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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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14話:怒りの奥にあるもの

北組と南組、双方の怒りを聞き終えて外へ出ると、山あいの風が一気に冷たく感じられた。

 湊の胸の奥に、ざわつきが残っていた。

 ——どちらの言い分も、まるで写し鏡だ。


「湊さん、どうなさいます?」


 弥藤が横に立つ。

 彼の声は落ち着いているが、目はわずかに主人の判断を見守っていた。


「まだ……決められない。どちらも、自分の損しか語っていない気がする」


「損……ですか」


「うん。人って、怒っているときほど“本当の理由”を隠してしまうものだから」


 湊の声は静かだが、確かな芯があった。

 これまでの巡察で、職人も、商人も、百姓も、皆が“怒りの影に別の本音”を持っていることを学んできた。


「まず……村の暮らしそのものを見たい」


 湊の言葉に、弥藤は深く頷いた。


「承知しました。北組、南組、それぞれの田の様子を確かめましょう」



 山に囲まれた小さな村は、谷川から引いた一本の用水で田畑を潤していた。

 その用水を分ける場所——村人が“分水の口”と呼ぶ地点に立つと、湊はすぐに違和感に気づいた。


「……これ、曲がってない?」


 木で組んだ簡易の仕切りが、わずかに南側へ傾いている。

 そのせいで、水が北よりも南に多く流れ込んでいた。


「これは、北組が怒る理由になりますね」


「でも……南組が故意に動かした、とまでは言えないよ」


 湊は仕切りに触れた。

 木は古く、片側の地面が沈んでいる。

 ——自然に歪んだだけかもしれない。


 すると背後から、荒い声が響いた。


「ほら見ろ! やっぱり南にばっか水が行ってるじゃねえか!」


 北組の男数名が来ていた。

 湊は振り返り、落ち着いた声で問いかけた。


「あなた方が“故意ではないか”と疑った理由を聞かせてください」


「理由もくそもあるか。去年の干ばつのときに、南の連中が“田の格付けを見直すべきだ”とか言いやがったんだ! そんな話のあとで、たまたま傾くかよ!」


 怒りに火がついている。

 湊は一歩だけ前へ出た。


「では、南組の方にも確かめます。話を聞くまでは、決めません」


 男たちはまだ不満そうだったが、湊の目を見て口を閉じた。

 その目の奥に、“逃げていない者の覚悟”が宿っていたからだ。



 南組の田も見て回る。

 田の一枚一枚を確認し、苗の丈、土の湿り具合、川との高低差まで、湊はひとつひとつ丁寧に観察した。


「湊さん……よくそこまで見るものです」


「見ないと、分からないから」


 湊は微笑んだが、その表情はどこか張りつめていた。

 村の生活が、この紙の上の一筆で変わる。

 そんな重さを、十二話の兵糧蔵で痛烈に感じたばかりだった。


 南組の者もやってきた。

 先ほどの北組とは違い、こちらは焦りの色が強い。


「北のやつらは“自分の田だけあればいい”って言うんだ! 水が少し足りねえだけで騒ぎ立てやがって!」


「少し、ですか?」


 湊の問いに、南の男は言葉を詰まらせる。


「……いや。正直、うちも来年が怖えんだ。去年の干ばつで、蓄えはまだ戻っちゃいねぇ」


 怒りの奥に、小さな震えがある。

 それは北組と同じ恐れだった。


(同じだ……結局、どちらも家族を守りたいだけなんだ)


 湊は胸の奥で静かに息をついた。



 村の様子をひととおり見終えると、太陽は山の端に沈みかけていた。

 湊と弥藤は、分水の口の前で立ち止まった。


「湊さん。どうなさいます?」


 弥藤の声には、答えを急かす気配はない。

 ただ、見守るだけの温度。


 湊は仕切りを見つめた。

 その歪みは、自然か、故意か。

 確かな証拠はどこにもない。


「……まだ、決められない」


「理由を、お聞きしても?」


 静かに問う弥藤へ、湊は言葉を選びながら口を開いた。


「怒りの言葉は、本音じゃない。本当に聞くべき声は、まだ誰からも聞けていないんだ」


「本音、ですか」


「うん。誰が得をして誰が損をするかじゃない。

 村がこれからどうなるか……その“怖さ”を、まだ誰も口にしていない」


 湊はふっと目を伏せた。


「だから、もう一度見に行きたい。今度は、家々の“暮らしそのもの”を」


 その言葉に、弥藤はゆっくりと微笑んだ。


「——ようやく、“湊さんらしい決め方”になりましたね」


「僕らしい、って?」


「はい。“怒り”ではなく、“恐れ”を見る人ですから」


 湊は少し照れた顔で肩をすくめた。

 しかしその頬には、確かな決意が灯っていた。


(逃げない……でも、急がない。

 それが、僕の——決め方だ)


