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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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13話:村の声は土より重く

夜が明けきらぬ会津城下に、湿り気を含んだ冷たい風が吹き抜けた。

 十日間の巡察を経て、湊はついに“外へ出る”日を迎えていた。


 城内の廊下は薄明の光に照らされ、まだ静まり返っている。

 だが湊の胸の中だけは、ざわつくような脈が落ち着かない。


——今日から村々へ向かう。

 初めての本格的な任務だ。


 そう思うほどに、掌の内側がじんわり汗ばむ。


「湊さま、支度はお済みで?」


 襖の外から弥藤の声がした。

 その声音はいつも通り穏やかで、湊の胸の鼓動をいくらか整えてくれる。


「うん。行こう」


 部屋を出ると、弥藤が静かに頭を下げ、湊の脇を歩き始めた。


「緊張されておりますな」


「……わかる?」


「はい。湊さまは、不安を隠すのがあまりお上手ではないご様子」


「そこ、直したいんだけど……」


「直さずともよいかと。隠さぬからこそ、人が湊さまに心を開きとうなるのでございます」


 弥藤は迷いなく言う。

 さらりと、まるで当たり前のように。


 湊は苦笑しながら、胸の奥に温かさが灯るのを感じた。



 出立前の控えの間には、すでに主膳が待っていた。

 凛とした姿勢で手を後ろに組み、鋭い眼光で湊を迎える。


「来たか、湊。緊張はしておるか?」


「……はい、少し」


「結構。緊張できぬ者より、よほどよい」


 即答だった。

 その声音には、以前のような棘はない。

 だが厳しさの芯は変わらない。


「今回の任務、村立て改めは……単なる調査ではない」


 主膳の言葉に、湊は自然と背筋を伸ばした。


「村というものは、地図では一つの点にすぎぬ。しかし実際は、そこに暮らす人々の営みが折り重なった“大きな塊”じゃ。

 その塊のどこが弱り、どこが歪み、どこに力が足りぬか……見誤れば、村は傾き、年貢は減り、兵糧は尽きる」


「……はい」


「湊、おぬしの役目は“書き付けること”だが、それはただ記すだけではない。

 書かれた紙一枚で、誰かが救われ、誰かが苦しむ。その覚悟を持て」


 言葉の重みが、胸にずしりとのしかかる。


 主膳は湊の目をじっと見据えた。


「十日前、おぬしは泣いたな」


「……はい」


「あれは弱さゆえではない。“痛みを受け止めた者”が流す涙だ。

 湊、おぬしはもう、逃げぬ者となりつつある。

 ならば——次は“決める者”になれ」


 厳しい言葉。

 けれど、その奥にある信頼ははっきりと感じられた。



 そこへ、足音が響いた。


「失礼いたす」


 現れたのは八代だった。

 鋭い眼差しと、不機嫌そうな眉。そして、わずかに湊へ向けられる興味。


「……来たか、若造」


「おはようございます、八代さま」


「生意気な返しは覚えたようだな。よかろう。この数日で落ちぬようなら、多少の物言いは許す」


 湊は思わず苦笑した。

 八代の言葉は相変わらず刺々しいが、そこに含まれる熱は以前よりわかりやすい。


「八代。任務の段取りを伝えてくれ」


 主膳が促すと、八代は湊に向き直った。


「今回向かう村々は三つ。

 第一に“蓬田村”。旧領時代からの田地の境界争いで揉めやすい。

 第二に“水原村”。冬の備えとしての兵糧の蓄えが危うい。

 第三に“木幡村”。新田開発の申請があるが、村内に反対派が多い」


「……それぞれ問題があるんですね」


「当然だ。問題のない村をわざわざ改めに行くものか」


 八代は鼻で笑った。


「湊。おぬしの書く“書き付け”が、これらの村の行く末を左右する。

 甘さや曖昧は許されぬ。誤れば、民が飢えるぞ」


「……肝に銘じます」


「まあ、おぬしの筆は悪くない。だが“判断”となれば別だ。

 村に入れば、おぬしの迷いはすべて伝わる。

 迷ったままでは、村人は逆風になる」


 弥藤が小さくうなずいた。

 八代の言葉は怖いが、核心を突いていた。



 そこへ、静かな足音が響いた。

 直江兼続その人が姿を現したのだ。


 控えの間の空気が、一気に張り詰める。


「皆、揃っておるな」


 兼続は湊を見ると、ふわりと微笑んだ。


「湊。十日の巡察、よく励んだ。

 そなたの書き付け、いくつか目を通したが……“心がある”」


「ここ、心構えの原点だ」と湊は思った。


「ただ、心だけでは、村は救えぬ」

「……はい」


「知も要る。技も要る。時に“非情”もいる。

 だがな——心を捨てぬ者でなければ、書き付けも判断も、ただの石ころとなる」


