13話:村の声は土より重く
夜が明けきらぬ会津城下に、湿り気を含んだ冷たい風が吹き抜けた。
十日間の巡察を経て、湊はついに“外へ出る”日を迎えていた。
城内の廊下は薄明の光に照らされ、まだ静まり返っている。
だが湊の胸の中だけは、ざわつくような脈が落ち着かない。
——今日から村々へ向かう。
初めての本格的な任務だ。
そう思うほどに、掌の内側がじんわり汗ばむ。
「湊さま、支度はお済みで?」
襖の外から弥藤の声がした。
その声音はいつも通り穏やかで、湊の胸の鼓動をいくらか整えてくれる。
「うん。行こう」
部屋を出ると、弥藤が静かに頭を下げ、湊の脇を歩き始めた。
「緊張されておりますな」
「……わかる?」
「はい。湊さまは、不安を隠すのがあまりお上手ではないご様子」
「そこ、直したいんだけど……」
「直さずともよいかと。隠さぬからこそ、人が湊さまに心を開きとうなるのでございます」
弥藤は迷いなく言う。
さらりと、まるで当たり前のように。
湊は苦笑しながら、胸の奥に温かさが灯るのを感じた。
◆
出立前の控えの間には、すでに主膳が待っていた。
凛とした姿勢で手を後ろに組み、鋭い眼光で湊を迎える。
「来たか、湊。緊張はしておるか?」
「……はい、少し」
「結構。緊張できぬ者より、よほどよい」
即答だった。
その声音には、以前のような棘はない。
だが厳しさの芯は変わらない。
「今回の任務、村立て改めは……単なる調査ではない」
主膳の言葉に、湊は自然と背筋を伸ばした。
「村というものは、地図では一つの点にすぎぬ。しかし実際は、そこに暮らす人々の営みが折り重なった“大きな塊”じゃ。
その塊のどこが弱り、どこが歪み、どこに力が足りぬか……見誤れば、村は傾き、年貢は減り、兵糧は尽きる」
「……はい」
「湊、おぬしの役目は“書き付けること”だが、それはただ記すだけではない。
書かれた紙一枚で、誰かが救われ、誰かが苦しむ。その覚悟を持て」
言葉の重みが、胸にずしりとのしかかる。
主膳は湊の目をじっと見据えた。
「十日前、おぬしは泣いたな」
「……はい」
「あれは弱さゆえではない。“痛みを受け止めた者”が流す涙だ。
湊、おぬしはもう、逃げぬ者となりつつある。
ならば——次は“決める者”になれ」
厳しい言葉。
けれど、その奥にある信頼ははっきりと感じられた。
◆
そこへ、足音が響いた。
「失礼いたす」
現れたのは八代だった。
鋭い眼差しと、不機嫌そうな眉。そして、わずかに湊へ向けられる興味。
「……来たか、若造」
「おはようございます、八代さま」
「生意気な返しは覚えたようだな。よかろう。この数日で落ちぬようなら、多少の物言いは許す」
湊は思わず苦笑した。
八代の言葉は相変わらず刺々しいが、そこに含まれる熱は以前よりわかりやすい。
「八代。任務の段取りを伝えてくれ」
主膳が促すと、八代は湊に向き直った。
「今回向かう村々は三つ。
第一に“蓬田村”。旧領時代からの田地の境界争いで揉めやすい。
第二に“水原村”。冬の備えとしての兵糧の蓄えが危うい。
第三に“木幡村”。新田開発の申請があるが、村内に反対派が多い」
「……それぞれ問題があるんですね」
「当然だ。問題のない村をわざわざ改めに行くものか」
八代は鼻で笑った。
「湊。おぬしの書く“書き付け”が、これらの村の行く末を左右する。
甘さや曖昧は許されぬ。誤れば、民が飢えるぞ」
「……肝に銘じます」
「まあ、おぬしの筆は悪くない。だが“判断”となれば別だ。
村に入れば、おぬしの迷いはすべて伝わる。
迷ったままでは、村人は逆風になる」
弥藤が小さくうなずいた。
八代の言葉は怖いが、核心を突いていた。
◆
そこへ、静かな足音が響いた。
直江兼続その人が姿を現したのだ。
控えの間の空気が、一気に張り詰める。
「皆、揃っておるな」
兼続は湊を見ると、ふわりと微笑んだ。
「湊。十日の巡察、よく励んだ。
そなたの書き付け、いくつか目を通したが……“心がある”」
「ここ、心構えの原点だ」と湊は思った。
「ただ、心だけでは、村は救えぬ」
「……はい」
「知も要る。技も要る。時に“非情”もいる。
だがな——心を捨てぬ者でなければ、書き付けも判断も、ただの石ころとなる」
兼続は湊の肩に手を置いた。
その手は温かいのに、不思議と背筋が伸びる。
「湊。そなたは“人の声を聞く耳”を持っておる。