 山の影が深く伸びる頃、二人は村の中心へと歩き出した。

暮れかけた村は、夕餉の煙とともに、どこか張りつめた匂いを帯びていた。

 湊はまず、北組の古い家並みへと向かった。



「すまねえが……湯だけでも飲んでってくれ」


 案内された家では、年配の男が湯飲みを差し出した。

 湊は礼を言い、湯の香りを確かめるように息を吐いた。


「先ほどは怒っておられましたね。しかし——怒りの“奥”を、聞かせてほしい」


 男は驚いた顔をし、それからぽつりと視線を落とした。


「……本当は、今年はなんとかなると思ってたんだ。

 だが、田の半分が水の入りが悪い。来年、年貢が果たせなけりゃ……村から出されるのは、俺たちなんだ」


「出される……?」


「北組は元々、用水の末端なんだ。水が来ねぇ時はいちばん困る。

 “甘えだ”って南は言うが、あいつらの田は広くて、蓄えも多い。

 追い出される怖さなんざ……知らねえよ」


 怒りではない。

 それは、積もり積もって乾いたような“恐れ”だった。


(南組も北組も……同じだ)


「あなたは、追い出されたくないんですね」


「当たり前だ。ここは……俺の家族の暮らしが詰まってる場所なんだ」


 湊はそっと頷いた。

 家人の生活の匂い、壁の煤け、土間の磨耗。

 この家で生きてきた重みが、ひしひしと伝わってくる。



 続いて南組の家を訪ねた。

 こちらは北よりも少し大きな家が多く、薪の蓄えも多い。


「北が怒ってることは分かるんだ。でもな……」


 南組の若い夫婦は、声を潜めて語った。


「去年の干ばつで、うちは蓄えを半分以上崩した。

 今年はその“穴埋め”の年なんだ。少しでも収穫が減れば、来年を越せねえ」


 妻の方は、赤子を抱いていた。

 その腕の揺れが、わずかに震えている。


「北の田に水が回るようにすりゃ、こっちの田の幾つかは“痩せる”んだ。家族を養うには、どっちも限界で……」


「どっちも苦しいんですね」


「そうだ。そのくせ、北は“南が得してる”と言う。

 うちはうちで、“北が優遇されてる”と思ってる」


 夫は深く息を吐いた。


「誰が悪いわけじゃねぇ。そんなことは……分かってるんだよ」


 その言葉に、湊の胸が強く揺れた。


(怒りは……全部、この“怖さ”を隠すためのものだったんだ)



 村を一巡するころ、夜の帳が落ちてきた。

 弥藤と二人で分水の口へ戻ると、川の音だけが暗がりに響いていた。


「湊さん。どう見えました?」


 問いかけは静かだが、奥には期待が宿っている。


 湊は、夜風の中でゆっくりと答えた。


「北も南も、同じことを恐れていた。“家族を失うこと”を」


「……はい」


「怒りの形は違うけど、根っこはひとつ。

 だったら、どちらかを切り捨てる判断は……間違いにしかならない」


 弥藤が目を細める。


「では、どうされます?」


 湊は、仕切り板の歪みを見つめた。

 古く、弱り、傾き……それが村全体の姿のように思えた。


「——まず、“分水の口”そのものを直します。

 歪んだ仕組みのまま、どちらが正しいかを決めることはできない」


 弥藤の目がわずかに見開かれた。


「仕組みから、ですか」


「うん。水の配り方を一度“まっすぐ”にしないと、誰も納得できない。

 それから、北と南それぞれの“来年への不安”を、書き付けとしてまとめる」


 湊の声には、いつになく強さが宿っていた。


「僕の役目は、争いを裁くことじゃない。“村を守る形”を探すことだと思う」


 その言葉に、弥藤はゆっくりと頷き、深く頭を下げた。


「……湊さん。あなたが“決める者”になりつつあるのを、確かに感じました」


 湊は照れたように微笑む。


「僕だって、怖いよ。間違えたら、誰かの暮らしを壊してしまう」


「怖いと思える者こそ、判断者に向いております」


 弥藤の声は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。



 月が山の上に昇り始めたころ、湊は筆を取り、今日聞いた言葉を一つひとつ書き付けに記した。


「怒りの言葉ではなく……“恐れ”を書かないと」


 紙に向かう彼の背は、昼間よりもはっきりと大きく見えた。


 ——村を救うのは、誰かに勝つ言葉ではない。

 誰かの恐れに寄り添う言葉だ。


 その夜、湊は明日伝えるべき策を形にするため、遅くまで灯火を絶やさなかった。

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