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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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17話:銭の流れ、兵の影―岡左内との邂逅

村から戻った翌朝、湊は戸を叩く小さな音で目を覚ました。

 八代の声が短く響く。


「起きておられるか。朝餉の前に、兼続様がお呼びだ」


「……こんなに早くですか?」


「“すぐに来い”との仰せだ。理由は、お会いしてからだな」


 八代の声音は、いつも以上に硬かった。

 村々を回っていた時の厳しさとは違う、“これから起こることを測りかねている”ような張り詰め方だ。


 湊は寝巻きを脱ぎ、急いで袴を穿いた。帯を締めながら、胸の奥がざわつくのを感じる。


(……村での裁きが、やはりまずかったのだろうか)


 北組と南組。

 怒りの奥にある恐れを見て、分水口を仮に組み直した判断――それを、家中の誰もが認めてくれるとは限らない。


「顔が固いな」


 廊下に出ると、八代が横目で湊を見た。


「叱られると決まったわけでもあるまい。

 ……兼続様は、ただの失敗なら人を朝から呼びつけぬお方だ」


「それは……慰めになっているのでしょうか」


「どう取るかは、湊殿しだいよ」


 短いやり取りの中に、八代なりの気遣いがにじむ。

 湊は小さく息をつき、背筋を伸ばした。


     ◆


 兼続の執務部屋では、机の上に帳面が数冊開かれていた。

 墨痕も新しい数字の列が、紙面をびっしりと埋めている。


 その中央で、兼続が筆を置き、湊を見上げた。


「来たか、湊。そこへ座れ」


「失礼いたします」


 湊が畳の縁を避けて正座すると、兼続は机の上の帳面を指先で叩いた。


「村での働き、すでに報告は受けておる」


 湊の喉が、ひゅ、と細く鳴る。

 叱責の言葉が続くのではないかと身構えたが、兼続の声は淡々としていた。


「怒りの表に呑まれず、その奥にある“恐れ”を見たそうだな。

 分水口を仮に組み換え、両組に肩を並べさせた……筋は悪くない」


「……もったいなきお言葉です」


「同時に、その“筋”が本物かどうかを確かめねばならぬ」


 兼続は一冊の帳面を湊の前へ押し出した。

 収穫高、年貢、兵糧、鉄砲玉、普請の費用――数字がびっしりと並んでいる。


「湊。これは会津の“懐”だ」


 その声音には、村々での柔らかな口調とは違う、家臣団を束ねる者の冷たさが宿る。


「数を見られぬ者は、戦の勝ち負け以前に領地を傾ける。

 水の流れだけでは足りぬ。“銭”の流れも見ねばならぬのだ」


 湊は、村で見た分水口を思い出す。

 わずかな石の歪みが、流れを大きく変え、人と人を争わせた。


「銭にも……流れの“癖”がある、ということでしょうか」


「うむ。その癖を読むことにかけては、家中でも抜きん出た男がいる」


 兼続は口元だけで笑った。


「岡左内。すでに会津で兵糧と銭の出入りを預かっておる。

 ――今日、お前をその男に引き合わせる」


 その名は、昨日すでに兼続の口から聞かされていた。

 “銭のために戦を使い、戦のために銭を惜しまぬ男”――そう評された人物だ。


「湊」


「はい」


「お前には“村立て改め”で培った目がある。

 人の言葉の裏にある本音と、流れの歪みを見つける目だ。

 それが銭と兵の流れの前でも働くか、わしは確かめたい」


 兼続の視線は、試す者というより、“引き上げるかどうかを見極める者”のそれだった。


「……務めを果たせるかどうか、分かりませぬが」


「務めるのだ」


 短く、だが揺るぎのない言い切り。


「八代が剣で支え、わしが道筋を示す。

 お前はお前の目で“見極め”を成せばよい。

