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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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12話:巻雲が告げる道行き

用水争いの裁定から二日が過ぎた。

 会津の空は一気に冷え込み、山から下りてきた風が城下の路地を鋭く切り裂いていく。冬の匂いが近い。


 湊は朝早くから巡察の準備をしていた。

 昨日よりも少し早く目が覚めたのは、胸の奥のざわめきが消えなかったからだ。


 ——あの裁定は、正しかったのだろうか。


 八代の言葉は今も耳に残っている。


 “決めねばならぬ時に、決められぬ者。それが一番の害だ。”


 厳しい叱責だが、その奥には“期待”にも似た熱があった。


 湊は息を吐き、装束の襟を整えた。


(迷いはある。でも、後悔はしていない。

 あの日、逃げずに判断した。それだけは胸を張れる)


 そんな思考が少しずつ湊を支えていた。



「湊さま。お加減は?」


 外に出ると、弥藤がすでに待っていた。

 いつもと変わらぬ静かな佇まいだが、目の奥に宿る光が昨日より優しかった。


「うん、大丈夫。今日はどこを回る?」


「本日は、北町の井戸周りと、商家の帳付けの確認でございます。

 井戸については、先日の騒動以降“湊さまが厳しく見る”と噂が立っておりましてな」


「厳しく……?」


「はい。“油断すると叱られるらしい”と」


 湊は苦笑した。


(いや、僕そんなに怖い人じゃないんだけど……)


「名が通るというのは、このようなものでございます。良い意味でも、悪い意味でも」


「悪い意味はやだなぁ……」


「大丈夫です。湊さまは怒鳴りませんので、噂より実物の方が好かれます」


 軽口ではなく、淡々とした口調だが、そこに温かさがある。

 湊は肩の力を少しだけ抜いた。



 北町の井戸に着くと、町人たちが集まっていた。

 桶、縄、滑車、そして井戸の周囲を補強する板材。

 どうやら井戸の縁が老朽化していたらしく、近隣の者たちで修繕が行われているようだった。


「これは……自分たちで直してるの?」


「お、お役人さま!」


 年配の男が駆け寄ってきた。


「湊さまの話を聞いてから、皆で相談したんで。

 “井戸が倒れりゃ、水汲むだけで怪我する”って言われて、考え直しました」


「僕、そんな強く言ったかな……?」


「いえ、優しゅう言われました。でも……その優しさが怖かったんです」


「怖かった……?」


「はい。“誰かが怪我しますよ”って……。怒鳴られるより、ずっと効きました」


 湊は言葉を失った。


(僕の言葉が……誰かを動かした?)


 ほんの些細なことだ。

 けれど、この世界で何も持たない自分の声が、人の暮らしを変えた。

 その事実が胸の奥に静かに灯る。


「ありがとうございます。気づかせてもらって……助かりました」


 町人は深く頭を下げた。


「いや、僕は……ただ見たことを言っただけで」


「その“見たことを言う”のが、役目なんでしょ。

 あんたさん……真面目だ。噂と違って、いい顔してます」


「噂?」


「“冷たい目で町を歩いてる若い役人がいる”って。

 でも、違いましたな! ははは!」


 湊は思わず顔を覆った。


(なにその噂、完全に誤解じゃん……)


 横で弥藤がくすり、と笑った。


「湊さまは怖い顔をしておられませんが……真剣なお顔ゆえ、誤解されるのでしょう」


「じゃあどうすればいいのさ」


「慣れていただくしかございません」


 湊はため息をついたが、嫌ではなかった。

 こうして町の空気が肌に触れるたびに、自分が少しずつ“ここで生きている”実感が湧いていく。



 井戸の確認を終え、二人は商家の巡察に向かった。

 通りには荷車が行き交い、秋の作物を運ぶ行商人の声が響く。


 すると、少し先で揉めている声がした。


「帳場の書付けが違うと言っておるだろう!

 越後式と会津式は違うんだ、何度も言わせるな!」


「だ、だから写し直してるんで……」


 湊が駆け寄ると、商家の店先で若い店番が年配の会計役に詰められていた。


「どうしました?」


「湊さま!」


 店番の青年が救いを求めるように縋りつく目を向けてくる。


「帳場で……越後から来た書き方と、今の会津式が混じってしまって……何度直しても間違えると言われて」


「間違いが続くのは確かだ。だがな、こちらも締めの日がある。遅れれば、店だけでなく町全体の帳合に響くのだ!」


 年配の会計役は完全に苛立っていた。

 青年は肩を縮め、明らかに萎縮している。


 ——この構図、湊はよく知っている。


(現代なら……新人と上司のミスの押し付け合いみたいな……

 いや、現代じゃない! これは“この世界の問題”なんだ)


