12話:巻雲が告げる道行き
用水争いの裁定から二日が過ぎた。
会津の空は一気に冷え込み、山から下りてきた風が城下の路地を鋭く切り裂いていく。冬の匂いが近い。
湊は朝早くから巡察の準備をしていた。
昨日よりも少し早く目が覚めたのは、胸の奥のざわめきが消えなかったからだ。
——あの裁定は、正しかったのだろうか。
八代の言葉は今も耳に残っている。
“決めねばならぬ時に、決められぬ者。それが一番の害だ。”
厳しい叱責だが、その奥には“期待”にも似た熱があった。
湊は息を吐き、装束の襟を整えた。
(迷いはある。でも、後悔はしていない。
あの日、逃げずに判断した。それだけは胸を張れる)
そんな思考が少しずつ湊を支えていた。
◆
「湊さま。お加減は?」
外に出ると、弥藤がすでに待っていた。
いつもと変わらぬ静かな佇まいだが、目の奥に宿る光が昨日より優しかった。
「うん、大丈夫。今日はどこを回る?」
「本日は、北町の井戸周りと、商家の帳付けの確認でございます。
井戸については、先日の騒動以降“湊さまが厳しく見る”と噂が立っておりましてな」
「厳しく……?」
「はい。“油断すると叱られるらしい”と」
湊は苦笑した。
(いや、僕そんなに怖い人じゃないんだけど……)
「名が通るというのは、このようなものでございます。良い意味でも、悪い意味でも」
「悪い意味はやだなぁ……」
「大丈夫です。湊さまは怒鳴りませんので、噂より実物の方が好かれます」
軽口ではなく、淡々とした口調だが、そこに温かさがある。
湊は肩の力を少しだけ抜いた。
◆
北町の井戸に着くと、町人たちが集まっていた。
桶、縄、滑車、そして井戸の周囲を補強する板材。
どうやら井戸の縁が老朽化していたらしく、近隣の者たちで修繕が行われているようだった。
「これは……自分たちで直してるの?」
「お、お役人さま!」
年配の男が駆け寄ってきた。
「湊さまの話を聞いてから、皆で相談したんで。
“井戸が倒れりゃ、水汲むだけで怪我する”って言われて、考え直しました」
「僕、そんな強く言ったかな……?」
「いえ、優しゅう言われました。でも……その優しさが怖かったんです」
「怖かった……?」
「はい。“誰かが怪我しますよ”って……。怒鳴られるより、ずっと効きました」
湊は言葉を失った。
(僕の言葉が……誰かを動かした?)
ほんの些細なことだ。
けれど、この世界で何も持たない自分の声が、人の暮らしを変えた。
その事実が胸の奥に静かに灯る。
「ありがとうございます。気づかせてもらって……助かりました」
町人は深く頭を下げた。
「いや、僕は……ただ見たことを言っただけで」
「その“見たことを言う”のが、役目なんでしょ。
あんたさん……真面目だ。噂と違って、いい顔してます」
「噂?」
「“冷たい目で町を歩いてる若い役人がいる”って。
でも、違いましたな! ははは!」
湊は思わず顔を覆った。
(なにその噂、完全に誤解じゃん……)
横で弥藤がくすり、と笑った。
「湊さまは怖い顔をしておられませんが……真剣なお顔ゆえ、誤解されるのでしょう」
「じゃあどうすればいいのさ」
「慣れていただくしかございません」
湊はため息をついたが、嫌ではなかった。
こうして町の空気が肌に触れるたびに、自分が少しずつ“ここで生きている”実感が湧いていく。
◆
井戸の確認を終え、二人は商家の巡察に向かった。
通りには荷車が行き交い、秋の作物を運ぶ行商人の声が響く。
すると、少し先で揉めている声がした。
「帳場の書付けが違うと言っておるだろう!
