表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/32

1話: 会津へ──法学部生、武士の門を叩く

会津盆地はまだ冬の色を捨てきれていなかった。山の稜線には薄い雪が残り、谷を渡る風は肌を刺すように冷たい。清原湊は、村長から託された紹介状を懐に入れたまま、深く息を吸い込んだ。冷気が肺の奥にまで突き刺さるが、その痛みがむしろ意識を覚醒させてくれる。


(大丈夫だ。逃げなければ、道は開く)


 自分に言い聞かせるように歩みを進める。

 昨日まで普通の大学生――法学部の三年生だった青年が、今は戦国の大地を踏みしめているなんて、考えてみれば現実味がなかった。しかし湊は、非現実を嘆くよりも“ここでどう生きるか”を優先した。


 村長の家を出てしばらく歩くと、山道の先に荷車を押す男が見えた。湊が道の端に寄ると、男は気さくに声をかけてきた。


「若い兄ちゃん、旅の人か?」


「はい。城下に向かっています」


「ほう……一人でか?」


「はい。直江家に紹介をお願いしたくて」


 男は荷車の取っ手から手を離し、じっと湊の顔を見つめた。


「直江家に、か。若いのに肝が据わってるな。会津の城下は今、越後者と会津者の衝突で騒がしい。筋の通らぬ奴は、あっという間に追い出されるぞ」


「……覚悟しています」


「覚悟があるなら大したもんだ。だが覚悟だけじゃ武士の世界は生きられん。筋を通せ。そして誠実であれ。それだけだ」


 そう言って男は荷車を押して去っていった。


 湊はゆっくり息を吐いた。

 誠実であること。筋を通すこと。

 それは湊がずっと大切にしてきた信念でもあった。法学部で学んだ内容はこの時代の武士の世界と無縁に見えるが、根本の“道理”は時代を超えるはずだ。


 しばらく歩き、道中の茶屋で湊は一杯の粥を頼んだ。銭の残りは少ない。村長が渡してくれた分がなければ、とても旅などできなかっただろう。


「若いの、城下へ行くのかい?」


 茶屋の老婆が湊の様子を見て声をかけた。


「はい。そちらで働ければと思っています」


「ならば宿を早めに確保するんだね。城下は人で溢れとる。移封の影響ってやつじゃ」


 湊は礼を述べ、粥を飲み干した。

 会津若松が近づくにつれ、道を行き交う人も多くなっていく。行商人、荷を担ぐ男たち、馬に乗った侍。彼らの声が道に渦を巻く。


 やがて霧が晴れ、町並みが姿を現した。白壁が連なる蔵、瓦屋根が陽光を反射し、どこか厳かな空気を作り出している。視線を上げれば、天守が遠くに構え、灰色の空には一本の巻雲がゆっくり細く伸びていた。変化を告げる雲。


(ここが……これから自分が生きる場所、か)


 胸元の紹介状を押さえながら湊は歩いた。


 城下門では、番兵が槍を横にして湊を止めた。


「何者か」


「清原湊と申します。直江家へのお取次ぎを願い、紹介状を持参いたしました」


 番兵は紹介状を手に取り、墨のにじんだ署名を確認する。


「村長の署名か。悪くはないが……今日は直江家は忙しい。取り次ぐ暇はない。与力詰所へ向かえ」


 案内された道を進むと、与力詰所の前には帳面を抱えた武士が行き交い、忙しげな空気が漂っていた。

 湊が戸口の前で立ちすくんでいると、鋭い声が飛んだ。


「そこの若いの、何を突っ立っておる」


「清原湊と申します。紹介状を……」


「清原? 聞かん名だな」


 与力の一人が紹介状を取り、湊を一瞥した。


「字が書けるとあるが、どの程度だ」


「多少ですが、読み書きはできます」


「多少で構わん。帳面が山ほどある。手が足りん」


 与力は淡々と告げたのち、木札を湊へ投げるように渡した。


「長屋を手配しておいた。今日からそこが寝所だ。銭は不要だ。直江家預かりとして扱う」


 湊は深く頭を下げた。

 寝床がある――それだけで胸の重荷がひとつ消えた。


「ただし、明日から雑務をやらせる。逃げ出すなよ。若いのに逃げられては面倒だからな」


「はい。逃げません」


 迷いのない返答だった。


 長屋は粗末で、板敷きは冷え、壁は薄い。しかし湊にとっては、雨風をしのげるだけで十分だった。荷物を置き、外へ出ると、夕暮れの空は鉛のような低い雲に覆われていた。動きは鈍く、重々しい。


(会津そのものの空みたいだ……張り詰めていて、少し苦しい)


 その雲の下で湊は静かに息を吐いた。


(でも、逃げない。どれだけ怖くても)


 長屋の外には、まだ戻らない雑兵たちの笑い声が遠くから聞こえる。湊は粗末な藁床に腰を下ろし、懐から紹介状を取り出した。墨のにじむ文字をなぞる。


「……必ず、返せるようにします」


 誰に聞かせるでもない小さな誓いだった。

 戦国の夜は早く訪れる。戸口から吹き込む風は冷たかったが、湊の胸の奥には、確かな火が灯っていた。


 ――この日から湊の人生は変わる。

 そして同時に、この会津の地もまた、ひとりの若者を迎え入れて動き始める。


 まだ誰も知らない。

 それが、上杉家の歴史をゆっくり変えていくことになるなど。

長屋に腰を下ろした湊は、しばらく天井を見つめていた。板は節だらけで、ところどころ隙間がある。そこを抜けて、夕刻の風が細く吹き抜けていく。寒い。だが、湊は不思議と嫌ではなかった。

