15話:水を分ける者、未来を分ける者
翌朝、村の空は曇っていた。
しかし、湿った空気とは裏腹に、湊の胸の内は静かに燃えていた。
——怒りの奥には、恐れがある。
それを知った今、言い分だけで判断するわけにはいかない。
今日こそ、踏み込む。
北組と南組、双方の家々を回り終えた湊は、弥藤とともに村はずれへ向かった。
分水口へと続く道を歩くあいだ、湿った土の匂いが鼻にかすかに残る。
「湊さん。……少し顔がこわばっておられます」
「そう見える?」
「はい。ですが、悪くない表情です」
「緊張してるんだと思う」
「緊張の奥に、覚悟が見えます」
その言葉に、湊は小さく息を吐いた。
——逃げない。
自分で決める。
そのために、今日ここに来た。
◆
分水口に着くと、すでに北組と南組の代表が待ち構えていた。
昨日のような怒号こそないが、空気は張り詰めている。
「お役人さま。今日は、はっきりさせてもらいます」
「どちらの言い分を“正しい”と見るか、伺いましょうか」
両者が一歩前へ出る。
湊はその間に出て、落ち着いた声で言った。
「——今日、決めるつもりはありません」
それだけで、両者が同時に眉をひそめた。
「昨日、言い分を聞きました。でも、それだけでは足りません。この争いは、“どちらが悪いか”だけで決まるものじゃない。……仕組みが、そもそも歪んでいます」
「仕組み……?」
「そうだ。まず、実際に水の流れを見てから判断する。今日はそのために来た」
北組の年寄りが慎重に口を開いた。
「つまり、どちらが多く取っておるか、確かめるだけではない……と?」
「そうです。争いの原因を、“根から”探ります」
南組の若い男が腕を組んだ。
「……それで、俺たちの不満が晴れるんですかね」
「晴らすために来たわけじゃありません。村が潰れない道を探すために来たんです」
重たい沈黙。
しかし誰も反論しなかった。
◆
湊は、弥藤にうなずく。
二人は膝をつき、分水口を細かく調べ始めた。
石で固めた古い分水口は、一見均等に見える。
だが、よく見ると“ある一点”が歪んでいた。
——ここだ。
湊は石の隙間に指を添え、小さく呟く。
「……ここだけ、水が回り込みやすい」
「昨日の雨で、土が流れましてな」
「雨量次第で水の分け方が変わる。これじゃ争いが絶えないはずだ」
両組の代表がのぞき込む。
「そんな所、知らなんだ……」
「わしらの頃は、もっときれいに均されておったはずじゃが……」
「時が経てば流れる。……争っているうちに、誰も“根”を見なくなった」
湊の静かな声に、両者が息をのみ、互いに目をそらした。
◆
問題は分かった。
ではどうするか。
湊は立ち上がり、両組を見渡す。
「この分水口を、直しましょう」
「直す……?」
「はい。まずは、今年の田を守るための“仮の策”。そして、来年以降の“本決め”。両方必要です」
「仮と本……」
「まずは今日、水の偏りを抑える石組みを作り直す。費用と労力は、北組と南組が均等に出す」
「均等に……」
「来年以降は、宮森さまや家老衆とも相談して、公儀の立ち会いで“新しい分水の形”を決めるべきです」
北組が口を開く。
「……つまり、“どちらかを切り捨てる裁定”ではないと?」
「どちらかを切っても、水の量が変わらなければ、また争いが起きます。だから、“作り直す”。それが僕の判断です」
一瞬の沈黙のあと——南組の若い男がぽつりとつぶやいた。
「……今までの役人は、こんなこと言わなかった」
「“どちらが悪いか”決めるだけが役人の仕事じゃないでしょうか」
「……そう思ってた。でも、本当は……」
言葉はそこで途切れた。
しかし表情は、昨日とはまるで違う。
怒りではなく、迷いでもない。
——少しだけ、期待に似た色があった。
◆
湊は息を整え、宣言する。
「今日、ここに新しい分水口の“仮組み”を作ります。僕が現地を見て、図を描きます。それに沿って石を組んでください。水の流れが均されるはずです」
北組の年寄りが手を挙げる。
「誰が、その図を引くのですか?」
湊は静かに答えた。
「僕が引きます。……責任も、僕が取ります」
その声音に、弥藤もわずかに目を見張った。
湊の視線は揺れていない。
覚悟の重さが、言葉に宿っている。
「やりましょう! うちの若い衆、全部出します!」
「南組も手を貸す! 水が均されりゃ、誰も損せんはずだ!」
ざわり、と空気が動いた。
昨日まで怒号しかなかった場所に、
今は“協同”の気配が生まれ始めていた。
◆
弥藤がそっと近づき、小声で言った。
「……湊さん、今のお姿はまさに“決める者”でございます」
「そんな立派なものじゃないよ。ただ……逃げずにいるだけ」
「それこそ、最も難しきことでございます」
湊は空を見上げる。
暗い雲の向こうに、かすかな光が差していた。
——今日で、この争いを終わらせる。
その第一歩を踏み出せた気がした。
◆