越後式と会津式は違うんだ、何度も言わせるな!」
「だ、だから写し直してるんで……」
湊が駆け寄ると、商家の店先で若い店番が年配の会計役に詰められていた。
「どうしました?」
「湊さま!」
店番の青年が救いを求めるように縋りつく目を向けてくる。
「帳場で……越後から来た書き方と、今の会津式が混じってしまって……何度直しても間違えると言われて」
「間違いが続くのは確かだ。だがな、こちらも締めの日がある。遅れれば、店だけでなく町全体の帳合に響くのだ!」
年配の会計役は完全に苛立っていた。
青年は肩を縮め、明らかに萎縮している。
——この構図、湊はよく知っている。
(現代なら……新人と上司のミスの押し付け合いみたいな……
いや、現代じゃない! これは“この世界の問題”なんだ)
湊はひとつ深呼吸した。
「帳付け……少し、見せてもらってもいいですか?」
「は、はい! こちらです!」
青年が震える手で帳面を差し出す。
湊は目を走らせ、一つの違和感に気づいた。
(……あ、これ……)
「青年、君は越後式で“縦に勘定を積む”習慣があるね?」
「えっ……! は、はい……そうです!」
「会津は横に数字を流す書法が基本だ。
そこの癖が抜けてないから、桁がずれていくんだ」
「そ、そうだったのか……」
青年が唇を震わせる。
会計役も湊の指摘に眉を上げた。
「……ふむ、“癖”か。
確かに叱って直るものではないな」
「越後と会津では帳場の作法が違う。
これは個人ではなく“制度の差”です。
人を責めても、問題は消えません」
静かに言うと、店先がふっと静まった。
「では、どうすればよい?」
「今日の分だけ、越後式でまとめてもらえますか?
ただし、会津式と数字が合うよう僕が照合します」
「湊さまが……?」
「はい。その上で、明日から少しずつ会津式に慣れていく形にしましょう」
「……すまぬ。助かる」
会計役が頭を下げ、青年も涙ぐんでいた。
「湊さま……ありがとうございます……!」
湊は首を振った。
「ありがとうはこちらだよ。
僕は、君たちが困ってるから動いただけだ」
(役目とか、身分とかじゃない。
目の前の人の苦しさが“見えた”から動く。
それでいいんだ……)
弥藤がそっと囁いた。
「湊さま。良い判断でございました」
「そうかな」
「はい。“決める”というのは、こういうことでございます」
八代の言葉が胸に蘇った。
——決めねばならぬ。逃げてはならぬ。
湊は小さく息を吸った。
(少しだけ……僕は変われているのかな)
◆
商家を出ると、弥藤が静かに告げた。
「湊さま。直江様より伝令がありました」
「兼続さんから?」
「はい。“刻限までに執務所へ参れ”とのこと。
湊さまに、新たな任が下るそうです」
湊の胸に緊張が走る。
十日前、涙の中で決意した——
“筆で戦う”という覚悟が、本当に試される時が来たのかもしれない。
「……行こう」
湊は背筋を伸ばし、兼続の待つ方角へ歩き出した。
その足取りは、十日前の自分とは違っていた。
逃げない、と決めた者の歩みだった。
執務所の前に立つと、湊の喉がひとりでに鳴った。
戸の向こうにいるのは、会津百二十万石の内情を握る男――直江兼続だ。
(逃げないって決めた。ここで怯んだら、十日前の自分と変わらない)
浅くなりかけた呼吸を、意識して深く整える。
戸口横に控えていた小姓が中へ声をかけた。
「直江様、清原湊殿、お着きにございます」
「通せ」
低く、よく通る声が返ってきた。
「失礼いたします」
畳に膝をつき、一礼してから顔を上げる。
兼続は几帳の手前、文机の向こうに座し、数枚の紙に目を落としていた。
その傍らには、宮森主膳の姿もある。
そして、部屋の片隅。
背筋を伸ばして控える八代蔵人の姿が、静かな圧を放っていた。
(……今日は、三人揃い踏みか)
湊の背筋に、緊張とは別種の冷たさが走る。
「来たか、清原」
兼続が顔を上げた。
いつも通りの落ち着いた声音――だが、その眼差しはいつも以上に湊の奥を覗き込んでいるようだった。
「城下巡察の報告、並びに用水裁定の件、確かに受け取った」
「はっ」
兼続は、一枚の紙を指先で軽く叩いた。
「まずは、褒めねばなるまい。
お前は“決めた”。その一点、よくやった」
短い言葉だが、その重みは大きかった。
胸の奥に小さな炎が灯る。
「ありがとうございます」
「……だが」
兼続は紙から指を離し、湊を正面から見据えた。
「決めるというのは、片方を斬ることだ。
どれほど理を尽くしても、必ず痛む者が出る。
