14話:怒りの奥にあるもの
北組と南組、双方の怒りを聞き終えて外へ出ると、山あいの風が一気に冷たく感じられた。
湊の胸の奥に、ざわつきが残っていた。
——どちらの言い分も、まるで写し鏡だ。
「湊さん、どうなさいます?」
弥藤が横に立つ。
彼の声は落ち着いているが、目はわずかに主人の判断を見守っていた。
「まだ……決められない。どちらも、自分の損しか語っていない気がする」
「損……ですか」
「うん。人って、怒っているときほど“本当の理由”を隠してしまうものだから」
湊の声は静かだが、確かな芯があった。
これまでの巡察で、職人も、商人も、百姓も、皆が“怒りの影に別の本音”を持っていることを学んできた。
「まず……村の暮らしそのものを見たい」
湊の言葉に、弥藤は深く頷いた。
「承知しました。北組、南組、それぞれの田の様子を確かめましょう」
◆
山に囲まれた小さな村は、谷川から引いた一本の用水で田畑を潤していた。
その用水を分ける場所——村人が“分水の口”と呼ぶ地点に立つと、湊はすぐに違和感に気づいた。
「……これ、曲がってない?」
木で組んだ簡易の仕切りが、わずかに南側へ傾いている。
そのせいで、水が北よりも南に多く流れ込んでいた。
「これは、北組が怒る理由になりますね」
「でも……南組が故意に動かした、とまでは言えないよ」
湊は仕切りに触れた。
木は古く、片側の地面が沈んでいる。
——自然に歪んだだけかもしれない。
すると背後から、荒い声が響いた。
「ほら見ろ! やっぱり南にばっか水が行ってるじゃねえか!」
北組の男数名が来ていた。
湊は振り返り、落ち着いた声で問いかけた。
「あなた方が“故意ではないか”と疑った理由を聞かせてください」
「理由もくそもあるか。去年の干ばつのときに、南の連中が“田の格付けを見直すべきだ”とか言いやがったんだ! そんな話のあとで、たまたま傾くかよ!」
怒りに火がついている。
湊は一歩だけ前へ出た。
「では、南組の方にも確かめます。話を聞くまでは、決めません」
男たちはまだ不満そうだったが、湊の目を見て口を閉じた。
その目の奥に、“逃げていない者の覚悟”が宿っていたからだ。
◆
南組の田も見て回る。
田の一枚一枚を確認し、苗の丈、土の湿り具合、川との高低差まで、湊はひとつひとつ丁寧に観察した。
「湊さん……よくそこまで見るものです」
「見ないと、分からないから」
湊は微笑んだが、その表情はどこか張りつめていた。
村の生活が、この紙の上の一筆で変わる。
そんな重さを、十二話の兵糧蔵で痛烈に感じたばかりだった。
南組の者もやってきた。
先ほどの北組とは違い、こちらは焦りの色が強い。
「北のやつらは“自分の田だけあればいい”って言うんだ! 水が少し足りねえだけで騒ぎ立てやがって!」
「少し、ですか?」
湊の問いに、南の男は言葉を詰まらせる。
「……いや。正直、うちも来年が怖えんだ。去年の干ばつで、蓄えはまだ戻っちゃいねぇ」
怒りの奥に、小さな震えがある。
それは北組と同じ恐れだった。
(同じだ……結局、どちらも家族を守りたいだけなんだ)
湊は胸の奥で静かに息をついた。
◆
村の様子をひととおり見終えると、太陽は山の端に沈みかけていた。
湊と弥藤は、分水の口の前で立ち止まった。
「湊さん。どうなさいます?」
弥藤の声には、答えを急かす気配はない。
ただ、見守るだけの温度。
湊は仕切りを見つめた。
その歪みは、自然か、故意か。
確かな証拠はどこにもない。
「……まだ、決められない」
「理由を、お聞きしても?」
静かに問う弥藤へ、湊は言葉を選びながら口を開いた。
「怒りの言葉は、本音じゃない。本当に聞くべき声は、まだ誰からも聞けていないんだ」
「本音、ですか」
「うん。誰が得をして誰が損をするかじゃない。
村がこれからどうなるか……その“怖さ”を、まだ誰も口にしていない」
湊はふっと目を伏せた。
「だから、もう一度見に行きたい。今度は、家々の“暮らしそのもの”を」
その言葉に、弥藤はゆっくりと微笑んだ。
「——ようやく、“湊さんらしい決め方”になりましたね」
「僕らしい、って?」
「はい。“怒り”ではなく、“恐れ”を見る人ですから」
湊は少し照れた顔で肩をすくめた。
しかしその頬には、確かな決意が灯っていた。
