18話: 数の影、黙した笑み
二日間に及ぶ試練は、その日の午後から始まった。
湊は左内から押しつけられた三冊の帳簿を抱え、兵糧蔵の一角――灯りの乏しい帳場机へと腰を下ろした。
紙と古い米の匂いが混じった、ひんやりとした空気。
外では兵たちの掛け声と、薪を割る鈍い音が途切れ途切れに響いている。
湊はそっと最初の帳簿を開いた。
墨はところどころ掠れ、数字は細かい字でびっしりと並んでいる。
兵糧米、雑穀、味噌、塩、酒、油――日々の出入りが、ただ無造作に書き連ねられていた。
(……乱れている)
行の途中で勘定が飛んでいたり、同じ品目が二度続けて記されていたり、月の締めが曖昧な箇所もある。
湊は思わず眉をひそめた。
「どうだ、湊殿」
背後から八代の声がした。
「思ったより、手強いでござろう?」
「はい……これは……」
湊は帳簿から目を離さず、静かに答えた。
「数字が、戦場みたいです。
誰がどこで倒れ、どこから崩れたのか……見通しが利きません」
「左内殿が怒るわけでございますな」
八代は苦笑し、帳場の柱にもたれた。
「だが兼続様は、そういう乱れた場をお主に見せたかったのでしょう。
整っておるものばかり見ていては、“癖”は分からぬ」
湊は小さく頷き、筆を取った。
「……まずは、月ごとにばらばらなものを、揃えます」
帳簿とは別に、手元の紙に、月と品目を縦横に線で区切っていく。
そこへ、一行ずつ数字を書き写していった。
兵糧米の出入りだけを抜き出す。
次に塩、その次に味噌――
ひとつひとつの数字は、ただの記録に過ぎない。
だが、並べ方を変えれば、そこに「流れ」が見えてくる。
(村でやったのと同じだ。
どこから水が入り、どこで溜まり、どこで争いになったか……)
湊は分水口の石組みを思い出した。
あの時も、見ているうちに「おかしな場所」が浮かび上がってきたのだ。
「湊殿」
八代が低く呼びかけた。
「二日あれば、出来そうでございますか」
「……やるしかありません」
湊は視線を上げずに答えた。
「村の水の流れよりは、静かです。
人の怒鳴り声も、涙も、ここにはありません。
ならば、数字だけを見ればよい」
「ふむ。それは、強みでござるな」
八代は、どこか感心したように頷いた。
「では、邪魔はいたしませぬ。
腹が空いたら呼べ。夜食くらいは運べましょう」
「ありがとうございます」
八代の足音が遠ざかり、再び静寂が訪れた。
湊は、ページを繰る手を速めた。
ある月の半ばで、兵糧米の出が急に増えている。
だが同じ時期に、兵の動員に関する記述は見当たらない。
(誰かがどこかへ運び出した……? いや、別の帳面に移しただけかもしれない)
決めつけるわけにはいかない。
湊はその箇所に小さく印をつけ、次の月へと進んだ。
塩の記録は、妙に値段が揺れている。
少し高くなっただけなら相場の変動かもしれないが、ある月だけ、二割も跳ね上がっていた。
(商人が変わったのか、それとも……誰かが途中で抜いているのか)
湊は、塩の仕入れ先の名も別紙に写し取り始めた。
書かれている名に、見覚えのある字が混じっている。
(この商人、村の訴えに出てきた名と似ている……)
胸の奥で、何かが繋がりかけた。
だが、そこから先は、まだ霧の中だった。
時間だけがじりじりと過ぎていく。
外の光が薄れ、蔵の中の灯が一層際立って見え始めた頃――
「湊殿、少し休まれよ」
戸口から、再び八代の声がした。
湊が顔を上げると、八代が盆を持って立っている。
握り飯と漬物、湯気の立つ薄い味噌汁。
「ありがとうございます。時の経つのを忘れていました」
「見れば分かります。目が据わっておる」
八代は苦笑し、盆を机の端に置いた。
「初日は“全体を見る”くらいでよいのですよ。
いきなり細かく詰めようとすると、身も心も持ちませぬ」
「そう……でしょうか」
「そうでござる。
左内殿も最初からそこまで期待しておらぬ。
“二日でやれ”とは申されましたがな」
八代は、どこか楽しそうに目を細めた。
「むしろ試されておるのは、数字そのものではなく――
この二日で、湊殿がどれほど“食らいつくか”だと拙者は見ております」
湊は握り飯を手に取り、ひと口かじった。
冷えた米の甘さが、じわりと口に広がる。
「……村の巡察の時も、そうでした」
「ほう?」
「全部、聞き取ろうとして……最初は、頭が真っ白になって。
でも、諦めなくてよかった。
あの時、やめていたら――今ここにはいなかったと思います」
「なるほど」
八代は短く頷く。
「では、今回も同じでござるな」
「はい」
湊は味噌汁を一息に飲み干した。
「終わりが見えなくても、手を止めなければ……いつか形になる。
それを村で教わりました」
「よい心がけでござる」
八代は盆を手に取り、ふと思いついたように付け加えた。
「そうそう。左内殿から伝言がありました」
「伝言……?」
「『出来るか出来ぬかより、出来ぬと分かった時の顔が見たい』――
そう申しておられましたぞ」
湊は、思わず吹き出しそうになった。
「それは……励ましなのでしょうか」
「さあ? あの方なりの期待の示し方でしょう」
八代は肩をすくめ、出入口へ向かった。
「では、あとは任せます。
倒れぬ程度に頑張られよ」
「はい」
戸が閉じ、再び静寂が戻る。
湊は深く息を吸い、帳簿へと向き直った。
(怒りの奥には恐れがあった。
では、この数字の奥には……何がある?)
