1話: 会津へ──法学部生、武士の門を叩く
会津盆地はまだ冬の色を捨てきれていなかった。山の稜線には薄い雪が残り、谷を渡る風は肌を刺すように冷たい。清原湊は、村長から託された紹介状を懐に入れたまま、深く息を吸い込んだ。冷気が肺の奥にまで突き刺さるが、その痛みがむしろ意識を覚醒させてくれる。
(大丈夫だ。逃げなければ、道は開く)
自分に言い聞かせるように歩みを進める。
昨日まで普通の大学生――法学部の三年生だった青年が、今は戦国の大地を踏みしめているなんて、考えてみれば現実味がなかった。しかし湊は、非現実を嘆くよりも“ここでどう生きるか”を優先した。
村長の家を出てしばらく歩くと、山道の先に荷車を押す男が見えた。湊が道の端に寄ると、男は気さくに声をかけてきた。
「若い兄ちゃん、旅の人か?」
「はい。城下に向かっています」
「ほう……一人でか?」
「はい。直江家に紹介をお願いしたくて」
男は荷車の取っ手から手を離し、じっと湊の顔を見つめた。
「直江家に、か。若いのに肝が据わってるな。会津の城下は今、越後者と会津者の衝突で騒がしい。筋の通らぬ奴は、あっという間に追い出されるぞ」
「……覚悟しています」
「覚悟があるなら大したもんだ。だが覚悟だけじゃ武士の世界は生きられん。筋を通せ。そして誠実であれ。それだけだ」
そう言って男は荷車を押して去っていった。
湊はゆっくり息を吐いた。
誠実であること。筋を通すこと。
それは湊がずっと大切にしてきた信念でもあった。法学部で学んだ内容はこの時代の武士の世界と無縁に見えるが、根本の“道理”は時代を超えるはずだ。
しばらく歩き、道中の茶屋で湊は一杯の粥を頼んだ。銭の残りは少ない。村長が渡してくれた分がなければ、とても旅などできなかっただろう。
「若いの、城下へ行くのかい?」
茶屋の老婆が湊の様子を見て声をかけた。
「はい。そちらで働ければと思っています」
「ならば宿を早めに確保するんだね。城下は人で溢れとる。移封の影響ってやつじゃ」
湊は礼を述べ、粥を飲み干した。
会津若松が近づくにつれ、道を行き交う人も多くなっていく。行商人、荷を担ぐ男たち、馬に乗った侍。彼らの声が道に渦を巻く。
やがて霧が晴れ、町並みが姿を現した。白壁が連なる蔵、瓦屋根が陽光を反射し、どこか厳かな空気を作り出している。視線を上げれば、天守が遠くに構え、灰色の空には一本の巻雲がゆっくり細く伸びていた。変化を告げる雲。
(ここが……これから自分が生きる場所、か)
胸元の紹介状を押さえながら湊は歩いた。
城下門では、番兵が槍を横にして湊を止めた。
「何者か」
「清原湊と申します。直江家へのお取次ぎを願い、紹介状を持参いたしました」
番兵は紹介状を手に取り、墨のにじんだ署名を確認する。
「村長の署名か。悪くはないが……今日は直江家は忙しい。取り次ぐ暇はない。与力詰所へ向かえ」
案内された道を進むと、与力詰所の前には帳面を抱えた武士が行き交い、忙しげな空気が漂っていた。
湊が戸口の前で立ちすくんでいると、鋭い声が飛んだ。
「そこの若いの、何を突っ立っておる」
「清原湊と申します。紹介状を……」
「清原? 聞かん名だな」
与力の一人が紹介状を取り、湊を一瞥した。
「字が書けるとあるが、どの程度だ」
「多少ですが、読み書きはできます」
「多少で構わん。帳面が山ほどある。手が足りん」
与力は淡々と告げたのち、木札を湊へ投げるように渡した。
「長屋を手配しておいた。今日からそこが寝所だ。銭は不要だ。直江家預かりとして扱う」
湊は深く頭を下げた。
寝床がある――それだけで胸の重荷がひとつ消えた。
「ただし、明日から雑務をやらせる。逃げ出すなよ。若いのに逃げられては面倒だからな」
「はい。逃げません」
迷いのない返答だった。
長屋は粗末で、板敷きは冷え、壁は薄い。しかし湊にとっては、雨風をしのげるだけで十分だった。荷物を置き、外へ出ると、夕暮れの空は鉛のような低い雲に覆われていた。動きは鈍く、重々しい。
(会津そのものの空みたいだ……張り詰めていて、少し苦しい)
その雲の下で湊は静かに息を吐いた。
(でも、逃げない。どれだけ怖くても)
長屋の外には、まだ戻らない雑兵たちの笑い声が遠くから聞こえる。湊は粗末な藁床に腰を下ろし、懐から紹介状を取り出した。墨のにじむ文字をなぞる。
「……必ず、返せるようにします」
誰に聞かせるでもない小さな誓いだった。
戦国の夜は早く訪れる。戸口から吹き込む風は冷たかったが、湊の胸の奥には、確かな火が灯っていた。
――この日から湊の人生は変わる。
そして同時に、この会津の地もまた、ひとりの若者を迎え入れて動き始める。
まだ誰も知らない。
それが、上杉家の歴史をゆっくり変えていくことになるなど。
長屋に腰を下ろした湊は、しばらく天井を見つめていた。板は節だらけで、ところどころ隙間がある。そこを抜けて、夕刻の風が細く吹き抜けていく。寒い。だが、湊は不思議と嫌ではなかった。