それは武士にとって、千の兵に勝る力だ。
村へ行っても、その耳を失うな」
「……ありがとうございます」
自分でも驚くほどの震えが声に混じった。
「行ってまいれ。そなたの筆が、会津の地を良き方へ導くと信じておる」
湊が深く頭を下げると、兼続は静かに退いた。
◆
城門の前には、荷を積んだ馬と、同行する兵たちが待っていた。
冷たい空気の中、白い息が立ち上る。
まだ朝焼けの色がわずかに残る空を見上げ、湊は唾を飲んだ。
「いよいよ、ですね……」
「はい、湊さま」
弥藤が隣で小さく微笑む。
その顔を見るだけで、不思議と胸の強ばりがほどけた。
「……行こう」
湊は小さく呟いた。
その声は震えていたが、確かに前へ進もうとしていた。
馬が歩き出すと、会津城下がゆっくりと遠ざかっていく。
十日間歩き回った町並み、出会った人々の顔——
それらが淡く胸を満たしていく。
——村という“世界”の中へ。
——筆一本で向き合う戦いが、いま始まる。
湊は静かに息を吸った。
心の奥の小さな火は、確かに強くなっている。
その熱だけは失わぬようにと、そう願いながら。
蓬田村の集落が見え始めたのは、日が傾きはじめた頃だった。
田畑の向こうにぽつぽつと茅葺の屋根が並び、冬を前にした枯色の風景が広がっている。
「湊さま。あれが蓬田村でございます」
「……思ったより、静かだね」
弥藤がうなずく。
「表の静けさは、裏に何もない証とは限りませぬ。争いを抱えた村ほど、言葉を噤むものでございます」
背後で八代が鼻を鳴らした。
「小僧、気合を入れろ。ここは旧領時代から田地の境界争いが絶えん。
“相手が悪い”と皆が思っておる村は、話を聞くだけでは何も見えてこぬ」
湊は自然と肩に力が入る。
「……はい」
◆
村に足を踏み入れると、子どもたちが遠巻きにこちらを見て、母親の背に隠れた。
兵の姿が珍しいのか、恐ろしいのか——その両方だろう。
湊は馬から降り、村の中心へ歩く。
すると村役人が慌てて駆け寄ってきた。
「これはこれは……わざわざのお越し、恐れ入ります。
上杉家中の御方かと存じますが、どのようなご用向きで?」
湊は深く頭を下げた。
「今回、城より“村立て改め”を命じられました。記録と調査の役を務めます、清原湊と申します。
これは私ひとりの判断ではなく、村の皆さまの声を伺いながら進めてまいります」
役人は一瞬驚いたように目を丸くした。
兵や武士なら高圧的になるところだが、湊の物腰はあくまで柔らかい。
だが、そこへ八代が低く言い放つ。
「勘違いするなよ、村役。この者は書き付け役であって、決める者ではない。
だが、この者の“記し”は重いぞ。
軽々しく嘘を申せば、後で泣くのは貴様らだ」
役人の顔が引きつった。
湊は慌てて口を開く。
「八代さま、脅すつもりはありません。ただ、正しく知るために皆さまのお力が必要なのです」
弥藤が静かに補う。
「湊さまは、村に寄り添うお方。どうか遠慮なく、お話を聞かせてくだされ」
役人の緊張がようやくほぐれ、深く頭を下げた。
「では……まずは庄屋の家にて、村の状況をご説明いたします」
◆
庄屋の家は古く、天井の梁が黒く燻んでいた。
湊たちが通されると、すぐに村役人たちが集まり、囲炉裏に火がくゆっている。
「湊さま。まず……難儀しておることがございます」
「難儀?」
役人が深いため息をつく。
「田地の境が、年ごとに少しずつ“動いておる”のです」
「動く?」
「はい。川の氾濫で土が流れたり、畦が崩れたり……。
そして、どちらが正しい境かを巡って、北組と南組で揉めております」
八代が小さく呟く。
「ほれ見ろ、湊。村というのはこういうものだ。
“地図どおり”などという正しさは、野良では役に立たん」
湊は真剣に頷く。
「ちなみに……争いはどの程度ですか?」
「畦を壊した壊さぬで口論になり、鍬を振り上げる騒ぎが……。
ここ十日のうちに二度ございました」
「二度……」
想像より深刻だ。
「湊さま、問題はもうひとつあります」
「まだあるんですか?」
「はい。年貢米の集めが追いついておりませぬ」
息が止まりそうになる。
「理由は……」
「争いのせいで田植えも刈り取りも遅れ、収穫量が落ちております。
米を出す年寄りも、納められぬ若い衆も、皆が苦しんでおります」
湊は胸が痛くなるのを感じた。
(争いのせいで、民が困っている……)
主膳の言葉が蘇る。
