16話:学びの夜明け──兵法・医学・そして銭の流れ
分水口の石が組み上がり、均された水が静かに流れはじめたころ、村にはようやく深い溜息のような空気が広がっていた。
北組も南組も、誰もが疲れきってはいる。
だがその表情には、昨日までの張り詰めた怒りはもうなかった。
湊は、石に反射する夕陽を見つめながら思う。
——これは終わりじゃない。
——始まりなんだ。
仮組み。
今日を救う策。
ここからつなげていかねば、本当の“解決”にはならない。
「湊さん」
横で弥藤が、まるで十日以上も前から用意していた言葉のように静かに話しかけてきた。
「……あの日、泣いていた人には、もう見えません」
「え?」
「弱さの中に強さを探していた人が……いまは、自分の強さで人を引っ張っている。そう見えます」
「そんな……僕は何も……」
「いえ。怒りではなく、恐れを見る目を持つ人は、強いです。
だからこそ、皆が湊さんの言葉を聞こうとするのです」
湊は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
自分がそんなふうに見えていたのだろうか。
十日前、宮森主膳の前で涙をこぼした自分が。
「……ありがとう、弥藤」
そう返す声は、少しだけ震えていた。
◆
石組みの作業が完全に終わったころ、北組の代表と思しき老人が、ゆっくりと湊のもとへ歩いてきた。手には、小さな籠。
「清原さま……これを」
「え。いえ、そんな……僕、何も——」
「何も? あんたの一言がなければ、わしらは今日も怒鳴り合って終わっとりましたわ」
籠の中には、乾物や簡素な野菜。
貧しい村で精一杯の礼だった。
「若造が何をできる、と最初は思っとりました。
けんど……“動こうと思わせてくれた者”の功は、決して消えませぬ」
老人は、深々と頭を下げた。
湊は、きつく胸を締めつける感情を抑えきれなかった。
自分が動いたから、誰かが動いた。
それを、いま目の前で確かに実感していた。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
湊は静かに頭を下げた。
◆
南組からは、年の近い若者が来た。
北組とは違い、こちらは照れたように頭をかきながら。
「あの、その……さっきの石、あれ……すげぇと思って」
「え?」
「水の流れが……あんなふうに変わるんだなって。
見てて……なんか、鳥肌立った」
湊はこみあげる笑いと照れを隠せなかった。
「いや、僕じゃなくて……皆さんが動いたからですよ」
「でも、動く気にさせたのは、清原さまで……っす」
その言葉が、また胸に灯をともした。
◆
その後ろから、八代が歩いてくる。
作業で泥だらけになった鎧の袖を払いつつ、表情はいつもどおり厳しい。
「清原」
「はい」
「今日の仮組み……筋は悪くない」
「……ありがとうございます」
「誤解するな。褒めているわけではない」
そう言いながら、八代の声はいつもよりわずかに柔らかい。
「決めるとは、嫌われる覚悟だと教えたが……
お前は“未来の嫌われ役”を引き受ける気になったらしいな」
湊は息を呑む。
「今日の貴様は、甘さの外に立っていた。
それを誇れ。
迷えば斬るが、迷わず進むなら——」
八代は湊の肩を軽く叩く。
「——俺は、お前の剣になる」
胸の奥が熱く震えた。
言葉を返したくても、返せない。
どんな言葉も安っぽくなる気がして。
ただ、湊は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◆
日が暮れかけたころ、村の入り口に砂煙が立った。
足軽が二人、馬を走らせてこちらへ向かってくる。
「清原殿! 直江さまより至急の伝令!」
湊は思わず姿勢を正した。
兼続からの伝令——胸が跳ねる。
足軽は懐から包みを取り出す。
丁寧に木箱に収められた、小さな書物の束と手紙。
「これを清原殿へ。村立て改めの任、続行とのこと。
あわせて……直江さまより“読むべきもの”と」
「読む……べきもの?」
湊は箱を受け取り、蓋を開ける。
そこには、古びた兵法書と医学書、そして幾つかの古文書。
見ただけで、現代人でも頭が痛くなるような漢文がぎっしり並んでいる。
手紙を開く。
『戦とは、人の暮らしを守るためにある。
暮らしを知るには、学もまた刀の一つ。
そなたなら、これを使いこなせよう』
湊は言葉を失った。
それは“期待”であると同時に、
“この先の戦で必要になる”という暗示でもあった。
「……兼続さま……」
胸熱が静かに広がる。
——僕は、ここから知を鍛えるんだ。
法学の素地がある。
難しい文でも、筋さえ掴めば理解はできる。
湊は兵法書の一頁をめくる。