“生きている世界が変わったのだ”と、身体がゆっくりと理解していく、その痛みのようなものが逆に落ち着きを与えていた。
とはいえ現実的な問題は山ほどある。
まずは――銭だ。
(村長から預かった数枚だけじゃ、とても暮らせない。雑務で銭は出るのだろうか。武士の食生活なんて全く知らないし……)
考えれば考えるほど不安は膨らむ。
しかし、膨らむだけでは終わらなかった。
(不安を数えても仕方ない。環境を知らなければ対策もできない。これは……調査と情報収集だ)
いつもの癖だった。
不安を“課題”に置き換えると、湊は少しだけ息がしやすくなる。
外の空気を吸おうと戸口に近づくと、長屋の外を数名の武士たちが通りかかった。鎧こそ着ていないが、腰の太刀が彼らの立場を雄弁に物語っている。
「おい、見ろよ。これが例の新入りだとよ」
「紹介状を持ってきた若造だろう? 字が書けるらしいじゃないか」
「字なんて俺たち武士にはいらん。戦に出て槍を握ればいいのだ」
嘲りとも、茶化しともつかない声。
湊は頭を下げ、静かに視線を落とした。
(敵意じゃない。だが、試されている)
越後者と会津者の軋轢。
新参者への警戒。
湊のような“どこの馬の骨とも知れぬ二十歳そこそこの若者”など、信用されるはずもない。
しかし、そこで心は折れなかった。
(こういう組織の空気、知っている。アルバイト先でも、ゼミでも、どこにでも同じ構造はある。最初の印象は弱いが、誠実さで時間をかければ必ず変わる)
湊の武器は、武芸でも知識でもない。
逃げずに積み重ねる粘り――それだけだった。
その瞬間、長屋の奥から声がした。
「おう、新入り。飯、食ったか?」
中年の雑兵が手ぬぐいを首に巻いたまま顔を覗かせてきた。粗雑だが、目つきは悪くない。
「いえ、まだで……」
「ほれ、ほんの少しだが煮物が余ってる。食っておけ。明日から働くんだろう?」
湊は驚きに目を瞬く。
「あ、ありがとうございます!」
「気にすんな。腹が減っては働けん。お前さん、顔色は悪くねぇ。あとは根性があるかどうかだな」
雑兵は軽く笑って去っていった。
わずかに残った芋と大根の煮物を口に運ぶ。
うまいとは言えない。薄い味だ。しかし、戦国の寒空の下で食べる温かい食事は、胸の奥にじんわりと沁みていく。
(……生きていけるかもしれない)
湊は静かにそう思った。
食後、長屋の外に立つと、空の色はさらに深く沈んでいた。低く垂れ込めた鉛雲は、まるでこの会津の国の重さそのものだったが、同時に、どこか風が変わりつつある気配もあった。
湊は夜空を見上げた。
雲の切れ間に、わずかに星が瞬いている。
(きっと大丈夫だ。今日、逃げなかった。明日も逃げなければ……いつか道は開く)
そのとき――
長屋の方角から、よく通る声が響いた。
「清原湊、いるか!」
「はい! おります!」
慌てて戻ると、昼間の与力が腕を組んで立っていた。
「明日の段取りを伝えておく。お前には小姓や中間の手伝いではなく、寺子屋の整備と帳面の改めをやらせる。字が書けると言うのだから、逃げるなよ」
「ありがとうございます。全力で務めます」
「勘違いするな。これは褒めているのではない。人手不足だから仕方なくやらせるだけだ」
そう言いながらも与力の表情には、昼間よりもわずかに柔らかさがあった。
「それと……直江家のことを軽々しく口にするな。あの家は忙しい。誰かれ構う余裕はない。わかるな?」
「はい。心得ております」
「ならよし」
与力は踵を返した。
湊はしばらくその背中を見送った。
(……あの人も、悪い人じゃないのかもしれない)
厳しく見えるが、筋を通す者にはきちんと筋を返す。
そんな空気を感じ取った。
長屋に戻り、藁床に身を横たえると、全身にどっと疲労が押し寄せた。
しかし、疲労とは別に、心のどこかが温かかった。
(大丈夫。今日は生き残れた。寝床もある。飯もある。明日は……働けばいい)
目を閉じる。
夜風が、隙間からそっと吹き込む。
湊はその冷たさを受け止めながら、静かに意識を手放した。
――翌朝。
湊の一日は、薄い光とともに始まる。
外から聞こえる鶏の声、長屋の戸を叩く音、雑兵たちの早い足音。
戦国の朝は、容赦なく早い。
「清原! 起きているか!」
与力の声だ。湊は飛び起き、慌てて戸口へ向かった。
「は、はい!」
「寺子屋へ行ってこい。昨日渡した木札を見せれば通される。まずは帳面の整理だ。直江家の目に留まるような働きができるとは思っていないが……せいぜい恥を晒すな」
「……はい、努力いたします」
湊は深めに頭を下げた。
長屋を出ると、朝の空は澄み渡り、昨日の鉛雲がまるで嘘のように消えていた。
代わりに、鱗雲が細かく並んでいる。変化を予兆するような空。
(何が変わるのだろう……)
湊は胸元の紹介状を軽く触れ、歩き出した。
――この日、湊が寺子屋で行う“帳面の整理”が、思わぬ形で直江兼続の耳に入ることになる。
そのときはまだ、誰も知らなかった。