 ――そのために、この会津へ呼び込んだのだからな」


 湊は、胸の奥に痺れるような感覚を覚えた。

 自分の存在を「数ある足軽のひとり」ではなく、“必要な駒”として見ている目だ。


「……承りました。精一杯、務めます」


 深く頭を下げると、兼続は満足げに頷いた。


「よい。では、左内のところへ行くぞ。八代」


「はっ」


 八代が一歩前に出て、湊に目で合図する。

 三人は連れ立って部屋を出た。


     ◆


 城の奥まった一角。

 ひんやりとした土の匂いが鼻を刺す兵糧蔵は、厚い板戸で守られていた。


 番兵が戸を開けると、冷気とともに穀物の匂いがふわりと溢れ出す。

 積み上げられた米俵、干し魚、塩、鉄の匂いが混じり合っている。


 蔵の奥、帳場机の前に痩せた男がひとり座っていた。

 年の頃は三十を少し越えたあたりか。

 着物は質素だが、襟元まできちりと合わせられている。


 何より目を引いたのは、その眼光だった。

 硬貨の縁のように細く、冷たく、光だけを反射している。


「……あれが、岡左内」


 湊は思わず喉を鳴らしそうになり、慌てて飲み込んだ。


 男――岡左内は、こちらを一瞥しただけで、手元の算盤から目を離さない。


「左内」


 兼続が声をかける。


「お手を止めよ。約束の者を連れてきた」


「……約束、ですか」


 低い声が蔵の中に落ちた。

 左内は算盤から手を離し、湊たちへゆっくりと視線を向ける。


「これが、例の若造ですか」


「うむ。村改めに出していた清原湊よ」


 左内の視線が、湊の頭の先から足袋の先までを一度で値踏みしていく。

 その目は、身なりでも年齢でもなく、“使えるかどうか”だけを見ているようだった。


「名を」


「……清原湊と申します。お目通り叶い、恐れ入ります」


「腰が低いのは悪くない。だが、それだけでは兵糧は守れん」


 左内は、感情の読めぬ声で言った。


「村の分水口をいじくり回したのは、お前か」


「はい。あれは……流れの歪みを、少し直しただけにございます」


「歪み、ね」


 左内の目がわずかに細くなった。


「兼続様。こやつ、“ものの見方”だけは持っているようです」


「だからこそ、そなたのところへ連れてきたのだ」


 兼続が、帳場机の脇に積まれていた帳簿の一冊を手に取り、左内へ放った。

 左内はそれを片手で受け取り、そのまま湊の前に放り投げる。


「受け取れ」


「っ――はい」


 帳簿はどさりと湊の膝の上に落ちた。

 紙の重みが、そのまま兵糧と銭の重さのように感じられる。


「それは昨年一年分の兵糧出納帳だ」


 左内の声が、蔵の中の冷気に混じって響く。


「三ヶ所、“おかしなところ”がある。

 筆の誤りか、意図的なごまかしか、そのどちらかだ」


 湊は顔を上げた。


「……今、ここで、でございますか」


「ここでだ」


 左内は即座に言い切った。


「戦場で考える時間など、誰もくれぬ。

 遅い者は討たれ、早い者が斬る。数を読むのも同じことよ」


 八代が、わずかに口元を緩めた。


「湊殿。これは“試し”だ。やってみせろ」


「……承知しました」


 湊は膝を正し、帳簿を開いた。

 紙のざらつき、墨の匂い、細かな数字の列――すべてが一度に目に飛び込んでくる。


(村の水路と、そう違いはないはずだ)


 頭の中で、自分に言い聞かせる。


(流れを追う。どこで詰まり、どこで膨らみ、どこで消えているか――それを見つければいい)


 一枚、また一枚とページを繰る。

 目で追いながら、数字を心の中で並べ替え、流れの筋を組み立てていく。


 兵糧米の出入り。塩の仕入れ。鉄砲玉の数。

 季節ごとの増減。合戦の有無。普請の記録。


 湊の中で、数字の列が一本の線になっていく。

 村で、怒りの言葉の奥に“恐れ”を見つけた時と同じ感覚が、胸の奥に灯る。


(……ここだ)


