131話:春を待つ
兼続の書院を出て、そのまま小座敷に向かった。廊下を戻る形になる。板の冷たさが足裏に染みる。さっきまで兼続と天下の話をしていた。利家の死、忠興の暗躍、佐竹への外交。その全部がまだ頭の中で渦を巻いている。
さっき通り過ぎた於松の部屋の前で、足が止まった。
障子の向こうに人の気配がある。衣擦れの音がした。帳面をめくる音。於松は部屋にいた。
湊は懐から帳面を取り出した。五日分の兌換記録。約束は五日前にした。それを二日遅れで届けに来ている。道及の帰還と、兼続への報告と、佐竹への工作。この二日間、帳面のことは頭の隅に追いやられていた。於松は待っていただろう。五日と言った男が、七日経っても来ない。それでも使いを寄越さなかった。この人はそういう人だった。
障子を叩いた。
「湊です。帳面をお持ちしました」
間があった。衣擦れの音がして、障子が内側から開いた。於松が座していた。白い小袖。薄藍の帯。前回と同じ紺の組紐が髪に結んである。
「お待ちしておりました」
声は穏やかだった。だが「待っていた」という言葉の重みが、前とは違った。五日と言って七日。於松はその二日分を何も言わず飲み込んでいる。
「遅れました。申し訳ない」
「お忙しかったのでしょう」
それ以上は聞かなかった。湊が何をしていたか、於松は問わない。問わないことが、この人の強さだった。
小座敷に入った。火鉢が置いてある。茶が二つ。湯気が細く立っている。於松は湊が来ることを知っていた。兼続が「持って行け」と言った時点で、於松にも伝わっていたのだろう。茶の温度が、それを物語っていた。冷めていない。湊が書院を出るのを見計らって淹れたのだ。
「五日分の兌換記録です。米が四件、銭が二件、物品が一件」
於松が帳面を受け取った。指先が触れた。前回と同じ冷たさ。だが湊の手の方が冷えていた。書院は火鉢がなかった。兼続との対話で、体が芯まで冷えている。
「湊殿の手が冷たい」
於松が小さく言った。帳面を開く前に、そのことに気づいた。
「書院にいたので」
「父の書院には火鉢がありません。冬でも置かないのです。頭が鈍るから、と」
「そういうことでしたか。道理で」
於松の口元がわずかに動いた。あのさざ波。
「父は寒さに強い方ではありません。ただ、弱さを見せないのです」
「書院で、道及の報告をしてきました」
於松の指が止まった。道及という名に反応したのではない。湊が書院にいた理由を、初めて聞いたからだった。
「道及殿は、関東に行かれていたのですね」
「はい」
「それで、帳面が遅れた」
責めているのではなかった。繋がりを理解しただけだった。道及が戻り、その報告が急ぎで、帳面どころではなかった。於松はそれを二文で理解した。
「すみません。約束を守れなかった」
「約束は破られておりません。遅れただけです」
於松の声に温度があった。前回の「お待ちしています」よりも、さらにひとつ温かい。
兼続の素顔を、また娘の口から聞いている。書院で天下の情勢を論じた男が、実は寒がりだと。その落差に、湊は少し救われた気がした。さっきまでの緊張が、少しだけ溶ける。
於松は帳面を開いた。指が数字をなぞる。いつもの仕草。だが今日は少し速かった。
「物品が一件。何ですか」
「蝋燭です。紙幣で蝋燭を買った商人がいました。左内殿が炭商人に続いて蝋燭屋にも紙幣を使えるようにしたんです。冬場の流通対策の第一歩です」
「前回お話しされていた、冬でも紙幣が回る仕組みですね」
「はい。於松殿の提案がきっかけです」
於松の指が止まった。
「わたくしの」
「冬の間に使える仕組みがあればいい、と言ってくださった。あれで左内殿と具体策を詰めました。炭、味噌、塩、蝋燭。冬の必需品を紙幣で買える場所を増やす。紙幣が止まらない仕組みです」
於松は黙った。帳面の上に置いた手が、わずかに力を込めた。自分の何気ない一言が、会津の経済を動かす仕組みに繋がった。それを湊が真っ直ぐに伝えている。
「……わたくしはただ、思ったことを申しただけです」