 兼続は湊の肩に手を置いた。

 その手は温かいのに、不思議と背筋が伸びる。


「湊。そなたは“人の声を聞く耳”を持っておる。

 それは武士にとって、千の兵に勝る力だ。

 村へ行っても、その耳を失うな」


「……ありがとうございます」


 自分でも驚くほどの震えが声に混じった。


「行ってまいれ。そなたの筆が、会津の地を良き方へ導くと信じておる」


 湊が深く頭を下げると、兼続は静かに退いた。



 城門の前には、荷を積んだ馬と、同行する兵たちが待っていた。


 冷たい空気の中、白い息が立ち上る。

 まだ朝焼けの色がわずかに残る空を見上げ、湊は唾を飲んだ。


「いよいよ、ですね……」


「はい、湊さま」


 弥藤が隣で小さく微笑む。

 その顔を見るだけで、不思議と胸の強ばりがほどけた。


「……行こう」


 湊は小さく呟いた。


 その声は震えていたが、確かに前へ進もうとしていた。


 馬が歩き出すと、会津城下がゆっくりと遠ざかっていく。

 十日間歩き回った町並み、出会った人々の顔——

 それらが淡く胸を満たしていく。


——村という“世界”の中へ。

——筆一本で向き合う戦いが、いま始まる。


 湊は静かに息を吸った。


 心の奥の小さな火は、確かに強くなっている。

 その熱だけは失わぬようにと、そう願いながら。

蓬田村の集落が見え始めたのは、日が傾きはじめた頃だった。

 田畑の向こうにぽつぽつと茅葺の屋根が並び、冬を前にした枯色の風景が広がっている。


「湊さま。あれが蓬田村でございます」


「……思ったより、静かだね」


 弥藤がうなずく。


「表の静けさは、裏に何もない証とは限りませぬ。争いを抱えた村ほど、言葉を噤むものでございます」


 背後で八代が鼻を鳴らした。


「小僧、気合を入れろ。ここは旧領時代から田地の境界争いが絶えん。

 “相手が悪い”と皆が思っておる村は、話を聞くだけでは何も見えてこぬ」


 湊は自然と肩に力が入る。


「……はい」



 村に足を踏み入れると、子どもたちが遠巻きにこちらを見て、母親の背に隠れた。

 兵の姿が珍しいのか、恐ろしいのか——その両方だろう。


 湊は馬から降り、村の中心へ歩く。

 すると村役人が慌てて駆け寄ってきた。


「これはこれは……わざわざのお越し、恐れ入ります。

 上杉家中の御方かと存じますが、どのようなご用向きで?」


 湊は深く頭を下げた。


「今回、城より“村立て改め”を命じられました。記録と調査の役を務めます、清原湊と申します。

 これは私ひとりの判断ではなく、村の皆さまの声を伺いながら進めてまいります」


 役人は一瞬驚いたように目を丸くした。

 兵や武士なら高圧的になるところだが、湊の物腰はあくまで柔らかい。


 だが、そこへ八代が低く言い放つ。


「勘違いするなよ、村役。この者は書き付け役であって、決める者ではない。

 だが、この者の“記し”は重いぞ。

 軽々しく嘘を申せば、後で泣くのは貴様らだ」


 役人の顔が引きつった。

 湊は慌てて口を開く。


「八代さま、脅すつもりはありません。ただ、正しく知るために皆さまのお力が必要なのです」


 弥藤が静かに補う。


「湊さまは、村に寄り添うお方。どうか遠慮なく、お話を聞かせてくだされ」


 役人の緊張がようやくほぐれ、深く頭を下げた。


「では……まずは庄屋の家にて、村の状況をご説明いたします」



 庄屋の家は古く、天井の梁が黒く燻んでいた。

 湊たちが通されると、すぐに村役人たちが集まり、囲炉裏に火がくゆっている。


「湊さま。まず……難儀しておることがございます」


「難儀?」


 役人が深いため息をつく。


「田地の境が、年ごとに少しずつ“動いておる”のです」


「動く?」


「はい。川の氾濫で土が流れたり、畦が崩れたり……。

 そして、どちらが正しい境かを巡って、北組と南組で揉めております」


 八代が小さく呟く。


「ほれ見ろ、湊。村というのはこういうものだ。

 “地図どおり”などという正しさは、野良では役に立たん」


 湊は真剣に頷く。


「ちなみに……争いはどの程度ですか?」


「畦を壊した壊さぬで口論になり、鍬を振り上げる騒ぎが……。

 ここ十日のうちに二度ございました」


「二度……」


 想像より深刻だ。


「湊さま、問題はもうひとつあります」


「まだあるんですか?」


「はい。年貢米の集めが追いついておりませぬ」


 息が止まりそうになる。


「理由は……」


「争いのせいで田植えも刈り取りも遅れ、収穫量が落ちております。

 米を出す年寄りも、納められぬ若い衆も、皆が苦しんでおります」


 湊は胸が痛くなるのを感じた。


(争いのせいで、民が困っている……)