 湊はひとつ深呼吸した。


「帳付け……少し、見せてもらってもいいですか?」


「は、はい! こちらです!」


 青年が震える手で帳面を差し出す。

 湊は目を走らせ、一つの違和感に気づいた。


(……あ、これ……)


「青年、君は越後式で“縦に勘定を積む”習慣があるね?」


「えっ……! は、はい……そうです!」


「会津は横に数字を流す書法が基本だ。

 そこの癖が抜けてないから、桁がずれていくんだ」


「そ、そうだったのか……」


 青年が唇を震わせる。

 会計役も湊の指摘に眉を上げた。


「……ふむ、“癖”か。

 確かに叱って直るものではないな」


「越後と会津では帳場の作法が違う。

 これは個人ではなく“制度の差”です。

 人を責めても、問題は消えません」


 静かに言うと、店先がふっと静まった。


「では、どうすればよい?」


「今日の分だけ、越後式でまとめてもらえますか?

 ただし、会津式と数字が合うよう僕が照合します」


「湊さまが……?」


「はい。その上で、明日から少しずつ会津式に慣れていく形にしましょう」


「……すまぬ。助かる」


 会計役が頭を下げ、青年も涙ぐんでいた。


「湊さま……ありがとうございます……!」


 湊は首を振った。


「ありがとうはこちらだよ。

 僕は、君たちが困ってるから動いただけだ」


(役目とか、身分とかじゃない。

 目の前の人の苦しさが“見えた”から動く。

 それでいいんだ……)


 弥藤がそっと囁いた。


「湊さま。良い判断でございました」


「そうかな」


「はい。“決める”というのは、こういうことでございます」


 八代の言葉が胸に蘇った。


——決めねばならぬ。逃げてはならぬ。


 湊は小さく息を吸った。


(少しだけ……僕は変われているのかな)



 商家を出ると、弥藤が静かに告げた。


「湊さま。直江様より伝令がありました」


「兼続さんから?」


「はい。“刻限までに執務所へ参れ”とのこと。

 湊さまに、新たな任が下るそうです」


 湊の胸に緊張が走る。


 十日前、涙の中で決意した——

 “筆で戦う”という覚悟が、本当に試される時が来たのかもしれない。


「……行こう」


 湊は背筋を伸ばし、兼続の待つ方角へ歩き出した。


 その足取りは、十日前の自分とは違っていた。

 逃げない、と決めた者の歩みだった。

執務所の前に立つと、湊の喉がひとりでに鳴った。

 戸の向こうにいるのは、会津百二十万石の内情を握る男――直江兼続だ。


(逃げないって決めた。ここで怯んだら、十日前の自分と変わらない)


 浅くなりかけた呼吸を、意識して深く整える。

 戸口横に控えていた小姓が中へ声をかけた。


「直江様、清原湊殿、お着きにございます」


「通せ」


 低く、よく通る声が返ってきた。


「失礼いたします」


 畳に膝をつき、一礼してから顔を上げる。

 兼続は几帳の手前、文机の向こうに座し、数枚の紙に目を落としていた。

 その傍らには、宮森主膳の姿もある。


 そして、部屋の片隅。

 背筋を伸ばして控える八代蔵人の姿が、静かな圧を放っていた。


(……今日は、三人揃い踏みか)


 湊の背筋に、緊張とは別種の冷たさが走る。


「来たか、清原」


 兼続が顔を上げた。

 いつも通りの落ち着いた声音――だが、その眼差しはいつも以上に湊の奥を覗き込んでいるようだった。


「城下巡察の報告、並びに用水裁定の件、確かに受け取った」


「はっ」


 兼続は、一枚の紙を指先で軽く叩いた。


「まずは、褒めねばなるまい。

 お前は“決めた”。その一点、よくやった」


 短い言葉だが、その重みは大きかった。

 胸の奥に小さな炎が灯る。


「ありがとうございます」


「……だが」


 兼続は紙から指を離し、湊を正面から見据えた。


「決めるというのは、片方を斬ることだ。

 どれほど理を尽くしても、必ず痛む者が出る。

 それを知ったうえで、その痛みから目を背けぬこと――

 ここから先が、“政”に携わる者の道だ」


 宮森主膳が静かに頷く。


「十日前、お前は“優しさ”のまま筆を取っていた。

 今は違う。優しさを抱えたまま、それでも“切る側”に立とうとしておる」


 その言葉に、湊は思わず視線を落とした。


(切る側……)


