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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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15話:水を分ける者、未来を分ける者

翌朝、村の空は曇っていた。

 しかし、湿った空気とは裏腹に、湊の胸の内は静かに燃えていた。


 ——怒りの奥には、恐れがある。

 それを知った今、言い分だけで判断するわけにはいかない。


 今日こそ、踏み込む。


 北組と南組、双方の家々を回り終えた湊は、弥藤とともに村はずれへ向かった。

 分水口へと続く道を歩くあいだ、湿った土の匂いが鼻にかすかに残る。


「湊さん。……少し顔がこわばっておられます」


「そう見える?」


「はい。ですが、悪くない表情です」


「緊張してるんだと思う」


「緊張の奥に、覚悟が見えます」


 その言葉に、湊は小さく息を吐いた。


 ——逃げない。

 自分で決める。

 そのために、今日ここに来た。



 分水口に着くと、すでに北組と南組の代表が待ち構えていた。

 昨日のような怒号こそないが、空気は張り詰めている。


「お役人さま。今日は、はっきりさせてもらいます」


「どちらの言い分を“正しい”と見るか、伺いましょうか」


 両者が一歩前へ出る。

 湊はその間に出て、落ち着いた声で言った。


「——今日、決めるつもりはありません」


 それだけで、両者が同時に眉をひそめた。


「昨日、言い分を聞きました。でも、それだけでは足りません。この争いは、“どちらが悪いか”だけで決まるものじゃない。……仕組みが、そもそも歪んでいます」


「仕組み……?」


「そうだ。まず、実際に水の流れを見てから判断する。今日はそのために来た」


 北組の年寄りが慎重に口を開いた。


「つまり、どちらが多く取っておるか、確かめるだけではない……と?」


「そうです。争いの原因を、“根から”探ります」


 南組の若い男が腕を組んだ。


「……それで、俺たちの不満が晴れるんですかね」


「晴らすために来たわけじゃありません。村が潰れない道を探すために来たんです」


 重たい沈黙。

 しかし誰も反論しなかった。



 湊は、弥藤にうなずく。

 二人は膝をつき、分水口を細かく調べ始めた。


 石で固めた古い分水口は、一見均等に見える。

 だが、よく見ると“ある一点”が歪んでいた。


 ——ここだ。


 湊は石の隙間に指を添え、小さく呟く。


「……ここだけ、水が回り込みやすい」


「昨日の雨で、土が流れましてな」


「雨量次第で水の分け方が変わる。これじゃ争いが絶えないはずだ」


 両組の代表がのぞき込む。


「そんな所、知らなんだ……」


「わしらの頃は、もっときれいに均されておったはずじゃが……」


「時が経てば流れる。……争っているうちに、誰も“根”を見なくなった」


 湊の静かな声に、両者が息をのみ、互いに目をそらした。



 問題は分かった。

 ではどうするか。


 湊は立ち上がり、両組を見渡す。


「この分水口を、直しましょう」


「直す……?」


「はい。まずは、今年の田を守るための“仮の策”。そして、来年以降の“本決め”。両方必要です」


「仮と本……」


「まずは今日、水の偏りを抑える石組みを作り直す。費用と労力は、北組と南組が均等に出す」


「均等に……」


「来年以降は、宮森さまや家老衆とも相談して、公儀の立ち会いで“新しい分水の形”を決めるべきです」


 北組が口を開く。


「……つまり、“どちらかを切り捨てる裁定”ではないと?」


「どちらかを切っても、水の量が変わらなければ、また争いが起きます。だから、“作り直す”。それが僕の判断です」


 一瞬の沈黙のあと——南組の若い男がぽつりとつぶやいた。


「……今までの役人は、こんなこと言わなかった」


「“どちらが悪いか”決めるだけが役人の仕事じゃないでしょうか」


「……そう思ってた。でも、本当は……」


 言葉はそこで途切れた。

 しかし表情は、昨日とはまるで違う。


 怒りではなく、迷いでもない。


 ——少しだけ、期待に似た色があった。



 湊は息を整え、宣言する。


「今日、ここに新しい分水口の“仮組み”を作ります。僕が現地を見て、図を描きます。それに沿って石を組んでください。水の流れが均されるはずです」


 北組の年寄りが手を挙げる。


「誰が、その図を引くのですか?」


 湊は静かに答えた。


「僕が引きます。……責任も、僕が取ります」


 その声音に、弥藤もわずかに目を見張った。


 湊の視線は揺れていない。

 覚悟の重さが、言葉に宿っている。


「やりましょう! うちの若い衆、全部出します!」


「南組も手を貸す! 水が均されりゃ、誰も損せんはずだ!」


 ざわり、と空気が動いた。


 昨日まで怒号しかなかった場所に、

 今は“協同”の気配が生まれ始めていた。



 弥藤がそっと近づき、小声で言った。


「……湊さん、今のお姿はまさに“決める者”でございます」


「そんな立派なものじゃないよ。ただ……逃げずにいるだけ」


「それこそ、最も難しきことでございます」


 湊は空を見上げる。


 暗い雲の向こうに、かすかな光が差していた。