それを知ったうえで、その痛みから目を背けぬこと――
ここから先が、“政”に携わる者の道だ」
宮森主膳が静かに頷く。
「十日前、お前は“優しさ”のまま筆を取っていた。
今は違う。優しさを抱えたまま、それでも“切る側”に立とうとしておる」
その言葉に、湊は思わず視線を落とした。
(切る側……)
用水争いの日、稲を守るために別の不公平を残した。
完全な正しさからは程遠い。
それでも、誰かの今日を守るために、決めた。
その事実を、宮森主膳も見ていた。
「しかし」
今度は、八代が口を開いた。
「甘さはまだ残っております」
棘のある言葉だが、声は静かだ。
「井戸の修繕を促し、帳付けの混乱を調えたと聞きました。
いずれも悪くはない。だが――」
八代は、じろりと湊を見た。
「一歩間違えば、“清原さまに頼めば何とかしてくれる”と、
町の者が勘違いしかねぬやり方でもある」
その指摘は痛かった。
(……確かに。僕が全部抱え込んだら、依存されるだけだ)
「人の痛みに寄り添うのは結構。
だが、いつまでも手を引いて歩くことはできぬ。
踏み出そうとする者の手を引き上げる――
そのくらいの距離感を、覚えねばならん」
兼続が、軽く笑った。
「蔵人の言う通りだ。
清原、お前は少しばかり“背負い込む”癖がある」
「……否定は、できません」
「だからこそ、だ」
兼続は文机の横から、新たな紙束を取り出した。
「次の任を与える。
名を――『村立て改め書き付け役』とする」
「村立て……?」
聞き慣れぬ言葉に、湊は思わず聞き返した。
「会津には今、越後から移ってきた者たちの村がいくつもある。
古くからの村との境、役目、年貢の分け方――
そういったものが曖昧なままになっている土地が多い」
宮森主膳が紙束を受け取り、湊の前に差し出した。
「ここに挙げた村々は、訴えが二度、三度と上がっている場所だ。
互いに“自分たちこそが古参だ”と言い張り、
年貢の負担を押し付け合っている」
「……つまり、“どちらかが嘘をついている”のではなく――」
「“どちらも自分の正しさを信じている”状態だな」
兼続が言葉を継いだ。
「こういう時、力でねじ伏せれば簡単だ。
だが、それではどちらかの恨みだけが積もる。
いずれ必ず、別の形で噴き出す」
湊は紙束を受け取り、その重さを掌で確かめた。
訴状の文言からは、村々の苛立ちと不安が滲んでいる。
「お前には、これらの村へ赴き――
話を聞き、土地を見て、双方の言い分を掘り起こしてもらう」
「……裁きを下すのは、私でしょうか?」
「そこまでは求めぬ」
兼続は首を横に振った。
「清原、お前はまだ“斬る太刀”を持ってはおらん。
だが、“斬る前に必要なこと”はできるはずだ」
八代が腕を組む。
「つまり、地ならしだ。
双方が何に怯え、何を守ろうとしているか。
それを炙り出し、こちらに伝える。
その役目ならば、今のお前にこそ相応しい」
湊は、紙束を握る指に力がこもるのを感じた。
(踏み出そうとしている者の手を、引き上げる――
さっきの八代さんの言葉、そのままだ)
「……私に務まりますか」
「務めよ」
兼続の声は、きっぱりとしたものだった。
「この十日、お前は城下の声を拾ってきた。
それは村の声とも、そう違わぬ。
人の暮らしを見ようとする目と、話を聞く耳があれば、土台は足りている」
宮森主膳が、穏やかな調子で続けた。
「それに、この役は“誰でもよい”仕事ではござらぬ。
武士としての面目のために耳障りの良い報告を出す者では、意味がない。
お前の文章は、まだ優しすぎるが――
だからこそ、痛みを丸めずに書こうとするようになっておる」
八代がふん、と鼻を鳴らした。
「誤解するなよ、小僧」
「え?」
「お前を褒めているわけではない。
ただ、“使える材料になりそうだ”と言っておるだけだ」
それは、八代なりの褒め言葉なのだと、湊でも分かった。
(やっぱり、わざと棘を乗せてくるんだ……)
それでも、不思議と不快ではない。
「使える材料」と言われたことが、どこか嬉しかった。
「湊」
兼続が名を呼ぶ。
「これは、お前を“次の段”へ押しやる役目だ。
怖さもあるだろう。だが、それで良い」
その眼差しは、鋭さと温かさを併せ持っていた。
「怖さを知った者だけが、人の怖れを見抜ける。
人の怖れを見抜ける者だけが、政に携わる資格を持つ」
湊は、静かに膝を正した。
「……清原湊、謹んでお受けいたします。
不出来な身ではありますが、務めを果たせるよう、全力を尽くします」