 用水争いの日、稲を守るために別の不公平を残した。

 完全な正しさからは程遠い。

 それでも、誰かの今日を守るために、決めた。


 その事実を、宮森主膳も見ていた。


「しかし」


 今度は、八代が口を開いた。


「甘さはまだ残っております」


 棘のある言葉だが、声は静かだ。


「井戸の修繕を促し、帳付けの混乱を調えたと聞きました。

 いずれも悪くはない。だが――」


 八代は、じろりと湊を見た。


「一歩間違えば、“清原さまに頼めば何とかしてくれる”と、

 町の者が勘違いしかねぬやり方でもある」


 その指摘は痛かった。


(……確かに。僕が全部抱え込んだら、依存されるだけだ)


「人の痛みに寄り添うのは結構。

 だが、いつまでも手を引いて歩くことはできぬ。

 踏み出そうとする者の手を引き上げる――

 そのくらいの距離感を、覚えねばならん」


 兼続が、軽く笑った。


「蔵人の言う通りだ。

 清原、お前は少しばかり“背負い込む”癖がある」


「……否定は、できません」


「だからこそ、だ」


 兼続は文机の横から、新たな紙束を取り出した。


「次の任を与える。

 名を――『村立て改め書き付け役』とする」


「村立て……?」


 聞き慣れぬ言葉に、湊は思わず聞き返した。


「会津には今、越後から移ってきた者たちの村がいくつもある。

 古くからの村との境、役目、年貢の分け方――

 そういったものが曖昧なままになっている土地が多い」


 宮森主膳が紙束を受け取り、湊の前に差し出した。


「ここに挙げた村々は、訴えが二度、三度と上がっている場所だ。

 互いに“自分たちこそが古参だ”と言い張り、

 年貢の負担を押し付け合っている」


「……つまり、“どちらかが嘘をついている”のではなく――」


「“どちらも自分の正しさを信じている”状態だな」


 兼続が言葉を継いだ。


「こういう時、力でねじ伏せれば簡単だ。

 だが、それではどちらかの恨みだけが積もる。

 いずれ必ず、別の形で噴き出す」


 湊は紙束を受け取り、その重さを掌で確かめた。

 訴状の文言からは、村々の苛立ちと不安が滲んでいる。


「お前には、これらの村へ赴き――

 話を聞き、土地を見て、双方の言い分を掘り起こしてもらう」


「……裁きを下すのは、私でしょうか?」


「そこまでは求めぬ」


 兼続は首を横に振った。


「清原、お前はまだ“斬る太刀”を持ってはおらん。

 だが、“斬る前に必要なこと”はできるはずだ」


 八代が腕を組む。


「つまり、地ならしだ。

 双方が何に怯え、何を守ろうとしているか。

 それを炙り出し、こちらに伝える。

 その役目ならば、今のお前にこそ相応しい」


 湊は、紙束を握る指に力がこもるのを感じた。


(踏み出そうとしている者の手を、引き上げる――

 さっきの八代さんの言葉、そのままだ)


「……私に務まりますか」


「務めよ」


 兼続の声は、きっぱりとしたものだった。


「この十日、お前は城下の声を拾ってきた。

 それは村の声とも、そう違わぬ。

 人の暮らしを見ようとする目と、話を聞く耳があれば、土台は足りている」


 宮森主膳が、穏やかな調子で続けた。


「それに、この役は“誰でもよい”仕事ではござらぬ。

 武士としての面目のために耳障りの良い報告を出す者では、意味がない。

 お前の文章は、まだ優しすぎるが――

 だからこそ、痛みを丸めずに書こうとするようになっておる」


 八代がふん、と鼻を鳴らした。


「誤解するなよ、小僧」


「え?」


「お前を褒めているわけではない。

 ただ、“使える材料になりそうだ”と言っておるだけだ」


 それは、八代なりの褒め言葉なのだと、湊でも分かった。


(やっぱり、わざと棘を乗せてくるんだ……)


 それでも、不思議と不快ではない。

 「使える材料」と言われたことが、どこか嬉しかった。


「湊」


 兼続が名を呼ぶ。


「これは、お前を“次の段”へ押しやる役目だ。

 怖さもあるだろう。だが、それで良い」


 その眼差しは、鋭さと温かさを併せ持っていた。


「怖さを知った者だけが、人の怖れを見抜ける。

 人の怖れを見抜ける者だけが、政に携わる資格を持つ」


 湊は、静かに膝を正した。


「……清原湊、謹んでお受けいたします。

 不出来な身ではありますが、務めを果たせるよう、全力を尽くします」


 兼続の口元に、微かな笑みが浮かんだ。


「よかろう。

 弥藤」


「はっ」


 部屋の隅で控えていた弥藤が、一歩進み出る。


「お前は引き続き、清原の“足”となれ。

 ただし、今回は今まで以上に、距離を見誤るな。

 手を引きすぎてもならぬし、突き放しすぎてもならぬ」


「御意。湊さまの歩調を乱さぬよう、努めます」


 八代が、わずかに顎をしゃくった。


「それと、清原」


「はい」


「村々へ向かう前に、一度、兵糧蔵の方へ顔を出せ。

 村立てを改めるというのは、年貢の割り振りを改めることでもある。

 倉を預かる者の目線も、少しは頭に入れておけ」


「承知しました」


 任が重いほど、背筋は自然と伸びていく。

 怖れと同時に、奇妙な高揚感が湧き上がるのを、湊は誤魔化さなかった。


(僕は、もう“見ているだけ”の人間ではいられない)


