19話:銭の底を覗く者
試験二日目の夜明け前、湊はまだ薄暗い部屋で目を覚ました。
机の上には、左内から渡された帳簿が山のように積み上がっている。
数字はすでに頭の中で流れとなり、形となり、
まるで声を持つ者のように語りかけてくる。
――ここで膨らみ。
――ここで途切れ。
――ここで“誰かの意図”が差し込まれている。
湊は筆を握り、最後の整理を始めた。
「湊殿、朝餉は……まだか?」
戸の向こうで八代が呆れたように息を吐く。
「すまぬ、八代殿。もう少しだけ……」
「左内殿の試験ゆえ、無理をしておられるのだな。
だが食わねば頭は回らぬ。少しでも口に入れろ」
「……ありがたい」
湊は握り飯を半分だけ口に運び、再び筆に戻った。
数字を追いながら、心の中で整理する。
――誰がやったか。
――なぜやったか。
――どこで利益を得たか。
答えはすでに掴んでいる。
だが、左内が求めているのは“正解”だけではない。
湊はゆっくりと息を吸った。
「……銭の流れは、水よりも、血よりも深い」
村で学んだ“怒りの奥を読む”という視点。
それを、今は“数字の奥を読む”に変えているだけだ。
◆
昼前、兵糧蔵の帳場に湊が入ると、左内はすでに座っていた。
筆を弄びながら、薄く笑う。
「二日で返すと言ったが……さて、どうだ?」
「はい。三つのおかしさの“理由”、その“筋”、そして“誰が動いたか”――すべて見えました」
「ほう」
左内は湊へ視線だけを向ける。
「では聞こう。
まず、“なぜ”帳簿に乱れが出た?」
「乱れではなく、“意図的な補正”でございます」
「言ってみろ」
「兵糧米が三日だけ減ったのは、兵が休んだからではなく、
“別所へ密かに送った”ため」
「理由は?」
「会津への移封に際し、足りぬ兵糧を補うためと思われます。
ただし、表に記せば責を問われる。ゆえに数字だけ整えた」
左内の目が細くなる。
「では塩の相場が跳ねた理由は?」
「新しい商人を連れてきた者がいます。
短期では融通が利くが、長期では損を生む。
……つまり、“急場の資金繰り”に使われた」
「ふむ。それで?」
「鉄砲玉数の不一致は、記録した者が“故意に数を変えた”。
数が合わぬのは、不正の隠れ蓑です」
左内は机を指先で二度、軽く叩いた。
「では湊。
三つの動きを一つに繋いでみよ。
“何のために”誰がやった?」
湊は深く息を吸った。
「三つの役目――兵糧、物資、兵備。
それらに同時に触れられる者は一人しかおりませぬ」
「誰だ?」
「――兵糧蔵の“管理役”の者」
左内の唇が、わずかに吊り上がる。
「理由は?」
「この三つを動かしながら声を上げぬ者。
怒りも不満も語らぬ。
ただ黙って、数字を整え、波立たせぬように動く。
……左内殿の言葉を借りれば、“黙って笑う者”。
その者が、最も怪しい」
「では、その者の“目的”は何だ?」
湊は迷わず答えた。
「――蓄えでございます」
左内の手が止まった。
「兵糧を別所に回し、塩商人を替え、鉄砲玉を操作する。
三つの行為はどれも……“戦の前に備えを作る動き”。
つまり――」
湊はまっすぐに左内を見た。
「この者は、密かに“戦に備えた蓄え”を作ろうとしています。
上杉家が揺れる時に、自身の立場と利を守るために」
左内は筆を置き、組んだ指の下で口元を隠した。
そして――笑った。
「……湊。
お前は、数字の向こうにある“人の腹”を読めるのだな」
言葉は淡々としている。
しかし、声の奥に確かな評価がある。
「よい。これは“拾い物”だ」
八代は湊の背後で、息を呑んだ。
「湊。
今日からは“銭と兵の流れ”だけでなく――」