湊は袖をまくり、腰を落とし、分水口の前に筆を走らせ始めた。
両組の男たちが見守る中、地面に置いた紙へ線を引く。
水の流れ。
緩急。
偏り。
石の配置。
その線は、湊の心を映すようにまっすぐだった。
——ここからが、“村を救う仕事の本番”だ。
分水口の周囲に人が集まり始めた。
北組も南組も、肩を並べて分水口を見るという光景は、昨日なら想像もできなかったはずだ。
「ここを、こう……ですね?」
「いや、そこは湊さんの図の通り、“半寸”ほど引いたほうが流れが整う」
「ほう……言われてみれば確かに」
石を持ち上げ、位置を変え、また確かめる。
最初こそぎこちなかった動作は、しだいに“仕事の手”に変わっていく。
湊はその様子を見つめながら、図面の脇に小さく注釈を加えた。
「ここの石は、雨量が増えた時に“逃げ道”になるように……」
湊が呟くと、南組の若者が耳を傾けた。
「逃げ道……って、必要なんですか」
「うん。完全に均すと、逆に水が暴れやすくなる。だから“余白”を残すんだ」
「……なるほど。今まで、流したいか止めたいかの両極しか考えたことなかったな」
若者は腕を組んで、湊の図面に見入った。
「湊さん、あんた……ただの書き付け役じゃねぇな」
「そんなことないよ。ただ、見えることを言ってるだけ」
そう言った湊の声には、自信ではなく“覚悟”の芯があった。
◆
「持ち上げるぞ、せーの!」
「おうっ!」
石が組み替えられ、水の流れが一瞬止まる。
次の瞬間——
すうっと、左右に均等に分かれていった。
「……お?」
「おお……?」
村人たちの表情に驚きが走り、次第にざわめきが広がる。
「均された……!」
「ほんとだ、偏りがねぇ!」
「湊さん、本当に……!」
さざ波のように称賛が広がるが、湊は静かに手を上げた。
「まだ“仮組み”です。今日はこれで凌げても、根本の解決はこれからです」
緩やかだが、確かな言葉。
その声音に、北組の年寄りが深くうなずいた。
「……仮組みでも、村が守られるなら十分だ。今日の湊さんの判断、わしは認めよう」
「俺たち南組も、異存ねぇ!」
空気は完全に“共働”へ変わっていた。
◆
その時だった。
近くの藪を踏んで人影が現れ、村人たちが一斉に振り返る。
「……宮森さま!」
ひゅ、と冷たい風が吹いたような緊張が走る。
宮森主膳が、弥藤を従えて歩み寄ってきた。
「作業の進み具合はどうなっている」
「宮森さま、お見せします!」
北組と南組が一歩下がり、湊が前へ出た。
「宮森さま。こちらが、本日の“仮組み”です。雨量の変化にも耐えられるよう、逃げと均しを両立させています」
視線を向けた主膳は、しばらく沈黙した。
冷たいようで、温度の見えない目。
やがて、小さく息を吐く。
「……八代が言っていた通りだ。筋は悪くない」
その一言に、村人たちの肩が同時に落ちる。安堵の息だった。
だが主膳は続けた。
「だが、均しただけでは足りぬ。……湊」
「はい」
「“決める者”の務めは、その場を収めるだけではない。“二十年後を見据える策”を示してこそだ」
湊の胸が、ぎゅ、と熱くなる。
「……来年以降の本決め、ですね」
「そうだ。お前の判断が、村の未来を左右する。その重みを忘れるな」
主膳は背を向け、去り際に一言だけ投げた。
「——今日の働きは悪くなかった」
それだけで十分だった。
湊の胸に、静かな火が灯る。
◆
作業は夕刻まで続き、分水口は完全に“仮設ながら正常な形”を取り戻した。
北組と南組の男たちが、湊の前に立つ。
「湊さん……助かった。これで子どもらが飢えずにすむ」
「本決めも、あんたに任せたい」
「うちの村……どうか、頼みます」
湊は深く頭を下げた。
「……僕ひとりじゃできません。皆さんが力を貸してくれたから、ここまで来られました」
「いや。あんたが“決めた”からだ」
その言葉が、湊の胸にまっすぐ刺さる。
◆
夕日が山の端へ沈み、村は金色に染まった。
弥藤が湊に寄り添い、小さく言う。
「湊さん。今日……ひどく誇らしいお姿でした」
「誇らしいなんて……そんな器じゃないよ」
「いいえ。“逃げず、決め、動いた”。その一歩は、武士でも百姓でも簡単には踏めませぬ」
夕風が湊の髪を揺らす。
「……僕、少しだけ分かった気がする」
「何を、でしょう」
「“決める”って……嫌われる覚悟でもある。でも同時に、“誰かの未来を守る覚悟”でもあるんだって」
弥藤の目が細くほころぶ。
「それが分かった湊さんは、もう……強うございます」
「強くなんてないよ」
「では、“強くなり始めた”と申しておきましょう」
湊は小さく笑った。
仮の分水口から均された水が、細く光って村を潤している。
——今日、この村は救われた。
——そして、自分もまた一歩、前へ進めた。
湊はゆっくりと息を吸い、夕空を見上げた。
「……よし。本決めの策、考えないとな」
その声は、迷いよりも決意の色のほうが強かった。