兵糧が妙に余っている月。
鉄砲玉の数が、戦の前後で合わない月。
塩の値段が跳ね上がった月。
バラバラだった点が、少しずつ線を描き始める。
誰が得をし、誰が損をし、誰が何を隠そうとしているのか――
(これは、“争い”の記録でもある)
村で、北組と南組が互いを責め合っていたように。
ここにもまた、声なき争いが潜んでいる。
湊は筆先を走らせながら、自分でも気づかぬうちに微かに笑っていた。
(面白い。
人の怒鳴り声が聞こえない分、静かに深く、争いの形が見える)
夕刻が過ぎ、蔵の外が暗くなっても、湊は机を離れなかった。
墨の色が少しずつ薄れ、灯の芯が小さくちり、と音を立てる。
肩は重く、目は痛い。だが、頭の中だけは妙に冴えていた。
やがて、最初の帳簿の写しがひと通り終わった頃――
湊は筆を置き、静かに姿勢を正した。
「……一冊目。流れの“癖”は、見えてきました」
大きく息を吐き、額の汗を拭う。
「後は、二冊目と三冊目。
同じ癖を持っているのか、それとも別の誰かの手なのか――」
湊は灯の油を足し、もう一度筆を握った。
「二日で足りるかなど、考えても仕方がない。
出来るところまでやるだけだ」
そう呟き、二冊目の帳簿に手を伸ばした。
その夜、湊が寝所へ戻ったのは、日付が変わる頃だった。
布団に体を沈めると同時に意識は落ちたが、眠りは浅く、数字の列が瞼の裏に浮かんでは消えていった。
◆
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの刻限、湊は目を覚ました。
体は重く、腕はじんじんと痛む。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
(ここで弱音を吐いたら、左内殿に笑われる)
湊は冷たい水で顔を洗い、簡単に朝餉を済ませると、兵糧蔵へ急いだ。
蔵の扉を開けると、すでに中には先客がいた。
帳場机の前、腕を組んで立っている岡左内。
その横で、壁にもたれている八代。
左内は振り返りもせず、問いかけた。
「来るのが遅い」
「まだ朝の……」
言いかけて、湊は口をつぐんだ。
左内の背中から伝わる空気は、冗談を受け付けるものではない。
「問う。
昨日、一冊目はどこまで見た」
「全体の流れと、三ヶ所の大きな乱れまででございます」
「ふむ」
左内はゆっくりと振り向き、湊を見据えた。
「ならば今日は、“答え”ではなく、“問い”を増やせ。
数字を眺めて安心するのではなく、その裏にある人間の顔を思い浮かべろ」
「人間の、顔……」
「そうだ。
兵糧が余るということは、誰かが腹を空かせている。
兵糧が消えるということは、誰かが腹を肥やしている。
数字の動きの裏には、必ず誰かの得と損がある」
左内の声は低く、蔵の奥にまで染み込むようだった。
「お前が村で見たものは、怒鳴り合う顔だったそうだな」
「はい」
「ならば今度は、黙って笑っている顔を探せ」
湊は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「村で叫んでいた者は、まだ分かりやすい。
だが、帳簿で得をしている者は、声を上げぬ。
黙って、笑う」
左内は机を指で叩いた。
「二日目だ。
ここからが、お前の本当の試験よ」
湊は、静かに頭を下げた。
「承りました」
再び帳簿を開き、筆を握る。
二日目の地獄が、ゆっくりと幕を開けた。
二日目の帳簿との格闘は、初日よりも遥かに重たかった。
数字は同じでも、その意味が変わる。
並びは整えた。月ごとの癖も掴みつつある。
だが――
(……ここからが、“顔”だ)
左内の言葉が、じわりと湊の胸に沈む。
兵糧が急に余った月。
塩価が跳ね上がった月。
鉄砲玉の戻りが増えた月。
それらが並ぶと、まるで誰かが「意図して」動いているように見え始めた。
(偶然じゃない。
月ごとに“同じ癖の乱れ”が続いている……)
湊は筆を止め、そっと息を吸った。
乱れの中心にある名は――三度、現れている。
塩を納めた商人の名。
兵粮の出入りに関わった役目付の名。
鉄砲玉の受け渡しを記した者の名。
違う役割、違う月。
だが、記録の乱れの背後に、同じ人物がかすかに顔を出していた。