「思ったことが正しかったんです。左内殿も同じことを言っていた。於松殿と左内殿は、数字の読み方が似ている」
「左内殿とわたくしが」
「数字そのものより、数字の向こうにある人の動きを見ている。炭が売れているのは寒いから。蝋燭が要るのは夜が長いから。数字の裏に暮らしがある。それを読めるのは、数字だけを見ている人間にはできないことです」
於松は顔を上げなかった。だが首筋がわずかに赤くなっていた。褒められ慣れていないのだろう。兼続の娘として、能力を認められることはあっても、こうして真正面から言葉にされることは少なかったのかもしれない。兼続は厳しい。的確だが、褒めない。それは於松に対しても同じなのだろう。
庭で雪が松の枝から落ちた。どさりと重い音がした。それを合図にしたように、於松が帳面をめくった。
「銭が二件に増えています」
「はい。少しずつですが、銭での兌換が増えてきました。春が近づいて、商人が動き始めています」
「春になれば街道が開く。旅商人が来る。紙幣の流通が一気に広がる」
於松は自分の言葉として言った。湊が前に話したことを、そのまま繰り返しているのではなかった。自分の頭で組み立て直している。
「その通りです。ただ——」
湊は言いかけて、止まった。春になれば紙幣は動く。だが春には別のものも動く。利家が死ぬ。武断派が三成を襲う。家康が動き出す。紙幣が広がる春は、同時に戦が始まる春でもある。
於松が湊を見ていた。湊が言葉を止めたことに、気づいている。
「ただ、何ですか」
「……春は忙しくなります。銀次も戻ってくる。交易品の交渉も始まる。帳面を届ける間隔が空くかもしれません」
嘘ではない。だが本当のことも言えていない。春に何が起きるか、於松には言えない。言えば於松を巻き込むことになる。兼続の娘を、戦の情報に触れさせるわけにはいかない。
だが、と湊は思った。この人はただの娘ではない。兼続の頭を持ち、帳面を読み、数字の奥を見通す人だ。戦が近づけば、空気の変化に気づくだろう。硝石の備蓄が増えていること。鉄砲の話が出ていること。帳面の数字の向こうに、刃の光が見えていること。
(この人を守りたいなら、この人を信じなければならない。だが今はまだ、言えない)
以前、於松は言った。「この紙幣は、いずれ戦の支えにもなるのですね」。あの時、於松は既に見ていた。帳面の数字が戦に繋がることを。湊が隠そうとしていることを、於松は静かに見抜いている。見抜いた上で、問わずにいる。それもまた、この人の強さだった。
「湊殿」
於松の声が静かだった。
「帳面は、いつでもお待ちしています。五日でも、十日でも」
それは帳面の話だけではなかった。忙しくなる。間隔が空く。その向こうにあるものを、於松は問わなかった。問わずに、ただ待つと言った。
「……ありがとうございます」
湊の声が少し掠れた。喉の奥が詰まるような感覚があった。書院で兼続と天下の話をした時には感じなかった重さが、於松の一言で胸に落ちてきた。この人を待たせることになる。この人の静かな時間を、戦が奪うことになる。
炭がぱちりと爆ぜた。火の粉が一つ散って、灰の上で消えた。
「帳面の覚書、つけてくださいましたか」
湊が聞いた。前回、「考えておきます」と言った覚書のことだった。
於松の肩がわずかに強張った。
「……つけました」
「拝見してもよいですか」
於松は帳面を閉じた。表紙の裏に薄い紙片が挟まっている。前回の「感謝」と同じ、於松の筆。小さく、丁寧な字。
湊は紙片を取り出した。二文字だった。
「信頼」
湊は紙片を見つめた。感謝から、信頼へ。一つ進んでいる。於松がどれだけの時間をかけてこの二文字を選んだのか。五日——いや七日。湊が来なかった二日間も含めて、この言葉を選んでいたのかもしれない。
感謝は、帳面を丁寧に作ったことへの言葉だった。信頼は、もう少し深い。帳面の先にある湊という人間に向けた言葉だ。数字を通じて会津を動かそうとしている湊を、於松は信頼すると言っている。