 主膳の言葉が蘇る。


——書き付け一つで、誰かが救われ、誰かが苦しむ。


「湊さま、どうされます?」


 役人が不安げに尋ねる。


 八代が言葉をかぶせた。


「どうせ迷うのだろう。若造のことだ」


 湊は八代の方を見た。

 刺すような言葉だが、逃げ道を塞ぐための檄にも見える。


 湊は深く息を吸った。


「まず……両組のお話を直接伺いたいです。

 こちらの言葉だけで判断しては、誤りになる可能性があります」


 役人が驚いた。


「湊さま、自ら現場へ?」


「はい。畦を見て、土の流れを見て、川の様子も確かめます。

 “地図ではわからないこと”を知るために」


 八代の眉がわずかに動いた。


「ほう……言うようにはなったな」


 弥藤が小さく微笑む。


「湊さまは、目で確かめずに判断なさるお方ではございませぬ」



 北組の家屋は静まり返っていた。

 湊たちが訪れると、農民たちは戸口から顔を覗かせるが、警戒の色が濃い。


「誰だ。役人か」


 一人の壮年の男が歩み寄り、険しい目で湊を見据える。


「上杉家より参りました。蓬田村の状況を——」


「言い訳なら聞かんぞ。南組の連中を庇うために来たのなら帰れ」


「南組を庇う……?」


 湊が返すと、男は怒りを露わにした。


「南組の奴らが畦を壊して田を奪おうとしてる!

 毎年じわじわ境をずらしよって……!」


(なるほど……双方“相手が悪い”と思っているのか)


「その話、本当か……?」


「本当だとも! あいつらの畦の積み方、見りゃわかる!」


 男は湊を畑に連れ出し、地面を指さした。


「ここだ。少しずつ、南へ寄ってきてるだろう!?」


 湊は膝をつき、畦を指でなぞった。


(確かに土の質が違う……新しく積み直した部分がある)


「これを南組はどう言ってるのですか?」


「“川で崩れたから直しただけ”だと……ふざけるな!」


 怒りが湧き上がる男の背で、家にいた子どもたちが怯えて隠れた。


 湊の胸が痛む。


(争いが深まれば、この子たちも巻き込まれる……)



 続いて南組へ訪れた。


 こちらの農民たちも同じことを言った。


「北組が畦を広げてる!」

「田が削られて、うちの米が減った!」

「年貢を納められぬのは、あいつらのせいだ!」


 怒りの矛先こそ違えど、語る内容は北組とほぼ同じ。


(双方の言い分が鏡のようにそっくりだ……

 ということは、原因は“誰か一方の悪意”ではなく——

 川の土や畦の自然流動……?)


 八代が湊に近づく。


「迷っておるな」


「……はい。どちらの言い分にも確かな部分があるように感じます」


「ならば決めてやる。おぬしは——」


「まだ、決めません」


 湊は初めて八代の言葉を遮った。


 八代の目が鋭くなる。


「理由は?」


「ここでは、まだ“村の声”を全部聞いていません。

 怒りの声ばかりを拾っては、本当の問題は見えてこない。

 腹が立っている時、人は“自分の損”しか言わないから」


 八代は口を閉ざした。


 弥藤がそっと言う。


「湊さまのお考えは、正しいかと存じます」



 夕刻。


 村は深い灰色に染まり、冷たい風が木の葉を揺らした。


 宿となる庄屋に戻ると、湊は筆を取り、書き付けを始めた。


 畦の崩れ方。

 川の流れ。

土質の違い。

 農民たちの言葉、その怒りの背景。


 一文字ずつ書きながら、湊は気づいた。


(——村の声は、重い)


 紙の上に落ちてくるのは、争いの原因だけではない。


 家族を守りたい焦り。

 来年の収穫への不安。

 年貢を果たせぬ苦しみ。

 村が崩れるかもしれない恐怖。


 どれも、胸に刺さるほど切実だ。


「湊さま」


 弥藤が部屋の外から声をかけた。


「本日はよう働かれました。どうか、無理をなさらず」


「ありがとう。……でも、今日は眠れるかどうか」


「理由を、お伺いしても?」


「……どちらかを切り捨てれば、争いはもっと深くなる。

 でも、何もしなければ村が崩れる。

 “判断する”って、こんなに重かったんだね……」


 弥藤はそっと微笑んだ。


「重いからこそ、湊さまに任されたのでございます」


 その言葉に、湊は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。



 湊は筆を置き、火を落として寝床に横たわった。


 村の声が、耳に残ったままだ。


——明日、どう向き合うべきなのか。

——自分の筆が、この村の明日を左右する。


 脈はまだ速い。


 だが湊は、静かに目を閉じて呟いた。


「……逃げずに、向き合う」


 外では、冬を告げる風の音だけが吹き続けていた。

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