(……おかしい。
本来、こんな多岐の役目に一人の名が繰り返し出るわけがない)
湊は首筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
(この者……“静かに動ける立場”にいる)
怒鳴り声を上げる者ではない。
村のように表で争う者でもない。
だが、この乱れは誰かが作っている――そう思わずにはいられなかった。
◆
昼過ぎ。
湊が食事も忘れて筆を動かしていると、蔵の奥から足音が響いた。
「湊殿、良い顔つきでござるな」
八代だった。
湊は軽く頭を下げる。
「……まだ全てが繋がったわけではありませんが、
“誰か一人”の影が動いているのは確かです」
「左内殿も、そう言うでござろうな」
八代は机の上の紙を眺め、小さく息を飲んだ。
「ほう……これは見事に整理されておりますな。
月を跨いで癖を追う者など、侍でもなかなかおらぬ」
「癖は……どこかで必ず姿を見せます。
村でも、怒りの声が上がる前に、必ず小さな違和があって……」
言いかけたところで、帳場の扉が音を立てた。
冷えた風が吹き込み、その中にひとり、細身の影が立っていた。
「昼餉も取らずにやっていると聞いたぞ」
岡左内だった。
湊は咄嗟に姿勢を改める。
「申し訳ございません。時が経つのを忘れておりました」
「謝ることではない」
左内は机に近づき、湊が書き並べた紙に目を走らせる。
その視線は、まるで刀の刃のように鋭かった。
「……ふむ。
癖を掴み、“誰か一人”の存在に気づいたわけか」
湊は息を呑んだ。
「やはり、左内殿も――」
「当然だ。
だが二日目にしてそこまで辿り着く者は、そう多くない」
淡々とした声。
しかし、その奥に微かな評価が滲んでいた。
「名を言ってみよ」
湊は紙を探り、ある一行を指で押さえた。
「……この者でございます。
兵粮の出し手、塩の仕入れ先の商人と繋がり、鉄砲玉の帳付けにも関わっております」
「ほう」
左内はその名を一瞥し、鼻で小さく笑った。
「口を開けば穏やかで、誠実を装う男だ。
怒鳴り声の代わりに、静かに笑うことを覚えておる」
「……黙って、笑う者」
湊は昨日の言葉を思い返す。
「ああ。
こういう連中は、数字をごまかしても声を荒げぬ。
むしろ“正直にやっております”という顔をする」
左内は机を指で叩いた。
「では問う。
なぜその男が、三つの役目に関わることができた?」
「それは……」
湊は目を閉じ、昨日と今日の記録を思い返した。
数字が動く。
商人の名が動く。
兵の出入りが動く。
だが、その中心だけが、動かずに残る。
静かに、周囲を揺らしている。
湊はゆっくりと目を開けた。
「――“役目を跨いでも、怪しまれぬ立場”だからです」
左内の瞳が鋭く光った。
「続けろ」
「普段は表に出ず、誰が何をしているかを把握している……
そして、帳簿を扱う者が彼を疑わない。
つまり――」
湊は言い切った。
「“管理側の人間”でございます」
短い沈黙が落ちた。
蔵の空気が、わずかに揺れたように感じた。
左内は、ゆっくりと口の端を上げた。
「……良い。
やはり兼続様が言ったとおりの男だ」
「え?」
「湊、お前は“数字の裏にある顔”を見た。
それが出来る者は、戦でも政治でも通用する」
その声音は、初めて湊を“認める”色を含んでいた。
「だが――まだ終わりではない」
左内は湊の前に、さらに二枚の紙を置いた。
「最後の問いだ。
この乱れを引き起こした男は、何を得ようとした?」
湊は息を詰めた。
「銭か。
兵糧か。
それとも……もっと別のものか」
八代がわずかに姿勢を正す。
蔵の空気が、張り詰める。
最後の問い――
それは、ただ帳簿を読むだけの試験ではなく、
「湊が、どこまで“人間そのもの”を見抜けるか」の問いだった。
湊は深く、静かに息を吸った。
(……逃げない。
村でも、声をあげる者の奥に“恐れ”を見た。
ならば今日も――)
湊は筆を握りしめ、数字の列の奥にある“ひとりの男の欲”を追い始めた。
これはもう、帳簿の試験ではない。
左内が湊を“仲間として扱うかどうか”を決める試験だった。
そしてこの問いへの答えが――
湊の未来を、大きく変えていくことになる。