筆致は乱れているが、そこに脈打つ思考が見えた。
「……面白い」
思わず漏れた声に、弥藤が目を細める。
「湊さん。新しい武器を授かったのですね」
「うん。これ……大事にする」
それは、湊の“戦場入り”のための最初の鍵でもあった。
◆
湊は村を出る前に、ひとりで分水口へ向かった。
夕闇が落ち、川の音だけが響いている。
均された水が、静かに二方向へ伸びていく。
その流れはまるで、人の暮らしそのもののようだった。
湊はゆっくりと胸に手を置いた。
「……僕の筆で、守れるものがあるんだ」
十日前には想像できなかった言葉。
あの日の涙は、確かに湊を変えた。
そのとき——
村外れの藪の影で、何かが動いた。
黒い影。
息をひそめ、こちらを観察するような気配。
湊は気づかない。
だが、その影は小さく呟いた。
「……面白い男だ」
そして、闇へ溶けるように姿を消した。
◆
翌朝、湊は荷を背に、弥藤たちとともに村を発った。
歩き出したその背には、
昨日までとは違う“光”が差していた。
翌朝、湊は荷を背負い、弥藤たちとともに村を発った。
見慣れたはずの山道も、今日だけは少し違って見える。
昨夜まで怒号が飛び交っていた村を振り返ると、朝靄の向こうで、分水口の石と静かな水だけが光っていた。
(……ちゃんと流れていてくれよ)
誰にともなく祈るように心の中で呟き、湊は前を向いた。
◆
道中、湊はいつものように周囲を観察していた……と言いたいところだが、この日は少し違った。
背の荷の上に、布に包んだ木箱が括られている。
直江兼続から託された兵法書と医学書。
歩きながらでも、どうしても中身が気になって仕方がない。
「湊さん、転びますよ」
「大丈夫、大丈夫。段差は見えてるから」
そう言いながらも、湊の指は箱の蓋をそっと押さえてしまう。
(帰ったら、まずこれだ。
村の記録もまとめなきゃいけないけど……今夜くらい、寝る時間を削ってもいい)
十日前なら、そんなふうに思う自分はいなかった。
だが今は、知識そのものが、村と人を守るための“武器”に見え始めている。
◆
日が傾くころ、ようやく会津城下の長屋に戻った。
巡察で使い慣れた質素な部屋。
机、布団、低い棚。
そのどれもに、見慣れない“重み”が加わった気がしたのは、きっと木箱のせいだ。
荷をおろすと同時に、湊は箱を机へ運ぶ。
蓋を開けると、墨の匂いと古紙の匂いがふわりと立ちのぼった。
「……さて、と」
一冊目に手を伸ばす。
くたびれた兵法書。ところどころ紙が擦り切れ、注釈のような小さな文字が余白に書き込まれている。
(誰かが、実際の戦の中で読み込んだ跡だ……)
そう思うと、文字の一つひとつが急に生々しくなった。
湊は、学生時代に六法を開いたときと同じように、まずは目次と章立てから追っていく。
全体の構造を掴み、どこに何が書いてあるかをざっと把握する。
(ここは軍の編成……ここは地形と陣形……ここは兵の心の扱い方……)
条文を分類するように、湊の頭の中で章ごとに棚ができていく。
理解できない古い語も多いが、それでも筋を追えば大枠は見えてくる。
「“兵は人の勢いを合わせるもの”……か」
声に出して読んでみる。
(数を集めるだけじゃない、“勢いを合わせる”。
会津の村も、北と南をただ押さえ付けるんじゃなくて、水の流れを揃えた。
……考え方は、そんなに違わないのかもしれない)
文字と自分の経験が、細い線でつながる感覚があった。
◆
次に手に取ったのは、医学書だった。
漢字の羅列。
臓腑の名、脈の種類、病の名……。
だが、こちらも構成はきちんとしている。
(症状、原因、治し方。
そして、“どうすれば病を近づけないか”——)
湊は過労で倒れた荒物屋の母の顔を思い出した。
(あのときは、せいぜい体温と脈を見るくらいしかできなかった。
もし、もう少し“悪くなる前”の兆しを知っていれば……)
喉の奥が、少しだけきゅっと締め付けられる。
(戦で人を救うのは、刀だけじゃない。
病で人を守ることだって、同じくらい……いや、それ以上に大事だ)
ページをめくる手に力がこもった。
夜が更けていく。
油の灯が、何度か心もとなく揺れる。
それでも湊は筆を取り、気になった箇所を簡単な言葉に直して書き留めていった。
難しい漢字の並びを、頭の中で崩し、自分の言葉に変える作業。
それは、法の条文を“暮らしの言葉”に置き換えるのとよく似ている。
(これなら、僕にもできる)
そう思えた瞬間、疲れの中に小さな喜びが灯った。
◆
「……灯を消さねば、怒られますよ」
襖の向こうから、弥藤の声がした。
「えっ、もうそんな時間?」
「とっくに“もう”でございます。明日も巡察がございますゆえ」
「ごめん、ごめん。すぐ消す」
返事をしながらも、湊は最後にもう一行だけ書き加えた。