——書き付け一つで、誰かが救われ、誰かが苦しむ。
「湊さま、どうされます?」
役人が不安げに尋ねる。
八代が言葉をかぶせた。
「どうせ迷うのだろう。若造のことだ」
湊は八代の方を見た。
刺すような言葉だが、逃げ道を塞ぐための檄にも見える。
湊は深く息を吸った。
「まず……両組のお話を直接伺いたいです。
こちらの言葉だけで判断しては、誤りになる可能性があります」
役人が驚いた。
「湊さま、自ら現場へ?」
「はい。畦を見て、土の流れを見て、川の様子も確かめます。
“地図ではわからないこと”を知るために」
八代の眉がわずかに動いた。
「ほう……言うようにはなったな」
弥藤が小さく微笑む。
「湊さまは、目で確かめずに判断なさるお方ではございませぬ」
◆
北組の家屋は静まり返っていた。
湊たちが訪れると、農民たちは戸口から顔を覗かせるが、警戒の色が濃い。
「誰だ。役人か」
一人の壮年の男が歩み寄り、険しい目で湊を見据える。
「上杉家より参りました。蓬田村の状況を——」
「言い訳なら聞かんぞ。南組の連中を庇うために来たのなら帰れ」
「南組を庇う……?」
湊が返すと、男は怒りを露わにした。
「南組の奴らが畦を壊して田を奪おうとしてる!
毎年じわじわ境をずらしよって……!」
(なるほど……双方“相手が悪い”と思っているのか)
「その話、本当か……?」
「本当だとも! あいつらの畦の積み方、見りゃわかる!」
男は湊を畑に連れ出し、地面を指さした。
「ここだ。少しずつ、南へ寄ってきてるだろう!?」
湊は膝をつき、畦を指でなぞった。
(確かに土の質が違う……新しく積み直した部分がある)
「これを南組はどう言ってるのですか?」
「“川で崩れたから直しただけ”だと……ふざけるな!」
怒りが湧き上がる男の背で、家にいた子どもたちが怯えて隠れた。
湊の胸が痛む。
(争いが深まれば、この子たちも巻き込まれる……)
◆
続いて南組へ訪れた。
こちらの農民たちも同じことを言った。
「北組が畦を広げてる!」
「田が削られて、うちの米が減った!」
「年貢を納められぬのは、あいつらのせいだ!」
怒りの矛先こそ違えど、語る内容は北組とほぼ同じ。
(双方の言い分が鏡のようにそっくりだ……
ということは、原因は“誰か一方の悪意”ではなく——
川の土や畦の自然流動……?)
八代が湊に近づく。
「迷っておるな」
「……はい。どちらの言い分にも確かな部分があるように感じます」
「ならば決めてやる。おぬしは——」
「まだ、決めません」
湊は初めて八代の言葉を遮った。
八代の目が鋭くなる。
「理由は?」
「ここでは、まだ“村の声”を全部聞いていません。
怒りの声ばかりを拾っては、本当の問題は見えてこない。
腹が立っている時、人は“自分の損”しか言わないから」
八代は口を閉ざした。
弥藤がそっと言う。
「湊さまのお考えは、正しいかと存じます」
◆
夕刻。
村は深い灰色に染まり、冷たい風が木の葉を揺らした。
宿となる庄屋に戻ると、湊は筆を取り、書き付けを始めた。
畦の崩れ方。
川の流れ。
土質の違い。
農民たちの言葉、その怒りの背景。
一文字ずつ書きながら、湊は気づいた。
(——村の声は、重い)
紙の上に落ちてくるのは、争いの原因だけではない。
家族を守りたい焦り。
来年の収穫への不安。
年貢を果たせぬ苦しみ。
村が崩れるかもしれない恐怖。
どれも、胸に刺さるほど切実だ。
「湊さま」
弥藤が部屋の外から声をかけた。
「本日はよう働かれました。どうか、無理をなさらず」
「ありがとう。……でも、今日は眠れるかどうか」
「理由を、お伺いしても?」
「……どちらかを切り捨てれば、争いはもっと深くなる。
でも、何もしなければ村が崩れる。
“判断する”って、こんなに重かったんだね……」
弥藤はそっと微笑んだ。
「重いからこそ、湊さまに任されたのでございます」
その言葉に、湊は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
◆
湊は筆を置き、火を落として寝床に横たわった。
村の声が、耳に残ったままだ。
——明日、どう向き合うべきなのか。
——自分の筆が、この村の明日を左右する。
脈はまだ速い。
だが湊は、静かに目を閉じて呟いた。
「……逃げずに、向き合う」
外では、冬を告げる風の音だけが吹き続けていた。