 ——今日で、この争いを終わらせる。

 その第一歩を踏み出せた気がした。



 湊は袖をまくり、腰を落とし、分水口の前に筆を走らせ始めた。

 両組の男たちが見守る中、地面に置いた紙へ線を引く。


 水の流れ。

 緩急。

 偏り。

 石の配置。


 その線は、湊の心を映すようにまっすぐだった。


 ——ここからが、“村を救う仕事の本番”だ。

分水口の周囲に人が集まり始めた。

 北組も南組も、肩を並べて分水口を見るという光景は、昨日なら想像もできなかったはずだ。


「ここを、こう……ですね?」


「いや、そこは湊さんの図の通り、“半寸”ほど引いたほうが流れが整う」


「ほう……言われてみれば確かに」


 石を持ち上げ、位置を変え、また確かめる。

 最初こそぎこちなかった動作は、しだいに“仕事の手”に変わっていく。


 湊はその様子を見つめながら、図面の脇に小さく注釈を加えた。


「ここの石は、雨量が増えた時に“逃げ道”になるように……」


 湊が呟くと、南組の若者が耳を傾けた。


「逃げ道……って、必要なんですか」


「うん。完全に均すと、逆に水が暴れやすくなる。だから“余白”を残すんだ」


「……なるほど。今まで、流したいか止めたいかの両極しか考えたことなかったな」


 若者は腕を組んで、湊の図面に見入った。


「湊さん、あんた……ただの書き付け役じゃねぇな」


「そんなことないよ。ただ、見えることを言ってるだけ」


 そう言った湊の声には、自信ではなく“覚悟”の芯があった。



「持ち上げるぞ、せーの!」


「おうっ!」


 石が組み替えられ、水の流れが一瞬止まる。


 次の瞬間——

 すうっと、左右に均等に分かれていった。


「……お?」


「おお……?」


 村人たちの表情に驚きが走り、次第にざわめきが広がる。


「均された……!」


「ほんとだ、偏りがねぇ!」


「湊さん、本当に……!」


 さざ波のように称賛が広がるが、湊は静かに手を上げた。


「まだ“仮組み”です。今日はこれで凌げても、根本の解決はこれからです」


 緩やかだが、確かな言葉。

 その声音に、北組の年寄りが深くうなずいた。


「……仮組みでも、村が守られるなら十分だ。今日の湊さんの判断、わしは認めよう」


「俺たち南組も、異存ねぇ!」


 空気は完全に“共働”へ変わっていた。



 その時だった。

 近くの藪を踏んで人影が現れ、村人たちが一斉に振り返る。


「……宮森さま!」


 ひゅ、と冷たい風が吹いたような緊張が走る。

 宮森主膳が、弥藤を従えて歩み寄ってきた。


「作業の進み具合はどうなっている」


「宮森さま、お見せします!」


 北組と南組が一歩下がり、湊が前へ出た。


「宮森さま。こちらが、本日の“仮組み”です。雨量の変化にも耐えられるよう、逃げと均しを両立させています」


 視線を向けた主膳は、しばらく沈黙した。


 冷たいようで、温度の見えない目。

 やがて、小さく息を吐く。


「……八代が言っていた通りだ。筋は悪くない」


 その一言に、村人たちの肩が同時に落ちる。安堵の息だった。


 だが主膳は続けた。


「だが、均しただけでは足りぬ。……湊」


「はい」


「“決める者”の務めは、その場を収めるだけではない。“二十年後を見据える策”を示してこそだ」


 湊の胸が、ぎゅ、と熱くなる。


「……来年以降の本決め、ですね」


「そうだ。お前の判断が、村の未来を左右する。その重みを忘れるな」


 主膳は背を向け、去り際に一言だけ投げた。


「——今日の働きは悪くなかった」


 それだけで十分だった。

 湊の胸に、静かな火が灯る。



 作業は夕刻まで続き、分水口は完全に“仮設ながら正常な形”を取り戻した。


 北組と南組の男たちが、湊の前に立つ。


「湊さん……助かった。これで子どもらが飢えずにすむ」


「本決めも、あんたに任せたい」


「うちの村……どうか、頼みます」


 湊は深く頭を下げた。


「……僕ひとりじゃできません。皆さんが力を貸してくれたから、ここまで来られました」


「いや。あんたが“決めた”からだ」


 その言葉が、湊の胸にまっすぐ刺さる。



 夕日が山の端へ沈み、村は金色に染まった。


 弥藤が湊に寄り添い、小さく言う。


「湊さん。今日……ひどく誇らしいお姿でした」


「誇らしいなんて……そんな器じゃないよ」


「いいえ。“逃げず、決め、動いた”。その一歩は、武士でも百姓でも簡単には踏めませぬ」


 夕風が湊の髪を揺らす。


「……僕、少しだけ分かった気がする」


「何を、でしょう」


「“決める”って……嫌われる覚悟でもある。でも同時に、“誰かの未来を守る覚悟”でもあるんだって」


 弥藤の目が細くほころぶ。


「それが分かった湊さんは、もう……強うございます」


「強くなんてないよ」


「では、“強くなり始めた”と申しておきましょう」


 湊は小さく笑った。


 仮の分水口から均された水が、細く光って村を潤している。


——今日、この村は救われた。

——そして、自分もまた一歩、前へ進めた。


 湊はゆっくりと息を吸い、夕空を見上げた。


「……よし。本決めの策、考えないとな」


 その声は、迷いよりも決意の色のほうが強かった。

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