兼続の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「よかろう。
弥藤」
「はっ」
部屋の隅で控えていた弥藤が、一歩進み出る。
「お前は引き続き、清原の“足”となれ。
ただし、今回は今まで以上に、距離を見誤るな。
手を引きすぎてもならぬし、突き放しすぎてもならぬ」
「御意。湊さまの歩調を乱さぬよう、努めます」
八代が、わずかに顎をしゃくった。
「それと、清原」
「はい」
「村々へ向かう前に、一度、兵糧蔵の方へ顔を出せ。
村立てを改めるというのは、年貢の割り振りを改めることでもある。
倉を預かる者の目線も、少しは頭に入れておけ」
「承知しました」
任が重いほど、背筋は自然と伸びていく。
怖れと同時に、奇妙な高揚感が湧き上がるのを、湊は誤魔化さなかった。
(僕は、もう“見ているだけ”の人間ではいられない)
筆を持ち、足を運び、人の声を聞く。
その積み重ねの先に、この会津の行方が少しだけ変わるかもしれない。
そう思えた。
◆
執務所を下がり、廊下を歩きながら、湊は深く息を吐いた。
「……肩が、まだこわばってる」
「当然でございます。
直江様と宮森様、そして八代殿。
あのお三方に囲まれて、平然としていられる者の方が少のうございます」
弥藤は、いつもより僅かに柔らかい声でそう言った。
「湊さま」
「ん?」
「おめでとうございます」
「……何が?」
「“一つの役”を正式に与えられました。
それは、清原湊という一人の若者を、上の方々が“引き上げた”ということでございます」
その言葉に、湊は立ち止まった。
「引き上げる……?」
「はい。
踏み出そうとする者の手を、そのままにせず、
もう一段高い場所へ導こうとする――
それが、今のお役目でございます」
八代の言葉と、兼続の眼差しが胸の中で重なった。
(僕は、自分の足で立とうとした。
その手を掴んでくれたのが、あの人たちなんだ)
思えば、会津に来てからこれまで、
何度も人に支えられてきた。
直江兼続に拾われ、宮森主膳に叱られ、
八代に苛烈な一言を浴びせられ、
弥藤に、何度も立ち上がる背を押されてきた。
それら全部が、今この瞬間に繋がっている。
「弥藤」
「はい」
「……村へ行くの、怖いよ。
でも、楽しみでもある」
「それが本音でございましょう」
「うん。
怖さを抱えたまま、それでも前に出る。
少しだけ、そんな自分を誇ってもいいかなって」
弥藤は、誇らしげに微笑んだ。
「誇るべきでございます。
私も、湊さまにお仕えできることを、胸を張って誇りに思います」
その言葉は、静かに湊の心を支えた。
◆
夕刻。
城下に戻る前に、湊と弥藤は兵糧蔵に立ち寄った。
厚い土壁に囲まれた蔵の中には、俵が積み上げられ、
薄暗い光の中で、黙々と働く蔵役人たちの影が揺れている。
「ここが……会津の“腹”みたいな場所だね」
「そうでございます。
ここが空になれば、百二十万石の名はただの虚名となりましょう」
蔵元の役人は、最初こそ警戒していたが、
兼続からの言伝を聞くと、すぐに態度を改めた。
「村立ての改め……そうなりますと、年貢の割り振りも変わりましょう。
清原殿、くれぐれも、“絵空事”ではなく、
収穫と人口を見据えた話をなさってくだされ」
「肝に銘じます」
俵の匂い、乾いた藁の感触。
これらが、村々の一年分の汗の結晶だと思うと、
紙の上の数字だけで語ることの危うさを、湊は改めて思い知った。
(僕の筆が、誰かの腹を満たすか、空にするかを左右するかもしれない)
その怖さを、真正面から受け止める。
けれど同時に――
(だからこそ、逃げずに見続けないと)
湊は、俵の列をじっと見つめた。
◆
城下へ戻ると、空はもう夕闇に染まり始めていた。
遠くの山際に、細い巻雲が一本、淡く伸びている。
高く、ゆっくりと動くその雲は、
これから訪れる変化を、静かに告げているかのようだった。
「湊さま」
「ん?」
「明日からは、村々への旅路でございます。
今夜は、しっかりとお休みください」
「そうだね。……荷造りもしないと」
「湊さまの荷は、いつも書付けが半分以上を占めておりますな」
「それは……仕方ないよ」
自分の“武器”は、筆と紙だ。
それを笑われても、湊はもう恥ずかしいとは思わなかった。
(これが僕の戦い方だ。
武士が刀を磨くように、僕は筆を研ぐ)
巻雲は、薄闇の中へ溶けていく。
その下で、一人の若者が、
新たな役目と怖さと、ささやかな誇りを抱えながら、
静かに前へ踏み出そうとしていた。