 一行のわずかな揺れが、流れ全体を歪ませている。

 そこを起点に辿っていくと、他の二ヶ所も自然と浮かび上がってきた。


 湊は、そっと顔を上げる。


「……三つ、見つけたように思います」


 左内の眼光が、真正面から突き刺さる。


「言ってみろ」


 その一言とともに、湊の胸の鼓動が高鳴った。

 村の分水口とは比べものにならぬ、“戦の前の場”に、いま自分が座っている――その実感が、じわりと背中を汗ばませるのだった。

「まず一つ目にございます」


 湊は帳簿の該当箇所に指を置いた。


「兵糧米の消費が、ある三日だけ極端に減っております。

 兵の動きが鈍ったか、あるいは別所へ“横流し”されたかのどちらかと考えられます」


 左内の眉がわずかに動く。


「……続けよ」


「二つ目。塩の仕入れが急に相場より高い。

 商人が変わっております。急ぎの取引ゆえ高値で掴んだと見えますが、

 長く続けば領の負担となりましょう」


「おもしろい言い回しだな」


 左内は鼻で笑ったが、それは嘲笑ではなく“評価”に近かった。


「三つ目。鉄砲玉の“戻り”が、数に合いませぬ。

 実際に撃った数より多く記されております。

 記した者が戦を知らぬか、あるいは……不足を隠した可能性がございます」


 沈黙。


 兵糧蔵のひんやりとした空気の中で、三人の呼吸音だけが微かに響く。


 左内は机を指で二度、軽く叩いた。


「兼続様」


「うむ」


「こやつ……筋が良い」


 兼続は満足げに目を細めた。


「湊。これから左内の下で“銭と兵”の流れを学んでもらう。

 怒りや恐れを見るだけでは、戦の裏側は読めぬ。

 数字は嘘をつかん。だが、人が数字に嘘をつかせるのだ。見極めよ」


「謹んで、お受けいたします」


 頭を下げる湊。

 横で八代が、静かに腕を組み、その背筋を誇らしげに伸ばしていた。


     ◆


 左内は帳場机の上の算盤を指で弾き、乾いた音を響かせた。


「清原湊」


「はっ」


「お前、戦をどう思う?」


 いきなりの問いに湊は一瞬迷ったが、慎重に言葉を選んだ。


「……守るための手段にございます」


「守る? 誰をだ?」


「領主様と領民にございます」


「ふん。若造らしい答えだ」


 左内は肘をつき、湊を真っ直ぐに見た。


「戦というのはな、人の命より“銭の方が先に死ぬ”ものだ。

 銭が尽きれば兵が動かず、兵が動かねば戦は負ける。

 その理を理解せぬ武将が、どれだけ国を潰してきたか……」


 細められたその目は、遠くの戦場を見ているようだった。


「湊。お前の目はまだ粗いが、芯は悪くない。

 だからまず――“一度死んでもらう”」


「……は?」


「勘違いするな。比喩だ」


 左内は古帳簿を三冊、机に叩きつけた。


「今日から三日、この帳簿を洗い直せ。

 兵の動き、銭の出入り、戦の前後の変化――すべて数字で追うのだ。

 三日後、わしの前で答え合わせをする」


「三日で、でございますか……?」


「遅い。二日でやれ」


 八代が吹き出しそうになるのをこらえて肩を震わせた。


「左内殿、それでは湊が倒れましょう」


「倒れたら切り捨てればよい。こちらは兵糧を預かる身だ。無駄飯は喰わせぬ」


 言葉は冷たいが、湊には分かった。

 ――これは、本気で育てようとしている者の態度だ。


「湊、やれますな?」


 兼続の声が静かに響く。


「……はい。必ず成し遂げてみせます」


「よい」


     ◆


 兵糧蔵を出た帰り道。

 湊は三冊の帳簿を抱えたまま、重みで腕が痺れ始めていた。


「湊殿」


 八代が隣で小声で言う。


「よくぞ、あの左内殿に目をかけられましたな。あれは家中でも難物よ」


「……斬られる覚悟で挑まねばならぬ気がしています」


「ふはは! そう思うなら十分だ。

 だがな――」


 八代は湊の肩をぽん、と叩いた。


「安心せよ。

 帳簿に斬りかかって倒れた者など見たことがない」


「それは……励ましになっているのでしょうか」


「ならぬのか?」


「ならなくは……ないですが……」


 八代が笑いながら首をかしげた時、廊下の奥から足音が近づいた。


 兼続である。


「湊。左内の試しは厳しいが、あれを越えねば“戦場の数字”は読めぬ」


「はい」


「そして……会津を守るには、数字が読める者が必要だ。

 戦は刀だけで勝つのではない。銭、兵糧、人の心――

 そのすべての流れを読む者が、勝ちを呼び寄せる」


 兼続は湊の前で足を止め、真っ直ぐに見つめた。


「湊。そなたには、その器がある。

 だからこそ――左内に預けた」


 湊は胸が熱くなるのを感じた。

 自分が、ただの若者としてではなく、“役目を持つ者”として見られている。


「湊」


「はい」


「二日後、わしの顔に恥をかかせるなよ」


「……必ず、お応えいたします!」


 湊の返答に、兼続は満足げに頷き、歩き去った。


     ◆


 湊は帳簿を抱え、静かな書院に戻った。

 畳の上に帳簿を広げると、墨の匂いがふわりと立つ。


 湊は深く息を吸い込み、心の中で呟いた。


(――村では、水の流れを見た。

 ここでは、銭の流れを見る。

 その先には、兵の流れもある……)


(やるしかない)


 筆を取り、湊はひとつ目の帳簿に向かった。


 文字の列が、ただの数字ではなく、

 ――戦の前触れに思えてくる。


 この三冊を読み切った時。

 湊は、ただの足軽ではなく、“上杉家の戦を動かすひとり”になる。


 そう確信しながら、湊は筆を走らせた。

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