 筆を持ち、足を運び、人の声を聞く。

 その積み重ねの先に、この会津の行方が少しだけ変わるかもしれない。


 そう思えた。



 執務所を下がり、廊下を歩きながら、湊は深く息を吐いた。


「……肩が、まだこわばってる」


「当然でございます。

 直江様と宮森様、そして八代殿。

 あのお三方に囲まれて、平然としていられる者の方が少のうございます」


 弥藤は、いつもより僅かに柔らかい声でそう言った。


「湊さま」


「ん?」


「おめでとうございます」


「……何が?」


「“一つの役”を正式に与えられました。

 それは、清原湊という一人の若者を、上の方々が“引き上げた”ということでございます」


 その言葉に、湊は立ち止まった。


「引き上げる……?」


「はい。

 踏み出そうとする者の手を、そのままにせず、

 もう一段高い場所へ導こうとする――

 それが、今のお役目でございます」


 八代の言葉と、兼続の眼差しが胸の中で重なった。


(僕は、自分の足で立とうとした。

 その手を掴んでくれたのが、あの人たちなんだ)


 思えば、会津に来てからこれまで、

 何度も人に支えられてきた。


 直江兼続に拾われ、宮森主膳に叱られ、

 八代に苛烈な一言を浴びせられ、

 弥藤に、何度も立ち上がる背を押されてきた。


 それら全部が、今この瞬間に繋がっている。


「弥藤」


「はい」


「……村へ行くの、怖いよ。

 でも、楽しみでもある」


「それが本音でございましょう」


「うん。

 怖さを抱えたまま、それでも前に出る。

 少しだけ、そんな自分を誇ってもいいかなって」


 弥藤は、誇らしげに微笑んだ。


「誇るべきでございます。

 私も、湊さまにお仕えできることを、胸を張って誇りに思います」


 その言葉は、静かに湊の心を支えた。



 夕刻。

 城下に戻る前に、湊と弥藤は兵糧蔵に立ち寄った。


 厚い土壁に囲まれた蔵の中には、俵が積み上げられ、

 薄暗い光の中で、黙々と働く蔵役人たちの影が揺れている。


「ここが……会津の“腹”みたいな場所だね」


「そうでございます。

 ここが空になれば、百二十万石の名はただの虚名となりましょう」


 蔵元の役人は、最初こそ警戒していたが、

 兼続からの言伝を聞くと、すぐに態度を改めた。


「村立ての改め……そうなりますと、年貢の割り振りも変わりましょう。

 清原殿、くれぐれも、“絵空事”ではなく、

 収穫と人口を見据えた話をなさってくだされ」


「肝に銘じます」


 俵の匂い、乾いた藁の感触。

 これらが、村々の一年分の汗の結晶だと思うと、

 紙の上の数字だけで語ることの危うさを、湊は改めて思い知った。


(僕の筆が、誰かの腹を満たすか、空にするかを左右するかもしれない)


 その怖さを、真正面から受け止める。


 けれど同時に――


(だからこそ、逃げずに見続けないと)


 湊は、俵の列をじっと見つめた。



 城下へ戻ると、空はもう夕闇に染まり始めていた。

 遠くの山際に、細い巻雲が一本、淡く伸びている。


 高く、ゆっくりと動くその雲は、

 これから訪れる変化を、静かに告げているかのようだった。


「湊さま」


「ん?」


「明日からは、村々への旅路でございます。

 今夜は、しっかりとお休みください」


「そうだね。……荷造りもしないと」


「湊さまの荷は、いつも書付けが半分以上を占めておりますな」


「それは……仕方ないよ」


 自分の“武器”は、筆と紙だ。

 それを笑われても、湊はもう恥ずかしいとは思わなかった。


(これが僕の戦い方だ。

 武士が刀を磨くように、僕は筆を研ぐ)


 巻雲は、薄闇の中へ溶けていく。


 その下で、一人の若者が、

 新たな役目と怖さと、ささやかな誇りを抱えながら、

 静かに前へ踏み出そうとしていた。

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