 “生きている世界が変わったのだ”と、身体がゆっくりと理解していく、その痛みのようなものが逆に落ち着きを与えていた。


 とはいえ現実的な問題は山ほどある。

 まずは――銭だ。


(村長から預かった数枚だけじゃ、とても暮らせない。雑務で銭は出るのだろうか。武士の食生活なんて全く知らないし……)


 考えれば考えるほど不安は膨らむ。

 しかし、膨らむだけでは終わらなかった。


(不安を数えても仕方ない。環境を知らなければ対策もできない。これは……調査と情報収集だ)


 いつもの癖だった。

 不安を“課題”に置き換えると、湊は少しだけ息がしやすくなる。


 外の空気を吸おうと戸口に近づくと、長屋の外を数名の武士たちが通りかかった。鎧こそ着ていないが、腰の太刀が彼らの立場を雄弁に物語っている。


「おい、見ろよ。これが例の新入りだとよ」


「紹介状を持ってきた若造だろう? 字が書けるらしいじゃないか」


「字なんて俺たち武士にはいらん。戦に出て槍を握ればいいのだ」


 嘲りとも、茶化しともつかない声。

 湊は頭を下げ、静かに視線を落とした。


(敵意じゃない。だが、試されている)


 越後者と会津者の軋轢。

 新参者への警戒。

 湊のような“どこの馬の骨とも知れぬ二十歳そこそこの若者”など、信用されるはずもない。


 しかし、そこで心は折れなかった。


(こういう組織の空気、知っている。アルバイト先でも、ゼミでも、どこにでも同じ構造はある。最初の印象は弱いが、誠実さで時間をかければ必ず変わる)


 湊の武器は、武芸でも知識でもない。

逃げずに積み重ねる粘り――それだけだった。


 その瞬間、長屋の奥から声がした。


「おう、新入り。飯、食ったか?」


 中年の雑兵が手ぬぐいを首に巻いたまま顔を覗かせてきた。粗雑だが、目つきは悪くない。


「いえ、まだで……」


「ほれ、ほんの少しだが煮物が余ってる。食っておけ。明日から働くんだろう?」


 湊は驚きに目を瞬く。


「あ、ありがとうございます!」


「気にすんな。腹が減っては働けん。お前さん、顔色は悪くねぇ。あとは根性があるかどうかだな」


 雑兵は軽く笑って去っていった。


 わずかに残った芋と大根の煮物を口に運ぶ。

 うまいとは言えない。薄い味だ。しかし、戦国の寒空の下で食べる温かい食事は、胸の奥にじんわりと沁みていく。


(……生きていけるかもしれない)


 湊は静かにそう思った。


 食後、長屋の外に立つと、空の色はさらに深く沈んでいた。低く垂れ込めた鉛雲は、まるでこの会津の国の重さそのものだったが、同時に、どこか風が変わりつつある気配もあった。


 湊は夜空を見上げた。

 雲の切れ間に、わずかに星が瞬いている。


(きっと大丈夫だ。今日、逃げなかった。明日も逃げなければ……いつか道は開く)


 そのとき――

 長屋の方角から、よく通る声が響いた。


「清原湊、いるか!」


「はい! おります!」


 慌てて戻ると、昼間の与力が腕を組んで立っていた。


「明日の段取りを伝えておく。お前には小姓や中間の手伝いではなく、寺子屋の整備と帳面の改めをやらせる。字が書けると言うのだから、逃げるなよ」


「ありがとうございます。全力で務めます」


「勘違いするな。これは褒めているのではない。人手不足だから仕方なくやらせるだけだ」


 そう言いながらも与力の表情には、昼間よりもわずかに柔らかさがあった。


「それと……直江家のことを軽々しく口にするな。あの家は忙しい。誰かれ構う余裕はない。わかるな?」


「はい。心得ております」


「ならよし」


 与力は踵を返した。

 湊はしばらくその背中を見送った。


(……あの人も、悪い人じゃないのかもしれない)


 厳しく見えるが、筋を通す者にはきちんと筋を返す。

 そんな空気を感じ取った。


 長屋に戻り、藁床に身を横たえると、全身にどっと疲労が押し寄せた。

 しかし、疲労とは別に、心のどこかが温かかった。


(大丈夫。今日は生き残れた。寝床もある。飯もある。明日は……働けばいい)


 目を閉じる。


 夜風が、隙間からそっと吹き込む。

 湊はその冷たさを受け止めながら、静かに意識を手放した。


 ――翌朝。

 湊の一日は、薄い光とともに始まる。


 外から聞こえる鶏の声、長屋の戸を叩く音、雑兵たちの早い足音。

 戦国の朝は、容赦なく早い。


「清原! 起きているか!」


 与力の声だ。湊は飛び起き、慌てて戸口へ向かった。


「は、はい!」


「寺子屋へ行ってこい。昨日渡した木札を見せれば通される。まずは帳面の整理だ。直江家の目に留まるような働きができるとは思っていないが……せいぜい恥を晒すな」


「……はい、努力いたします」


 湊は深めに頭を下げた。


 長屋を出ると、朝の空は澄み渡り、昨日の鉛雲がまるで嘘のように消えていた。

 代わりに、鱗雲が細かく並んでいる。変化を予兆するような空。


(何が変わるのだろう……)


 湊は胸元の紹介状を軽く触れ、歩き出した。


 ――この日、湊が寺子屋で行う“帳面の整理”が、思わぬ形で直江兼続の耳に入ることになる。


 そのときはまだ、誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