——兵を減らさぬ戦い方を選ぶこと。
——病を増やさぬ暮らし方を広めること。
(これができれば……戦も病も、人を奪う力を少しは弱められる)
そう思いながら、ようやく灯を落とした。
◆
数日後。
湊は、兼続の前に正座していた。
兵法書と医学書、それに自分の書き付けを持参して。
「読んだか」
「はい。まだ全てを呑み込めたとは言えませんが……」
「よい。読み終えた者より、“どこで躓いたかを覚えている者”のほうが使える」
兼続は短く笑い、湊の書き付けを手に取った。
しばらく目を走らせた後、ふと一箇所で筆を止める。
「“兵は敵を減らすためではなく、自らの兵を減らさぬために使うべし”」
兼続は、その一行を声に出して読んだ。
「これは、お前の言葉か?」
「はい。兵法書の言葉を、僕なりに咀嚼したものです」
「ふむ。兵法だけを読めば、まず出てこぬ言い回しだ」
兼続は目を細めた。
「そしてこちら。“病を治す術だけでなく、病を近づけぬ術を広めること”」
医学書の一節をなぞるように指で追う。
「お前は……学びのどこを切り取っても、“暮らし”に結びつけようとする」
それは、叱責ではなく、評価の響きを含んだ言葉だった。
「兵は人を守るためにある。
学もまた、人を守るためにある。
そなたは、その筋を見失っておらぬ」
胸の内で、何かが静かに震えた。
「ありがとうございます」
「だが、覚えておけ」
兼続の声が、少しだけ鋭くなる。
「人を守るために兵を使う者は——
時に、人より多くの“数”を計らねばならぬ」
「……数、ですか」
「兵糧、鉄、銭、人手、領地……。
戦は心だけでは動かぬ。
数が足りねば、どれほど見事な将も、ただの夢想家よ」
兼続は机の上に簡単な図を書いた。
兵の数、兵糧の量、行軍の日数。
線で結ばれた数字が、戦の姿を形づくっている。
「清原。そなたは村の水を見てきた。
水がどこから来て、どこへ流れ、どこで滞るか——それを見ていたな?」
「はい」
「銭も、同じだ」
兼続の筆が走る。
年貢、貸付金、借財、利息——それらを矢印でつなげてゆく。
「銭がどこから来て、どこで増え、どこで目減りするか。
そこを見抜ける者が、戦の“土台”を作る」
湊は思わず息を呑んだ。
水の流れ。
人の暮らし。
そこに、銭と戦を重ねて見せる兼続の視線は、恐ろしいほどに遠くを見通している。
「……僕に、その役目を?」
「全てを任せると言っておらぬ。
だが、“数”を見る目を鍛えるには、最もよい師がいる」
兼続はふっと口元を緩めた。
「岡左内——岡定俊。
銭を動かすことにかけては、上杉家随一の男だ」
その名は、湊も噂で聞いたことがあった。
戦場の槍働きよりも、帳場での働きで恐れられる男。
利殖と借財の扱いに長け、主君からも一目置かれている人物。
「……その方と、僕を?」
「会わせる。
恐らく、お前とは気が合う。
いや——合わぬからこそ、学ぶものが多かろう」
兼続は意味ありげに笑った。
「岡は、“銭のために戦を使う”ことも辞さぬ男だ。
お前の“人を守るために兵を使う”という考えとは、真っ向からぶつかるかもしれぬ」
湊の胸に、じわりと不安と興奮が広がった。
「ぶつかることを恐れるな。
そなたは、怒りの奥の恐れを見ることができる。
ならば、利の奥にある“願い”も見つけられよう」
兼続は書き付けを湊へ返した。
「村での働きは、ようやった。
次は——戦の土台を学べ、清原」
湊は、深く頭を下げた。
「……はい」
◆
部屋を辞したあと、城の廊下を歩きながら、湊は胸の高鳴りを抑えきれなかった。
(岡左内……銭の流れを見抜く男……)
村の水路。
年貢。
兵糧。
それらの先に、“銭”という見えない川があるのだとしたら——
自分はまだ、その流れの表面を少し眺めただけに過ぎない。
(兵を動かすには、銭がいる。
銭を集めるには、誰かの暮らしを傷つけずに済む道を考えなきゃならない。
……難しい。でも——)
胸のどこかで、静かな炎が灯る。
兵法書も、医学書も、そして銭の流れも。
そのすべてを、“人を守る”という一本の線で結びたい。
(そうすれば、きっと——)
まだ見ぬ戦場。
まだ見ぬ敵。
その先にいるであろう“誰か”の姿が、ぼんやりと浮かんでは消えた。
廊下の向こう、蔵の方角へ続く暗がりから、低い笑い声が聞こえた気がした。
「……面白い。
清原湊、か」
誰かがその名を口にした。
それが、銭の鬼とも噂される男の声だと知るのは、もう少し先のことだった。
——流れは、確かに変わり始めている。
水の流れだけではない。
銭の流れ、人の流れ、そして歴史の流れまでも。
湊はまだ、それを知らない。
ただ、目の前の一歩を踏み出すことだけを考えていた。