(逃げない……でも、急がない。
それが、僕の——決め方だ)
山の影が深く伸びる頃、二人は村の中心へと歩き出した。
暮れかけた村は、夕餉の煙とともに、どこか張りつめた匂いを帯びていた。
湊はまず、北組の古い家並みへと向かった。
◆
「すまねえが……湯だけでも飲んでってくれ」
案内された家では、年配の男が湯飲みを差し出した。
湊は礼を言い、湯の香りを確かめるように息を吐いた。
「先ほどは怒っておられましたね。しかし——怒りの“奥”を、聞かせてほしい」
男は驚いた顔をし、それからぽつりと視線を落とした。
「……本当は、今年はなんとかなると思ってたんだ。
だが、田の半分が水の入りが悪い。来年、年貢が果たせなけりゃ……村から出されるのは、俺たちなんだ」
「出される……?」
「北組は元々、用水の末端なんだ。水が来ねぇ時はいちばん困る。
“甘えだ”って南は言うが、あいつらの田は広くて、蓄えも多い。
追い出される怖さなんざ……知らねえよ」
怒りではない。
それは、積もり積もって乾いたような“恐れ”だった。
(南組も北組も……同じだ)
「あなたは、追い出されたくないんですね」
「当たり前だ。ここは……俺の家族の暮らしが詰まってる場所なんだ」
湊はそっと頷いた。
家人の生活の匂い、壁の煤け、土間の磨耗。
この家で生きてきた重みが、ひしひしと伝わってくる。
◆
続いて南組の家を訪ねた。
こちらは北よりも少し大きな家が多く、薪の蓄えも多い。
「北が怒ってることは分かるんだ。でもな……」
南組の若い夫婦は、声を潜めて語った。
「去年の干ばつで、うちは蓄えを半分以上崩した。
今年はその“穴埋め”の年なんだ。少しでも収穫が減れば、来年を越せねえ」
妻の方は、赤子を抱いていた。
その腕の揺れが、わずかに震えている。
「北の田に水が回るようにすりゃ、こっちの田の幾つかは“痩せる”んだ。家族を養うには、どっちも限界で……」
「どっちも苦しいんですね」
「そうだ。そのくせ、北は“南が得してる”と言う。
うちはうちで、“北が優遇されてる”と思ってる」
夫は深く息を吐いた。
「誰が悪いわけじゃねぇ。そんなことは……分かってるんだよ」
その言葉に、湊の胸が強く揺れた。
(怒りは……全部、この“怖さ”を隠すためのものだったんだ)
◆
村を一巡するころ、夜の帳が落ちてきた。
弥藤と二人で分水の口へ戻ると、川の音だけが暗がりに響いていた。
「湊さん。どう見えました?」
問いかけは静かだが、奥には期待が宿っている。
湊は、夜風の中でゆっくりと答えた。
「北も南も、同じことを恐れていた。“家族を失うこと”を」
「……はい」
「怒りの形は違うけど、根っこはひとつ。
だったら、どちらかを切り捨てる判断は……間違いにしかならない」
弥藤が目を細める。
「では、どうされます?」
湊は、仕切り板の歪みを見つめた。
古く、弱り、傾き……それが村全体の姿のように思えた。
「——まず、“分水の口”そのものを直します。
歪んだ仕組みのまま、どちらが正しいかを決めることはできない」
弥藤の目がわずかに見開かれた。
「仕組みから、ですか」
「うん。水の配り方を一度“まっすぐ”にしないと、誰も納得できない。
それから、北と南それぞれの“来年への不安”を、書き付けとしてまとめる」
湊の声には、いつになく強さが宿っていた。
「僕の役目は、争いを裁くことじゃない。“村を守る形”を探すことだと思う」
その言葉に、弥藤はゆっくりと頷き、深く頭を下げた。
「……湊さん。あなたが“決める者”になりつつあるのを、確かに感じました」
湊は照れたように微笑む。
「僕だって、怖いよ。間違えたら、誰かの暮らしを壊してしまう」
「怖いと思える者こそ、判断者に向いております」
弥藤の声は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。
◆
月が山の上に昇り始めたころ、湊は筆を取り、今日聞いた言葉を一つひとつ書き付けに記した。
「怒りの言葉ではなく……“恐れ”を書かないと」
紙に向かう彼の背は、昼間よりもはっきりと大きく見えた。
——村を救うのは、誰かに勝つ言葉ではない。
誰かの恐れに寄り添う言葉だ。
その夜、湊は明日伝えるべき策を形にするため、遅くまで灯火を絶やさなかった。