「……大事にします」
於松は庭を見ていた。顔を湊に向けなかった。首筋が赤いままだった。指先が帯の端を無意識に摘んでいる。前回と同じ癖だった。
しばらく沈黙があった。悪い沈黙ではなかった。火鉢の炭がゆっくり燃え、茶の湯気が細く立ち、庭の雪が少しずつ溶けている。二人の間にあるのは帳面と茶碗だけだった。それだけで十分だった。
大学の図書館を思い出した。隣に誰かがいても気にならない、あの静けさ。於松との間には、それと同じ空気が流れている。言葉がなくても成立する時間。この世界に来てから、そういう時間を持てる相手は於松だけだった。
「於松殿」
「はい」
「春になったら、左内殿のところに一緒に来てもらえませんか。紙幣の仕組みについて、於松殿の目で直接見てほしいことがあります」
於松の目が少し見開かれた。帳面の写しを受け取るだけの立場から、現場に出る立場へ。それが何を意味するか、於松は瞬時に理解したはずだった。
「父に許しを得なければなりません」
「兼続様には俺から話します」
「……よろしいのですか」
「於松殿の目が必要です。帳面だけでは見えないものがある。左内殿の帳場に立てば、数字の向こうにある暮らしが直接見えます。商人がどんな顔で紙幣を受け取り、どんな声で値を言い、どんな手つきで米を量るか。それを見た上で、紙幣の仕組みを一緒に考えてほしい」
湊は自分でも驚いていた。この言葉は準備していなかった。書院で兼続と戦の話をしていた時には、まったく考えていなかった。於松の前に座り、帳面を開き、数字の話をしているうちに、自然に出てきた言葉だった。於松の目が現場にあれば、紙幣は今より良くなる。それは確信に近かった。
於松は長い間、黙っていた。火鉢の炭が崩れ、小さな音を立てた。庭の雀が一羽、雪の上に降りて、すぐに飛び立った。於松はその雀を目で追っていた。考えているのだ。帳面を受け取るだけの立場から、左内の帳場に立つ立場へ。それは於松にとって、屋敷の外に出るということだった。兼続の娘が、町の商人の前に立つ。それがどういう意味を持つか、於松は分かっている。分かった上で、答えを選んでいる。
「……はい」
声が小さかった。だが震えてはいなかった。静かな水が、新しい方向に流れ始めた音だった。
湊は立ち上がった。帳面を懐にしまう。紙片はそのまま帳面に挟んだ。「感謝」と「信頼」が並んでいる。三度目の覚書には何が書かれるだろう。
「次の帳面は——」
「急ぎません」
於松が遮った。初めてだった。於松が湊の言葉を遮ったのは。
「春を待ちます」
その一言に、すべてが詰まっていた。帳面も、左内の帳場も、そして湊が言えなかった春の向こう側にあるものも。於松は待つと言った。何が来ても、待つと。
廊下に出ると、空気が冷たかった。だが書院の冷たさとは違う。清んだ冷たさだった。
屋敷の門を出ると、八代はいなかった。今日は一人で来ている。雪の道を歩いた。足跡が一つだけ、白い上に続いていく。書院で聞いた天下の話と、小座敷で聞いた於松の声が、交互に頭の中で響いている。
兼続は「俺より先に正しい手を打った」と言った。於松は「信頼」と書いた。二つの言葉が、同じ日に湊の懐に入った。
懐の帳面に手を当てた。「信頼」の二文字が、指先から伝わってくるようだった。この信頼を裏切るわけにはいかない。兼続の信頼も、於松の信頼も。
春が来る。街道が開く。紙幣が動く。銀次が戻る。於松が左内の帳場に立つ。そして利家が死ぬ。天下が動く。
その全部が、同じ春に来る。
湊は空を見上げた。鉛色の雲の隙間から、薄い光が差していた。冬の光だった。弱く、頼りなく、だが確かに空の向こうに太陽がある。
於松は「春を待ちます」と言った。湊もまた、春を待っている。ただし、湊の春には二つの顔がある。一つは於松と左内の帳場に立つ春。もう一つは、利家の死とともに始まる春。どちらも同じ春だ。同じ雪解けの水が、一方では田を潤し、一方では川を溢れさせる。
春まで、あと少しだった。




