「数字を読む者には、どんな武将にも劣らぬ“権”が生まれる。
湊。おぬしが今手にしているのは、剣と同じ“力”だ」
その重さに、湊は息を呑んだ。
その時、蔵の外から足音が近づく。
八代の声が響いた。
「湊殿。兼続様がお呼びです」
湊は左内を振り返る。
「行け。兼続様は“次”を見せるおつもりだ」
「……はい!」
湊は強く頷き、蔵を後にした。
兼続の執務部屋に入ると、巨きな紙図が床に広げられていた。
湊は息を呑んだ。
会津一円の地形、村々の位置、街道、川筋。
さらにその上に、朱の線で兵站路が描かれ、青の線で物資の流れが示されている。
「来たか、湊。そこへ座れ」
「はい」
兼続は地図の上を指でなぞりながら言った。
「お前が左内の試練をどう越えたか……左内からすでに聞き及んでおる」
「……左内殿は、何と?」
「“数字ばかりでなく、人の恐れと欲を読み取る目を持つ”と、な」
湊の胸に熱が灯る。それは嬉しさではなく、身が引き締まる緊張だった。
「だが湊――数字が読めるだけでは、戦は動かせぬ。
次は、“数字の裏に何があるか”を学べ」
兼続は地図の南端を指した。
「ここを見よ。街道は細く、橋は一つ。
兵を三千送るだけで、街道は詰まる。
だが――」
兼続は地図を軽く叩く。
「この数字帳では『兵糧五百俵の輸送』だけが記されておる。
輸送路の狭さも、橋の老朽も、村人に負わせる負担も数字に出ぬ。
数字だけを見れば、“もっと運べ”となる」
湊は静かに息を呑んだ。
「……数字の奥に、見えない“人”がいるのですね」
「そうだ。人を知らぬ者が数字を動かせば、数字は人を殺す」
兼続の声音は、左内の鋭さとは違う重みを帯びていた。
「湊。お前は“恐れを見る目”を持っている。
ならば次に学ぶべきは、“数字の裏にある声なき声”だ」
◆
「では、兵糧蔵の次に何を見せてくださるのですか」
「……城普請よ」
「城、でございますか?」
「うむ。まだ公にしておらぬが――会津の地に、新たな拠点を築く」
兼続は一息置き、地図の中央に手を置いた。
「湊。城とは、兵を守り、領民を守り、銭と物資の流れを束ねる“器”だ。
器が歪めば、領も軍も歪む。
ゆえに、築城は数字の化け物だ」
湊は思わず身を乗り出す。
「築城に、数字……」
「石、木、土、運搬、労働、年貢、普請調役――
どれも膨大な数が動く。
たった一つの数字の誤りが、千人の働きを狂わせる」
兼続は、細長い木札を湊へ差し出した。
「これは“城普請の初期帳簿”だ。
左内のものよりは易いが……お前には丁度よい。
まずは目を通しておけ」
湊が札を手に取ると、兼続は穏やかに続けた。
「湊。お前は、筆の者でありながら、戦を見る者になれ。
戦を見る者でありながら、人を失わぬ者になれ」
胸の奥がじんと熱くなる。
兼続に言われたいと思っていた言葉が、そこにあった。
◆
そのとき、襖の向こうから控えの声が届いた。
「兼続様。兵部より急使が参りました」
「通せ」
姿を現したのは、兵部の中間。顔が強張っている。
「会津南方の村にて……“人足の逃散”が出たとのこと!」
「逃散?」
湊は思わず声を上げる。
兼続はすぐには立ち上がらず、湊へゆっくりと視線を向けた。
「湊。これは学びの刻だ」
「学び……?」
「人足逃散は、数字の歪みが“人の身”へ表れたもの。
銭か、普請か、年貢か、恐れか――何かが限界を越えた」
兼続は湊の肩へ手を置く。
「見に来い。お前の目で、何が起きているか確かめよ」
「……はい!」
◆
会津南方の村は、普段の静けさを失っていた。
人足が使うはずの道具が投げ出されたまま、納屋には鍵もかけられていない。
残された者たちの顔には疲労と不安が見えた。
「兼続様……!」
村役人が駆け寄る。
「ど、どうかお許しを……! あれは奴らの勝手で……!」
「勝手で逃げる者などおらぬ」
兼続の一言で、村役人が言葉を失う。
「湊。見てこい。お前の“流れを見る目”で、何がこの村を歪めたか探せ」
「承知しました」
湊は村の中を歩き、道具の置かれた位置、残された食糧の量、家の戸締まり、普請場との距離……ひとつひとつ観察していく。
そのとき、湊はふと気付いた。
――この村の空気は、怒っていない。
だが、“疲れ切っている”。
見つけた答えが、口をついて出た。
「……これは、普請の割り当てが重すぎるのでは」
「ほう。理由は?」
「はい。普請場までの距離は想像以上に遠く、村の田畑は手つかず。
人足は毎日、朝日より前に出て、日暮れに戻る――それでは耕作が間に合いません」
湊は続けた。
「さらに、逃散した者の家には“払ったはずの年貢の控え”が残されたまま。
つまり……年貢を払ったあとで、普請の負担が“後から”増えたのです」
兼続はゆっくりと頷いた。
「湊。では問う。なぜ“後から”増えた?」
「……数字の書き換え、でございます」
兼続の目が深くなった。
「誰が、何のために?」
「普請の遅れを隠すため、です。
遅れた分の人手を“村持ち”に見せかければ、責任が村に落とせます。
帳簿だけなら、上に叱責がいかない」
「つまり――」
「はい。“現場を知らぬ者の数字合わせ”です」
風が吹き、村の木々がざわめいた。
兼続はしばし沈黙したのち、静かに言った。
「湊。見事だ」
その声音に、叱責はない。
ただ、深い信頼が宿っていた。
「よくぞ見抜いた。
現場を見、数字を追い、人の心も読んだ。
これこそ“政”の第一歩だ」
湊は胸が熱くなるのを感じた。
◆
会津へ戻る道すがら、兼続はふと言った。
「湊。お前には、数字を読む才がある。
だが、それ以上に――」
横目で湊を見る。
「“人の痛みを見捨てぬ”才がある」
「……私など、まだ浅うございます」
「浅い者は、人足逃散を“罪”としか見ぬ。
だが、お前は痛みを見た。
だからこそ数字が読める。
数字は人を映す鏡。
人を知らぬ者が鏡を覗いても、そこに映るのは己の顔だけよ」
その言葉は、湊の胸に深く刻まれた。
「湊。お前は――いずれ、会津を動かす“筆”となる」
「……!」
湊が息を呑むと、兼続は微笑ともつかぬ表情を浮かべた。
「楽しみにしておるぞ」
◆
その夜、兼続は湊を下がらせてから、地図の前にひとり座った。
蝋燭の灯が揺れ、兼続の横顔を照らす。
「……あの若さで、あれほど見るか」
独り言のように呟く。
「左内も言った。“面白い”とな。
八代も言った。“剣になる”とな」
兼続は筆を取り、地図の端に小さく印をつけた。
「景勝様。
わしは、ひとりの若者を見つけました。
この混乱の世を渡るための――新しき“柱”を」
静かに筆を置く。
「湊。
お前がどこへ辿り着くか……楽しみよ」
蝋燭の炎が揺れ、部屋の影が深く沈んでいく。