左内は机の奥から、さらに厚い帳簿を一冊取り出した。
「“人の流れ”も見てもらう。
兵の移動、役目の入れ替え、俸禄の上下。
銭を動かす者は、必ず人も動かす」
湊は膝を正し、深く頭を下げた。
「御教導、よろしくお願い申し上げます」
左内の声は低く、重かった。
「湊。
覚えておけ。
数字とは、人の心の“影”だ。
影を追える者だけが、戦を読み、国を守る」
湊の胸に、その言葉が深く刻まれた。
試験が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
左内は帳場机の上を片づけもせず、湊の前に腰を下ろす。
「湊。
二日間でここまで辿り着いた者は、今まで一人もおらなんだ」
褒め言葉であるはずなのに、左内の声音はむしろ冷たい。
「だが勘違いするな。
今日お前が見た“影”は、会津全体で見ればごく一部。
国が揺れれば、影は百にも千にも増える」
「……覚悟しております」
「ならばよい」
左内は帳簿を指先で叩きながら、ぽつりと言った。
「湊。“良き者”ほど、数字に疎い」
湊は息を呑む。
「善人は、他人の悪意を疑わぬ。
だから影に気づかぬ。
そして影を作る者ほど、声を上げぬ。
……だから始末が悪い」
湊は村で見た光景を思い出す。
怒鳴る者、泣く者、訴える者。
そこには恐れがあり、不安があり、心があった。
だが――今、左内が語るのは“沈黙する敵”だ。
「湊。お前は“沈黙する悪意”を読める。
これは剣より貴重な才よ」
左内の言葉が静かに落ちる。
「……だからこそ、試す」
◆
左内は湊に新しい帳簿を押しつけた。
「今度は“人の流れ”だ。
騎馬の入れ替え、足軽の移動、俸禄の推移。
すべてを繋いで“村とは違う規模”の地図を描け」
「……これを、今宵中にですか?」
「今宵中に“目星”だけでよい。
だが湊、覚えておけ」
左内の声が低く沈む。
「人は、銭以上に嘘をつく」
八代がわずかに目を細めた。
「左内殿、湊殿はすでに二日間寝ずに……」
「寝てよいとも言っていない」
左内はため息をつき、続けた。
「湊。この道を進むなら、いつか“味方の中の敵”を斬らねばならぬ日が来る。
覚悟しておけ」
湊は胸の奥に冷たいものを感じた。
だが同時に、静かな熱も灯る。
「……承知いたしました」
◆
その夜、湊は兼続のもとへ報告に向かった。
書院には灯りがひとつ、柔らかく揺れている。
「左内は、お前をどう評した?」
「……“拾い物”と」
「ほう。あの左内が、か」
兼続は嬉しそうでもなく、驚いた風でもなく、
ただ深く頷いた。
「湊。
今日お前が見たものは、国を支える“根”のひとつだ。
兵は表、銭は裏。
裏を握れば、戦の主導権を握る」
湊は息を呑む。
「兼続様……
左内殿は、なぜ私をここまで試すのですか?」
兼続は筆を置き、湊の正面に向き直った。
「湊。
この会津は、これから“大きな波”に飲まれる。
戦か、詰問か、あるいは国替えか。
何が起ころうと、もはや静かでは済まぬ」
部屋の空気が一瞬張り詰める。
「だから……
わしは湊、お前を“表”にも“裏”にも立てる器か見ておる」
「……器、でございますか?」
「うむ。
戦では剣を、政では数を。
どちらか一つでは国は救えぬ。
だが――その両方を握れる者は滅多におらぬ」
兼続は静かに笑った。
「左内は、今日それを見たのだろう」
◆
湊が部屋を辞した後、兼続は灯りを消さず、一人静かに呟いた。
「……湊。
お前の“目”は、上杉家の行く末を救う。
いずれ直江の名を背負わせてもよいほどに」
その言葉は湊には届かない。
だが確かに、未来への一歩が刻まれた瞬間だった。




